3.『頑張らなくていい』と言ってほしかった。


 いじめられていた人間としては、頑張って登校し、学校に通った部類であったと思う。もちろんそれは『逃げ道がなかったから』通うしかなかったに過ぎないのだが。

 私が知っているだけでも、不登校になった子は何人かいた。

 そのための勇気。環境。機会。どれも私には存在しなかった。

 学力は真ん中の平均値。頭が良いわけでもないし、悪いわけでもない私。

 中学三年生になると、進路、という言葉が出てくる。中学を卒業したらどうするのか…。そのことに、親は当然の如く私に『進学』を提案した。

 私はそのことが信じられなかった。

 この人は何も理解していないんだな、と思った。何も理解してくれていないんだな、と思った。

 いじめにあった人間がまた同じ『学校』という空間に行きたいなどと思うだろうか? 今度こそは、などと夢に思うだろうか? 答えは否だ。

 私は義務教育である中学校を頑張って通った。不登校にもならず、登校拒否もしなかった。偉いものだと自分でも思う。しっかりと卒業まで見えたことを褒めてもらいたいぐらいなのに、親は『先へ行け』と私の背中を突き飛ばしたのだ。

 最初は、嫌だと抵抗したと思う。行きたくない、と。

 当然だろう。高校となればもう義務教育ではない。行く義理などない。私は私のために学校など行きたくなかった。もう他人の中で他人を気遣って精神をすり減らすことなどしたくはなかった。

 だが、何も理解してくれなかった親や家族は、学校へ行けと行った。『いまどき高校も出ていないでどうする』だとか、『それじゃ将来就職ができない』だとか、さんざん文句のように理由をつけられた。『あなたのために行きなさい』と。

 私は私のために行きたくなかった。

 頑張って疲れた心と身体からだを癒やす時間が欲しかった。

 ゆっくりと眠って、ゆっくりと起きて、嫌なことの少ない生活をして、少しでも自分を労ってやりたかった。

 けれど、私にはそんなことすら許されなかった。

 私は、『いい子』でなくてはならない。そうでなければ怒られる。怒られることは嫌いだ。怖い。恐怖を回避するため、私はいい子になるしかなかった。私は諦めたのだ。私のためになる、安らぎを得ることを。

 私は勉強した。高校へ行かなくてはならなくなったからだ。知らない相手と話さなくてはならない面接などは心臓が破れる思いだったが、頑張るしか道はなかった。

 私はまた頑張った。頑張ってレベルに見合う高校を受験し、合格した。商業高校だった。そこを選んだのは、商業校が将来的に見て有利になる学校だろう、という理由からだった。

 私は中学を卒業した。そして高校に入学した。

 本当は行きたくなどなかった。けれど、行く以外に、私に道も、居場所も、なかった。



 高校生活。

 漫画やドラマのような花の高校生には程遠い、勉強しかしない毎日。

 小学生や中学生の頃に感じた恐怖は私の成長とともにいささか薄れていたが、代わりに私は絶望に沈んでいた。

 いつまで頑張ればいいのか。ずっと頑張らなくてはいけないのか。私はいつ休めるのか。そう、いつも感じていた。

 鞄はいつもずっしりと重く、満員電車での通学は辛かった。

 高校で、私は簿記部に入部した。その学校は簿記部が有名で強いらしい。

 今になって思えばなぜそんなところまで頑張ったのかと自分の頑張りぐあいに呆れてしまうのだが、『頑張る』という選択肢しか残されなかった私には、あらゆることを頑張る以外に道は存在しなかったのだ。程度など分からなかった。誰も教えてはくれなかったから。

 今になっても思う。

 あのとき、誰も私に『そんなに頑張らなくていいんだよ』と声をかけてくれなかった。気遣ってくれなかった。私は自分の中で割り切り、高校生活を過ごすつもりでいたけれど、心は最初から悲鳴を上げていた。

 休みたい、休みたい、これ以上頑張りたくない。休ませて。休ませて! 心はずっとそう叫んでいたのに、毎日出る宿題、簿記部にも関わらずある朝練など、毎日をこなすのに精一杯で、私は私の悲鳴に気付いてやれなかった。



 憶えている。あれは夏休みが終わって、新学期になったときのことだ。

 私は腰に痛みを感じた。特別に運動などはしていない。身体からだは確かにやわらかくなかったが、腰痛を感じたのはそのときが初めてだった。

 最初はただの痛みだったと思う。そこから、支えなしでは歩けなくなるくらいに状態が悪化した。

 それでも杖をつけばなんとか歩けた。

 痛みを感じるようになって、とくに学校の階段が辛かった。

 親が話をして教師が使っているエレベーターを使わせてもらい、それで教室移動をした。

 怪我か病気だろうか、とレントゲンを撮りに行ったり病院に通ったりしたけれど、骨に異常はなかったし、筋肉にも異常はなかった。身体の状態は健康だった。

 問題は私の心で、精神の状態にあると。歩けなくなったことで親はようやくそれを知った。

 いじめにあっていた時点で普通の子供よりもずっと気遣われるべき精神状態であったと思うが、特別なケアを受けた憶えはない。むしろ普通の子と同じか、それより厳しく、学校へ行け、進学しろと言われた。それしか道はないと。わがままを言えない大人しい子供に育った私には従う以外に道はなかった。

 そして、私は病んだ。

 傷つき化膿したままの心を治療もせずに放置したのだ。当然の結果だとも言える。

 私は歩けなくなり、食べれなくなり、眠れなくなり、食べ物の味を感じないようになった。

 ようやく私が重症だと気付いた家族は私を休学扱いにしたが、それでも退学させてくれなかった。それが親の意思だった。私は友達の一人もいない学校になど行きたくもなかったし、したくもない勉強に急かされるような毎日だって送りたくはなかった。

 半年休んだけれど、症状はあまりよくならなかった。

 そこで親はようやく退学を決めた。

 同級生が二年生になる頃、私はひっそりと荷物をまとめて学校を去った。


 今思い返しても涙が出てくる。

 ああ、どうしてこうなってしまったんだろう。私は必死に頑張っていたのに、どうして報われないのだろう。何がいけなかったのだろう。何が原因だろう。

 16歳にして病んだ私は、睡眠導入剤がないと眠れなくなった。自力で眠ることができなくなったのだ。

 明日が来るのが怖い。嫌だ。

 いいことなど一つもない、そのくせ待っている明日をなるべく先送りにしたかった。

 眠ってしまえば明日が来る。それが嫌で、私は眠れなくなった。いずれ朝は来てしまうのに、それでも私はそうやって明日を、未来を拒絶した。

 あの頃。とにかくすべてが怖かった。見える景色も、聞こえる音も、すべてが私を責めているように感じた。

 頑張るしかないのなら頑張ろうと決めて高校に入学したのに、頑張ったのに、結果がついてこなかった。

 私は精一杯やったと思う。けれど、誇れるような結果にはならなかった。そのことが悔しかった。膿んだ心を放置した当然の結果。私は責められるべきではない。けれど、私は、私以外に責める対象を持たなかった。他人に叱責されるのが嫌な私は、他人を叱責することもまたなかったし、できなかった。

 私は私を責めた。悔いた。

 なぜ。なぜ。毎日そう思って陰鬱に過ごし、部屋にこもった。

 自分の内側に救いなどなかったけれど、それでも外を見るよりは幾分か気持ちが楽だった。

 こうして、私は高校生活も失敗した。

『学校』という空間はもはや私にとってトラウマ以外の何者でもなくなっていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る