第204話 第三次河北征伐(Ⅴ)
河東と河北の間にある
今やその地の支配者はカヒである。カトレウスの信頼厚い四天王の一人デウカリオが守り、上州や河東に対するオーギューガへの動きを牽制していた。
サビニアス率いるカヒの兵六千、河東諸侯の兵一千、さらには客将であるバアルといった芳野制圧軍は制圧した後も本拠には帰らずにここに留まっていた。
もちろんガイネウスの大計に従って河北へと更に兵を進めるためである。
芳野制圧後、一旦は七郷へと首尾を報告しに行ったガイネウスが帰還したことで、彼らは次の行動に向けて動き出した。
彼らは絵地図を前にして顔を突き合わせ、ああでもないこうでもないと作戦を連日練り続けた。
彼らが率いるのは主力部隊ではないが、カヒの精鋭軍の一端である。山を越えて補給と撤兵が困難な河北へ中入りするからには慎重に慎重を重ねる必要があった。
そこへ下座に新たな影が現れ、平伏した。
「ガイネウス様、戻りました」
誰も近づけるなと言っておいたのに、取次ぎや近習はいったい何をしていたのか、と一旦気分を害したガイネウスだがその影の顔を見て顔を
「おお、ガルバ殿か、こちらへこちらへ・・・!」
ガイネウスの口から聞いたことのある名が飛び出したことに驚き、バアルが振り返ると、そこに自分をカヒへと
確かにバアルをカヒへ結びつけるなど、商人以外の行動も見せてはいたが、本職は商人のはず。こんな金儲けなど
バアルの顔に気付いたガルバはにこにこと顔に笑みを浮かべて挨拶をした。
「お久しゅう存じます」
「また妙なところで会うものだ」
「わたしめは戦場のあるところどこにでもかけつけます。そこに金儲けの種が転がっているのですから。今回も物資の調達、兵糧の輸送など、わたくしめがやらせていただくことになっているのでございますよ」
「なるほど・・・」
納得できる理由ではある。
「しかしガイネウス殿とも知り合いだとは」
存外に顔の広い男だ。本当に一介の商人なのだろうか、という疑いを招くほどに。
だがバアルのそんな疑問は直ぐに氷解した。
「いや、そもそもそいつを御館様に紹介したのは私だ。ガルバとは諸国を
「もはやそんなになりますか」
「その頃はそなたは馬一匹の旅商人、私は剣一振りとこの頭しか持っているものが無かった。お互い貧しかった」
ガイネウスは指で自身の自慢の頭を叩いて見せる。
「山賊に襲われて窮地に陥っていた、わたくしを助けていただきました」
「あの頃は若かったから無茶もしたものよ。今となったら我ごときの腕で盗賊五人を相手になど、ようしたものよと怖いくらいだ。命を落とさなかったのは儲けものよ」
「お会いしたのがあの頃でようございました。今ならばお助けいただけないところでした」
「違いない」
二人はその頃のことを思い出したのか、揃って大きな笑い声をあげた。
「今や私は河東から関西まで手を広げる大商人に、ガイネウス様もカヒの軍師へとご出世なさいました」
「よくぞここまで互いに出世したものよ。で、頼んでいた件はどうなっている?」
ガイネウスにそう訊ねられると、ガルバはもう一度平伏して首尾を報告する。
「かつて街道が通っていた道を整備しなおし、幅二間の軍用道路を切り開き、河北へ軍を移動するにも兵糧を送るにも苦労のないようしつらえておきました。また、各地に潜む流賊のほとんどを味方につけることにも成功しました。彼らもカヒの到着を首を長くして待っております」
「河北と言えばニケーア伯はいかがしておる?」
流賊がいくらいようとも王師の足を引っ張るくらいしか期待できないが、ニケーア伯が味方になるかならないかはカヒにとっては大きな問題となりうる。河北でカヒに足掛かりとなりうる土地があるのとないのとでは作戦に大きな違いが出るのだ。
「ザラルセンが降伏し、王師が河北に戻ってきたことに震え上がっておりました」
「であろうな。もとより腰の浮ついた男だ」
「今はカヒの援兵が来ることを心待ちにし、王師に降伏することなく、とにかく和睦交渉を引きのなして日数を稼いでおります」
「あのような非誠実な男にも使いようはあるものだな」
実際はニケーア伯派王師の大軍が河北に戻ってきたことで、小心者の伯はまたも恐慌を起こし、今にも降伏しようとしたところを、ガルバが
ニケーア伯が頼りにならぬと思って、カヒが出兵に慎重になられてはガルバが困るのである。カヒには是非とも王の息の根を止める役割を果たしてもらわねば困るのだ。
「よし、それを聞いたからにはいよいよ出兵せねばならぬな。我らの役目は河北へ侵攻し、王の目を引き付けることにあるのだから」
「デウカリオ殿も河北へ?」
ガルバは絵地図を見て考え込むデウカリオに話しかけた。どうやら四天王の一人デウカリオとも既知の仲であるようだ。
「ああ、御館様にとって一世一代の大勝負だ。オーギューガなどに構っている場合ではない。もちろんワシも参加する」
「それは祝着至極に存知まする。しかしカヒの四天王全て揃っての出兵とは例がございませぬな」
ガイネウスもサビニアスもデウカリオもそう言われて、ちょっと考え込む。オーギューガとの戦、坂東平定戦など大きな戦は数あれど、確かに四天王が揃って戦場を踏んだという記憶は無い。たいがい誰か一人二人は別方面の敵に備えて押さえとして本国に残されるものだ。
「ああ・・・言われてみれば確かに・・・そういうことになるな」
「御館様はじめカヒ四天王揃っての出兵ともなれば、もはや勝利は疑いなきところでございましょう」
「韮山での王師の戦いぶりを見る限り、確かに王師は強兵ではあるが、カヒの騎馬兵の敵ではない。それに戦場の変化に合わせて兵を動かす程度の才覚も無いようだ」
関西を攻め滅ぼした経歴から、天与の人というのはどんな名将であろうかと恐怖したが、韮山でのあの戦いぶりを見るに、基本に忠実ではあるがただそれだけで
「しかし油断は禁物と言えよう」
サビニアスの言葉にそこにいる全ての者が一斉に首肯した。
そう、万全の想定をして相手を討ち破って見せる。どんな敵が相手であろうと油断はしない。
だから勝つ、必ず勝ってみせる。
それはこの場にいる全員の一致した見解だった。
「河北に侵入する我らは朝廷の目を引き付ける囮部隊ではある。だが王の目が河北に向いた時、自ら陣頭指揮に立つことはないかな」
「王が出てきたらいかがする」
「決まっている。首を獲るまでのことよ」
デウカリオは笑って豪胆に言い切った。
王の首を獲るには身柄を押さえなけらばならないし、その前に王師を打ち破らなければならないということなのだが、そのようなことは考慮にも値しない、王師など何ほどでもないと敵を呑む勇壮な気概だった。
デウカリオが王の首を獲れば、朝廷は指揮する者を失い、それでカヒの勝利は確定する。未曽有の大功になることは間違いない。
しかしカトレウスはこの年になっても戦場に赴き、自ら采配を振るう。戦場で戦い、勝利を得ることがカトレウスの楽しみであり、人生そのものであった。
であるからそれはカトレウスの楽しみを奪ってしまうことにはなるが、仕方がないとも考えた。デウカリオはこの世の誰よりもお屋形様を尊敬し敬愛しているが、それと武功とはまた別の話なのである。
「王は畿内に戻ったとの知らせがあります。おそらくは王師の将軍と戦うことになるでしょう」
各地に隊商を抱えるガルバは有斗の動向を正確に掴んでいる。
「なんだ、つまらんな」
「王師きっての名将と目されるエテオクロスがおります。ご油断めされますな」
「そのような者、このデウカリオの敵となるものか。坂東の諸侯のほうがまだしも骨があろうよ」
ガルバが王に従って数々の勝ち戦を戦い抜いたエテオクロスの名を出してもデウカリオは笑い飛ばした。
ひととおり挨拶をすませると、ガルバはその場を退席した。
できるものならその場に残り、彼らの会議を聞き届けたいところではある。情報は多いに越したことはない
カヒの河北侵攻がどういう手順と目論見で行われるかは興味があるところだったが、あそこには明敏な目を持つ人物が四人もいる。一介の商人が軍事機密を聞きたがりなどしたら怪しまれる。
今後のことを考えると疑いを招くような行動は慎むべきであろう。
それにしても韮山での王師と王の戦いぶりには興醒めだった、とガルバは思う。
王が関西を併合したことに慌てふためいたのが嘘のようだった。負けるにしてももう少し頑張ってくれると思っていた。
自分たちは少しばかりカヒに肩入れしすぎたかとまで思うくらいだった。
ガルバたちの望みは今しばらくの戦国の世の継続。一番都合がいいのは王とカヒが泥沼の消耗戦を繰り広げることだ。今までのように王に躍進されても、カヒが天下取りに
だが天下人が出現するのが避けられぬ運命だとするならば、カトレウスに天下を取らせるのも悪くない。
確かにカヒはカトレウスの下に一丸となってまとまっている。
その体制は今の王よりも頑強で、一見するとガルバらの望みには繋がらないとも思える。
だがカトレウスは老齢だ。天下を手に入れても十年もたたぬうちにくたばるであろう。
その後はどうなる?
カトレウスは嫡男をオーギューガとの戦で亡くしている。後継者はまだ幼い嫡孫か、不出来な次男か、文才を知られる三男か、お気に入りの五男か。それぞれの後ろにはそれぞれに有力家臣が控え、権力争いは深く静かに進行している。誰が当主になろうとも不満は出るだろう。
それにカトレウスという偉大な存在がいなくなれば、カヒに頭を押さえつけられている各諸侯も
関西を復興したいバルカもその争いに付込んでくるであろう。
再び大乱の時が始まる。
今のあの年若い王が天下を統一するよりも望ましい結果だ。
それに・・・異世界から来ただけあって、王にはガルバが今まで接してきた男たちとは何か違うものを感じるのだ。
そのことに気づいているのはガルバだけかもしれない。
反乱を起こし命を狙った者を許したり、信を持って世界を平安にするなどと言ってみたり、とにかく今までガルバが見てきた中で類例のいない人物、それが王だった。
戦国の世に無いものを持っているということなのであろう。それがガルバには不気味なのだ。
他人を欺き、他人を踏みつけ、他人からいかにして欲しい物を奪いとることを考える、それが人間の本質だというガルバの考えを根底から否定するような感覚、それがたまらなく嫌だったのだ。
つまり不快なことに、王よりもカヒのほうが我々の野望にとって都合が良いといった理知からではなく、単なる人間的な感情で俺は王を嫌っているということだ。
それが分かるだけにますますガルバは王を嫌いになった。この始末の悪い感情を脳内から放逐するには王をこの世界から消すしかない。
そう考えれば、今度こそ王を逃がさぬことが肝要となろう。戦場でか王都でか・・・とにかく確実に始末することを考えなければならない。
ならば畿内の担当であるあいつとも連絡を取らねばならないだろうな、ガルバはそう考え直した。
あいつは口にこそ出さないが、王を直ぐに殺すことには反対であると思われる。そうでなければ一度失敗したことがあるとはいえ、王を未だ殺さぬ理由が分からない。つまり王に天下を取らせてから、そこで殺すことを考えているのだろう。
王には親類縁者がいない。誰が後継者になっても納得しない者が多いであろう。きっと大乱が起きる。それを狙っているに違いない。
だが奴も頭越しに事が行われたらいい気もしまい。少しは奴の顔を立ててやらねばならぬ。それがガルバの考える組織の振り合いというものだった。
それにあいつを支持する穏健派は数多い。奴を実力で排除するよりは、奴と手を組んでその勢力を取り込むほうが組織で登りつめるのには有効であろう。
史書に明確に残っていないので確かなことは言えないが、前後の状況から判断して、カトレウスが河北へ兵を入れるようガイネウスに指示したのは十月七日のことであったと言われる。
ガイネウスを総指揮官に、デウカリオ、サビニアス、客将のバアルがその補佐につくという形で軍は構成された。
とはいえ累代の重臣の家の出であり、名高いカヒの四天王の一人でもあるデウカリオに対して、ガイネウスもサビニアスも外様衆だ。その意向を疎かにできるはずは無い。客将のバアルもしかり、である。実質上の主将はデウカリオなのは誰の目にも明らかだ。
それにカヒが軍を分ける時、まずは誰を差し置いてもデウカリオが別働隊の指揮官に任じられる。それだけの将器だった。
だがデウカリオは気性が激しいことで知られ、時にカトレウスにすら噛み付くことのある荒々しい武将だ。
今度の出兵は天下取りの一環なのである。いつものように反抗した者を問答無用に虐殺するといった、やり過ぎを起こすと、民の反発を招きかねない。
今後を考えるとそういった下手を打つことは避けるべきだ。ひとつのことがきっかけで大きな問題になるかもしれない。民の心を掴まずして天下など手中にできやしないのだ。
そこでカトレウスの片目と言われるガイネウスを上に置き、調略の名手であり、人間関係の達人と言われるサビニアスを補佐としてつけることで、暴走を食い止めるといった思惑もあるに違いない。二人とも苦労人だ。人あしらいは上手い。デウカリオをおだて
彼らが率いる兵は二十四翼とはいえ、デウカリオの黒色備えを除けば祖父の代以降の外様の兵ばかり。どちらかというと二軍、いや三軍といった面子である。
所詮、河北に敵の目を惹きつける陽動隊、主戦力ではないという位置づけだ。諸侯の兵の割合が大きいこともそれを裏付けている。
二十四翼の内の五翼、その数六千、河東と芳野の諸侯の兵が一万一千、傭兵隊が三千、総計二万の兵は赤崩峠を越え、芳野から河北へ入った。
その噂はすぐに風に乗って河北一帯を駆け巡った。
河北に入ると、一旦河東へと逃げ延び、その後カヒの後援を得て舞い戻り、荒らしまわっていた流賊が次々と味方に駆けつけてきた。
彼らにはカヒが天下を取った暁にはいずれ諸侯になどと、甘い言葉を散々吹き込んである。
流賊だけでなく、この機会に一旗上げようと考える山っ気のある者たちも次々と馳せ参じてくる。
これで兵は二万五千を超えた。
さらにはカヒの求めに応じ、先んじて叛旗を翻したニケーア伯だけでなく、未だ朝廷に恭順な態度を示している諸侯からも次々と密書が舞い込んでくる。
どの諸侯も、進んでカヒにお味方したいといった、
どうやら韮山でのカヒ大勝の報に諸侯の王に対する忠誠心は
デウカリオも久々の外征の指揮官ということもあり機嫌も良い。ガルバがしつらえた峠越えの道も立派なものだった。補給の心配も、いざとなった時の退路の心配もせずにすむだろう。これら全てが、カヒにとって実に幸先のいいことであると彼らには思えた。
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