第309話 翻弄(Ⅱ)
まず王師が向かったのは一番河東に近いザダール伯の原山城である。原山城は先の七郷攻めにおいて、一度マシニッサら南部諸侯軍が攻略し、完膚なきまでに破却していた。それから僅か半年とあっては、しかも農繁期の半年とあっては、原山城は内郭さえ満足に復元されていなかった。
それでは防衛など
敵を圧する大軍を持って兵を進める場合、軍を分けて進めるのが常道である。
王師は兵を三分し、それぞれ谷に分け入って各地に作られた諸侯の城砦を破却して芳野南東部に支配圏を打ちたてようと試みる。
芳野全域を制圧するのに何よりも必要なことは、デウカリオらカヒの兵を排除することだと有斗は結論付けた。
彼らが統一した行動を取れるのも、デウカリオの下で一本にまとまっているからだ。カヒの影響力さえ排除すれば、オーギューガに親しみを持たない彼らは頭に抱く神輿がいなくなり、それぞれが独自の動きをするしかない。
個別に攻略するにせよ、巨利をもって味方につけるにせよ、切り崩しは今よりも容易なことだろう。
だがデウカリオらが拠点とする場所は芳野でも奥寄りらしい。奥まで補給線を延ばすことを考えたら、芳野西部はともかく芳野東部だけでも平らげておかねば安心できなかった。
大きく分けて四つの平に分けられる芳野だが、その一つ一つの平をとっても、山が入り組んで絡み合い、見通しが極めて悪い。
諸侯の城は山の中に隠れるように作られている。うっかりそれを見逃して先へ進み、後ろから奇襲を受けると兵をわざわざ戻して攻略をやり直すこととなる。
幸い、ザラルセン配下の元流賊の中には芳野出身の者や芳野への略奪の経験者がいたり、ウェスタの部下にはカトレウスが芳野へ侵攻した際に従軍した者がいる。百年以上、王師が足を踏み入れたことのない土地、古地図こそあれど王師の兵も官吏も一切当てにならない状況だが、彼らのおかげで辛うじて迷わずに済んだ。
カヒ相手の戦で使ったのか、それとも芳野の諸侯同士の争いで使われたのか、各所に小さな砦らしきものはあったが、兵馬は籠められていなかった。
王師は念のためそれらを破却しつつ、地形を利用して山の
リュケネ率いるエレクトライ、アクトールの三師は中越街道を一旦離れ、芳野入り口から北東に位置するパトラ伯の追討を命じられた。
パトラ伯の城は原山城ほど堅城ではないものの、
とはいえそこは王師、そういった事態にも手馴れたものだ。兵は盾を頭上に並べて回廊を作り、兵を次々と門前へと送り込む。
城内からは石を落としたり、火の付いた油壺を落とすなどの対抗措置が取られるが、王師は怯まずに激しい攻撃を繰り返した。
石にも火にも怯むことなく、王師の兵は谷底から這い上がり、次々と外郭に取り付いて城内へと雪崩れ込む。
幾重にも連なった
やはり一番堅固な外郭をあっけなく破られたのが勝負の分かれ目だった。
カヒの兵や同じ芳野の諸侯の兵を跳ね返した実績のある自分の城に自信のあったパトラ伯は、改めて王師の兵の精強さに驚嘆する。
だが落城間際になってもパトラ伯にはまだ心理的に余裕があった。既にパトラ伯は王師が近づく二刻ほど前にデウカリオらと連絡を取りあっていたのである。
一方、そのことを知らないリュケネはたった半日で城を陥落間際まで追いやったことに満足して上機嫌だった。
「残るは頂上の内郭、東の峰の外郭だけだ。だが日も傾いてきた。一旦、兵を退き、残る攻略は明日にしよう」
夜間、暗闇の中での戦闘は同士討ちの危険が高くなる。兵も疲れている。それに是非とも今日中に落とさなければならぬものでもない。
リュケネは先鋒を務めているアクトールの隊に安全な場所までの撤収を命じる。
「
「敵兵のほとんどが領民で組織だった動きが出来なかったことが原因でしょうな。こちらとしては有難いことだ。いや、もちろんアクトール殿のご活躍あってのことですが」
上がってきた被害報告が想定していたよりも少なく、リュケネはアクトールに話す口振りも軽い。
だがその時、リュケネはまだ気付いていなかったが、既に王師には危険が迫りつつあったのである。
パトラ伯の城の攻略には三軍全て振り向けられていたが、山にへばりつくように建築された城砦は攻め口が極めて狭く、先鋒のアクトールの部隊だけでも手が余る状況だった。後衛であるエレクトライの部隊は矢の届く場所にすら行くことができなかった。
彼らは攻城戦が始まっても、ただ指をくわえて見ているだけだった。もちろん、もし先鋒が無様に崩れ去るようなことがあれば、彼らにも出番があると当初こそ身構えていた。
だが戦は王師有利のまま進められ、勢いのままに城内へ入る味方の姿を見た後は、彼らはすっかり緊張も解け、することも無くなった彼らは早々に石を組んで
と、大事な米を焦がさないように炊いていた当番の兵が、視界の端、米を蒸す蒸気の向こうに違和感、ちらちらと動くものを見つけて顔を上げる。
「あれ・・・なんだ?」
その兵士は少し目が悪いのか、眉間に
やがてそれが山の木々の間を滑り落ちて近づいてくる男たちの群れであることに気が付く。
正体は分からなかったが、その手にはそれぞれ得物を握り、鬼のような形相をして近づいてくるその男たちの目的が、友好的なものでないことだけは明らかだった。
兵士は慌てて立ち上がると周囲に響き渡る大声で叫んだ。
「大変だあぁぁ!!!」
晩飯の支度中で警戒を緩めていたエレクトライの部隊にバアル指揮するカヒの兵三千が突き刺さったのは、その声とほぼ同時だった。
しかも間の悪いことに、エレクトライは明日の打ち合わせのために先ほどリュケネの本陣へと向かって、陣営をちょうど留守にしたところだった。
山の斜面を滑り落ちるように現れたカヒの兵は煮立った鍋を蹴倒し炎を踏みしだいて、突然の奇襲に虚を突かれて腑抜けたようになっている王師の兵に槍を突き入れた。
王師の兵たちはただ混乱し、逃げ惑う。敵襲にも我を失わなかった一部の兵だけが彼らの攻撃を耐え凌ごうと武器を手に立ち塞がったが、中には慌てて武器代わりに鍋の蓋を手にする者までいた混乱振りだった。
ごく一部では組織的な抵抗も見られたものの、何故か襲い掛かってきたカヒの兵たちはそういった兵たちには目もくれず、逃げ惑う兵、戸惑う兵ばかりを選んで襲い掛かり、混乱を陣営全体に拡大させてゆく。
完全に不意を撃たれたエレクトライの後陣はたちまち収拾がつかない状態になった。
本陣に向かっていたエレクトライは慌てて馬首を翻して自らの陣営に戻ろうとする。
リュケネも後陣が敵の奇襲によって混乱に陥ったことを把握すると、直ぐに命令を出して後陣の援護にと兵を回す。
敵の統一的な反撃かも知れないと思い、アクトールは慌てて自陣を固める為に戻った。
エレクトライ隊に奇襲を仕掛けたのはバアルとサビニアス率いるカヒの二翼僅か二千の兵である。
「いいか、この奇襲は敵の目をこちらに惹きつける事が目的だ。手強そうな敵は無視して一気に敵陣を駆け抜けるだけでいい。立ち止まって、敵に立ち直る隙を与えるな!」
敵は三軍一万五千もの大軍なのである。立ち直られて正面から攻撃されてはたった二千の兵ではまともに相手などできるわけが無い。
とにかく敵が混乱しているうちに一撃を加え、敵の反撃態勢が整えられる前に兵を退くだけがバアルたちが生き残る為のたった一つの手段だ。
「それにしても・・・カトレウス殿が死んで、王に正面から五分に戦える存在が無くなったとはいえ、油断しすぎじゃないのか、王師の連中は?」
これまで自分たちが争いを繰り広げてきた王師は、劣勢に追いやられても、もう少し粘り強い戦い方をしてきたのだが、とバアルは首を傾げる。
バアルの後ろにぴったりついてくるサビニアスも呆れた口振りで手ごたえの無さを訝る。
「まったくですな。実に歯ごたえが無い。とはいえその方が我らにとっては好都合と言えますがね」
暴れ足りないとばかりにサビニアスはバアルに白い歯を剥いて笑ってみせる。
とはいえサビニアスはエピダウロスで受けた傷が癒えて、ようやく動けるようになったばかりだ。本当は戦うどころか走ることすら大変であるに違いない。だからこそバアルはサビニアスを守るように自身を含む精鋭を配しているのであるが。
ともかくも彼らは陣営を急襲して一撃を加え、陣内に混乱をもたらしたことを充分確認すると、弧を描くように機動を変えて次々と離脱にかかった。
何故なら彼らは二千の兵で王師三軍一万五千に勝利することが目的ではなかった。自信家のバアルも何の仕掛けもなしにそれが可能だとまで言い切るまで豪胆ではなかった。それにそれは豪胆と言うよりも、むしろ無謀といった
彼らは王師に一撃を加えることで芳野の諸侯に対しての被保護者としてのカヒの存在意義を示すと同時に、王師を恐れない姿勢を見せつけ味方を鼓舞することを目的として動いたのだ。
「しかしここまで混乱が広がったのは想定外ですな。味方の被害が少ないことは喜ぶべきことではありますが、反撃するのに必要な統一した行動を取れる組織的な繋がりが残っていましょうかな? 王師に我らを追撃する余裕があるとよいのですが・・・」
「大丈夫でしょう」
バアルは走る速度を緩めて後方を振り返る。合わせる様にしてサビニアスも後方を振り返った。
崩れきっていた王師の後陣は、戻ってきたエレクトライに叱咤されることで平静を取り戻し、慌てて追撃態勢を取ろうとしていた。
王師の中軍もいくつかの部隊を反転させ、後陣の援護に回したらしい。旗の違う統率の取れた一団がバアルたちを追いかけてきている姿が確認できる。
「なるほど。あれほどの混乱であっても立て直すのが早い。そこは腐っても王師といったところですな」
「だとしたら、我らは急ぎ山へと駆け上らなくてはなりません。途中で追いつかれては無駄に命を失うことになります」
「違いない」
バアルの言葉にサビニアスは笑って頷くと、二人を中心としたその一団は再び出てきた山目掛けて駆け出した。
散り散りになって逃げるカヒの兵を、平静を取り戻した王師の兵が追いかける。
追いかける王師の旅長も百人隊長もすっかり頭に血が上っていた。
第九軍だけでも五千もの兵がいるのである。いくら襲ってきた兵が元カヒの精鋭であったとしても、たかが二千の兵の奇襲に驚きうろたえ逃げ惑ったとあっては大いなる恥辱であった。
エレクトライは諸侯あがりということもあって控えめで兵の失態を声高に責めたりはしない将軍だが、それだけにそんないい将軍に恥をかかせることになった今回の事態を一兵卒まで恥じていた。
それにエレクトライが責めなくても、少なくとも他の王師の兵からは笑われること必死である。
この失態を取り返すためにも彼らをこのまま逃すしてはならないと考えたのだ。
王師の兵は怒りに目を吊り上げて逃げる敵兵を追った。逃げることに手一杯なのか反撃はまばらだった。
抵抗が少ないことに気を良くしてか益々王師の兵は勢いづき、追撃戦は今や一方的な狩の様相さえ呈していた。やはり兵力差を考えると一か八かの奇襲は出来ても正面から王師と真っ向勝負するまでの気概はないのであろうと、王師の兵は心理的に余裕があった。と、カヒの兵が潜んでいた山麓まで追いかけてきたときだった、突如として左右の草むらの中から喚声が上がると槍が突き入れられた。伏兵だった。
勢いに任せて追いかけてきただけに、エレクトライ隊は戦列どころか隊伍すらばらばらで、組織的な反撃に会うと先ほどよりもより一層激しく崩れ落ちた。
それを見て後ろを見せていたバアルたちの部隊も戦場にとって返して襲い掛かる。
圧倒的に不利な態勢である。このまま放置したら全滅してもおかしくない。王師の後続部隊は慌てて次々と友軍を助ける為に戦闘に加わった。
後続の部隊も隊伍も戦列も何もあったものではなかったが、それでも結構王師は奮戦した。
全体としてみればやはり押されているものの、王師は即座に崩れ去ることを避けれただけでなく、局地的には敵を押し返し、善戦したと言っても過言ではなかった。
王師は無理やり勝負を急ぐ必要を持たなかった。時間が経てば経つほど味方は駆けつけ、兵力は拡充されるのである。王師の兵の中に再び安堵の思いが広がっていた。
その時だった。突如、背後のパトラ伯の城で喚声が起こり、土煙が舞い上がる。
それを見た王師の兵たちは顔を青ざめさせる。兵を奇襲したカヒの部隊に振り分けた以上、後方は、特にリュケネの本陣は手薄になっているに違いないのだ。
しかも城砦に向けて配置していた陣形を、後方からの奇襲に合わせて反転させている。
その完全に乱れた陣形に敵が突き刺されば、寡兵であってもリュケネの首を取ることは可能であろう。
敵の攻撃を受けるという困難な状況下にも関わらず、王師の兵は慌てて旅長の命の下、引き上げにかかった。
息を吹き返したバアルらの攻撃に次々と王師が倒れていく。だが反撃はそれだけでは済まされなかった。
これまた密かにこの騒ぎの中、山麓まで降ろしてきていたデウカリオ率いるカヒ精鋭の騎馬隊五百が満を持して王師が晒している無防備な背中向けて突き刺さった。
エピダウロスで戦えなかった鬱憤を晴らすかのように、カヒの兵たちは王師をいいように蹴散らした。
リュケネら三将軍が苦労して兵の統率を取り戻し、前後双方の陣形を整えたときには、既にカヒの兵は全て山の中へと姿を消してしまっていた。
しかも一旦追っ手口まで出て、リュケネらの本陣を突くかの様相を見せていたパトラ伯の兵もいつのまにか城内へと姿を隠していた。完全にカヒとパトラ伯とで示し合わせた陽動の動きだったのである。
しかも城内に戻っただけなら良かったが、パトラ伯はリュケネらが苦心して陣形を整えている間に、裏口から奥の深山へととっくの昔に逃げ出していたのである。
翌日、そのことにようやく気付き、無人となったパトラ伯の城に入場したリュケネは憮然とした表情を表さざるをえなかった。
城を破却することで一応、当初の戦略目標を達成したと言えない事も無いが、敵の奇襲を受けて罠にはまって兵を失っただけでなく、敵の兵を大した被害を与えずに逃してしまったことは明らかな失態だった。
「これは陛下に報告せねばなるまい」
芳野に攻め入って最初の報告が喜ばしい報告でないことは王とて望んでいないはず。気が重い報告になるが、隠すわけにも行かない。リュケネは
一方、幸先よく勝利を収めたカヒの兵は足取りも軽く、木々の中を疾走する。
これで当初の予定通り、パトラ伯の軍もほぼ無傷で手に入れることが出来た。
本当のことを言えば、王師の部隊を芳野の奥深くまで引きずり込むために、戦いは避けたかった。その方がより相手の油断を誘えるし、王師の陣営も細長くなり奇襲が有効に使える。
だがパトラ伯が一戦もせずに城を退去することをしぶったのだ。諸侯の面子と言う奴である。
おかげで救い出すために大掛かりな作戦を立てなければならなくなった。
だがその代わりにデウカリオが諸侯を見捨てることなく助力するという姿勢を見せることができたし、王師と戦うには手薄な戦力にパトラ伯の兵を加えることが出来たのだ。決して悪いことでは無い。それに喜ぶべきことは他にもある。
この作戦を立てたのはバアルだが、細部を一切の間違いなく実行できたのはデウカリオの手腕である。
バアルはデウカリオを大いに見直していた。さすがは小カトレウスと呼ばれるだけのことはある、と。総司令官が無能であるよりは有能であるほうがバアルとしても大いに戦いやすいというものだ。
もっともそれはそれだけデウカリオの将としての才能を不当に低く見積もっていたというだけのことだ。
カヒの四天王の名は伊達ではないのである。
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