第272話 籠に追いやる

 しかし現状、カトレウスが圧倒的不利な態勢に置かれていることは否定できない事実だ。

 上州には大きく三つの口がある。上越街道から分岐し七郷へと抜ける脇街道の出口、上越街道の越への出口、東山道との分岐点、エピダウロスの野への道がある上越街道のもう一方の出口、その三つだ。

 越への出口からはオーギューガの兵が侵入してきている。そもそもそちらは敵地だ。たとえ空いていたとしても出て行くわけにはいかなかった。

 そしてエピダウロス側の上越街道から王師が侵入して、もう一つの出口である脇街道の出口を封鎖するという。そうなればカトレウスは袋の中に閉じ込められたことになる。

 糧道も断たれることになる以上、早急に決着をつけなければこのままでは軍が枯渇してしまう。

 しかし戦おうにも、純粋に彼我ひがの兵力では圧倒的に不利だった。

 だがカトレウスが呆然としたのはその一瞬だけだった。

 まず全軍に通達し、すぐさま南へ向けて進軍を再開する。

 兵の体力を削ることになるが、こんな上州の田舎の片隅にいつまでもぐずぐずしていては、しかばねを野にさらすことになりかねない。

 偵騎を通常よりも多く、さらに遠くまで派遣し、王師の現在位置を調べると同時に脇街道を通ってエピダウロスの端に残っている諸侯や傭兵隊との連絡をつけようとする。

 例え帰路を阻まれたとしても、他の軍と連絡がつけばまだ打開のための手段は残っている。

 上州に侵入した王師は全軍の約半数、約五万だという。五万ならカヒ全軍と同規模の軍だ。エピダウロスにいる残りの兵を動かし、前後から挟み撃ちにすれば勝てない相手ではない。

 だがエピダウロスに向かった頼みの使者は偵騎と共に王師に追い払われてうのていで帰ってきた。

「王師は既に脇街道に陣を幾重にも折り敷いて、我が軍の退路を完全に閉ざしております!」

 負傷して帰ってきた兵からそのことを聞くとカヒの陣中はざわめき立ち、浮き足立つ。カトレウスですらその例外ではなかった。

 完璧な迎撃態勢、王師は後は戦うだけである。いや、戦う必要すらないかもしれない。もはやカヒの兵は袋のネズミなのだから。そのまま袋の中に入れて飢えて死ぬのを待つという手段を取るだけでよい。

 だがカトレウスは呆然としたのはつかの間、すぐに気を取り直す。

 まだだ。まだ袋の口が閉じられてしまったわけではない。

 カトレウスが上州へ入ってきた脇街道は塞がれたかもしれない。だが出口はもう一方あるではないか。塞いだ王師が上州へ入ってきたその入り口だ。

 王師はカトレウスの目を誤魔化すために半分の兵を半舎西へと動かし、もう片方を上州へと移動させた。

 そして誤魔化し続けるために未だエピダウロスの野に兵を戻してはいないはずだ。もし戻していたら、そのことを告げる使者が王師が脇街道を塞ぐ前に報告するため、カトレウスの下に到着しているはずなのである。

 つまり、今エピダウロスの野はまだ無人のはずなのだ。

 だがもしここですぐにカトレウスが兵を南西へと転進させると王は急使を発し、残ったもう一方の兵を戻して上州とエピダウロスの野の境を急ぎ封じてしまうかもしれない。

 もうしばらく南東へと進んで前方を塞ぐ王師に近づくと見せかけつつ、急に馬首を西へと翻して上州からエピダウロスへと逃れる。

 これだ、これならばぎりぎりまでカトレウスの意図はばれることはない。それから敵がカトレウスの行く手を塞ごうと慌てて行動を起こしても、おそらくは間に合わない。王の思惑を完全に無に出来る。

「王をだますためにも物見を常に王の陣へと送り観察させる必要があるな」

 カトレウスの物見は既に一度、上州内にいる王師と接触した。

 戦う気があるのなら敵のことを常に調査しなければならないのだ。兵数はどれくらいで、どこにそのように布陣し、伏兵は無いか、迂回して奇襲をかけるそぶりはないか、援軍は来るのか来ないのかといったことを。

 もしカトレウスがこれ以上物見を送らなければ、カトレウスが王師と戦う気がないということがばれてしまう。

 カトレウスの関心が王と共にいる七郷への帰路を塞いでいる部隊にあると思わせ続ける必要があるだろう。

 物見の兵には苦労をかけるが、これも犠牲無く上州を撤兵する為の布石だ、我慢してもらうしかない。


 カヒ側が物見を出すように、もちろん王師も物見を出してくる。

 普通なら先行隊を前にいくつか進ませて、敵の物見の姿を発見すれば、矢を持って追い払う。本体の位置や規模、陣立てから兵の士気、兵糧の有無など少しでも相手に知らせないためだ。

 だが今回は是非とも知ってもらわなければならない。カトレウスが七郷への脇街道を塞いでいる王師の方に向かって、兵を動かしていると言うことを。

 その為に物見を発見しても本体の姿が見える位置くらいまではあえて追い払わないように指示をした。

 軍事情報を教えることになるので決して好手とは言えないが、どうせ交戦しない予定の敵だし、転進するまでの我慢である。転進するのはカヒの軍とエピダウロスとの距離が街道を塞ぐ王師とエピダウロスとの距離よりも、明らかに近くなってからだ。

 少し遠回りになるのが気がかりだが、それまでは是非とも王師に、カヒは上州から逃れるのに道を塞ぐ彼らを撃破してから帰るつもりだと、思っていてもらわなければならない。


 それともうひとつ手を打った。物見とともにこっそり野人に身をやつした兵を出立させる。

 この兵は野を越え山を越え、いまだエピダウロスの端にて布陣したままの諸侯たちや傭兵隊と連絡を取るのだ。

 カトレウスがエピダウロスを経由してその部隊と合流すると言う撤退作戦は、カヒの将軍の中でも僅かの者しか知らない極秘事項だ。

 漏れる心配は無いと思うが、もし万が一、王がこちらの思惑に気がついて、慌ててもう一方の出口を残ったもう一方の残りの部隊を使って塞ごうとした時に、その動きを妨害するように命じておくためだ。

 徒歩の兵だから時間はかかるだろうが、それでも軍の移動速度よりは遥かに早い。なんとか間に合ってくれるのではないかと願うような気持ちでカトレウスは送り出した。


 有斗は余裕を見せてかカヒを発見しても動かなかった。それに対してカヒは、後ろから迫ってくるオーギューガを恐れてか、予想よりも速い速度で南下し続ける。そして終に両軍残り二舎という距離にまで近づく。

 閉じ込められたと言う事実が兵の間に少しづつ広がり、連日の強行軍で疲労も蓄積されているカヒの兵と違い、何と言っても王師は脇街道を塞ぐように布陣をしてからは行軍もせず、兵をじっくりと休ませているから士気は極めて高く、疲労も少ない。

 もっとも食料が残り少なくなってきていることは隠せず、それが王師の中で少しばかり不安の種にはなっているが。

「陛下、この距離から考えると、今日明日にはカトレウスが行動に移すんじゃないかな、大丈夫?」

 そんな中で将軍たちとの軍議も催さず、暢気のんきに遠征に持ってきた地方の長官からの建白書や上奏書をアエネアスに呼んでもらいながら、片付けていく有斗に少し不安に思ったのかアエネアスが私見を挟む。

「大丈夫。まだ想定内だよ。それに動くとしたら夜の闇に隠れて動くか、早朝、日が昇りきらずに僕らが寝ている間に動くと考えるのが当然だと思う。それをするのになるべく僕らに気付かれたくはないだろうからね。正直言うと持久戦術を取られるのが一番怖かったんだ。それを取らなかった、いや取れなかった段階でカトレウスの勝利の可能性はぐっと低くなった。心配は要らない」

 この時、王師が一番取られたくなかった戦法は持久戦だ。

 なにしろ王師も補給路を断ち切られることを考えて、輜重も連れて行軍してきたが、部隊の行動に支障しない程度の数なので二週間程度の兵糧しか無い。

 ならばもしカトレウスが一部の兵をどこかの要塞に籠め、オーギューガの南進を妨げる一方で、王師とエピダウロスの中間に布陣し、両者の連絡と補給を途絶えさせたら、そして王師を枯渇させようと企んだらと考えるとぞっとする。

 王師が補給路の復旧のために動き出せば、カトレウスは王師を迂回して脇街道からエピダウロスの裏側へと戻ればいいだけだ。

 そうでなく、もし互いに相手の連絡路と補給路を断っての我慢比べになり、戦線が膠着こうちゃくし、それに勝利すればしめたものだ。飢えで体力が落ち、士気の下がった軍など例え半数の兵力であっても打ち破るのは容易いことであろう。

 もっとも神ならぬ身のカトレウスには王師の窮乏きゅうぼうを知るすべは無かった。

 それにカトレウスの手元には一週間の兵糧だけしか残っておらず、とても持久作戦を取れる状態ではなかったと言うのが実態だったけれども。

「でも・・・敵が近いのにこんなことをしている場合なのか、敵に備えてしなきゃいけないことがあるんじゃないかって、つい考えちゃうんだよ」

 戦争には大勢の者の命がかかっている。戦場で全力を尽くすのはもちろん、一分でも一秒でもその戦場にいたる道筋の間にも持てる力を注ぎ込み、勝利の可能性を高めて、万全の態勢で戦闘に挑む、そうあるべきではないかとアエネアスは思っているのだろう。

「戦争とは政治の一形態、政治目標を達成するための手段の一つさ。僕にとっては戦国の世を終わらせるための一連の行動の一つでしかない。今ここでこうしてやっている政務ももちろんその一つ。どちらも大事な仕事だよ」

「それは分かってるけど・・・」

 一抹の不安が頭からこびり付いて離れようとしないアエネアスに有斗は心配をかけまいとして優しく微笑んだ。

「それに敵がどう動いても対処できるように布陣している。大丈夫さ」

 そう、有斗は準備万端でカトレウスが動くのを待っていた。こちらはカヒが動いてから動けば良いのだ。


 早朝、まだ陣幕の中で夢の世界の住人となっていた有斗だったが、昨晩から敵陣の見張りにつけていた物見から緊急の報告があると告げられ起こされた。

 急ぎの用件だと言うから、寝巻きのままで謁見する。

「今朝払暁ふつぎょう、カヒは鶏の鳴く声よりも早く全軍を起床させ整列させると、突如として陣形を回転させ東へと動いていきました!」

 まだ起き切ってない頭脳が、物見のその一言で完全に目覚める。

「やはり、そう動いたか!」

 それは有斗の想定内の行動だった。

 カトレウスはなにかにつけて慎重な男、大きく勝ち目が見えてくるまではこの遠征で有斗相手にしてきたように、何が何としても戦を回避するであろうと思っていた。

 もし有斗がカトレウスのその時所持している部隊と、同数以下の数の兵を率いて表れるという奇跡でも起きない限り戦わないに違いない。

 つまり有斗が半数の兵だけを率いてカトレウスに迫っても、カトレウスも所持兵力は全軍に比べて半分程度であることを考えると、きっとそのまま戦場でケリをつけるよりも、兵を無事に返すことを考えるに違いないと思ったのだ。もちろん全ての出口が塞がれていたら話は別であろうけれども。

 だけど、もし、一つだけうっかり出口を開けておけば、そしてそこを通って七郷へと帰ることが出来るのであれば、どうするであろうか・・・?

 答えはそう、決まっている。そこから兵を出して七郷へと戻る、である。それしか考えられない。

 つまりカトレウスはエピダウロスに入ると言うことなのである。

 もう一度言おう。王師十万カヒ五万の全ての兵を十分に展開でき戦える場所は上州には無い。そんな土地はこの辺りであればエピダウロスの野だけである、と。

 そしてこれももう一度言おう。有斗はこの戦いで全ての決着をつけたかったと考えていることも。

 それには勝利することは絶対条件だ。だがそれ以外にも条件がある。

 敵に立ち直りを許さないためにも、できるだけ敵にダメージを与えておくことだ。

 つまり全ての有斗の軍をもって、同じく全てのカヒの軍と戦うことが望ましい。

 それに兵力は同じ比率であっても数が多いほうが逆転されにくい。上州の片隅で王師五万対カヒ兵二万五千と戦うよりは、エピダウロスの野で王師十万対カヒ兵五万と戦うほうが有利なのである。

 つまり有斗はエピダウロスの野に上州のカヒ勢を誘導し、そこで決戦を行うことができないかと考えたのだ。全ての行動はその為だったのだ。

 自分の立てた策にカトレウスがかかったことに興奮し立ち上がる有斗の袖をアエネアスが引っ張った。

「陛下、将軍を急ぎ集めたほうがいいよ」

「もちろんだよ。それと兵を急ぎ起こして朝食を取らせるように命令することにしよう。なるべく早く僕らも出立し、敵をエピダウロスという鳥かごの中に閉じ込めたい」

 鳥かごの中に親鳥が閉じ込められたら小鳥も救出のため、きっと出てこざるを得ないだろう。

 その時、四方に分かれていた両軍の全ての軍勢がエピダウロスの野にて再び集まることになる。

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