第340話 襲い来る刃、駆け付けるひと

「陛下、前々から言っていた通り、明日は休みを貰うからね」

 その夜、アエネアスが退出間際に急にそんなことを言うものだから、一瞬、なんのことだか分からずに有斗は目をぱちくりと二度三度と瞬かせた。

「あ、そうか。もうそんな時季か」

 今年の春はオーギューガとの戦いと後始末の為に明け暮れた。しかも遠征は去年の秋から続けて行われたため、アエネアスは今年も恒例のアエティウスとアリアボネの墓参に行くことができなかった。

 だから代わりに盆に墓に参って、冥福を祈り、お供え物をし、アエティウスへのお詫びとして、周りの草を刈ったりしてきたいと常々言っていた。

 それに対しては有斗も何も文句は無い、と丸一日休みとする許可を与えたことを忘れていたのだ。

 毎週二日必ず休みをとっても市民生活に不具合が出ない現代ほどシステマチックに構成されていなくても、それでも羽林も官僚機構の一つだ。アエネアスが一日二日休んだところで支障がでるほど柔な組織ではない。だから問題はないはずだった。

「うん」

「ごめんね。本当は僕も行けたらいいんだけどさ・・・」

 今は農繁期である。水問題、稲の病気、いなごの発生状況など対策を急がれる情報が次々と朝廷に上奏され、それに対してどのようにどこまで対策を行って、どれを切り捨てるかを日々話し合っている最中である。

 なにしろ平和になった有斗の朝廷で優先すべき課題は国庫の収入の安定、民力回復、民心掌握である。

 工業や商業が未成熟な前近代社会においては、稲作や麦作はその全てに関わることであるから最優先課題にならざるを得ない。

 諸侯の移封転封作業も続いている。減封された諸侯の動向も注視し無ければならないし、それに普段の業務だってある。

 その忙しさは、有斗が一刻なりとも外出することすら許されない状況であった。

「いいっていいって、兄様もアリアボネも墓に参ってもらうよりも、きっと陛下が王様としてきっちりと仕事をしているほうが喜ぶと思うもの。大丈夫、わたしが代わりに謝ってくるから心配しないで」

 アエネアスはいつになく上機嫌で有斗に返答した。やはりアエティウスに会えるってのが嬉しいんだろうな・・・と有斗は少し悲しげな気持ちになった。

 だけどその感情を表に表さず、にこりと笑みを顔に作ってアエネアスを気持ちよく送り出す。

「うん。ありがとう、アエティウスやアリアボネによろしくね。あとヘシオネにもね」

「分かってるってば」


 最近、後宮の女官をまた増やした関係で、後宮では中規模の人事移動が行われたばかりであった。

 後宮は官吏と違い入るに当たって開かれた試験が行われることもない。コネや推薦があって初めて後宮に入れるのである。事前に身辺調査もなされるが、それぞれの責任者及び、総責任者であるアリスディアが面接で人柄を見て、その合否を決める。

 東西統一され、河東に蛮拠した諸侯を討ち従えた今、有斗の朝廷と同様に後宮もまた、巨大な権力を掴みたい野心家にとっては垂涎の場所といえよう。

 歴代の王を見ても、御簾の向こうに隠れるほの白きかいなまつりごとを翻弄された君主は数知れない。

 それに王といえ人の子、その母の言を無碍に退けることはできない。王が幼ければその母が垂簾すいれん聴政することも少なくないことである。

 そんなわけで新参者は将来を見据えた諸侯や大臣公卿の口利きで入った者が多いのだが、彼女らは概して気位きぐらいばかり高くて扱い辛い。

 以前のように小所帯でなくなったせいもあり、アリスディアとしても全ての女官と毎日接するといったことはできなくなった。

 もちろん暇を作って声を掛けたり、贈り物をしたりしてなるべく良好な関係を築こうと努力してはいるけれども。

 それだけでなく、女官の間の噂話やその行動からも人となりを探り、人間関係を推察することだって怠らない。

 狡猾に派閥を広げ、アリスディアの足元を引っ繰り返すような危険人物で無いかどうかを確かめるためだ。

 アリスディア一身の身におきる不幸であればまだ許容も出来るが、そのような野心家は遂には後宮に君臨し、王すらも操ろうと画策するに違いない。

 官吏として身を縛られ、王に拝謁するにも許可がいる官吏と違って、王の生活の場に常に近侍する後宮の女官を纏め上げさえすれば、その気になれば王の意見を容易く左右することができる。

 考えても見るがいい。一人の口からとある人の悪口を聞かされても、ああこの人はあの人が嫌いなんだな、で済むことだが、会う人会う人違う口から悪口を言われては、自分の見ているその人の姿さえ本当のものなのか自信が持てなくなる。自分はその人を悪人で無いと思っているのに、周囲の者は皆、彼を悪人だと言う。周囲の者が皆、愚か者で人を見る目が無いのか、それとも彼が本当に悪人で、真実でない別の顔を見せて善人を装って、王である自分を欺いているのか悩むことであろう。

 遂には自信が無くなり多数に流される。どのような賢人もその悪口を信じ込んでしまうものだ。

 しかも後宮に一旦勢力を築き上げられてしまわれては、その勢力を取り除くことは容易なことではない。

 なにしろ後宮の女官は科挙のような公平で公正な選抜で選ばれた人間が入ってくるシステムが存在しないのである。自浄作用がないのであるから。

 一旦、そうなってしまえば、どれだけ朝廷の官吏が清廉な人物で固められていても、政治が正しく行われなくなることは自明の理だ。

 官吏たちが結託して後宮から奸賊かんぞくを排除しようとしても、後宮と朝廷との対立は大概は王を抱え込んだ後宮側の勝利に終わることが多い。乱れた後宮の風紀の粛清は英主が王として立つまで待たねばならないのだ。それまでの間、民は政治の乱れに苦労を余儀なくされる。

 そういったことを防ぐために未然に危険人物を排除することも後宮の頂点、尚侍ないしのかみであるアリスディアに与えられた使命でもある。

 新しい女官を、それも諸侯や大臣公卿を後見に持つ野心家たちを大量に部下に抱えることになったことは、アリスディアにとって頭の痛い問題だった。

 今のところそういった兆候が見られないことだけがアリスディアにとって安心できる材料だった。

 だがアリスディアは不吉な予感を抑えることが出来なかった。

 それは内侍司ないしのつかさ女孺にょじゅと会話したことが原因であった。

 有斗をグラウケネに任せ、自室で尚侍としての執務を執り行っている時に何気なく女孺から一言が発せられた。

「そういえば明日はアエネアス様がお休みをいただかれるそうですね。いいですねぇ・・・私も休暇欲しいなぁ・・・」

 それは単なる軽口、休暇で外出できることに対する羨み。特に何の意図も無い言葉だった。

「そんなことを言うものではありません。陛下は毎日執務を取られているのです。我らだけ休んでは罰が当たると言うものですよ。それに羽林将軍には特別な理由があります。遊び惚けているわけではありませんよ。里下がり(休暇)を許すことは出来ませぬが、そうですね・・・そのようにどうしても休みたいのであれば、奉公暇(平たく言えば首)ならば出すことは可能ですよ」

「あ、嘘です嘘です、休みなど欲しくありません! アハハハハハ。尚侍様もご冗談がきついですよ、アハハハハ」

 慌てて熱心に仕事に励む振りをするその新人の女孺の姿に、アリスディアは袖で口元を隠してくすりと笑う。

 笑いを押し殺しながら仕事に戻ったアリスディアの筆を持つ手が突然ぴたりと止まった。

「その話、どこで聞いたのですか?」

「え? 何の話ですか?」

 アリスディアの真剣な顔とは対照的に女孺はのほほんとした顔を向けた。

「アエネアスが休みを貰うと、どこで誰から聞きました?」

「えっと、どこだったかなぁ・・・確か昼前に同郷の子達と集まって話していたときに・・・あっ、いけない! なんでもありません!」

 仕事もせずに同郷の同僚と集まっておしゃべりに夢中になっていたことをアリスディアに責められると思ったのか、慌てて自分がした話を打ち消しに入る。

 アリスディアは苦笑しながらも、続きを促した。

「いいですから続きを話してください。責めたりいたしませんから。それよりも誰が話していたかを思い出して欲しいのです」

 新たに加わった女官も、元からいた女官も互いの存在を探り、自分の居場所を確保しようとする。女の世界である後宮では、それも立派な仕事の一つである。

「ああ、よかった。確か膳司のエウテレペ・・・いいえ違う、縫司の子だったような気も・・・」

 アリスディアがじっと見つめる中、その女孺は賢明に考えたが、それはその女孺にとってはどうでもいいことに類する記憶だったらしい、結局何一つ思い出せはしなかった。

「・・・すみません、やっぱり思い出せませんでした!」

 明るく元気に返答するその女孺とは裏腹に、アリスディアは何故か胸騒ぎがしてならなかった。

 アエネアスが有斗に休暇を求めた時、その場にはアエネアス、有斗、アリスディア、グラウケネしかいなかった。この四人が洩らすことはまず無い。

 いや、出入り口には羽林の兵もいる。彼らも知っている可能性が高い。後は明日いないことを前提に仕事をしなければならない羽林中郎将らも知ってはいるだろう。

 だが羽林の兵は口が堅い。確かに女官相手には若干、口が軽くなるかもしれないが、仲のいい後宮の女官と会った時の話題が言うに事欠いて、アエネアスの明日の外出について話すとは考えられない。女官だって他の女の明日の動向など話されてもそう反応すればいいか困るし、興醒めするだけだろう。

 ということはアエネアスが明日外出するということをしゃべった女官は、それを誰に聞いたにせよ、自身の意思でもって相手から聞き出すなり、巧みに引き出すなりしたと考えるべきだ。

 いったい何のために・・・?

 ・・・何故、アエネアスの、いや、羽林大将の動向を知りたがっているのか・・・?

 アリスディアはその意図に何か暗い、嫌なものを感じて不吉な思いが沸き上がってくることを抑え切れなかった。

 墓参りとなればアエネアス個人の行動だ。羽林の兵は付いていくことはありえない。もし万が一、襲われでもしたら多数対一人では負ける可能性が高い。

 そう考えるのはアエネアスには敵が多いからだ。敵と言っても公然とアエネアスに敵意を向けているわけではない。ただ、王の配偶者の地位を狙うものにとっては、その存在はやっぱり邪魔なのだ。

 それは娘や姪を持つ有力公卿だけに他ならない。そう、例えばウェスタやセルウィリアなどにとってもアエネアスがいるよりはいないほうが都合が良いに違いない。

「膳司のエウテレペ、縫司に属していて同郷の者・・・まさか・・・」

 考えすぎだと思わないことはないにしても、やはり考え込まざるを得なかったのである。


 アリスディアの憂鬱ゆううつとは対照的に、その日は晴天がどこまでも高く広がり、よく晴れた素晴らしい一日だった。蒸し暑ささえなければ最高の日であっただろう。

 有斗は執務も快調にはかどり、いつものように夕食前に風呂に入ることが出来て満足していた。

 さすがに下着とその一個上の白装束だけは恥ずかしいので自分で着るが、その上の衣装はとにかくゴテゴテで着にくいので、着せてもらうしかない。

「失礼します」と言って有斗の前に王服を持って着付けしようと立ったのは最近、着付け担当の女官として配属になったばかりの娘だった。

 名前は・・・まだ覚えてなかった。そのうちおいおいと覚えていくことだろう。有斗に服を着せてくれる女官とは一日二回は会うから、話し相手になることも多いのだ。

 ただまぁ、この娘も後宮勤めするだけあって偉い美人だ。クラスで一、二を・・・いや少なくとも学校で一、二を争う美人といったレベルであろう。それ以上かもしれない。

 とにかく後宮ってのは美人のバーゲンセールみたいに美人しかいない。王なのにそれに手を出せないのはなんだか納得できないところも無いわけではない。

 まぁ・・・セルノアのことを考えたらしょうがないけれどもさ・・・

 有斗は彼女を見つつそんなことを考えながら、両手を案山子かかしのように横に広げて着物を着付けてくれるのを待った。

 だが、それが却って幸いした。普段ならばアリスディアら馴染みの女官とのおしゃべりなどで注意力は散漫になっている。いや、そうでなくても女官の手元など見もしなかっただろう。

 だが、その女官に注意力が向いていたことで、女官が背後に立つ別の女官と協力して有斗に上着を羽織らせて空手になったはずの瞬間に、その手にきらりと銀色に光るものを見たとき、驚くだけでなく咄嗟とっさに半身ひねることができたのだ。

 短剣は狙いの心臓を外れ、無防備な腹部に突き刺さるも、貫くまでには至らなかった。

 アエネアスとの毎朝の稽古も決して無駄じゃなかったな、と有斗は日々の積み重ねも大切だと改めて感じた。

「曲者め! 何が目的だ!?」

「知れたこと、陛下のお命、ただ一つです」

 動揺が収まらない有斗に対し、短剣を持った女の声はどこまでも冷たく、動揺は無かった。

 女官の手に握られた短剣は有斗を執拗に追いかけた。

 有斗は激痛が走る中、後ろへとステップを踏み、両手を前に突き出して、致命傷を負わせようと身体を有斗に預けようとするその女官を跳ね除ける。

 刃は身体の中で方向を変えつつも抜け出ようとしていた。だが刃は抜けていく間も女官が手首を返す形になったことで傷口を更に押し広げていく。動脈から大量の血が噴出し、一面に降り注いだ。だから有斗の行動が正しかったか正しくなかったかは微妙な問題ではあったが。

 有斗はぐらりと立ち眩むと、辛うじて肩膝をついて転倒を阻止した。女官たちは恐怖で逃げ惑い、あたり一面に大きく悲鳴が上がる。

 騒ぎを聞きつけた羽林の兵が剣を抜いて慌てて駆け入ってくる。

 だがきっと間に合わない。それよりも早くこの女官は、こんどこそ致命の一撃を加えようと有斗に向かって走り出していたのだ。

 有斗を殺しさえすれば己の命など、どうなっても良いのだ。ならば・・・羽林の兵は間に合わない。

 有斗が己の死を覚悟した瞬間、旋風のように獣の影が部屋を駆け抜け、その口先に女官の腰を加えて壁にぶつかり派手な音を立てた。

 獣の口先のように見え、女官を壁に串刺しにしたのは一本の剣だった。

「ふざけるな! よくも有斗を・・・有斗を!!!」

 剣を手にした影は黒く、そして赤かった。

 墓参で今日は丸一日休日のはずのアエネアスが何故かここにいた。ここに現れ、有斗の窮地を救ったのだ。

 アエネアスは予備の短剣を抜き放つと、女官の首に押し当て抵抗を防ごうとする。だが既に女官は絶命していた。

 と、再びその場は女官の悲鳴で彩られた。

 先ほどは王に剣を突きつける刺客の存在に、そして今度は大量の血を流して倒れこむ有斗の姿を見て、というわけだ。

 有斗は大量の血で床に血溜まりを形作りながら、ついに膝にも力が入らなくなって倒れこんだのだ。

 アエネアスは死体となった女官を放り捨てて、慌てて有斗に駆け寄り肩を揺すった。

「有斗! 有斗!! しっかりして!!」

「陛下! しっかり・・・お気を確かに!」

 いつのまにかアリスディアも現れて、有斗の顔を覗き込んでいた。

「クソッ!! 兄様と同じような手口か・・・!」

 アエネアスが揺さぶるたびに傷口が深く傷んだが、有斗はその傷みも段々忘れていった。

 何故なら傷の痛みが薄れるに連れ、意識も遠のいていったからだ。本当は逆であろうが、その時の有斗にはそう感じられたのだ。

 だがその時、奇妙なことに死の恐怖はなかった。有斗はとても安心していた。

 それはアエネアスが駆けつけてきたからでは決して無い。アリスディアらが必死になって血を止めようとしてくれているからでもなかった。

 墓参で休んでいたアエネアスが駆けつけてきたことも、そのアエネアスが有斗を襲った刺客を退治したことも、もうどうでも良かった。

『良かった・・・ぜんぶ、ぜんぶ夢なんだ』

 女官の一人が刺客となって有斗を襲ったことも、アエネアスが突然現れてその刺客を退治したことも、そして有斗がここで死にそうになっていることも。

 夢ならば傷のことなど気にすることは無い。

『だってアエネアスが僕に向かって、こんなに悲しそうな顔で心底心配して、涙を流すなんてことがあるはずがない』

 有斗の今の状態は確かにアエティウスの時と同じような状況ではあるが、だからと言ってアエネアスがこんなに取り乱すはずが無い。

 そう、有斗はアエティウスとは違うのだから。

 だから・・・これはきっと夢に違いないんだ・・・

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