第299話 オーギューガの義
王師が原野のただ中に陣営地を張ったのには訳がある。七郷の兵は武装解除したとはいえ、それは捕らえた兵から武器と防具を召し上げ、逃げたものからは提出させた兵装一式だけである。
戦国の世だ。当たり前のように多くの者が武器を複数所持している。それが証拠にテュエストスに叛旗を翻した者たちは完全武装していた。今度もアルイタイメナスに最後まで味方した者からは武装解除させたが、果たしてそれが彼らが所持する最後の武器であるかは保障できない。
さすがに全ての武器を押収する為に一軒一軒家を調べまわって探すだけの人手はないし、そんなことをすれば無意味に反感を買うことになる。
そして大半の兵が王都に帰還した王師の現在の数は一万で、七郷にある潜在兵力は三万、安全を考えると奇襲を受けにくい場所に布陣するにこしたことはない。
もちろん水の確保の意味合いや、住民との軋轢を避けるという目的もあった。四方に兵を配し、警戒を怠らない。
そこにオーギューガに追われたテュエストスが転がり込んで来たのだ。
カヒの領主ともあろうものが、単騎で王師の陣営に、それも返り血を浴びたため血まみれの衣服で息せき切って駆け込んできたのだ。何事が起きたのであろうと王師は一時パニック状態に陥った。
普段は大概のことでは動揺しないリュケネも驚きで目を丸くする。
「いったい何があったのですか?」
遠巻きに自分を見ている兵たちの中から、見知った顔が歩み寄ってくるのを見て、テュエストスはその男の傍に駆け寄り、すがりつくようにして哀願した。
「助けてくだされ、リュケネ殿!」
リュケネはテュエストスのその姿にどうやら容易ならざる事態が起きたことは理解したが、正確なことが分からなくては手助けのしようもない。
それにテュエストスの
「もちろん承知いたした。しかしこの血・・・どこかにお怪我がおありでは?」
リュケネがテュエストスの身を気遣い、まずは手当てを受けさせようと兵に命じようとするのを、テュエストスは止めさせる。
「いや、大丈夫。これは私が流したものではありません」
となると、この多量の血は相手からの返り血ということになるが・・・
つまり自身は傷を負わず、相手を一方的に傷を負わせたことになる。しかもこの血の量を考えると深手と考えられる。戦いは有利に進められたということだ。逃げてくる必要性は皆無だ。
リュケネは訳が分からず、もう一度テュエストスを上から下までしげしげと観察する。
と、宿営地の四方に配備された頭上の見張り台から、下にいるリュケネに報告の声がかけられる。
「東方に騎影、凄い数です! 土煙からすると千は越えます!」
その報告にテュエストスは震え上がった。
「来た! 奴らだ!!」
なるほど千もの兵に追いかけられているのなら、逃げなければいけない訳は分かる。だが今度はその相手が分からない。アルイタイメナスは今や降伏し、外部との接触を断たれている。オーギューガのすることだ。そのすることに間違いはないであろう。ということはカヒ再興を企む者たちがアルイタイメナスの手を離れて、独自に動き出したということになる。
そうであれば容易ならざる事態だが、同時に千もの兵を統率する統一された行動が取れるかどうかという疑問も涌く。
「奴ら・・・?」
「奴らです! 私はオーギューガに追われているのです!」
「オーギューガに・・・?」
リュケネはますます困惑した。
オーギューガは兵を催してテュエストスをカヒ公に復位させ、兄弟の仲を取り持ち、弟の身柄を預かるなど、一貫して彼の立場に立って行動してきた。カトレウスが当主であった時代と違い、関係は大変良好である。少なくともリュケネの目にはそう映っていた。なのに何故、突然その両者の間に溝が出来たというのだろう。
しかも王師の目の届く範囲内で争いを始めるなど正気の沙汰とは思えない。朝廷にとって今や目の上のコブは各地に蛮拠する巨大諸侯だけなのである。
隙あらばその力を削ごうと官吏は手ぐすねを引いて待ち構えているに違いない。カヒとオーギューガという巨大諸侯同士の争いと聞いたら飛び上がって喜ぶことだろう。
特にあの冷血で知られる中書令などにとってはこれを機会に、これ幸いと取り潰しを目論むことだって考えられる。
テュエストスが処刑され、カヒが取り潰されてもリュケネの心は痛まないであろうが、幾度も王師を助けたオーギューガと尊敬するテイレシアに対して起こる悲劇には大いに同情を感じざるをえないであろう。
河北統治、関西統治の公平な政治から正義の宰相とあだ名されたリュケネであってもそこは人の子である。
さすがに逃げ込んだ先が王師の陣営であっては、オーギューガの兵もこれ以上追跡するのに
王師と一定の距離を保ちったその場所に後続の兵が次々と追いついてきて人溜りを形成する。
その数はざっと二千から三千、戦ではないので馬印を掲げていないので確かなことは言えないが、その油断のない動きからはオーギューガの精鋭であろうと思われた。
やがてその塊が割れ、白い鎧兜に全身を固めた小柄な武将が現れた。兜を脱ぐと黒い長髪が風に
「リュケネ殿、王師の陣営に逃げ込んだ卑怯者を我々に渡していただきたい」
その視線はこれまでリュケネに見せたことのない厳しい、そして怜悧な刃物を思わせる鋭さだった。あのカトレウスですら恐れたという武人の姿がそこにはあった。
「卑怯者・・・誰のことですか? 我が陣営には先ほどカヒ公が逃げ込んできただけですが・・・」
リュケネはあえてとぼけて見せる。もちろん卑怯者という言葉がおそらくテュエストスを指していることは十分に承知していたが、あれでも有斗が任命したれっきとした公爵、しかもアメイジアで五指に数えられる大諸侯だ。
さすがに王師の将軍が公爵閣下を捕まえて、卑怯者呼ばわりするわけには行かないのである。そこはぼかしつつもいったい何が両者の間に間隙を作ったのか探ろうとした。
「他に誰がいるというのか」
「いったい、何があったというのです。それを聞かねばこちらとしても、どう対処していいものか判断が出来ません」
「そこの」
と言ってテイレシアはリュケネの後ろにいる兵のさらに後ろに隠れるようにしてこちらの様子を窺うテュエストスを指差した。
「その二枚舌の卑劣漢は私を口先三寸で騙して弟と会う許可を得ると、あろうことかその弟をその手で殺すという暴挙に出たのだ。私はその男を殺し、アルイタイメナス殿の墓前に首を捧げなければならない」
リュケネはその言葉が持つ意味の重大さに震撼する。それでは相手を殺害する為に偽りの和議を持ちかけたようなものではないか。世間にそう捉えられてしまったら、信を持って戦国の世を終わらすという有斗の考えそのものが世間を騙す為の嘘であると受け捉えられかねない。
「そんなことをなさったのか!?」
多少非難めいたリュケネの視線と口調に、テュエストスは慌てて弁解を始める。
「や、やむにやまれずにです。私は弟にこれ以上、天与の人たる陛下に逆らうことは無駄な足掻きになるだけでなく、カヒの民の為にもならないと
テュエストスは虚実織り交ぜ話を作り、巧みに自分が悪くないと主張して罪から逃れようとする。
その不誠実な態度はさらにテイレシアを苛立たせただけだった。
「騙されるな、リュケネ殿! アルイタイメナス殿は一切の武器を持たぬ身、さらには越に行くことにも同意しておりました! そのようなこと、どうして起こしたりいたしましょうか!!」
どちらかというとテイレシアの方が理屈は通っている。人間的にもテイレシアの方が信頼できる。だがだからといってリュケネはテュエストスをテイレシアにすぐさま引き渡すわけにも行かなかった。まだ真実が明らかでないのに一方の主張だけを取り上げて、他方を罪人として引き渡すことはリュケネにとって正義というものではない。
それにテュエストスがどんな悪事を犯したのだとしても、それを裁く権利はテイレシアにあるのではなく、王にだけあるのだから。
「わ、私はちかって嘘はついておりませぬ! どうか、お調べください!」
テイレシアの反論をすぐさま否定し、さも無実であるかのようにリュケネに弁明する。
調べた結果、テュエストスに不利な状況証拠が集まるかもしれないが、結局のところ二人だけの閉じられた空間で起きた事件、生きているテュエストスの一方的な証言しかないのだ、いくらでも誤魔化しきれる、とテュエストスは判断していた。
もちろん賢明なリュケネはそんなテュエストスの言葉だけを一方的に信じたりはしなかった。公平な政治とは対立する双方から事情を聞き、偏りのない目で事実を調査するところから始まるのである。
「カヒ公が故意か偶然かどちらかにしろ、降伏した弟を殺したということは分かりました。それに対してテイレシア殿が不満を持ち、カヒ公にお怒りになっていることも了解いたしました。この件は私には少々荷が重い。陛下に直接裁いていただくというのはいかがだろうか?」
リュケネには坂東に関する専断が許されているといっても、アメイジア一の巨大諸侯オーギューガとアメイジアでも五指に入るカヒとで起きたいざこざの間に割って入るには王師の一将軍風情には分が重い仕事だ。これを裁くことが出来るのは陛下しかいないとリュケネは提案する。これなら双方納得できる案だろう。
それに今必要なのはとにかく一旦時間を置いて、両者の頭を冷やすことだ。そうでないと、やったのやってないだの水掛け論に終始して、真実がいつまで経っても明らかにならない可能性がある。
だがその提案はテイレシアにあっさりと却下された。
「私はどうしてもその男の首をあげなければならぬ。邪魔をしないというのならどいていただきたい。さもなければ・・・」
テイレシアの言葉の語尾に漂う不穏な空気にリュケネは大きく深呼吸をすると問い返した。
「・・・さもなければ、どうなさるというのですか?」
テイレシアの返答は短く、そして明瞭だった。
「力ずくで排除することになる」
その言葉の持つ意味に、王師だけでなくオーギューガの兵も動揺を示した。
「なんだと!」
「!!」
「御館様!」
あちこちで一斉にさまざまな声が上がる。
突然の最後通牒により驚いたのは王師ではなく、オーギューガの将軍たちに違いない。口角から唾を飛ばしてテイレシアにその言葉がもたらすであろう危機を明示し、テイレシアの注意をその危機の方に向けようとする。
「御館様! それでは王師と・・・いや、王と戦うことになりますぞ! それでよろしいのですか!?」
「構わぬ! 受けた恥辱は晴らさねばならぬ! それを邪魔立ていたすのなら、たとえ相手が誰であっても一歩も引かぬ! それがオーギューガの掲げる義というものであり、テイレシアという女の
テイレシアは血走った目を将軍に向け、そう言った。
その声はテイレシアの決意が籠められているせいか、リュケネの元に届くほど力強く響いた。
テイレシアはそうは言ったものの、さすがにそれはリュケネらから譲歩を引き出すはったりであって、王師に槍を向けるなどあるはずがない。いや、そうであって欲しいとリュケネ自身が強く願っていた。
だがそんなリュケネの願いはテイレシアの新たに下した命によってあっけなく打ち砕かれる。
「全軍突撃態勢を取れ! 狙うはテュエストスの首一つだ! よいか、前に立ち塞がるものは
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