第206話 第三次河北征伐(Ⅶ)

 川面かわも朝靄あさもやが覆い隠す。

 見えはしないが、わずかにぱしゃぱしゃと水がねる音がする。朝靄が姿を隠しても、どんなに声を潜めても人の気配だけは完全に消すことはできない。

 川を渡る人馬の気配、やがて朝靄の中におぼろに影が現れる。ひとつ、ふたつ、みっつ・・・影は瞬く間にその数を増やし、やがて数えきることができなくなった。

 じっとその場に伏せていたカヒの物見は敵の渡河を確認すると、足音を立てずにそっと立ち去った。


 物見から報告を受けたガイネウスは喜びを大きく顔に表した。

「餌に喰らいついたか」

「はい。ただ近場の渡しを使わず、わざわざ北に三里も離れた渡しを使ったことが少々腑に落ちません」

「朝靄に紛れて行動しているとはいえ、我々に渡河最中に襲われることを恐れたのであろう。ここから今すぐ兵を発しても、北の渡し近辺に兵が着くころには渡河が終わっている。道理にかなった行動だ」

「はっ」

 次いで横にいる副官に顔を向け、立て続けに指示を出していく。

「よし、少しばかり早いが兵を全員起こしておけ。デウカリオ卿とサビニアスにもこのことを急ぎ伝えよ」

「はっ」

「それから炊飯の煙を上げよ」

「油断しているように見せつけるわけですな」

「たわけ。敵がいつ来るかわからぬのだ。それに渡河を完了してもこの朝靄の中だ。思うように進むことはなかなかできまい。急げば朝飯を食らう時間くらいはあるだろう」

 今日は長い戦いになるはずである。腹が空では戦いも辛かろうて。


 昨日丸一日、敵陣には一切動きが見られなかった。見破られたかと多少ガイネウスも気を揉んだが、敵はどうやら策に引っかかってくれたらしい。

 さすがに半日や一日分の行軍距離ならば別働隊も戻ってくるかもしれないと王師が警戒したということなのだろう。

 とはいえ敵としてもロガティア伯をみすみす見殺しにするわけにもいかないだろうし、あまり日を置くことはできなかったということだ。

 ま、これくらいが妥当なところか、とガイネウスは納得する。

 だが別働隊はバルカ隊はじめ騎馬兵主体なのだ、それが通常の歩兵の行軍速度で移動している。二日分の行軍距離であっても、半日もせずにここまで戻ってこられることに敵は気が付いておるまい。

 朝の寒さに冷えた手をり合わせながらガイネウスは舌なめずりをして敵を待ち構えた。


 だがいつまで経っても王師の影ひとつ視界に入らなかった。既に太陽は上がり、川面を覆っていた靄はかなり晴れ上がっているのにだ。

 ぼちぼち飯が炊き上がり、気の早い兵士たちが我先にと腹を満たしていた。

 距離を考えると、いくら視界が悪く行軍速度が遅くても、先陣くらいはすでに到着して陣営地を確保していなければおかしい時間だ。

 そもそも物見は複数出したのだ。少なくとも接触したとの報告くらいはとっくに届いてもいいはず。

「妙だな」

 隣で握り飯を頬張っていたデウカリオがいぶかしげにガイネウスの顔を見る。

「もう一度物見は出したのだな?」

「もちろん。敵を見失わぬように複数です。そろそろ一組くらいは戻ってきてもおかしくないと思うのですが・・・」

 朝早く出立させたにも関わらず、物見からの第二報がなかなか来ない。それが二人に嫌な予感を感じさせていた。

 やきもきとした時間が流れた後、待ち焦がれていた物見がようやく陣営に戻ってきた。

 息を切らせて兵士が本営に入ったとたんに、待ちかねたとばかりにガイネウスは挨拶もかなぐり捨てて、真っ先に何が報告を遅らせたのかを尋ねた。

「どうした、随分遅かったじゃないか?」

 諸国を流浪した苦労人でもあるガイネウスは一兵卒にまで気をかける細やかな心遣いのできる人物である。相手は朝早くから飯も食わずに物見に出され、長い距離を息せき切って駆け抜けたのだ。疲労と口の乾きと空腹で倒れそうである。これが普段であれば、息を整えさせる時間を与え、まず水でも飲ましたであろうが、それを思いつくだけの心理的な余裕すらガイネウスには無かった。

 デウカリオも報告が遅れた理由が気になるのか、食べかけの握り飯を右手に持って、口の中で咀嚼そしゃくを続けながら歩み寄った。

「我らは命を受け、急ぎ北にある渡し場に向かって進みましたが、不思議なことに敵と途中ですれ違うことがありませんでした。しかも渡しでは敵が渡った形跡こそ見られたのですが、付近にその姿が無く我らはすっかり途方に暮れてしまいました。それで四方に散って敵を探したのです。ですから思った以上の時間を費やしてしまいました」

「能書きはいい。見つけたのか? 見つからなかったのか?」

「み、見つけました・・・! て、敵はこちらに向かって進んでおりません! 渡河した後は街道を東へ向かって進軍している模様! おそらくバルカ卿率いる別働隊を襲うつもりかと!」

 その報告を聞きガイネウスは顔を青ざめさせた。

「なんだと!」

 口中から飯粒を吹き飛ばして、血相を変えてデウカリオが立ち上がった。

 王師は全軍を動かした。その数はおおよそ二万五千前後。別働隊は七千しかいないのである。しかも恐らくは敵が追ってくるとは考えていないはず。後方から襲われたらひとたまりも無いだろう。放っておいては全滅するばかりである。

「こうしてはおられぬ」

 何かに気付いたような呆然とした表情を浮かべた後、そう一言呟くとデウカリオは天幕の外へ慌てて出て行く。

「どこへ行かれるデウカリオ殿!」

 ガイネウスの引き止める声も耳に入らないのか、足を止めようともしない。

「デウカリオ殿! デウカリオ殿!」

 ガイネウスがそう声をかけて後を追うが、天幕を出たところで見失ってしまう。とはいえデウカリオの行く場所は見当がついている。デウカリオ自慢の黒色備えの陣営に決まっている。

 ようやくガイネウスは陣前でデウカリオを発見した。デウカリオは既に指揮下の兵に出陣を命じたらしく、馬に鞍を付ける者、鎧を着こむ者、突然の命令に自分の武器がどこに行ったのか分からず、周囲を探し回る者で陣営は混乱の極致に達していた。

 大将であるデウカリオはガイネウスが目を離したこの僅かな時間の間に、既に鎧を着て馬に乗り戦に向かう準備を終えて、兵の数が揃うのを今や遅しと悠然と待ち構えていた。

「デウカリオ殿、そんなに慌てることはない。出撃するにしても全軍揃って押し出すべきだ」

 馬脇に寄ってそう言うガイネウスに一瞥いちべつを一瞬くれただけで、デウカリオは気がはやっているのか、敵がいるであろう北方をただ見つめていた。

「いや。別働隊七千を失えば、河北侵攻も頓挫とんざしてしまう。味方の危機に指をくわえて見ているわけにはいくまい。しかも別働隊を率いるのは、あの関西から来たという若造だ。我々から連絡が来るのを待っているだけで、おそらく後方に注意を払ってもいまい」

「いや、あれはなかなかの人物ですぞ。韮山での活躍はデウカリオ殿の耳にも届いておいででしょう。その心配は無用かと」

「韮山では若さゆえの無鉄砲さが良いほうに転がっただけにすぎぬ」

 デウカリオはカトレウスからバアルのことを頼まれたのである。

 そこには関西の旗印として存在価値があるバアルを、危険な目にはあまり合わせないでくれよといったことが多分に含まれていての頼みだったのだが、デウカリオはそうは受け取らなかった。関西の旗印として価値があるのだから、何が何でも殺すなという意味だと受け取っていた。

 韮山では兵の先頭に立って突撃し、王師を追撃したということは伝わってきたが、同時に敵の伏兵に強襲され、少なくない数の兵を失ったとも聞いていた。戦場における実際のバアルの水際立った見事な指揮のありようなどの話は一切、彼には入ってきていなかった。

 同僚から聞こえてくるのは、先陣を切る猪武者だとか運が良かっただけなどといったネガティブなものばかりだった。カヒの将としての誇りが、バアルを無条件で褒め上げることに抵抗したのだ。ようは嫉妬である。

 その為、デウカリオがバアルのことをあまり大したことのない将軍だと思ったとしても、彼を責める訳にはいかないだろう。

 無能だからこそ御館様直々に自分に頼まれたのだと勘違いしたのだ。

 つまり血筋だけが取りえの良家のボンボンのお守りを押し付けられたと受け取っていたのだ。

 だからこそ考えた結果、敵の主力と交戦する筈の本陣守備に回さず、兵を返すだけでいい別働隊に組み入れたのである。別働隊は背後から敵を襲うだけだ。しかも三翼もカヒの中核部隊を率いていくのだ、将が死亡することなどまずありえない。そう考えたのだ。

 だが別働隊が敵主力と交戦するなら話は別だ。背後から襲われたら凡将ならば容易く首を献じてしまいかねない。

 バアルをここで失っては直々に頼まれた御館様に合わせる顔が無い、そういった気持ちがデウカリオの焦りを幾分増やしていた。

「そなたたちは後から参られよ」

 そう言うと、ガイネウスが止めようとする手を払いのけて、馬腹を蹴って駆け出していった。


 行軍速度もゆるゆると、カヒの別働隊は街道を東へと向かっていた。それはカヒの三翼三千、諸侯四千の混成部隊である。

「そろそろ戻るようにと命令が来てもおかしくないはずだが・・・」

 このままでは敵が兵を動かすよりも早く、別働隊のほうが先にロガティア伯領に達してしまいかねない。

 まさかとは思うが・・・王師が我々の存在に気付いていない可能性もある。もちろん、ほぼありえないことではあるが。

 あるいは大局を見て、なんらかの目的でロガティア伯を見殺しにすることに決めたとか・・・

 だがその理由はバアルの頭脳を持ってしても見出すことができなかった。

「まぁ、いいか」

 バアルは気楽にそう考えた。その場合はこの兵をもって、ロガティア伯を大いに攻めればよいだけだ。

 堅城であるらしいが、落とせぬ城ではないとバアルは見ていた。

 何しろ七千の兵がいるのだ。関西で二万を超える兵を指揮したこともあるバアルには物足りなかったが、今はそれで十分なはずだ。

 鼓関や鹿沢城のような巨大城郭は一地方伯ではとても作れないし、維持もできない。であるならば、攻略に万の兵は必要ないのである。

 と後ろから武者が馬を全速力で駆けさせてバアルのところまでやってくる。

 若い、きりりと引き締まった顔の青年だった。最後尾を守らせていたパッカスだ。彼はじめ、韮山の時に指揮下についた三翼は引き継きバアルの指揮下にある。

「どうした? 何を慌てている?」

 そう言うとバアルは息が上がって声が出せない様子のパッカスに竹でできた水筒を差し出す。

 それを逆さにして、口から水を溢れさせながらおぼれんばかりの勢いでパッカスは水を飲む、いや違う、水を浴びた。

 二、三回、口を動かすとようやくパッカスの口から言葉が発せられる。

「後方に敵兵! 数は数千、いや万はいるかもしれません!」

 バアルはその報告に目を丸く見開いた。

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