第391話 潜龍坡の戦い(Ⅶ)

 リュサンドロス隊が壊滅しても、王師はそれまでの成果に満足し、そこで区切りをつけ、これ以上の追撃を止めるようなことはなかった。

 リュサンドロス隊という核となる部隊を失い、低湿地帯という防衛に適した地を放棄せざるを得なかった教団は、もはや抵抗するだけの余力を有していない。

 王師も朝から続く激戦に疲労はピークに達していたが、ここでコルペディオンでできなかった、教団を完膚なきまでに叩きのめすことができれば、もはやこの戦の行く末も見えることになると気力で身体を動かし、追撃を続けた。

 追撃する王師も逃げる教団側も重装備だ。速度は出せない。だが逃げるほうはいざとなれば武器を捨てればいいし、場合によっては鎧だって脱げばいいのだから、逃げ切るのは容易いであろうと考えるのは早計というものだ。

 主要街道である南海道ですら未舗装で崩れかけた幅二間(約三・六メートル)のでこぼこ道なのである。日本の路地裏の道路、いや農道、いやいや山道のほうが手入れが行き届いているかもしれないといったレベルだ。それ以外の道など推して知るべしである。

 なにしろ朝廷も諸侯も戦争に忙しく道路整備などしている場合ではなかった。主要街道以外のその辺の道は、周囲の村人が崩れたら土を適当に盛る、穴があっても放置、それが基本である。

 そんな悪路を万を超える人間が逃げようとしても、先頭の者だって速度を出せないし、後方の人間は前が詰まって進もうにも進めない。

 王師は楽々と後尾に食いつき、逃げ惑う教団の兵に槍を思うがままに突き入れ、教団の兵を倒し、その心から闘争心を奪おうとする。

 その混乱の中でプリギュア公は行方不明となった。

 プリギュア公はおそらく逃げたわけではない。逃げようにも他に道はなかった。乱戦の中で落命したとしか考えられなかった。

 生存者の話では追いつかれたことで逃走を諦め、リュケネ隊に向かって行く姿を見たという話もあったし、ベルビオ隊に背後から攻撃され落馬する姿を見たという話もあった。

 かつて諸侯だった男のいでたちである。戦場では群を抜いて目立ち、勲功を求める兵士たちの格好の標的になるはずである。

 だが王師の兵からは誰からもその最後の相手となったという声は聞かれなかった。

 戦後、関係者はその遺骸を捜したが、戦場のどこにも見つけ出すことはできなかった。人馬に踏まれてその他大勢の遺体の中にでも埋もれてしまったのかもしれない。

 対して、その最期が曲がりなりにも伝わっているのがアストリアである。

 リュサンドロスが稼ぎ出した時間も使いきり、終に追いつかれたアストリアは僅かに残った供回りの兵と共に馬を返した。

 リュサンドロスが行ったように、アストリアも王師に立ち向かい、自らの命を削ることで一兵でも多く他者を逃そうと思ったのだ。

 彼は別に教団の理念に共感して参戦したわけでも、教団に起こった悲劇に同情して参戦したわけでもない。王と再び戦うことができるという一点で教団に手を貸しただけである。

 アストリアは存分に心行くまで戦えたわけではないが、それでも二度の戦いを与えられた兵で器量一杯戦った。

 結果には不満があれど、過程においては一つの過ちも犯さず善戦した。それなりの充足感は得られた。

 だが教団側最高と思われるバアル、ディスケス、デウカリオの三将は、作戦の展開上、最後尾に配置され、このままでは今回の戦に参加すらすることすら叶わずに戦を終えてしまうだろう。

 彼らの為にも少しでも多くの兵を撤退させたかった。何故なら、もしここで流れのままに教団側が総崩れしてしまったならば、この不本意で無様な戦が教団側にとって王に抗しえた最後の戦ということになってしまう。後は散発的な抵抗だけでこの反乱は終わってしまうことだろう。

 それでは彼らがあまりにも不憫ではないか。彼らは失敗すれば即処刑される覚悟をしてまで王と戦う道を選んだのだ。

 彼らにももう一度、戦う場が与えられるべきである。そう、不完全燃焼だったコルペディオンのような戦ではなく。

 であるから教団のためというよりは、彼らの為に死を決意したのである。

 王に完膚なきまでに負けたわけではないはずだという考え、どんなことをしてでも・・・それこそ教団などという得体の知れないものに手を貸してでも、王ともう一度戦いたいという複雑な思い、死に値するような戦場で満足な戦いを挑むことができないでいる彼らの無念はアストリアも心中深くに共有していたからである。

 そう、アストリアが死ぬことで明日の彼らに満足な戦いができる場が与えられるのであるならば、それは一人のおとこが死ぬに値するだけの十分な理由になる。

「死は避けがたいものである。どうせ一度は死ぬのならば、その死を意味あるものにしようではないか。ここで我らが死ぬことで幾千の味方が生き残れるなら、味方に再戦の機会が与えられるなら、その死はきっと無駄じゃない! 彼らの未来に勝利がもたらされたならば、その快挙は時代を超えて語り継がれ、永遠のものとなるはずだ! ならばそれをもたらした我らの死も等しく永遠になるというもの。武者として生まれたからにはこれに優る喜びはないはずだ!」

 アストリアの短い演説に男たちは野太い応えを一声発しただけだった。逃げ去るものは一人としていなかった。

 アストリアは長年、坂東の大地を共に駆けてきた百余りの郎党と共に、後ろからひたひたと迫ってくる王師の大軍の只中へ駈け込んだ。

 その小集団はたちまち四方から押し寄せた兵によって王師の中に取り込まれ、右へ左へと波間に漂う木切れのように翻弄される。

 乗馬の足を刈られ、アストリアは馬上から投げ出されしたたかに腰を打ちつけたが、首を求めて押し寄せる兵を切り払うと立ち上がった。

 体勢を崩したアストリア目掛けて槍が突き入れられたが、アストリアはそれを身体を捻ってかわすと脇でたばさんで固定し、反撃を封じた上でその槍の持ち主の首に刃を叩きつけ切り捨てる。さらに横手から組討とうと兵が飛び掛ってきたが、これはさすがに避けることもできずに身体をぶつけて押し返すのが精一杯だった。

 この頃にはアストリアの手勢は次々に落命し、十人に打ち減らされていた。もはやアストリアの背中を守るものはいない。

 再び王師の兵が身体を預けるようにして刃ごとアストリアにぶつかり、アストリアは体勢を大きく崩して地面に腕を突く。

 四方から兵が寄ってたかって倒れた身体の上に乗り、アストリアを押しつぶす。幾人もの兵の下敷きとなったアストリアは身動きも取れぬまま、首を獲られた。

 だがまだ王師はまだまだ血は見たりないとばかりに、教団の兵を飢えた狼のように執念深く追った。

 一方的な戦闘、壮絶な退却戦が展開された。教団は兵士と戦意を失い続けた。


 バアル、ディスケス、デウカリオの部隊は教団の長い隊列の最後尾に位置していた。

 彼らは本来の作戦では他の部隊が潜龍坡の出口で王師を半包囲し優位に戦を進めた後に、最後の致命の一撃を与え、逃げる王師を追撃する役目を負わされていたからだ。とっておきの決戦兵力であったがため後方に留め置かれたのだ。

 朝暗いうちに知らせが来てから既に三刻半が過ぎている。正午も既に回った。だのに彼らはここ一刻ばかり、一歩も進めず足止めを食らっていた。

 前方の、大部隊であるイロスの教団本隊が出立が遅れたり、道を間違えたりして右往左往したことで道が完全に塞がってしまったのだ。

 前方での戦いはどうなっているのか、王師優勢か、教団優勢か、何故か情報がまったく入らないことに彼らは焦りの色を深めていた。

 教団の戦略や戦術に対する無能は身に染みて理解していたが、情報まで軽視しているとは思わなかった。

 それとも彼らを軽視し、情勢を判断するのに必要な情報を渡さないということだろうか?

 味方を疑っていては巧くいくものも巧くいかなくなるというのに、とバアルは腐った。

 そこに三隊の中で最前列にいるディスケスから使者が到着した。三将で会合を持ちたいとのことだった。

 バアルが出かけると、そこには既に同じように不機嫌な顔をしたデウカリオが待ち受けていた。

「霧で王師の動きを把握するのが遅れ、先手を取られたのは仕方がない。霧で道を間違え、進軍速度が落ちたのも、間抜けと怒鳴りつけたいところだが、我慢してやる。だが今、前方でどのような戦闘が行われており、戦はどのような形で推移しているくらいは一言あってしかるべきだ!」

「まったくですな」

 デウカリオも戦闘の経過のことや行軍のことよりも、情報がまったく入ってこないことに苛立っているようだった。

 教団幹部が部外者の将軍たちより上に立ちたい気持ちは分かるが、心から勝利を望んでいるなら彼らに本当の意味で全権を渡すべきであると思っていた。餅は餅屋だ。

「呼んだのはそれに関することです。状況を調べにイロス殿のところに派遣していた使者が只今戻ってきたのでね」

 ということはようやく今、前線で何が起こっているのか知ることができるということかと、バアルもデウカリオも期待に顔を輝かせる。こちらから使者を出さねば情報を知らせないというのも大概ではあるが。

「おお、それでイロス殿からはなんと?」

「いえ、残念ながらイロス殿には会ってすらいただけなかったようです」

「なんだと! それでは何も教えぬということではないか! 我らを軽視するのもはなはだしい!」

 デウカリオは怒りで机に拳を叩きつける。

「教団幹部たちは敗報に接し、慌てふためいて対応を協議することに必死で、我らのことなど構っている心の余裕がないのですよ」

 さすがのディスケスも使者にも会わないという教団の態度には腹に据えかねるものがあるのか、口元にちらりと皮肉の色を覗かせた。

「敗報・・・? 戦は既に勝敗がつき、我らは破れたということですか?」

 ディスケスの言葉に聞き流せない単語が混じりこんでいたことにバアルは驚き、間髪いれずに問うた。

 デウカリオもバアルの言葉にはっと顔を上げ、ディスケスを見返す。

「どうやら潜龍坡の入り口を塞ぐことに教団は失敗し、初手で優位さを確立するという教団の思惑は破れたようです。それでも先団の兵は奮戦し、一進一退の戦いを繰り広げていたようなのですが、霧で後続の軍が遅れた教団に対して、王師は次々と後詰を繰り出して、次いで戦場に到着したリュサンドロス将軍も奮戦むなしく崩れ去ったようですな」

 ディスケスは首を横に振って溜息をついた。

「それでは教団の前軍は全面崩壊ではないか・・・!」

「しかも前軍を打ち破った王師はその勢いを駆って教団に損害を与えようと、尚も進軍中とのこと。イロス殿らはその対応をめぐって喧々囂々けんけんごうごうと議論を戦わせているところのようですな」

「議論など何を悠長な! 味方が崩れ、敵が追撃しているというのならば、敵の攻勢を防ぐために陣を敷くか、体勢を整えるために撤退するかの二択しかない! ましてや我らは味方の退路を塞ぐように位置しているのだぞ! 立ち止まって暢気のんきに話し込んでいる暇などあるものか!」

「まだ陽が高い。王師の追撃は急です。もしかしたらこのままイロス殿らを打ち破る可能性があります。我らはそれに備えて、この地に陣を敷いて最悪の事態に備える必要があるのではないでしょうか?」

「急いでイロスらに進言し、我らの部隊を前に出して向かってくる王師に備えるという手があるぞ」

 デウカリオはそう言ってバアルに反駁はんばくする。バアルに対する反感だけでなく、それが無駄骨になる可能性を考えての発言だ。それに教団の前に布陣すれば、明日以降の戦いでは王相手の最前線に立てることになるという下心もあった。

 作戦上、最終決戦兵力として存在価値が認められることに悪い気はしないが、やはり攻撃型の武将であるデウカリオにとっては最前線こそが戦の華というものであった。

「ですがイロス殿らの許可を得られる確証がありません。また、前方を塞ぐ教徒が邪魔して進軍は困難を極めます。王師がどこまで迫ってきているかまでは分からぬ以上、教徒の前に出る前に王師がイロス殿たちに襲い掛かるかも。前に出ることが間に合わない可能性があります。もし移動中に王師が教徒とぶつかり、それに教団が敗北すれば、我らは前方から敗走してくる教徒に押されて陣形は乱れることでしょう。そこを王師に襲い掛かられては、対処のしようがありません」

「それは確かに・・・そうだが」

 デウカリオもバアルの言葉に理を認めた。確かに教徒という隊列をも満足に組むことのできない軍未満の存在が街道を塞いでいるのだ。

 使者の一人や二人はともかくも、軍という集団でそれを追い抜いて前に出るのは不可能に近い作業であろう。

 それを考えると、バアルの作戦が無難ではある。

「最悪、我らだけでも王師を食い止めるように備える必要があるのではないでしょうか。もちろんイロス殿たちが食い止めてくれるなり、王師が追撃を諦めてくれたら言うことはありませんが、現状では僅かな可能性であっても、多少なりとも不利にならないように打つべき手は打っておくべきです」

 バアルの考えをディスケスも良案であると考え、その戦略に沿った提案を行った。

「幸い、私がいるペラマの丘は南海道とケイティオ街道を眼下に収めて布陣するのに絶好の地。南海道を挟んで反対側にはソグラフォスの丘があり、その向こうは荒瀬川という大軍の展開に不向きな防衛に向いている土地です。今からここを我らでやくし、王師に備えるというのはどうですかな?」

 バアルとデウカリオはディスケスの提案に大きく頷いて同意を表した。

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