トスカル王国の王都から東へ二一〇〇スタード(約三四〇〇キロメートル)先に、大きな湖を中心とする国がある。

 湖からいくつもの川が引かれ、その川は国中へと広がっている。

 川にはいくつもの小舟が行き交い、川が生活の中心であることがうかがい知れる。

 国の中心に大きな湖があるならば、水資源に困ることはないだろうと、旅人ならば思うに違いない。事実、この国が水不足になったことは、かつて一度たりともない。だが、水資源に困らない反面、大きな問題も抱えていた。

 毎年訪れる雨季には、川が氾濫し、街そのものが湖となってしまう。家屋は水に埋もれ、外に出ることもままならない。

 一年に一度起こる大洪水から街を守るため、国の全て建物は異常に高く造られている。この国独特の建築構造は、異国の者にはさぞ不思議に映ることだろう。

 それ故に、この国は他国から「水の国」と呼ばれている。

 しかし、「水の国」とはこの国の本来の名ではない。水の国と呼ばれているこの国の本当の名は、「いん帝国」である。

 殷帝国は、独自の文化を築き、共通語であるトーン語は用いず殷語を公用語としている。上流階級の者になればトーン語を話せる者もいるが、大半の国民は殷語しか知らない。

 殷帝国が独自の文化を築くように所以は、王の愛国心が強すぎるがためだった。建国当初は開国していたが、徐々に鎖国へと移り変わり、一切の貿易を行わなくなったこともあった。現在では半鎖国状態で、同盟国とは貿易を行っており、他国の人間が全く足を踏み入れられないというわけではない。だから、この国に異国の者が紛れていても、怪しむ者はいない。


「貴公、何者だ?」


野太い男の声が響いた。

 野太い声の男の前には、見た目も格好も違う男が跪いている。間違いなく異国の者だろう。

 

やつがれの名はバホット」


異国の人間の口から流暢な殷語が発せられた。


「バホット?聞かぬ名だな」

「トスカル王国の王族の血を引く者でございます」


男が自分の本性を告げた瞬間、野太い声の男が立ち上がった。


「その首を差し出しに来たか!誰がこの者の入国を許した」


男が声を荒げた瞬間、控えていた家臣たちが慌て始めた。そんな中一人の男が一歩前に出て跪いた。


「落ち着いてください、武王。この者の入国を許したのは、私でございます」


男は慌てた様子を見せることなく、落ち着き払った声で言った。

 男が言った「武王ぶおう」とは、この国の王の名だ。

 この国の王は、王になった暁に本来の名を捨て、自らに王名をつける。そして、現在の王の名は「武王」だ。

 玉座に座っていた野太い声の男は、この国の王である武王だったのだ。


「答えよ、九垓くがい!なぜこの者の入国を許した?」


武王の表情が、さらに険しくなった。

 トスカル王国と殷帝国は長年敵対しており、長い冷戦状態が続いている。どちらの国もこの冷戦状態から脱しようと策を練るが、良い結果へと繋がっていない。

 

「この者が我々に有益となる情報を持ち得るからでございます。どうか、この者の言葉を一度耳に入れてはいただけないでしょうか?」

「もし、こやつの話がくだらない戯言だった場合どうする?」


武王は九垓に剣を向けた。


「この者を切ることなど簡単な事でしょう。そして、入国を許した私も、この場で腹を切ることは厭いませぬ」

「・・・・・いいだろう。九垓、側近である貴公の介錯かいしゃくは、朕自らしてやろう」

「有難き幸せでございます」


武王は玉座に座り直すと、バホットへと視線を変えた。


「憎きトスカル国のバホットよ、貴公が我が国に破滅をもたらそうとしているのならば、九垓に免じて今は見逃してやる。そうでなければ、話せ」

「感謝いたします。では、武王よ。トスカルを落とすのであれば、今が好機かと存じます」

「ほぅ、それは何故だ?」

「王宮と城塞が敵襲に遭い、万騎長トゥルマーンや兵に多くの死者が出、戦力が激減しております。このような好機を逃してしまっては、武王の名が泣くと言うものです」

「王族自ら自国を売ると言うのか?」


武王はバホットの深意を探るため、髪の隙間から覗く瞳を睨んだ。


「勿論、やつがれも武王の手足となりましょうぞ」

「・・・・・・よいだろう。貴公には存分に役立ってもらう」

「お任せ下さい」


バホットは頭を垂れると、猟奇的な笑みを浮かべた。

 それから数日後、トスカル王国国王に殷帝国の騎軍が国境を越え、戦争を仕掛けてきたことが知らされた。

 ――――開戦の合図が鳴り響く。




 * * *




 セルゲレンの家を出立したアルナーたちは、サンリック教会を目指していた。

 晴れ渡る空にはエレルヘグの姿があり、気持ちよさそうに泳いでいる。 

 アルナーはこれから待ち受ける苦難よりも、初めて見る世界に心を躍らせていた。


「セルゲレン、サンリック教会まではどれぐらいだ?」

「二日ほどで着きましょう。何もなければですが」


アルナーはまだ何もない平原を見渡し、緩まる頬を何とか抑えようとしながら微笑んだ。


「そうか。このような時に不謹慎かもしれぬが、初めて訪れる地に心が躍ってしまう」

「よいことですよ、殿下。人は好奇心を忘れては、生きていけぬものです」

「そうか、そう言ってもらえると助かる」


アルナーは高揚を抑えられずに、馬の足を速めた。

 セルゲレンが先を行くアルナーの背を見ていると、スクローレンが顔を顰めながら隣に並んできた。


「好奇心が抑えられていないのはお前だろう、セルゲレン」


スクローレンの言葉にセルゲレンの口角が上がった。


「あの王太子はなかなか面白い星のもとで生まれたようだ。王族にしておくのが勿体ないな」


そうは言ったが、王族に生まれてよかったともセルゲレンは思っていた。

 このまま現国王や前国王たちのような王にならず、外の世界でたくさんのものを見て知って、よい国を築いてくれればとまだ見ぬ未来を描いてしまう。

 なんなら、国に戻らず、新しい国を築くのもいいかもしれないと、突拍子もない事をも考えてしまっている。

 アルナーであればどんなに汚いものを見ても、けがれることなく成長してくれると根拠のない自信を抱いてしまっている。


「確かに王族とは思えない性格をしておられる。俺が傍に仕えていた時もよく不思議なことを仰っていた」

「不思議な事?なんだそれは」


セルゲレンが興味を示した。

 スクローレンとアルナーが初めて出会ったのは、アルナーが六歳のになる数か月前だ。

 年齢の割に見た目も中身も幼かったアルナーには、何人もの教育係とお目付け役が付けられていた。その一人がスクローレンで、勇猛な戦士になると謳われていたこともあって、それが選任役の耳に入り剣の指南役に買われた。


「俺が殿下と出会ったのは、殿下が五歳のときなんだが、言葉も知識も同年の子どもよりも覚束無い感じで、三歳ぐらいの子どもを相手にしているように感じることもしばしあった」

「それは記憶が関係していたのかもしれんな」


スクローレンはセルゲレンの言葉に頷いた。


「それで俺が聞いたこともないような事を仰って、よく困ったんだが・・・・『人は神に許された願いを叶えるために生まれてくる』とか、『人が人を支配することは赦されない』とか。幼い子供の口から出てくる言葉とは思えなくて、今でも鮮明に覚えている」


セルゲレンが顔を顰めた。


「悟りでも開いているようだな。それとも殿下は神の使徒かなんかか?」

「俺はその度に本で読んだのか、誰かが言っていたのかと聞いたのだが、殿下は本も読めないし誰にも言われていないと仰っていた。少しおかしな話だと思わないか?」

「少しどころか随分とおかしな話だな。誰かに何かを吹き込まれなければ、到底子供に考えられる思想とは思えん」


二人は前を走るアルナーの背をじっと見たが、抱いた疑問が晴れるわけではなかった。

 アルナーの言った「神に許された願いを叶える」の意味は解らなかったが、「人が人を支配することは赦されない」という言葉に引っかかりを覚えたセルゲレンは、古い記憶を呼び起こそうとした。


「随分と昔に読んだ本に、似たような言葉が書いてあったのを覚えている」

「さすがは読書家だな」

「王宮の書庫あった本で、神族について記してあった本だ」

「神族?遥か昔に存在したという一族か?」


セルゲレンが頷いたことで、スクローレンの眉間に皺が寄った。

 神族とは、この地球の創造主である神に遣わされた種族だと言われている。本当に存在したのか、人の姿をしているのか、真実は何一つとしてない。古より語り継がれている話で、お伽噺などにもよく出され、神話にすぎないと誰もが思っている。

 もちろん、スクローレンもその一人だ。


「随分と古い本で、古代文字ばかりで全部は読めなかったが、『人は平等の上に成り立つ』だとか、そんな感じの事が書いてあったな。どうだ?殿下の思想に似てると思わんか?」

「確かに似てはいるが、そのような本を他に読める者がいるとは思えんな。もちろん殿下もだが」

「そうだな。そんな本を読むのは俺ぐらいだろう。殿下に神族の血が流れているのであれば、殿下の持つ思想にも納得はいくが」

「それこそありえん話だ」

「まあ、そうだな」


二人とも腑に落ちなかったが、この話題に関してこれ以上話し合う事はしなかった。




 * * *




 トスカル暦二八一年七月一日、ヨナミルド河では戦争の火蓋が切られようとしていた。

 静かに振る雨音だけが両軍の間に響き渡っている。西の空は雲の隙間から日が射し始めている。じきに雨も上がるだろう。

 殷帝国軍九万に対して、トスカル王国軍は五万と圧倒的に劣っていた。

 それでも、国王ゴルギアヌス三世は出撃を止めなかった。


「シャム、敵の偵察は済んでいるのだろうな?」

「勿論でございます。この雨も時期に上がることでしょう」


万騎長トゥルマーンシャムは、ゴルギアヌスにとって信頼のおける万騎長の一人だ。長剣を扱い、武人としての腕も五本の指に入ると言われている。


「敵軍の様子は?」

「こちらの様子を覗っているようです。おそらくこちらから動かなければ敵軍も動かぬことでしょう」

「ならば蹴散らしてやるのみだ」


ゴルギアヌスの傲慢な笑い声を上げていると、ヴァイオンが慌てた様子で駆けてきた。


「陛下!殷帝国軍が何やらあやしい動きをしているそうです」

「どうゆうことだ?」

「先ほど伝令の者が殷帝国軍の一部が後方に下がり始めたと言ってきました」

「ならば動く時間を与えなければよい!」


分厚い雲が東の空へと流れていくと、ヨナミルド河に日の光が射した。


「全軍突撃!」


ゴルギアヌスが突撃の合図を出すと、前衛の万騎長はじめ騎馬隊と重装歩兵隊が突撃を開始した。

 同時に、殷帝国軍からも合図が上がった。

 地を割る足音。天を裂く怒号。交わる剣からは火花が散り、血飛沫が舞う。ものの僅かの時間で何百もの屍が地に転がっている。

 王の名を叫ぶ声。神の名を叫ぶ声。騒然とする中から聞こえてくる。

 空からさす光が戦場を照らし、死者の顔をも照らしている。絶命した者の目は見開かれたままで、自分の死を理解していない。

 片腕を失ってもまだ、戦意を失わず、突き進む者もいる。

 混沌とする戦場は、開戦からまだ数分しか経っていなかった。


「進め!河を超えればこっちのもんだ!」


先頭に立つ騎士から威勢のいい声が上がった。

 勢いづくトスカル軍が優勢のように見えた。だが、それが殷帝国軍の狙いだとは誰も気付いていなかった。

 河がトスカル軍で埋め尽くされ始めると、異様な臭いが漂い始めた。


「油だ!」


一人の兵士が叫ぶと同時に、ヨナミルド河が瞬く間に火の海と化した。その光景は、さながら地獄の死者たちが呻吟しんぎんしているようだ。


「退け!奴ら油を流しやがった」


万騎長ゴードルが叫ぶと、兵たちが馬の脚を止めた。迂回しようと馬の頭の方向を変えると、既に殷帝国軍が攻め込んできていた。


「作戦通りってことか。まあ、いい。俺に続け!」


大柄の男、ゴードルは怯むことなく長剣を高く翳しながら、敵軍へと立ち向かった。

 開戦から数分、前衛の偵察から戻ってきたカビーナドの顔には、焦りの色が浮かんでいた。


「陛下!奴ら、河に油を流していたようです。前衛の大半が焼け死にました」

「・・・・ッ!」

「このままでは我々の戦力が削がれるだけと思います。一度お引きになるべきかと」

「黙れ、カビーナド!我に意見を申すな」

「ですが、このままでは陛下の御身も危険にございます」


カビーナドは何とか説得しようと試みるが、ゴルギアヌスは耳を貸そうとしなかった。


「王都がどうなってもよいのですか?」


カビーナドの悲痛な言葉に、ゴルギアヌスが奥歯を噛み締めた。


「我に敗戦の文字はない。続け!蟻共を蹴散らせ!」


ゴルギアヌスはカビーナドの忠告を無視して、突撃してしまった。続く兵も無敗の王と謳われるだけあって、何の疑いもなく後に続いていく。カビーナドも王の身を守るために、続くしかなかった。

 ゴルギアヌスが動き始めたころ、殷帝国軍も次の作戦へと移り始めていた。


「戻ったか、バホット」

「作戦は成功でございます、武王よ」

「こうもうまくいくとはな」

「さあ、武王よ。自らの手でゴルギアヌスの首をお取りください」


バホットの言葉に、武王は高々に剣を掲げた。


「勝利の女神は殷帝国に微笑んだ!朕に続け!」


勢いよく駆け出した武王に多くの兵が続いた。


「愚王を見つけた者は、朕の前に差し出せ!」

「武王!トスカル軍です!」


兵士の指さす方向に視線を向けると、ゴルギアヌスが先頭に立ち、軍を率いていてた。


「愚王自ら首を差し出しに来たか!」


武王は勢いよく馬を走らせた。

 両軍の兵士たちがぶつかり合う中、武王とゴルギアヌスは睨み合っていた。


「久しいな、ゴルギアヌス王よ。だが、その顔を見るのも今日が最後だ」

「ハッハッハッ、自らの死を自らで告げるか」

「その首貰い受ける!」


王同士の剣が交わった。

 ゴルギアヌスの大剣に、武王の剣が軋んだ。


「どうした、武王。剣が泣いておるぞ」

「ほざけ、ゴルギアヌス!」


武王の剣が、ゴルギアヌスの剣を弾いた。

 ゴルギアヌスの馬が後ずさり、武王は間合いを詰め、切り込んだ。

 ゴルギアヌスはすぐに態勢を立て直すと、武王の剣を弾いた。

 二人の王が剣を交え、その周りでは多くの兵士たちの屍が転がっている。

 響き渡る兵士たちの声に、何万もの人間が大地を踏みしめ、大地が悲鳴を上げている。

 いや、違った。大地そのものが激しく揺れていた。

 森に棲む鳥たちが慌てて空へと逃げ出している。

 馬たちは、乗せている兵士を振り落とさんばかりに暴れている。

 それは、ゴルギアヌスの馬も同じだった。


「終わりだ、ゴルギアヌス!」


その一瞬の隙を逃さなかった武王は、ゴルギアヌスに切りかかった。


「この程度」


ゴルギアヌスは反撃に出ようとしたが、さらなる揺れに、馬が激しく暴れた。

 ゴルギアヌスを狙った武王の剣は、馬の頭部に突き刺さり、馬はゆっくりと地に倒れた。


「終わりだな、ゴルギアヌス王よ。あの世で、朕がこの世界を統一するところを眺めていると言い」

「我を甘く見るな―――ッ!」


馬から落ちたゴルギアヌスはすぐさま立ち上がり反撃しようとしたが、なぜだか体が動かなかった。


「・・・・な、なんだ?体が動かぬ」


地に何か塗ってあるのかと確認したゴルギアヌスの目に、信じられないものが映った。


「へ、ヘビだと・・・・なんだこれは!?貴様、魔術師ショラムと繋がっておったのか」


ゴルギアヌスの体に巻き付く蛇に、武王は振り下ろそうとしていた剣を止めてしまった。

 あまりにも悍ましい姿に、武王は目の前の光景から逃げ出したくなった。


「な、なんだそれは・・・?」

「貴様、魔術師ショラムなんかを使いよって!赦さんぞ!魔術師も貴様も!死してもなお、貴様らを殺しにきてやる!」


蛇に巻き付かたゴルギアヌスは、恐ろしい表情で罵倒していた。

 その恐ろしい光景を見ていられなかった武王は、震える手で剣を振り下ろした―――――。

 後にこの戦争は、ゴルギアヌス三世の大敗として語り継がれることになった。

 トスカル王国は落城し、王の首と数名の万騎長の首が城門に晒された。

 その中には、万騎長ゴードルとアルナーの御目付け役だったヴァイオンの首もあった。

 王宮に残っていた兵は城塞へと逃れ、王都ツァガーンは混乱に渦巻いた。


「よくやってくれた、バホット卿」

「いえ、武王のお力があってのこと」


恭しく頭を下げるのは、トスカル王国の四獣王家であるバホットだ。

 ここにバホットを裏切り者と罵る者はまだいない。バホットが裏切り者と知るのは、武王とその本人のみだ。


「貴公には十分な褒章を与えねばならぬな。欲しいものを言うてみよ」

「では、お言葉に甘えて。千の兵を僕にくださいませ」

「ほう、千もの兵をどうするのだ?」

「この先の戦いに備えるだけでございます」


武王は数秒考えると頷いた。


「よいだろう。貴公に千の兵を与えよう」


バホットは恭しく頭を下げると、王の間を後にした。

 そして、この凶報をアルナーが知るのは、落城してから幾日も先であった。


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