第390話 潜龍坡の戦い(Ⅵ)

 教団側の兵が惑乱し、組織的な抵抗力を失ったことで、戦闘は王師の一方的な攻撃に対して教団が逃げ惑うという図式が確立された。

 そこで行われるのは一方的な虐殺の絵。

 だが、勢いを駆って押し寄せるその王師の只中にメネクメノス隊は突入したのである。

「危ない! 敵兵の渦に飲み込まれる!」

 一度追い散らされたメネクメノス隊は兵の再集結を図ったものの、戦場の混乱の中、ようやく集まった兵は六百に満たない。

 数万もの王師の大軍がもたらす圧力には抗いがたい微弱な力であるとリュサンドロスが見てもしかたがないことであった。

 ここは持ちこたえるためにも、いや、敗走する味方の為に少しでも時間を稼ぐためにも、将の指揮下から離れていない隊は互いに連携することで、数と勢いで勝る王師に対抗しなければならないのだ。

 僅か六百であっても今のリュサンドロスらにとってはなくてはならぬ兵なのである。突出することは自殺行為に他ならない。


 六百の兵はメネクメノスの下で一丸の塊となって、真っ黒になって押し寄せる王師と激突した。

 現実とは思えぬ不思議な場面が現出した。熱せられた鉄板に付着した水滴のように一瞬で蒸発するかに思えたメネクメノスと彼の六百の兵は、斜めに突き刺すように王師の只中に切り込むと、王師の戦列を切り裂き、その前進を食い止めたのだ。

 王師が決して相手を舐めていたわけでは無い。ただ崩れ去った敵は戦列も陣形も放棄して逃げ惑うだけの存在となった。

 そこで起きるのは一方的な戦闘、圧倒的な優勢。王師の兵は我慢の必要な粘り強い戦いの後だけに、一転しての一方的な戦闘に高揚し、背を見せて逃げる敵を攻撃するのに夢中になって、戦列も隊形も崩してしまっていた。

 だから急な攻撃だったとはいえ、僅か六百の兵にいい様にあしらわれたのである。

 目の前に現れたのが二千とか三千とかいった数ならば、王師の兵としても足を止め、隊列を整えもしたかもしれないが、六百という数が王師に警戒心を抱かせなかった。その程度の数の敵相手に隊列を整えて迎え撃つよりも、

勢いで押し続けたほうが効率が良いと考えたのだ。一度足を止めれば、追いかけている敵を逃がしてしまうことに繋がることを考えると、それは仕方の無いことかもしれない。

「ええい! 相手はたかだか千にも満たぬ兵ではないか! 何を梃子摺てこずっている!!」

 エレクトライは不甲斐ない戦を続ける兵を叱咤して反撃を試みようとするが、その僅か六百ばかりの兵に押されて陣がいびつに変形することを止めることすらできない。

 一旦崩れてしまった戦列を、戦いながら整えるのは、王師の兵といえども難易度が高い動きなのである。

 それに王師は兵数が多く、優勢であっただけに、中途半端に密集してしまい、互いに互いの軍が邪魔をして隊列を整え陣形を組みなおすことができなかったのだ。

 そこでエレクトライは自身の『神速』の綽名の由来となった騎兵力を駆使することを思い立ち、第九軍の騎兵を大きく戦場を迂回させ、後方より強襲することで反撃の糸口を掴もうとする。

 結果としては、これが致命の一撃となった。


 後方より襲い掛かった騎兵の攻撃に、ただ前進するためだけの陣形を敷いて、備えのなかったメネクメノス隊は多大な被害をこうむり、前進する足を止める。

 しかも足が止まったことで、今まで隊列の乱れによって大軍の有利さを生かせなかった前方の王師に隊伍を整える余裕を与えてしまい、その隙を見逃さずに王師の各軍は素早く隊伍を整え、反撃を開始する。

 すぐ傍で出す声も通らないほどの王師の喚声の中、一転して劣勢に立たされたメネクメノスたちは命令も通らず、防戦もままならない。

 喚声と共に槍が突き入れられる度に、メネクメノス隊は痩せ細っていく。

 王師の兵は僅かな兵に狼狽した先程の醜態も忘れ、一方的な殺戮の宴に酔いしれる。メネクメノス隊の兵たちは反撃するどころか支える術も見つからず、死を目前に怖気づいた。

 戦場に響き渡る、男共が上げる野太い喚声を押しのけて、酒焼けした甲高い女の声が戦場を切り裂いた。

「退くんじゃない!」

 戦場に似つかわしくないイアネイラの声は、思わず王師の兵が攻撃の手を止めるほど大きく周囲に鳴り響いた。

「あたいらの居場所は戦場にしかないのさ! 皆もそれは痛いほど分かってんだろ? だからこんな反吐の出るような戦場に戻ってきたんじゃなかったのかい? これはそれをあたいたちの手から奪おうとする王との戦いなんだよ! 教団の戦いじゃない! あたいたちのあたいたちのための戦いなんだ! あたいたちが戦わなかったら、誰があたいたちにあたいたちの居場所を与えてくれるっていうんだい!?」

 退き時を間違えたような、年の行った傭兵が顔をしわくちゃにしてイアネイラに詫びた。

「確かにそうだ。ここで逃げたら、きっと二度と再び戦場に出ることは叶わない。二度と退いたりしない」

 挫けかけていた男たちの顔に再び勇気の光が差し込んだ。イアネイラの言葉に傭兵たちは失っていた誇りを再び取り戻した。

 すでに半分に打ち減らされていたメネクメノス隊は再び立ち上がって、眼前の王師と激突する。

 戦とは流れの中で行われるものである。一旦、流れが定まったらそれを覆すことは難しい。守勢から攻勢、攻勢から守勢、頽勢たいせいから優勢。難しいからこそ、それを可能にすることができる者を名将と呼ぶのだ。

 そういう意味では幾度も戦の流れを変転させた有斗はまさしく名将といえるかもしれない。

 王師でもエテオクロス、リュケネ、ヒュベル、ガニメデあたりはそう言った芸当ができるだけの器量を持っていると衆目に見られている。

 もちろん教団側にも名将はいる。バアルは文句なく、それができるだけの男だったし、ディスケスやデウカリオも条件はつくが、場合によっては流れを変えることができるだけの将軍であろう。

 そのことを王師の兵はみな知っている。知っているだけに目の前のメネクメノスとかいう、大半が耳にしたこともないような傭兵隊長が率いる部隊が戦場の流れを変えたことに信じられない思いだった。

 とはいえ王師は優勢である。圧倒的な戦力を持って磨り潰しにかかった。

 既に右も左も前も後ろも見渡す限り敵の姿という中で、メネクメノス隊は奮戦した。

 だが劣勢は否めない。前へ僅か一歩進むだけで十を超える傭兵が死体となる。

 もはや全滅は時間の問題である。傭兵たちは戦うために気力を必死に振り絞らねばならず、王師は逆に楽々と奮い立った。

 ベルビオ隊の王師の兵が槍を突き入れて、一人の傭兵を突き崩すと、その影から鍋を被っただけの、明らかに戦場の酒保の女だと分かる女が金切り声を上げて現れ、槍を手に持ち襲い掛かってきた。

 これには王師の兵も驚いた。驚きはしたが、彼らは戦場のプロである。すべきことをしないという選択肢はあり得なかった。

 女だからといって甘く見たり、手を抜いたりでもしたら代わりに自らが命を落とすのだ。それが戦場というものである。

 彼らは内心大いに嫌ではあったが、無情にも彼女を切り捨てる。

 無情なる王師の刃の前にはいかなる命も同じ価値しか持たない。メネクメノスの傭兵たちも、酒保の女たちも次々と討ち死にしていった。


 第二列に出て兵を督戦とくせんし指揮していたメネクメノスに、最前列の戦列をぶち破って王師の槍が突き刺さった。

 前列の兵が槍の柄を刀で叩き切り、後列の兵が慌ててメネクメノスの倒れた身体を引き摺って安全な場所に避難させる。

 イアネイラは傍に駆け寄ると、メネクメノスの傷ついた身体を抱きかかえた。傷は深い。おびただしい血が地面に広がって大地を赤黒く染める。

「あんた・・・!」

「・・・傷はどうだ? 俺はまだ戦えるか?」

 そう言葉を発する間も、メネクメノスは再び指揮を取ろうと、懸命に立ち上がろうとする。その度に傷口は血を噴出し、メネクメノスは顔を苦痛に歪ませる。

 それは無理な話だった。例え傷口を塞ぎ、出血を止めたとしても生存確立は過半を切るであろう大怪我であった。怪我というよりは限りなく致命傷に近いものである。

「・・・・・・」

 だからイアネイラはメネクメノスの問いに沈黙をもって応えた。本当のことを言わないことが、嘘をつくことができないイアネイラの精一杯の嘘であった。

 だがそれだけでメネクメノスには十分だった。すべてを理解したメネクメノスはようやく霧の晴れてきた天を見上げる。

「そうか・・・俺は死ぬんだな」

「あんた、言い残すことはない?」

 言い残すも何も、こんな状況で何かを言い残したところで、それが外へ伝わることは決して無いであろう。だから戦場の外にいる誰かに伝える言葉を聞いたのではない。それはイアネイラに言うべき言葉がないか訊ねたのである。

 メネクメノスは首を横に振って力なく笑った。

「惚れた女に見取られて死ぬんだ。悔いは無い」

 イアネイラは酒で傷口を洗い、布で覆って強く縛り上げる。だが戦場の只中、医者もいなければ、焼きごても無い。根本的な解決策は見つからなかった。

 そうこうしている間にメネクメノスの顔色は急速に悪くなっていく。手の施しようがなかった。

 虫の息の中、メネクメノスは最期の力を振り絞り、イアネイラに訊ね返した。

「お前こそ・・・俺と一緒になって、こんな場所にまで着いてきちまった・・・後悔はしてないのか?」

「惚れた男と同じ戦場で死ねるんだ。そんな酒保の女はきっと今まで一人としていなかったに違いない。あたいは本当に幸せ者さ」

 その言葉だけで十分だった。それだけでメネクメノスという男がこの腐った戦国の世に生まれてきた理由になる、と彼は思った。

 それがメネクメノスがこの世で最期に感じた感情となった。

 物言わぬむくろを抱きしめるイアネイラに王師の刃が近づいていた。

 何一つ成功を得ることなく、平穏な世界に一抹の幸福すら掴むことなく、戦場で傷つき倒れ、泥に埋もれて死んだ彼らは、本当に幸せだったのであろうか?

 それは彼らと、この日戦場に吹き抜けていった風にしか分からない。


 メネクメノス隊はメネクメノスの死と共に壊滅した。

 だがとにもかくにもメネクメノス隊の奮闘により、教団がなし崩しに崩れ去る危機はここに去った。

 敵に近い位置で、しかも早い段階で分散し、命からがら逃げねばならなかったアンテウォルト隊、そして安全地帯に着くや体勢を立て直すことなく大将と共に逃げ出したカレア隊はともかくも、アストリアは周囲の兵を呼び集め、再び部隊としての体裁を整え、プリギュア公とリュサンドロス隊の間、

それまで味方が逃れやすいように空けられていた空白地帯、南海道上に陣取ってくれた。

「なんとか、これで王師と戦う最低条件は整えたといったところだな」

 もちろんアストリア隊は一度被った敗戦の痛手に兵士の士気は劣悪であろう。だがそれでもあの悪条件から持ち直したのだ。

 オーギューガにその人有りと知られたアストリアならば何とかしてくれるのではないかといった淡い期待を抱いた。

 それにこれでようやくリュサンドロスは前面の敵だけを見て、戦いに集中することが出来る。

「これで我らの防衛の足枷あしかせとなる問題は無くなった。もちろん敵にも我らとの間に横たわっていた障害物が消えたということでもあるが。だがこれで味方が駆けつけてくるまで存分に戦うことができる。メネクメノスの死を無駄にはしない」

 楽な戦にはさせやしないぞ、とリュサンドロスは王師に向かって不敵な笑みを浮かべた。

 再びリュサンドロスが敷いた防衛線目掛けて王師の軍勢が押し寄せてきた。

 戦うにあたって低湿地帯を選んで布陣したリュサンドロスの思惑通りに戦闘は展開された。

 足場の悪い低湿地帯において先に布陣した教団が足場のいい場所を占拠し、兵質の差を埋めることに成功する。兵数の差は低湿地帯という攻め口が限られる特殊な地形でカバーできる。

 堤という確かな足場であり、高所でもある地に早めに陣取ったことも有利に働いた。どこかが苦戦に陥っても、すばやく援兵を派遣することが可能だった。

 対する王師は不確かな足場、狭い攻め口で大軍の有利さを生かせず、少数の敵相手に苦戦を強いられる。

 両軍とも備、もしくは百人隊単位での戦闘となり、完全な消耗戦に陥った。

 だが、やがて問題が生じる。

 兵質が高いのも王師で、兵数が多いのも王師であった。

 有斗は、いや、王師の将軍たちは取るべき手段をあやまたなかった。ここは特殊な地形に打開策を見出せずに苦戦する将兵の被害に目を瞑り、新たな戦術で打開するのではなく、ただひたすら物量をもって攻撃を続けたのだ。

 将兵の負傷も死亡も省みずに次々に新手を繰り出す王師を数度にわたって撃退した。

 だが戦い続けても後続の味方はいつまで経っても駆けつける気配を見せない。

 次第に手負いの兵が増えていき、交代要員を無くした教団側はついに抵抗の手段をなくしたことを悟った。

 リュサンドロスはここに最後の決断を下す時が来たことを悟った。

「味方の増援を待っていたが、もはやこれまで。これ以上は支えきれぬ。残された手段はただ一つ。余力があるうちに敵中に突入し、メネクメノスのように味方の為に時間を稼ぐしかあるまい。アストリア殿とプリギュア公へ使者を。我らが攻撃を行う間に兵をまとめ、後方へお退きなさるとよい、と」

 使者を発すると、負傷した兵を後方へ回し、リュサンドロスは堅守していた堤を放棄し、手勢を入れ替えて迫り来る王師の只中に突入する。

 今も背後で南海道上を敗走する味方の、これから撤退するアストリア、プリギュア公らのための最後の一時を稼ごうとしたのだ。

 リュサンドロス隊は眼前の敵数隊を撃退するも、リュケネ隊に側面を衝かれ立ち往生し、さらにベルビオ隊の猛攻によりリュサンドロス自身が討たれてしまう。

 ここにリュサンドロス隊は壊滅した。


 時刻は正午を僅かに回っていた。

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