第132話 眩く輝く理想(もの)

 ・・・・・・・・・

 アエネアスはカップ三つとティーポッドを入れた盆を持ったまま、入り口の横の壁に静かにもたれて顔を赤く染めていた。

 秘めひめごとを覗くつもりはなかった。戻ってきた時、アリアボネが抱きついているのが見えて、入るのをためらっていただけだ。

 でも意外だと思った。

 陛下にもいいところもたくさんある。

 でもアリアボネは南洋の名花とうたわれたほどの美人だ。頭脳も性格も群を抜いている。

 自分に甘いアエネアスが見ても、健康と剣術以外どこをとっても勝てる見込みがないとまで言わしめる人物だった。関東随一の美女である。結核さえ無ければ誰もが彼女と結婚したがるだろう。

 アエネアスはアエティウスが好きだった。結婚できるとは思わなかったけど、並みの女性がアエティウスと添い遂げるのはきっと我慢できなかったろう。

 でもアリアボネなら・・・きっと心の底から祝福できる。同性から見ても、完璧なひとなのだ。

 人の好みにあれこれ言うのは余計なお世話なんだろうけど、有斗とアリアボネではちょっと釣り合いがとれないようにアエネアスは感じた。


 そろりと廊下を戻り、わざと大きく足音を立てて、アエネアスは寝室に戻る。

「お待たせ!」

 大きな声で元気よく、到着をわざわざアピールする。

 入ったときに二人が抱き合っていたりでもしたら、気まずいなんてものじゃない。

 幸い、その作戦は成功したのか、二人とも出て行ったときのように離れて座っていた。

 だがその二人が目の前で繰り広げる会話は少しばかりわざとらしく、余所余所しく平静を取り繕っているように見えて、事情を知っているアエネアスとしては笑いをこらえるのに必死だった。

 アエネアスが入れた紅茶を飲みながら三人で会話していると、突然有斗が立ち上がった。

「アリアボネ、借りていい?」

 有斗の目的語を省いたその言葉にアリアボネは要点がつかめず首を傾げて問い返す。

「・・・? その、何をでしょうか?」

かわやへ行きたいんだけど・・・」

「あ、はい。どうぞ」

 予想外の質問にアリアボネが返した返答はそれだけだった。あの理知的なアリアボネが、である。

 たぶん足音を立ててアエネアスが戻ってきたのに気付き、二人とも急いで距離をとったのだろう。

 まだ動揺しているんだろうな、と思えば自然と笑みもこぼれる。

 だけどそれだけでは、はじめて来た有斗が場所がわからず困るだろう、とアエネアスが笑いながら補った。

「厠なら左の廊下の奥の突き当たりだよ。怖いのなら付いていくけど」

「・・・子供じゃないぞ。一人で大丈夫だ」

「あはは」

 笑うアエネアスは屈託がなかった。

 そのアエネアスを見て、有斗は何故か複雑な気持ちだった。

 アエネアスにさっきのことは見られてはないけれども、その・・・なんか気まずい・・・

 別に他人に恥じる行為はしていないのだが、何故か有斗はそう感じた。

 いったん席をはずして気持ちを仕切りなおそう、と有斗は廊下を歩き、厠へ向かった。


「見てたの!?」

 アエネアスの告白にアリアボネはみるみる顔を赤くした。

「ご、ごめん。そういうつもりじゃなかったんだけど。入ろうとしたらアリアボネが、その・・・陛下に抱きついちゃっていたからさ。むしろ入っちゃったほうが気まずいじゃない?」

「やだ・・・恥ずかしい・・・」

 アリアボネは真っ赤になった頬を両手のひらで冷やすかのように隠した。

「・・・それにしても意外」

 アエネアスは心底不思議だという顔をした。

「なにが?」

「アリアボネは私なんかよりずっともてるのに、なにを好き好んで陛下を選ぶの?」

「あいかわらず酷いですね。陛下はまがりなりにも我等の陛下ですよ」

「でも陛下に優しいとこと王であるということ以外に、何かいいところってある?」

 王だとかそういった外装を外した時に、有斗とアリアボネでは釣り合いが取れないとアエネアスなどは思う。アエティウスみたいに何か一つをとってみても人より優れている男ならともかく、アリアボネがよりによって選んだ人が有斗であることが、アエネアスにはとても不可思議なことに思えた。

「確かに陛下は同じことを何回教えても理解してくれないことが多いし、大事な話をしてる最中に、珍しく集中して聞いてるなと思ったら、寝てるか私の胸元をじっと見てるだけだったりするし、顔もまぁ・・・どこにでもいる並程度のうえ、運動神経もよいほうとはお世辞にもいいかねますし、何か難しい事態にぶちあたると私やアエティウス殿といった他の人にすぐに投げ出してばかり、あまりご自分で考えようとはしない、王としても問題のあるお方です」

「・・・・・・本当に好きなの?」

 アリアボネのそのとげのある言葉に、アエネアスのほうがびっくりして立ち上がってしまった。アエネアスだってそこまで悪し様に有斗を全否定はしない。

「だからですよ」

 しかしアエネアスの方が、いつも有斗のことを悪し様に言っていることを考えると、この反応をすること自体がおかしいのだが、言っている当の本人は、そのことはちらとも思い浮かばないようである。

 だから呆れた顔を見せるアエネアスにアリアボネはクスクスと可愛い笑い声をあげた。

「そんな並の人物の陛下が天下平定という難事に挑む。誰がどう見ても無茶です。ところが陛下はここまでそれを成し遂げてきた。それは何故か?」

「それは・・・、アリアボネや兄様をはじめ皆が助けたからに決まってるよ」

「その通り」

 そう言ってまたクスクス笑った。

「誰が考えても不可能だと思う。そのあまりの無謀さが故に誰もが陛下を支えたいと思うの。違って?」

「支えたい・・・というより、兄様の場合、駄目だ、コイツ。支えなければ、っていう感じだったんじゃないかなぁ」

「そう、すなわち陛下は誰に対しても『この人を助けてあげないといけない』と思わせることが出来る人なのです。誰にでも居場所を与えてくれるのです。そう、それこそ私のような、半分棺桶に片足を入れているような病持ちでもね」

 人という生き物には外からどんなに卑屈に見えても、誇りというものが生きていくにはかかせない。他人に尊敬されたいがゆえ、弱点をさらけ出すことを嫌うものだ。だから、今現在置かれている苦境や逆境をありのままに他人にさらけ出すということは、実はなかなかに難しい。

 そうは言っても、弱音や愚痴など普通の生活でも始終聞くではないかと言うかもしれない。

 だがそれは相手から慰めや助力を求める為の計算が入っている。その言葉は往々にして、自分に都合のいいように事実を捻じ曲げ、真実を隠蔽いんぺいしがちだ。

 それが人の心を根底から大きく動かすことができるかといったら否定せざるをえないだろう。

 だからありのままに自分の状況を、打算も計算も無く表すことができるから有斗は、様々な人から助力を得る事が出来るのだ。これは相当に凄いことだとアリアボネなどは思うのである。

「陛下は空、なにもない。だがその空は常人が持ち得る心の大きさを遥かに上回る大きさなのです。だからあらゆる人々の有為をその空の中に取り込み、前人未到の偉業をこの世に現出させることが出来るの。成し遂げるのはアエティウス殿や私、王を支える全ての人です。一見すると、それは陛下が不要であるかのように見える。だが陛下がいなければそれは決して成し遂げられない、画餅がへいにすぎません。何故なら陛下がいることで我々は一つにまとまることができるのですから。どんな泳ぎの達人であっても、遥か遠くの海の向こうに泳いで渡ることはできません。だが大船に乗るのなら人はどこへだって行ける。我々は陛下と言う大船に乗る一人一人の乗組員になって、乱世と言う荒波を越え、遥かかなたにある偃武えんぶという名の幻の島に辿り着くことができる」

 有斗について語るアリアボネの目はキラキラと輝いていた。

 アエネアスはその輝きをかつて見たことがある。

 科挙を受けに行くと言った時のアリアボネの瞳に、夢を語る若き日のアエティウスの瞳に、そして昔、いつかアエティウスと結ばれることがあるかもしれないと信じていた少女の頃の自分の瞳に。

 自身の瞳が輝いていたことすら、いつの間にか忘れていたことにアエネアスは小さく動揺した。

「きっとこの乱世を終らせるのは陛下のような存在。私はそう確信しているの」

「・・・でもああいう、大言壮語を吐いて自身を実際より大きく見せようとする小人は世の中にいっぱいいるよ。そいつらとは陛下はどこが違うの?」

さかしい人は自分の限界を知ります。よって分不相応ぶんふそうおうな大志を元から抱きません。愚かな者は限界を知らぬがゆえ、不相応な大志を抱きます。それこそ誰もが思いつかないようなものでもね。確かに一見陛下は後者に思えるかもしれない。だけど真に愚かな者は困難にぶちあたるとすぐにそこから逃げ、大志を捨てるという道を選ぶものです。同じ志望を抱き続けることのなんと困難なことか!」

 そう、かつて朝廷で功名を立て、竹帛ちくはく垂名すいめいすることを願い、だがその夢を結核という病で捨てざるを得なかったアリアボネには、痛いほどそれがどんなに困難なことか分かるのだ。

「でも陛下は違う。数多の苦難に逢い、臣下に裏切られ、大事な人を亡くしても、もう一度、同じ夢を同じ高さで見上げることができる。この世の汚さを泥を舐めるように味わったのに、それでも綺麗にまばゆく輝く理想ものを心の底から信じていられる。そんな人がこの世に、いえ、アメイジアの長い歴史の中で他にいて?」

「・・・」

「だからこそ陛下は天授のひと、唯一無二の特別なひとなのです」

 そう言うアリアボネの顔は輝くようだった。

 兄様アエティウスを亡くしたアエネアスには、その表情はきっともう二度とすることのできない表情のような気がして悲しかった。

 そしてまだ、そんな表情ができる彼女を羨ましい、と心の底から思った。

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