4.近いようで遠かった『死』


 自殺、を考えたことは何度もあった。

 ここまでの道のりを考えれば、どこかで死んでいてもおかしくはなかったと我ながら思う。

 死とは、自分を尊厳できる最後の機会であると思う。尊厳死、という言葉があるように、私にも、それを選ぶことはできた。自分のために。そのために死ぬことの意味の半分は『これ以上苦しみたくない』という逃げ道のためなのだが、そんな理由でも、自分のための死になることに変わりはないだろう。

 思いとどまっていたのは、周りのためではない。

 私はすでに充分他人にこたえ、『いい子』であり続け、そして身体からだを壊したのだ。他人のための義理は充分果たしたはずだ。子供としての義理も然り。

 思い浮かぶ後悔といえば、幸せになれなかったという怨み言、好きな漫画や小説、アニメ、ゲームの続きが知れないということくらい。

 人に頓着はなかった。すでにそういう時点は越えていた。家族も、友達も、病院の先生も、私の救いにはならなかった。

 結局私を救ったのは私自身。

 頼れるのは、もう自分だけ。他人はアテにならない。その事実は身に沁みていた。

 救いを求めても、助けを求めても、望むものは得られない。私はそのことを知ってしまった。

 そして、頼れる自分自身は、現実に疲れていた。

 学校を辞め、家にこもりがちになり、外出も少ない。好きなことだけしてなるべく精神的な負担を軽くする、そういう日々は過ごしていたが、それを『希望』と呼ぶのはお門違いであろう。

 救いのない日々から私が旅立たなかった理由。それは、私にその『最後の勇気』が持てなかったことにある。

 理想の死に方は、眠るように死ぬこと。苦しまずに死ねること。

 しかし、自殺の方法を調べてみれば、確実性のあるものはやはり痛みが伴ったものばかりだった。

 二度と覚めない眠りにつくという魅力は常に私のことを暗闇から手招きしていたものの、今一歩踏み込めなかったのは、そこに痛みがつきものであったから。今までさんざん痛い思いをしてきた私は、痛みに敏感であり、臆病になっていた。できれば痛みなど味わいたくはなかった。それが、私が死ななかった、死ねなかった理由だ。


 自死することを、身勝手だ、自分勝手だと言う人もいる。周りのことを考えろ、残された者のことを考えろ、と。

 私はその考えには反対だ。

 それがどんな選択にせよ、その人が選んだ、選ぶしかなかった答えなのだ。この現実への解なのだ。あなたはそこに救いの手を差し伸べることができなかった。差し伸べていたつもりだったとしても、それは届いていなかった。その事実こそ受け止められるべきであると思う。

 もちろん、自死がいいことであるとは思っていない。

 ただ、その人が苦しみながら選んだその答えを、否定しないでほしいと思うのだ。

 死という終わりがその人にとっての救いであったかもしれない。その悲しさや苦しみに思いを馳せ、救えなかったことを悔いてほしい。そして、自分の手の届く者に、二度と同じ人を出さないこと。周りにできることはそれくらいだと私は思っている。

 たとえば、今ここで誰かの訃報が届き、自殺だったと知らされても、私は何も言えないだろう。そんな馬鹿な、などと身勝手なことはとても言えない。その人が苦しみ抜いて出した現実への答え…。その答えが悲しいとは思うが、同時に仕方がなかったのだとも思う。なぜなら、もう少しの勇気があれば、私もきっと同じ道を辿っていたろうと思うから。



 私が『死』について身近に経験したのは、小学校の高学年の頃のことだ。

 祖父が肺がんになって入院したと知らされ、登校せずに、親が運転する車に乗せられて病院に行ったことを憶えている。

 病院でのことは、正直よく憶えていないが。祖父が入院してから野良猫を拾って飼い始めた、という話を猫の写真を見せながら話したが、祖父には通じていなかったように思う。

 酒と煙草を嗜む人だった。それを我慢するくらいなら肺がんで死んでもいい、と母や祖母には伝えていたらしい。つまり、祖父はその死に方を選んだのだ。最後まで好きな酒を飲んで煙草をふかして生きるという死に方を。

 祖父が死んで、きれいに処理された遺体が家の八畳の仏壇のある部屋に運び込まれ、一日安置されていたことを憶えている。

 祖父はまるで眠っているように安らかな顔をしていた。それこそ、テレビドラマで見るようなあの感じだ。青白さはなかった。唇の色も悪くなかったと思う。本当に眠っているようだった。

 けれど、触れるとずっと扇風機に当たっていた肌のように冷たく、触れる皮膚には弾力がなかった。手を握っても握り返されることはなく、動くこともなく、硬いまま固まっていた。鼻には詰め物がされているのが見えた。口も閉じている。生きている人間なら苦しくて息をしなくてはならない。が、どれだけ見つめても、祖父が動くことはなかった。

 記憶はそこから葬儀場に飛ぶ。

 棺の中の祖父。その死を拒否し、受け入れられず、私はトイレにこもって泣いた。子供らしい理由で、『自分から祖父が失われた』と泣いた。

 しかし、その頃には『いい子』であることが板についていた私だ。表立って泣くこともできずトイレで泣いてどうにかしようとしていたのがいい証拠。

 しかし、祖父の棺の出棺時、最後の挨拶として小窓からその顔を拝む場面で、私は泣き出してしまった。

 最後の挨拶。そんなことを受け入れたくなかったのだ。知らないふりをしても死はなかったことにはならないし、なくならない。それでも受け止められない、私はまだ子供だった。

 最終的に駄々をこねる私は親に引きずられるようにして祖父の顔を見ることになる。

 やはり、祖父は眠っているように死んでいた。


 幼い私は、祖父の死を受け入れることができなかったが。今は『あれが祖父の選択だった』と思うことができる。

 祖父は、好きなことを我慢して何年か長生きするよりも、好きなことをし、好きなように生きて死ぬことを選んだ。その祖父の選択は、少し勝手かもしれないが。本人が納得してそう逝くことを選んだのだ。それでよかったんだ、と今は思う。

 死とは本来、そうやって受け止められる事柄であるように思う。

 私は、まだあちら側に行くことはできないが。魂というものがあるならば、祖父はどうしているだろうか。飼っていた猫はどうしているだろうか、とときどき思う。


 君は、あなたは、その死は、その生は、幸せだったろうか。

 この今。君は、あなたは、安らかで在れているだろうか。

 今も、それだけは気がかりでならない。



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