第230話 後始末

「有斗」

 二人きりになるのを見計らうと、アエネアスが有斗の名前を気軽に呼んだ。

 韮山敗戦以降、アエネアスは有斗と二人きりの時、───例えば朝の剣の稽古の時とかには───有斗のことを名前で呼ぶようになっていた。

「なに?」

 有斗も慣れっこで、特に咎める様子もなく普段通りに返答する。身分制度のない現代日本から来た有斗にしてみれば、自分を王扱いしてうやまってくれることはくすぐったく嬉しいことではあるが、時にわずらわしくさえ感じる。むしろアエネアスのように遠慮なく話してくれるほうが気が楽なのだ。

「ニケーア伯のこと、わたしは何か嫌だよ」

「アエネアスもニケーア伯のことを嫌ってたじゃないか」

「そうだけど・・・! 有斗はそういったことをする人じゃなかったじゃない!」

「そうかな? じゃあアエティウスだったら違う選択肢を取ったと思う? あんな男を野放しにしておけば害があるばかりだよ。何一ついいことなんかない」

「・・・兄様もニケーア伯を処断すると思うけどさ」

 それどころか二度目の裏切り後の降伏など決して許さなかっただろうとアエネアスは思った。アエティウスならばニケーア伯のあの誠意のない交渉の裏にあるものを早々に見抜いて交渉を打ち切り、せいせいしたとばかりに城攻めを再開しただろう。

 アエネアスの返答に有斗は呆れた顔を返した。

「じゃあ、僕もそうすべきだ」

「兄様と有斗とは違う!」

 確かにアエネアスが心酔する完璧超人のアエティウスと比べると足らないところだらけなのは有斗だって認めるところであるが、だからといってそれを言われて傷つかないわけでは無いのである。有斗は内心傷ついた。

「・・・そりゃ僕とアエネアスじゃ色々と違うかもしれないけどさ。でも結論が同じなんだから同じ道を取るべきだよ」

「ううん、違う! そうじゃなくってさ、有斗は王なんだから諸侯の頭領の兄様とは違う道を選べるってことだよ! 別に有斗が兄様に劣ってるって言いたい訳じゃない!!」

「そうかなぁ。王なんて言っても結局のところ、諸侯とそう対して差があるとは思えないけどさ」

「どうしてもニケーア伯を処断するの?」

「アエネアスも思うところはあるかもしれないけどさ、やっぱりニケーア伯は許しちゃ置けないよ。罪を償わせなくちゃいけない」

 アエネアスは有斗を無言で見つめた。

「なんか有斗変わっちゃったね」

「変わらなきゃ。アエティウスやアリアボネのしたことを無駄にしないためにも。もうヘシオネのような人を出さないためにも。僕は変わらなくちゃいけないんだ」

 アエネアスは椅子の上で行儀悪く膝を立てると、抱えた膝に顔をうずめた。

「わたしは今の有斗のままのほうが立派な王になれると思うんだけどな」


 有斗が帰還してから三日後、王都近くの駐屯地に続々と王師が帰ってきたとの報告を受けた。

 有斗はさっそくその一部を河北に振り向けることにする。

 休む暇も無くこき使われる将兵には不満もあるだろうが、河北から敵を一掃しておかねばならない。

 いつなんどき背後から王都を襲撃されるかと思うと、大きく兵を動かすことができないからだ。つまり剣を向けた諸侯のほうはしばらくなら放っておけるが、こっちはそうも言ってはおられないということである。

 未だ河北に残っている第十軍を枯死させないためにも、また河北をカヒの支配地域に組み込ませないためにも、一刻も早い解決が求められていた。

 カヒ本軍ではないとはいえ、二十四翼の一部の兵も含めて二万五千もの大兵力が駐留している以上、ここはイスティエアに振り向けた兵力の過半を惜しみなくつぎ込むべきである。

 当然、本来ならば全軍を統括する主将は有斗と言うことになる。

 だが有斗はカヒを河北から追い出すだけでなく、ニケーア伯を追討することも今回、目論んでいる。その際、有斗が軍中にいては後々よろしくない。

 誰かを代わりに上将軍に任じて、全軍を率いさせなければならないが、有斗の意向を組んで行動してくれる人物でなければならないし、政治的な動きも理解できる人物でなければならない。

 何より微妙な問題なので、裏の事情を伏せて行動できる信頼できる人物を選ばなければならない。ベルビオみたいな単細胞馬鹿では務まらないのだ。

 有斗は熟考した結果、プロイティデスを呼び出した。

「お召しとあり、プロイティデス参上いたしました」

「御苦労様」

 丁重に挨拶を述べるプロイティデスに有斗も鷹揚に挨拶を返すと、早速、用件を切り出した。

「河北にいるカヒの兵を打ち破り、ガニメデらを救うために兵を発しなくちゃいけない。その軍を統べる上将軍にプロイティデスがなって欲しい」

「私が上将軍に!? 陛下が行かれぬとあらばエテオクロス殿かステロベ殿、あるいはリュケネ殿がその役を務めるのが適任かと思われますが」

 官位と軍歴、将兵からの信頼はエテオクロスかステロベという話になる。王師では双璧と言って良く、リュケネがそれに次ぐ存在である。三者とも王師の将軍というだけでなく、政治を司る朝臣の一角を占めている。

 その三者を差し置き、プロイティデスが上将軍に任じられるというのは違和感を感じざるを得ない。

 確かにプロイティデスは王師の最精鋭第一軍の将軍であるが、ベルビオもそうだが、アエティウスの死で押し出される形で将軍となった身である。元は一諸侯の陪臣に過ぎない身であるから、他の将軍を無条件で従えるのはなかなかに難しい。

 特にエテオクロスには関東王師第一の将軍として誇りがあり、ステロベには関西王朝の重鎮としての誇りがある。両者とも生半なまなかな者の下に付くことを良しとしないであろう。軍中で不和があれば、それが原因で負けることも考えられる。

 戦のたびに有斗が全軍を率いる総司令官として前線に出るのは、そういった理由もあるのだ。

 有斗もプロイティデスを河北遠征軍の主将に任じるにあたって、そのことを思い当たらなかったわけでは無い。既に対策は考えている。

「兵符を預ける。それでも従わない将軍がいるなら、僕がこの戦から外す」

「兵符を!?」

 兵符を預けるということは軍中での専断権を預けるということである。有斗はこれまで一軍の規模を超えた兵符をアエティウスにさえ預けたことはない。以前アリアボネがラヴィーニアに鹿沢城の兵符を預けたことがあるが、それとは規模が違う。

 王師複数の軍政と軍令とを一手に握る大権だ。謀反の危険を考えれば当然とも言える。

 それを預けるというのだ。プロイティデスでなくとも驚くであろう。

「僕はもうニケーア伯に我慢がならない。今回の出兵でけりをつけたいんだ」

「ニケーア伯を?」

「だけど狡猾で恥知らずなニケーア伯のことだ。僕が王師を率いて河北に行けば、すぐにひざまずいて命乞いをするだろう。王と言えども、命乞いをする諸侯を公然と処断するのは問題だという声があってね」

「・・・そこで陛下に代わって王師を率い、有無を言わさずニケーア伯を処する者が必要と言うことですか?」

 有斗はプロイティデスの言葉に殊更に大きく頷いた。

「そういうことだよ。その人物は僕のこの考えを理解して、間違いなく実行に移してくれる信頼のおける人物でなくちゃいけない」

「・・・・・・」

「難しい役目を押し付けちゃってごめん。だけど他に適任者が見当たらないんだ」

 アエティウスがいれば何の迷いもなく一任できたのであろうが、結局、自分に白羽の矢が立ったことということは苦渋の決断であったのだろうとプロイティデスはおもんばかった。

「私如きにこのような大事を打ち明けてくださったこと、感謝しております。亡き若に代わって、この大役、臣が務めさせていただきます」

 王の命令だから受け入れざるを得ないとは知ってはいても、プロイティデスが難色も示さず任を受け入れてくれたことに有斗は安堵した。

「頼むよ」

 だがプロイティデスは内心の迷いを隠していた。

 河北に王師を入れるのはニケーア伯を追討することが主目的ではない。何よりもカヒの河北遠征軍を追い出すことが第一の目的だ。場合によっては戦になる。

 いくら王から兵符を預けられたと言っても、無条件で他の将軍がプロイティデスの命令を聞くとは限らない。

 難しい舵取りを迫られるやもしれないとプロイティデスは気を引き締めた。


 だが幸いなことにと言うべきか、拍子抜けすることにと言うべきか、とにかく河北で大きな戦になることはなかった。

 イスティエアの敗報が伝わると、カヒの河北侵攻軍はそれを良い口実として、すぐさま撤収にかかった。

 第十軍兵士の執拗しつような攻撃にほとほと疲れ果てていたのだ。

 彼らは夜間、暗闇に紛れて襲い掛かり、打撃を与えると直ぐに撤収する。もしくは斥候に出された兵などを狙って攻撃してくる。しばしば迎撃に成功して襲い掛かった部隊に反撃を加えたりもしたのだが、それは多くても十名程度の部隊であり、例え全員討ち取ってもまた別の部隊が襲い来る。敵の本拠地はわからず、いつどこで襲撃があるかも分からない。その心理的な圧迫感は精鋭をもって知られるカヒの兵でも耐え難いものだったようだ。

 二万五千の兵力は牽制に使うには十分すぎる数だったし、王師に対しても五分以上に渡り合えた。

 だが小規模の部隊に分かれて抵抗する敵を殲滅し、河北全土を制圧するには物足りなかった。

 もう少し兵があれば、と言った気持ちであったかもしれない。

 だが無いものをねだって現状が変わるわけではない。

 補給にも難をきたしているし、本隊が敗北したからには長居は無用とばかりに、粛々しゅくしゅくと帰還の途についた。

 二万五千という数では、王師全軍と戦って勝てるとまでは、さすがのガイネウスやデウカリオやバアルと言った剛腹な人間にも言い切れなかったからだ。それに芳野や河東の諸侯はイスティエアの敗報を聞いて腰砕けになって戦力として当てになりそうにない。

 それにこうなったからには二万五千もの兵力はカトレウスにとって欠くべからざる戦力であろう。撤退し戦力を温存し、来るべき時に備えるべきだ。

 それに河北侵攻軍が無事に退却できなければ、今以上にカヒの権威は低下する。河北侵攻軍も大半は諸侯の兵である。彼らの心は確実にカヒから離れるであろうし、他の諸侯だって騒ぎ出すに違いない。

 最もその前に一人、梯子を外された形になったニケーア伯が騒ぎ出した。

「カヒの為に粉骨砕身してきた私を見捨てて帰られるとは情けない。河北に残って共に戦っていただきたい」

 袖に縋りついたニケーア伯を、デウカリオは有斗と違って情け容赦なく突き飛ばし、更には蹴りを入れた。

「そなたがしたことと言えば王師と戦うことではなく、我らを盾にしておいて近隣の土地を刈り取っただけではないか。共に戦うとは口だけで、私腹を肥やすのが目的ではなかったのか。自分のしたことならば自分で尻を拭け」

 ニケーア伯のような人物こそ直情径行型のダレイオスにとって最も嫌うべき人種だったのである。


 有斗が河北に送った王師はプロイティデス隊、アクトール隊、エテオクロス隊、エレクトライ隊、ヒュベル隊、ベルビオ隊、合計約三万である。

 現地にいる第十軍と合流すれば三万五千である。敵との差は一万もある、格段に優位だ。

 とはいえ河北に渡った段階で、既にカヒの撤退は知れ渡っており、意気込んで来た分、いささか拍子抜けした感は否めなかった。

 だが何が起こるか分からないし、カヒについた諸侯へ圧力をかけねばならない。

 プロイティデスはまずは慶都けいとへと足を向けた。


 カヒの撤退を確認してようやく、ガニメデはねぐらにしていた深い森の中から、春を迎えた熊のように這い出てきた。

 各地に散った兵士も次々と慶都に戻ってくる。カヒの兵が来たため逃げ去っていた住人たちも戻ってきていた。

 慶都では既に人で溢れんばかりだった。

「ガニメデ卿、ご無事で何より」

 慶都の政庁ではプロイティデスがガニメデを待ち受けていた。

 ガニメデはしばらく野で暮したせいか着ているものも泥だらけで、只でさえ見栄えのしないその外見は、もはや田を耕した後の農夫そのものだった。

「プロイティデス卿、あのカトレウス相手に見事な勝利、お祝い申し上げますぞ。とはいえ、その歴史的な勝利に私が加われなかったことが残念でなりません」

 ガニメデは心底悔しがっていた。それもしかたがない、戦場での功は見られていないと意味が無い。誰か他に見ている者があってこそ、巷間にも語り継がれる艶やかな物語にもなり、それでこそ恩賞に期待ができるというものだった。

 見えないところで敵の足止めをしているよりも、目の前で槍を振るっているほうが王に与える印象は良いに違いない。天地ほどの差があることだろう。

「何の。あれは陛下の策がぴたりと的中なされたから、我らはその下知に従っただけ」

「ほう」

 ガニメデは驚いた。韮山のことを考えると、王はどう見ても凡将、辛うじて部隊指揮だけは可能といったレベルでしかないと思っていた。その王が歴戦の武人であるカトレウスを破ったと聞いても、すぐには納得できるはずもない。それをプロイティデスの謙遜であろうと思ったとしても仕方が無いであろう。

「・・・それでも陛下の目の前で華々しく戦い、勝利を得たことに違いありますまい。こちらはこの通り僻地で地味な働きです」

 と、ガニメデはがっくりと肩を落とした。

「いやいや我らが後顧の憂い無く戦えたのは何と言ってもガニメデ殿が河北で敵の別働隊を足止めしてくれていたからです。この殊勲は今回の戦でも一、二を争うと言えましょう。きっと陛下も内心ではそう思っているにちがいありません」

「そう思っていただけるとありがたいですが・・・そう上手くは行きますまい」

 いつも王の目の届かないところで戦っている、かなり頑張っていると思うんだがあまり評価されない、貧乏くじばかり引いている気がする、とガニメデはなんだかやりきれなかった。


 疲労困憊の第十軍を慶都に残し、河北遠征軍は西へと向かった。

 カヒに寝返った河北諸侯をそのままにしておくわけにはいかないのだ。

 特にカヒの河北侵攻に合わせて、またぞろ近隣諸侯領や王領を勝手に横領したニケーア伯の罪を問い質さなければ、朝廷も鼎の軽重を問われることになる。

 王師がニケーア伯領に足を踏み入れるまでも無かった。頼みのカヒの兵に去られ、王師が向かっていると聞いて肝を潰したニケーア伯から足でも舐めんばかりの書状が送られてきた。

 強大なカヒの力に一田舎諸侯が抗すことはあたわず、意に反して味方しただけで王を敬う意志には変わりがない、カヒ攻めの時には是非とも先陣を賜りたいとまで言ってきたのだ。

 だがプロイティデスは使者に目通りも許さずに追い返した。

「ニケーア伯は表裏比興の者である。このまま河北に置いておいてはまた変事が発生した時にまたぞろ裏切る。後顧の憂いを断つために、ニケーア伯を許すことはできない」

 プロイティデスの言葉に居並ぶ将軍たちで困惑した表情を浮かべぬ者はいなかった。

「陛下の御判断を仰がぬのか?」

 確かに将軍たちの中にもニケーア伯のこれまでの進退に腹を立てぬ者はいないといって良いだろう。だが諸侯は王に任じられた、いわば王の私臣なのである。三公や王師と言えどもその処遇を独断で処罰するのは難しい。

 ここは王の判断を仰ぐのが常識と言えた。

「私はこの度の遠征で陛下より兵符を預からせていただいた。お忙しい陛下に成り代わり、河北の仕置きを任せられたということだと理解している。河北の一諸侯如きに陛下の宸襟を悩ませるまでも無い」

 河北の一諸侯如きと簡単に言うが、南部や関西の大諸侯に比すれば吹けば消し飛ぶような存在であっても、ニケーア伯は河北では今や一番大きな諸侯なのである。それを除けば諸侯の振り合いや均衡といったものに大きな影響があるのは必至だ。

 それを王や朝廷に諮らないでいいのであろうかとベルビオを除く将軍たちは軽く顔を見合わせた。

 誰も口を開かないなら自分が、と前に進み出ようとしたヒュベルをエテオクロスが袖を引いて制した。

「諸卿らに反対は無いようだな。ならば、ニケーア攻めに備えられよ」

 プロイティデスは懸念していたニケーア攻めに対する異見が無かったことに安堵し、会を解散した。


 その場で問い質すことこそ無かったものの、エテオクロスの対応に疑問を抱いたヒュベルは二人きりになるのを見計らって話しかけた。

「エテオクロス卿、お話があるのですが」

 長くエテオクロスの副官をしていただけに、王師一軍を預かる同格の将軍となった今でもヒュベルはエテオクロスに対して敬語を使う。もちろん、その長く煌びやかな軍歴は十分にヒュベルが敬意を払うに値するものだからという理由もあるのだが。

「なにかな?」

「プロイティデスはこの度の大任に気負いすぎてるように見えます。このままニケーア伯を独断で攻めて、後々、我々が陛下の御不興を買うようなことはないでしょうか?」

「おそらく無いな。プロイティデス卿は陛下直々に上将軍に任じられ、兵符を与えられた。これはよくよくのことがあってのことだ」

「つまり?」

「ニケーア伯に対するこの態度も、裏に陛下の内意あってのことと思ったほうが良い」

「独断ではないと?」

「ということだな。我々は黙って従っておくのが正しい行動だと思う」

 王師六軍、現地にいるガニメデも合わせると七軍もの大兵を預かる上将軍だ。もしアエティウスが生きていて任じられるのなら王も将士も朝廷も納得もしようものだが、自分やステロベ、リュケネですら、その任を与えるのは危険であり、どこからか反対の声が上がるのは必至だ。

 ましてや、その三人を飛び越して任じられたのが将軍として格が落ちるプロイティデスとなれば、王師の中からも疑問の声は噴出するだろう。軍中に反目があれば戦の勝敗に影響するかもしれない。

 当然、朝臣たちもそういった諸々の危険性を述べるであろうし、そもそも王だって思い当たるはずである。

 そこをあえてプロイティデスで押し通し、なおかつ兵符まで与えたとならば、その裏に何かあると考えるのは実は難しいことではない。

 エテオクロスは戦場と同じように政治でも洞察力を発揮して、事の真相を見抜いた。

 有斗は将軍たちの中でプロイティデスの下で働くのを良しとしない者が、具体的にはエテオクロスのことだが、現れて遠征軍が空中分解しないか危惧していたが、幸いにして杞憂に終わった。


 王師は手早くニケーアの城を取り囲んだが、すぐさま攻め掛かろうとはしなかった。

「中から揺すぶる方が犠牲が少なくて良い」

 プロイティデスのその方針に関しては反対する将軍はいなかった。

 ニケーア伯には共同歩調を取る味方もおらず、王師も戦力をここだけに集中できる状況である。以前と違って時間が経てば経つほど不利になるのはニケーア側なのだ。

 開城勧告の使者を送り、交渉条件を出すことで城内を揺すぶった。

 ニケーア伯が責任を取って自害すれば、家臣の罪までは問わない。またニケーア伯家も息子が継いで存続することも保証するというものだった。

 これを聞き、城内は開城降伏に大きく傾いた。

 だがニケーア伯は降伏条件に自分の命が加わっていることを知ると拒絶する姿勢を取った。

「わ、わたしは死なんぞ。わたしが死んでも、ニケーア伯家が続くとは限らぬではないか。王が約束を守るか知れたことか」

 どうやら人は己を介してしか他人を見ることはできないらしい。

 ニケーア伯は自身がこれまでそうしてきたように、兵卒や領民の赦免やニケーア伯家の存続などの約束など単なる好餌に過ぎず、王や王師はニケーア伯を騙して殺そうとしているだけのように見えるようだった。

 ニケーア伯は死ぬくらいならばと、断固として戦い抜く決意を固めた。

 だが極一部の例外はあるが、現代の会社が社長一人の持ち物でないように、この時代の諸侯の家も当主一人の持ち物ではないのである。

 諸侯の浮沈に従って、大勢の親類縁者や家臣、領民も運命を共にするのである。

 諸侯も妻子や親戚、有力家臣などの意向を完全には無視できるものではないのだ。

「お家の為に死んでくだされ」

 ニケーア伯家の存続を望む、と書けば何やら忠臣でもあるかのような字面ではあるが何のことはない、ニケーア伯家が潰れれば路頭に迷う恐れがある家族や部下たちが寄ってたかってニケーア伯に迫り、自死に見せかけて殺害したのだ。

 差し出されたニケーア伯の首をもって死を確認すると、プロイティデスはニケーア伯家の降伏を許すと同時に王都に使者を走らせた。


 有斗は早馬がもたらしたその知らせを王都で聞いた。

「ニケーア伯は死んだのか」

 字が読めないにもかかわらず、報告の書簡を身じろぎもせずに有斗はじっと眺め続けた。

「陛下、内府殿か中書令をお呼びいたしましょうか?」

 河北遠征軍が有斗の考えとは違う動きをしたと悩んでいるのではないかと考えたアリスディアが気を利かせて訊ねたが、

「その必要はない。今度の河北の仕置きについてはプロイティデスに全幅の信頼を置いている。プロイティデスは僕の期待に完璧に応えている。朝廷に計る必要は何一つない」

 と有斗が珍しく強い口調で否定の言を述べたので、アリスディアは慌てて平伏した。

「これは失礼いたしました。出過ぎた口を出したことをお許しください」

「あ、いや、謝ることはないよ。プロイティデスと同じようにアリスディアも僕のことをよく考えて動いてくれてるんだもの。これからも思ったことがあればいつでも言って欲しい」

「ありがとうございます」

 にこやかに微笑むアリスディアに有斗も笑みを返すが、その笑みはどこかしらぎこちなかった。

 有斗はもう一度、書簡に目を落として考え込んだ。

『アエネアスはどう思うかな。・・・まだ反対するだろうか』

 感情的なものだけでなく、冷静に大局から判断しニケーア伯を処断したつもりだったが、ニケーア伯処断の知らせに思った以上に胸のモヤモヤが消えたことに気付いて、有斗は少し動揺した。

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