第300話 逃れ出る

 テイレシアの命令にオーギューガの兵は一斉に動き出した。

 オーギューガの将士の中にも王師と、いや王と戦うことなど馬鹿げた考えだという思いを持つものは少なくなかった。だがテイレシアが下した命令ならば、それに議を言うことは許されなかった。死んでも従う他はない。彼らはそういうふうに出来ているのだ。

 王師は完全に不意を突かれた。

 テュエストスとテイレシアの間に争いがあり、それが兵を持ち出す事態にまで発展しており、王師がその一方の当事者であるテュエストスを庇う形になり、それが故にこの場に剣呑な雰囲気が漂っていることも分かってはいたが、さすがにオーギューガといえど王師には手を出さないだろうと高をくくっていたのだ。

 なにしろ王師の背後には今や誰もがひれ伏すアメイジアの覇王たる王が控えているのである。常識で考えたら逆らうことなど愚かなことだ。

 だから直近に武装した兵がいるにも関わらず、襲撃に備えて備えようとする者すらいなかった。

 多くの者は表の騒ぎに鎧もつけずに剣だけ持って出てくる始末。いや、剣を持っただけマシといえる。中には手ぶらでぽかんとただ大口を開けて推移を見守る緊張感のない者さえいたのだから。

 オーギューガ勢の前に立ち塞がるのは実質、陣営に築かれた仮柵だけであった。その柵を突き破ると騎馬は無抵抗な王師の陣内を蹂躙じゅうりんする。

 リュケネもエレクトライも慌てて兵に指示を出して陣形を整え迎え撃とうとした。

 幸い敵の狙いはテュエストスだ。王師に剣を向けることを躊躇っているのか、あるいはテュエストスに狙いを絞っているのか、オーギューガの攻撃は積極的に王師に向けられているということはなかった。

 一瞬、わざとこのまま手をこまねいて、テュエストスをテイレシアに渡してしまうことも考えたが、それでは朝廷がオーギューガの怒りに屈したことになりかねないと気が付いた。

 確立したばかりの統一政権の権威に傷がつき、それは将来にわたって大きな禍根になるに違いない。

「敵の狙いはテュエストスだ! テュエストスを守るように陣を形成しろ! オーギューガの好き勝手にさせるんじゃないぞ!」

 乱戦になれば徐々に兵士の理性は失われる。目の前の敵に怒りをぶつけて打ち破るのみ、それが兵士の本能である。

 オーギューガは王師の兵といえど躊躇ためらいを見せずに攻撃しつつあった。もはやテュエストスに敬称をつける心のゆとりすらリュケネには無い。

 だが天幕をぬうように陣営内を素早く逃げ回るテュエストスに翻弄され、未だオーギューガは目的を達することが出来ない。それに王師も徐々にテュエストスを守るように陣形が形成されつつあった。

 兵の絶対数に劣るオーギューガは王師が態勢を整えたら不利になる。ここに来て終にテイレシアは最終決断を下す。

「眼前の敵に容易く陣形を組ませるなど、何をしておる! 構わず蹴散らしてテュエストスを追い詰めよ!」

「御館様、しかしそれでは本格的に王師と交戦することになりますぞ!」

「構わぬ! この上は私が出る! 者共、後に続け!!」

 テイレシアは兵が応えるのも確認せず、真っ直ぐ馬を走らせた。大将の一騎駈けなど敵の単なる良い的なだけである、冗談ではない。

「御館様に続け!! 遅れるな!!」

 次々と騎馬が追いかけ、テイレシアを守ろうとして一塊の兵団となった。

 最後まで陣営外に留まっていた五百ほどの騎馬はテイレシアに続いて王師の陣営へと向かうと、前に立ち塞がった王師の戦列にぶち当たった。

 体を深く沈め、石突を地面に埋めて槍を抱えた王師の兵は高名なオーギューガの騎馬突撃にも突破を許さなかった。相手を威嚇する怒号、槍がぶつかる重低音、鋭い切っ先が火花を上げる甲高い金属音、もはや耳元で下知を叫んでも誰一人従う者の無い大音響が響き渡った。

 それがオーギューガと王師双方の本格的な戦の始まる合図となった。それまで辛うじて自制していた双方の将士は、完全に相手を敵と認めて切りかかる。双方の兵馬が巻き上げる粉塵で視界もままならない中、乱戦が始まった。

 乱戦になれば兵士の錬度が物を言う。王師の兵は戦列が崩れても誰に命令されるでもなく、横の兵と阿吽の呼吸でそれを整え、敵を迎え討つ。

 だがテイレシアに率いられた馬回り衆はそれを上回る精鋭だった。

 馬の足を止めても馬上で槍を器用に扱う。突いて伏せ、回して払い、捻って刺し、相手の動きを己の意のままにあしらう。

 道にこびり付くちりほこりほうきに容易く払いのけられるように、王師の将士はあっけなく後退させられた。

 普通、どんな軍も自軍が攻勢の間こそが一番強さを発揮する。攻撃している間は心理的に優勢に立てるからだ。守勢に回ると不安や恐怖が襲い掛かり、どのような勇者でも十全の力を発揮することが出来ない。そういうものなのだ。

 だが第四軍は明らかに攻撃より防御を得意としていた。混戦や乱戦になればなるほどその力を発揮し、崩れ去ることなく粘り強く戦い、ついには相手を打ち負かす。そういった戦いをもっとも得意としていた。

 そのリュケネをもってしてもオーギューガの攻勢を一瞬たりとも支えることが出来ない。それほどまでに苛烈だった。

 テュエストスを守るようにリュケネらがせっかく築き上げた陣は完全に崩壊していた。テュエストスはその崩れた陣の中で少しでも安全な場所を探して右往左往する。だがあちらに逃げれば回り込まれ、こちらに逃げれば戦列を切り裂き敵が近づく。うろうろするテュエストスはむしろ王師の行動を邪魔する異分子だった。

 その混乱の中、敵に押されたのか味方に押されたかも分からないが、テュエストスは後ろから押し倒された。

 ぶざまに転んで、泥の中に顔を突っ込む。泥を吐き出して顔を上げたテュエストスの前の地面に影が落ちた。

 いつの間に来たのであろうか。テュエストスの姿をその目に捕らえたテイレシアが馬を下りて近づいてきていた。

「テュエストス、覚悟するが良い」

 テイレシアは剣を抜くと切っ先をテュエストスへと向ける。

 だがそこで人生の全てを投げ出すようなテュエストスではない。まだ諦めなかった。

 テュエストスはその場にひざまずくと額を地面に打ち付けて、テイレシアに対して命乞いを始めた。

「テ、テイレシア殿、私が悪かった。本当に弟を殺すつもりなど無かったのだ。この通りだ、いや、この通りです! どうか命だけは助けてください!」

 情にもろいテイレシアだ。見苦しく足掻く姿を見たら、哀れをもよおして命だけは取らないかもしれない。

 それに、そうでなくともいいと思っていた。テイレシアは怒りのあまりその手で刺し殺そうとするだろう。槍は持っていない。とすると剣を使っての接近戦となる。近づいてきたらたもとに隠した短刀を使い、隙を見て人質に取るつもりだった。

 所詮テイレシアは女だ。男であるテュエストスに膂力りょりょくで敵うわけなどないというのがテュエストスの考えだった。そうすればオーギューガの諸将もテュエストスに手出しが出来なくなるというわけだ。

 伏せた顔ではテイレシアがどれほど近づいたのか分からない。地面に映るテイレシアの影を見て距離を測り、頃合良しとみると、テイレシアに向かって飛びつくように立ち上がると同時に、抜き打ち気味に短剣を持った右手を突き出し喉元に突きつけようとする。

 だが喉元に突き出したはずの短刀を持った右手は何故か予定する遥か前で動かなくなる。

 テュエストスの右手はテイレシアの左手に握り締められていたのだ。テュエストスは右手に力を込めるが、びくともしない。テイレシアの左手一本に完全に押さえ込まれていた。信じられない膂力だった。

「・・・なるほどな。そういった汚い手段を用いて弟も殺したのか。残念だがその類のことは私には通じない。そういったことには慣れているのでな」

 そう言うと両手で短剣を握ったテュエストスの右手を包み込むようにして、しっかりと短剣を握り直させる。

「しっかりと握れよ。丸腰の相手を斬ったとあらば、このテイレシアの名が泣く」

 握り直した手を二度三度と叩くと、テイレシアは両手をテュエストスの右手から離した。

 テュエストスはその行為に一瞬面食らうが、このままでは自分の身が危ういと我に返り、もう一度テイレシア目掛けて短剣を突き出した。

 だがテイレシアの剣の方が遥かに速い。

 テュエストスの胸に割り入った剣先は、テュエストスの皮膚を切り裂き、肋骨を砕き、まごうことなく心臓を刺し貫いた。

「・・・な・・・そんな・・・!」

 それがテュエストスのこの世に残した最後の言葉となった。

 テイレシアは切っ先を抜き放つと、倒れこむテュエストスの首に剣を下から打ち付けて首をねる。

「卑怯者のテュエストスの首、このテイレシアが天に代わって打ち落としたり!」

 テイレシアがそう叫ぶと、オーギューガの将士がそれに応えてあげる雄たけびが勝鬨の様に七郷の野に三度響き渡った。


 当初の目的を完全に失い、しかも激しい劣勢にさらされ続けている王師は、みるみる士気が下がっていく。崩壊は時間の問題だった。

「お逃げください、リュケネ様!」

 これ以上の交戦は無意味と考えた旅長がリュケネに撤退を進言する。この戦いは元々王師とオーギューガの間に遺恨があって起きたものではない。

 一旦距離を取ってしまえばとりあえず戦う理由は無くなると考えたのだ。和平するにしろ戦いを継続するにしろ、ここはまず建て直しを計るべきだ。

「しかし・・・!」

 リュケネは無理やりに馬上に乗せようとする副官たちの手を押し返して抵抗を見せる。

 アルイタイメナスを殺したテュエストスを見逃すことがテイレシアの義に反するように、戦闘中に兵を置き去りにして見捨てることはリュケネの義に反する。

「それにここでオーギューガが王師に勝利してしまうとオーギューガは完全に朝敵となってしまうのだ。オーギューガの為にも王師は勝たねばならない」

 交戦しても双方痛み分けで陣営を確保したままであれば、まだ朝廷の面子が立つ。

 オーギューガにテュエストスを殺されてしまったものの、そこから逆襲し、オーギューガに被害を与え撤退させることに成功した。そういった言い訳がまだ使えるのである。オーギューガは所領を減らされるなり、当主が隠居するなり何らかの処分を受けることにはなるであろうが、諸侯としてまだ生き残ることが出来る。

 だがこのままオーギューガが押し勝ってしまったら朝廷の面子は丸潰れだ。

 庇護を求めてきた諸侯を敵の手に委ねてしまっただけでなく、三倍の兵を持ち陣営を構えていたのに敗北したとなれば、その実力に疑問符がつくことは疑いが無い。朝廷は民を支配し命令し、税金を取る代わりに、民を保護しなければならないのである。保護する力がないと思われた瞬間、国家という存在が持つ権威は崩壊したも同然なのだ。誰も国家に対する義務を果たそうとしなくなるであろう。

 つまりその実力があることを再度証明しなければならなくなる。その方法はただ一つ、オーギューガを完膚なきまでに打ち破ること。

 当然、一罰百戒の意味も籠めて、オーギューガには前例の無い極めて重い処分が下されることになるのは避けられないであろう。

 部下が多数殺されているこんな状況でもリュケネはオーギューガの為をも思って行動しようとしていた。

 それほどテイレシアのことを尊敬していたという証でもあるが、実はそれだけというわけでもない。

 何故ならオーギューガはカヒとは違う。その高潔で清廉な人柄はアメイジア中で知らぬものがいない。民に賞賛されているのである。その諸侯をどんな理由があろうとも取り潰したともなれば、王の御名に傷がつくのである。

 有斗の為にもこの事態を軟着陸させる妙手を考えようとしていたのだ。

 確かにリュケネの考えは筋道正しく、なおかつオーギューガにも王にも面子を失わせない良策だ。

 だがそれはあくまで勝てばという但し書きがついた話だ。確かに王師が勝てばそれでいい。だが現状をかんがみるに勝利する可能性は限りなく低かった。

 負けたときのことを、また、負けるよりもさらに悪い結果がもたらされる可能性をリュケネは考えるべきだと旅長は思った。

「そうお思いなら、なおさらリュケネ様は逃げるべきです! もし万が一、王師の将軍が戦場で失われたらどうなると思われますか? 朝廷は王師の面子にかけてオーギューガを討伐し、完全な勝利を手にしないといけなくなります。オーギューガ公を助けようと例え陛下がお考えになっても、世間や王師の将士が許しますまい! オーギューガ公のことをお思いなら、ここは退く勇気が必要な局面です!」

 リュケネはその旅長の発言に一理があることを認めざるをえなかった。

 確かに王師がここで敗北しても、オーギューガとの二、三の小競り合いに勝ちさえすれば、適当にお茶を濁して手を打つことが出来るだろう。だが自身がここで死ねば、このオーギューガとのいざこざを適当ところで手打ちにすることは不可能になる。

「よし、わかった。撤退する。急ぎ、全軍に知らせろ」

 引き鉦を叩いて撤収命令を知らせると、敵に面していない兵士から、一斉に後ろを向いて逃走を始める。

 幸いなことにテイレシアも追撃のそぶりを見せる将士を押さえつけ、呼吸を合わせて兵の撤収を開始した。

 もともと王師に恨みがあるわけではない。これ以上の追撃は双方に恨みを生みつけるだけで無意味だと思って、追撃しなかったのだ。

 王師は連なったまま逃れ一里退いても兵の足は止まらなかった。とうとう七郷を出てしまう。


 王師の死者は五百を越える数を数え、報告を聞いたリュケネたちの顔面を蒼白にさせた。

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