第255話 夕日に照らされる墓の前で

 科挙合格者は将来の朝廷の要となるべく、中央官庁の重要な部署の一つでまずは働くことになる。その後、数年をかけて様々な省庁を渡り歩き適正を見極めて、最終的に適切な部署に配置されることとなる。

 三魁さんかいの一人ともなるとさらに政権中枢に近い中書か尚書の下官か、拾遺という重職につくのが通例である。ルツィアナはまず尚書省に配された。一番下の史生である。

 さすがにラヴィーニアと毎日顔を合わせるのは双方やりにくいだろうと、有斗が気を使って違う部署にしたのだ。

 ルツィアナはそこで順調に経験を積んで九ヵ月後の初めての除目で右小丞うしょうじょうへと抜擢された。もちろん他の三魁の者も同様に昇進していた。

 これは異例な速度の出世でもあるが、当初からの予定通りの昇進でもあった。

 何よりも有斗という異世界から来た新王が行った、初めての科挙出身者の動向は世の読書人たちの耳目を集めている。この異例の出世は彼らに王が本気で国体を改革しようとしていることを印象付け、支持を取り付けるためには有効な方策だ。

 それに幸いというか、不幸というか、朝廷には有能な官吏が少なく、ラヴィーニアだってやれることは限られている。なのに有斗は年単位で領土を拡大し、今や最初に比べるとその領土は面積にして約八倍だ。

 それだけ厄介ごとを多く抱え込むことにもなり、朝廷がやるべき仕事は日に日に増えていっているのである。彼らに早いところ出世して仕事をこなしてもらわないと、朝廷はそのうち立ち行かなくなるのが目に見えていたのだ。だから実務的にもそれは歓迎するべきことであった。

 とはいえルツィアナはこれで六丞の最下官、朝議に出席する資格までは有していないながらも、毎日公卿や省庁のお偉方と折衝し、さらには公的に有斗に取次ぎをする資格が与えられたことになる。

 もっとも左少丞さしょうじょうだったプリクソスが有斗に会うのにセルノアという伝手つてを使わなければならなかったように、通例として左中丞以上の官しかお目見えできないことになっていた。

 だが有斗の意向がルツィアナに会いたいということであるとわかれば、うるさ型の公卿や尚書の上役もその先例破りに口を閉ざすしかなかった。

 そもそも祖法では六丞全員が王の下で職務に当たるとはっきりと書かれている以上、苦言を呈す根拠が薄いのだ。

 それに尚書令以下の尚書の役人としては、それは自己が所属する尚書の権限拡大のためにも喜ぶべきことだった。

 何故ならアリアボネ、ラヴィーニアと歴代の中書令と王の密接さは隠せないところ。

 その為、今は本来ならどちらかというと尚書が取り扱うような事柄まで中書が行う事例が増えたのだ。

 このままでは尚書の存在意義が問われかねない。だが王の覚えがめでたいルツィアナがいるのなら、仕事を尚書に回すに違いない、再び職権をこの手に取り戻すことも可能であろうと考えたからだった。

 少しばかり不純な考えではあるが、官僚といったものは、ややもすれば自己や国家よりも、自己の所属する組織を優先して物事を考えるもののようであった。


「失礼します! 右小丞ルツィアナ、陛下に上奏文をお届けに参りました!」

 元気な声が執務室の扉の向こうに響き渡ると、有斗はその声に執務をしていた顔を上げた。

 その顔はまるでご主人様の帰宅に気付いた愛犬のように喜びで彩られている。

「アリスディア、いいから扉を開けて入ってもらって!」

 と、規則通りに更に何の目的で来たのか扉越しに尋ねようと扉に近づいたアリスディアの動きを制する。

「わかりました」

 少し苦笑いを浮かべてはいたが、アリスディアは有斗の指示に従った。

 アリスディアが扉を開けると山ほどの奏上書を抱えてルツィアナが入ってくる。

 奏上書を出入り口側の机の上に置いて、アリスディアとの間で書類の数と内容を伝達しながら受け渡しをしていく。

 それを有斗は目に優しさをたたえて、懐かしい想いで見つめていた。

 その光景を遠目で見ることで、まるでアリスディアとセルノアがいた時間が有斗の側に戻ってきたかのように感じられるのだ。

 アリスディアとの帳面上での書類の付け合わせが終わると、用が済んだルツィアナは一礼して下がろうとする。

 慌てて有斗が声をかけた。

「今日もルツィアナが上奏文を持ってきたの?」

「私は新人で受け持ちの仕事が少ないので、手空きの時間が多いからでしょうね・・・早くもっと仕事を覚えて先輩諸氏の足手まといにならなければと思ってはいるのですが・・・」

「仕事は難しい?」

「はい。それは当然です。尚書は中書と並ぶ朝廷の二本の柱、一つの失敗が国政を左右しかねませんし・・・毎日叱られてばかりです」

 そうだろうなぁ・・・間違ったことをしても、僕の場合、怒るわけにもいかないから、優しく丁寧に、そして非礼に当たらないように言葉を選んで婉曲に指摘される程度だけど、彼女の場合下の立場だ。労働基準法とか無いだろうから、優しい上司ばかりでもないだろうし、辛くあたる上司もいるに違いない。官吏勤めは大変だろうな・・・

 まぁ僕の場合でも、ちょっと残念な空気は官吏の間から出されるけどさ。

「大変だね。早く仕事に慣れるといいね。でもそのおかげで僕もルツィアナの顔が毎日見れることを考えると、しばらくはこのままのほうが嬉しいかも」

 と、有斗が我侭に近い望みを言うとルツィアナが顔を赤くして下を向く。

「もう、陛下ったら、そんなことをおっしゃって、このルツィアナを困らせなさる」

 ああ、もう! 可愛いなぁ・・・なんか可愛い分、少しいじめるようなことを言ってしまいたくなる。

「でも少し嬉しそうだよ?」

「そんなことはありません!」と、元気に否定してみせる。だがその顔はやっぱり少し嬉しそうだった。


 有斗とルツィアナのその関係をよく思わない官吏もいないわけではない。

 嫉妬ややっかみもあるし、何より娘や妹や姪を使って有斗の横の空席を狙っている公卿は十指を数えるのだ。

 それだけではなかった。

「あまり特定の臣下にいい顔を見せて、優遇するのは王としていい兆候とは言えないんだけどな・・・」

 と王に面会する事案のほとんどをルツィアナに託している尚書省の光景を見て、ラヴィーニアはそう思う。

 王だけでなく、その臣下のためにもよろしくない。

 王と親しいというだけで嫉妬を買うし、王と親しいことを権力への近道と考えてろくでもない連中が寄ってきてはおべっかを使って取り入れようとするだろう。

 阿諛追従あゆついしょうは人の耳目を塞ぎ、心を腐敗させる。

 だが人に褒められ尊敬されることほど、人を甘美に耽溺たんできさせるものはこの世にはない。例えそれが偽りのものであったとしてもだ。

 ラヴィーニアのような鋼の心を持つ人間ででもないと、その甘く心地よい快楽を跳ね除けて、自分を保つのは難しいのだ。

 ルツィアナのことを本当に思うならば、官吏として経験を積み、人脈をつくり、高位につくまではあえて知らぬふりをしたほうが後々良いと思うのだけれども。

 とはいえ、さすがのラヴィーニアも有斗が失ったセルノアの代わりとして、ルツィアナに優しくしているのは分かるだけに、そのセルノアを亡くした原因を作った憎むべき仇敵の自分が、どう言ってこの事態に苦言を呈すればいいか、大いに悩むところだった。

「難しいところだな・・・」

 自分の蒔いた種とはいえ、こんなに後々まで尾を引くのなら反乱など起こすのではなかったと、ラヴィーニアは床に視線を落とし、首を振って苦笑いを浮かべた。


「どこへ行こうとしてるの?」

 アエネアスが羽林の兵を連れて目立たぬように偽装した馬車で城を出ようとする有斗を目聡く見つけて声をかける。

 そういえば今年一月の除目でアエネアスは従四位下、羽林将軍という、もはや公卿に近い位置まで昇進した。有斗が自身に無断で城から抜け出そうとするのを見逃さないのは、少しは羽林将軍という重職の重みを理解したのかもしれない、と有斗はアエネアスの成長具合に少し感心する。

「今年は命日に墓参はできない。出兵が近づいてきているからね。僕は今から行って、あらかじめ参っておくから、アエネアスは僕の分まで命日に行って祈っておいてね」

 アエネアスならば大好きなアエティウスとアリアボネの墓参に反対することなどあるはずがない、と有斗は返答も聞かずに乗り込んだ。

「そっか、わたしも行く!」

 と、何故か有斗をさらに奥に押し込めるようにしてアエネアスも強引に馬車に乗ってくる。

「え・・・僕は命日に御参りできないから行くだけなんだから、アエネアスは別に今日は行かなくてもいいんじゃないかな?」

「何を言ってるの? わたしも陛下と一緒に河東へ渡るんだよ。当たり前じゃない」

「いや・・・だって出兵はアエティウスの命日にかぶるんだよ? アエネアスはその日、お墓に参らなきゃいけないんじゃないかな?」

 アエネアスのアエティウスへの執着の度合いを考えたら、さすがに王都にいたほうがいいだろう。

 大事な命日に墓参りできないのは残念だろうし・・・身の安全のことを考えたら王都にいてくれたほうが有斗も安心できるというものだ。

 それに確かにアエネアスは有斗の警備責任者ではあるが、戦場にまで着いてくる必要はない。戦場には有斗を守る兵が他にもたくさんいるのだから。

「だから何を言ってるのよ。兄様の願いはアメイジアに平和を取り戻すこと、アリアボネの願いは有斗を天与の人としてこの乱世を終わらすことだったでしょ? なら命日に墓に参って花を手向たむけることよりも、有斗の一助として共に戦場に向かうことこそ、二人への真の手向たむけとなるじゃない!」

 アエネアスはそう言うと有斗の返答も聞かずに、馬車を御する羽林の兵に出発を命じた。


 王宮を出た時刻が遅かったため、墓についたころには丘は夕日に照らされて、あたりは一面のくれないだった。

 有斗とアエネアスは三つ並んだ墓にそれぞれ花を供えて手を合わせる。

「兄様、アリアボネ・・・有斗と共に河東に参ります。ですから命日に墓参できないことをお許しください・・・再び河東でカトレウスと戦うのです。そう、あのカトレウスですよ。長年南部を苦しめたあの恐ろしくて憎らしいカトレウスです。ですが兄様でも勝ちは難しいと言ったあのカトレウスを、有斗はなんと破って見せたのですよ? あの剣の持ちようも指揮の取り様も知らなかった有斗がです。兄様やアリアボネにその見事な姿を見て欲しかった・・・だけれども今度は敵地での戦いになります。きっと何倍も苦しい戦になるでしょう。ですからアリアボネと共に天上からお力をお貸しください・・・」

 アエネアスが手を合わせて頭を悄然と下げ、一心に祈っていた。

 祈ったことが自身のことでもアエティウスのことでもなく、有斗のことを祈ったことに有斗は少しだけ驚いた。

 だけど同時に得心もいった。

 そう、これはもはや僕だけの夢じゃない。

 セルノアの、アリアボネの、ヘシオネの、そしてアエティウスとの約束なんだ。アメイジアに平和をもたらすことが。

 ・・・そして有斗がアエネアスにも誓ったことでもある。

 いや、それだけでなくラヴィーニアや朝廷の官吏、いや国民全ての願いなのだろう。

 きっと勝ってみせる。勝ちたいと思うだけで勝てるのなら苦労はいらないのだけれども、とりあえず、まずは勝つと思うことだ。勝つための第一歩はそこからなのだから。

「きっとこれが最後の戦になる。いや、最後の戦にしてみせる」

 そう有斗が力強く断言すると、

「焦っちゃだめだよ。焦りから負けることだってあるんだから」と、アエネアスは苦言を呈した。

「大丈夫。焦ってるわけじゃない。でもきっと今回で片がつくようなそんな気がするのさ」

「気がするだけで勝てたら世話はないけど」

「そうだね。だけど誓ったんだ。アメイジアを平和にする。乱世を終わらせる、と」

「・・・そっか」

 それがセルノアへの誓いだということをアエネアスはもう知っている。だから有斗の言葉に少し苦笑いを浮かべただけだった。

 だが有斗の口から出たのはアエネアスが想像していた言葉ではなかった。

「僕はきっと君と誓った約束を守ってみせる」

 その言葉にアエネアスは思わず顔を有斗に向けた。

 アエネアスの顔を有斗の目が真っ直ぐに見つめていた。その顔はついぞアエネアスに向けられたことがない顔だった。

 春とはいえまだ冷たい風が二人の間を駆け抜けていく、二人の間にあった色々な障壁を吹き飛ばすかのように。

「うん・・・」

 アエネアスは少し頬を赤くしてそう答え、うつむくのが精一杯だった。

 だがアエネアスを照らす夕日はそれ以上にアエネアスの全てを赤く染め、有斗からはその微妙な変化などわからない。

 それはアエネアスにとって幸いだったのだろうか、そうでなかったのであろうか。

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