第131話 そのひとの望むもの(下)

「え・・・アリアボネ・・・!?」

 有斗は突然見せたアリアボネの不可解な行動に困惑した。

「誰も見ておりません」

「そ・・・その・・・これは一体???」

 褒美の話をしたら、アリアボネに抱擁されるという結果は明らかに有斗の想像の範囲外の事態だった。

「陛下ができることならとおっしゃったではありませんか?」

「で、でも、なんで・・・こんな・・・??」

「褒美を下さるといったではありませんか」

 顔を上げたアリアボネはもう有斗の息がかかるほどの距離だった。

 病のせいで白磁のような肌に紅を差してないのにうっすらとピンク色の唇、それが有斗の顔のすぐ真下にあった。有斗はおもわず生唾を飲み込む。

 え・・・? これが? これではむしろ僕がご褒美をいただいているようなものじゃないか?

 混乱する有斗を見てアリアボネはクスリと笑い、話を続けた。

「こう見えましても私、昔はもてたのですよ」

 今でももてると思うけどなぁ・・・たぶんアリアボネに憧れを抱いている官吏は十や二十じゃきかないと思うぞ。アリアボネに匹敵する美人は宮廷広しといえど、あの王女様くらいだからな。

「少しばかり頭が良くて、器量がいいからって、それを鼻にかけていましたね。私は嫌味な女だった」

 すこしどころかとても頭が良いし、とても・・・いや、かなり器量が良いと思う。だいたいアリアボネは嫌味なところなんかまるでない。

「当時の私は内心では同僚や上司を見下していました。汲々きゅうきゅうと日々の仕事をするだけの宮廷の歯車、いてもいなくても変わらぬ存在だとね。日々の雑務を彼らに押し付け、私にしかできない難事と思った仕事だけを選んでやっていました。私は特別な人間だ、私がこの宮廷を動かしているんだと思い上がっていました。実際は彼らのような人たちもいるから宮廷はうまく回っていけるのですけれどもね。それすら見えなかった。チヤホヤしてくれる取り巻きだって何人もいて、それを装飾品かなにかのように他人に見せ付け、引き連れて歩いてました。私は出世街道を歩いていた。末は亜相か大臣か、将来は薔薇色。男だって選び放題。私は得意だったのです」

 それは初めて聞くアリアボネの姿。今のアリアボネからは想像つかない。

 今のアリアボネはだれであろうと優しく、相手の立場に立って理解しようとする人なのに。

「まったく・・・なんて高慢な女だったんでしょうね。だが突然ある日、吐血して・・・労咳だと診察されました。天国から地獄。全てが崩れ落ちました。私は宮廷の中心から閑職へと追いやられました。同僚ももともと煙たがっていたのでしょうね・・・今までよく話して友達と思っていた者も、私に素っ気無くなりました。取り巻きも、一人また一人と距離を置きだしました」

 アリアボネは、さも汚らわしいことを思い出しているかのように眉をひそめた。

「『もともと出世のためにお前に近づいたんだ』『結核は長くは持たない。お前が出世することはもうない』『お前の利用価値はもうないんだよ』『お前はいい女だったぜ。でも病気をうつされて死ぬのは御免だからな』・・・いろいろ言われましたね」

 言われた時のことを思い出したのかアリアボネの目は悲しみをたたえていた。

「気がつくと私は一人になっていた。もはや私に話しかけるものはほとんどいなかった。私はその時、人間は醜いと思いました。・・・いいえ、違いますね」

 アリアボネは視線を下に向けてかすれんばかりの声で行った。

「類は友を呼ぶといいます。あのころの最低な私には、ああいった下衆なやつらがお似合いだったのです」

 そう、自嘲気味にアリアボネは悲しく呟いた。

「だから南部に・・・?」

 アリアボネも絶望の中で南部に来たんだ・・・そう、まるであの時の有斗と同じように。

「ええ。アエネアスとは南部の同じ私塾出身で仲が良かっただけでなく、同期でしたし。帰ってきて良かった。嬉しかったな・・・アエネアスだけは以前と変わらず接してくれた」

 ・・・アエネアスは王であってもあまり敬意を表さないところが、周囲から見ると白眼視されるところでもあるが、相手の社会的対場によってその態度を変えないというのは美点でもある。きっとその時のアリアボネには何よりもの慰めとなったであろうことは想像に難くない。

「でも私は失意の中にいました。鏡を見れば、まだ私は美しく見えましたし、思考だって以前と変わらず明瞭。まだ私は終っていない。やれるはず。生きる価値のある女だ・・・と。でも労咳の女など誰一人相手にするはずはない。頭脳はそう言いきかせるのです」

 アエネアスはその当時のことを思い出したのか、悲しみを湛えた遠い目をしていた。

「でもあの日、陛下が南部に現れたと聞いて・・・私の心はざわめきました」

 不思議そうな表情を浮かべる有斗を見て、くすりと小さく笑い、なぜなら、とアリアボネは言葉を続けた。

「陛下は新法改革に失敗し、王都を追われただ一人の身。ならば一人でも味方は欲しいはず。私のような労咳におかされた身でも必要とされるかもしれない・・・と」

「いつも冷静に考えられるんだね、感心するよ」

 有斗はセルノアを失った後、しばらくは慙愧ざんきの念で後ろ向きのこと以外は何も考えられなかった。南部に来たのは、ただ単にセルノアが考えてくれたことだから実行したに過ぎない。もしモノウでアリスディアに出会わなければ、きっと有斗は何もできなかっただろう。今頃は死んでいたかもしれない。

 それに比べると、そんな絶望で目の前が暗がりで閉ざされるような状況に追い込まれても、進むべき道を探し、目標を持って行動できるアリアボネは実にすごい。

 だけど有斗のその言葉は皮肉に聞こえたらしい。

「そう、私は良くも悪くも直ぐに損得を判断してしまう、そういう業の深い女なのです。・・・幻滅しましたか・・・?」

 目を伏せると悲しげにそう言った。

 有斗は慌てて打ち消しにはいる。

「まさか!」

「・・・とはいえ正直言いますと半分諦めてもいたんですよ」

 何故と問い返す有斗にアリアボネは、労咳の女に近侍を許すなんて普通の王ではありえないことです、と笑って答えた。

「でも陛下は私に会ってくださった。私の策を取りあげてくださった。私に働き場所を与えてくださった。・・・感謝しても感謝しきれない。陛下は今の私の全てです」

 そう言って有斗を見上げるアリアボネの目には憧憬の色で大きく彩られていた。

「それに・・・人は利益や快楽のためなら他人をいくら傷つけようとも平気な生き物です。それなのに陛下は・・・陛下ほど快楽や利益を見ずに、理想だけを見上げ、苦難の道を選ばれたお人を私は知りません」

「それは買いかぶりすぎだよ。僕は君が言うほど高潔な人間じゃないよ」

 耳障りのいい言葉を言う人を妄信的に信頼し、否定されるような言葉が投げつけられると、それが正しいかどうかで判断することなく、その者を悪人と決め付けることで批判すら聞き耳を持たず、あげく反乱を起こされたうえ、最後にはセルノアを見捨てて逃げ出すような男、それが有斗の知っている自分だった。

 だがそんな苦しみを知ってか知らずか、アリアボネは有斗を肯定し続ける。

「そんなことはありません。もし私が今、誰かのせいで陛下を失ったとしたら、私はその者を決して許さないでしょう。例えどんなことをしてでも、その者の命を必ず奪います。例えその人が陛下のような天与の人で、殺せば世界が破滅する・・・そのような聖人であっても、躊躇ちゅうちょはしません。財産も身体も地位も名誉も全てを犠牲にしても、どんな汚い手段であろうとも、私の命と引き換えであっても、必ず・・・!」

 アリアボネに似つかわしくないほどの激情に有斗は驚きを隠せない。

 それが自身に関わることで、なおびっくりした。

 アリアボネにそこまで想われているなど想像すらしていなかった。

 どちらかというと感情で動きがちな有斗に、理を説き行動を正そうとするその姿からは、王としての未熟な自分に、内心苛立つところがあるのではないかとすら思っていた。


 だがちょっとアリアボネの言葉の中に気になる言葉があった。

「え・・・!?」

 驚いて目を丸くする有斗をアリアボネは不思議そうに見上げる。

「・・・どうなさいました?」

「ちょっとおかしくない?」

「なにがですか?」

「だってアリアボネは国を考えて、ラヴィーニアや関西の王女を助命して欲しいと言った。私情で殺すなと言ったじゃないか。だとしたらアリアボネだって相手が天与の人なら、たとえ誰が殺されても、復讐を考えてはいけないんじゃない?」

 理屈上ではそうなるんじゃないのか・・・?

「陛下の望みは、セルノアさんが望んだような天授の人として王になること。ですから、天下を手に入れる為には殺すことが許されぬこともあるでしょう。ですが私の望みは、陛下をセルノアさんが望んだような天授の人としての王にすることなのです。私の望みを叶えることができるのは、陛下だけなのです。例え天与の人であっても、陛下でないのなら私の願いは叶えられません。ならば陛下を亡くした私がその仇を討っても、なんら矛盾はないでしょう。それにもちろんその後に私は法の裁きを受けることになるでしょうし・・・。立場だけでなく目的も違えば、当然選ぶべき手段は違うということになります」

 適当にいいくるめられている気がして、どこか納得できないものを感じた有斗は首を捻った。

「・・・納得できないなぁ・・・」

 それを見たアリアボネは再び小さくクスクスと可愛い笑い声をあげた。

「でも、納得できなくても許してくださる度量をお持ちです・・・私が陛下にとうてい及ばないと思うのはそこです。セルノアさんを亡くしたのに、ラヴィを許して下さった。怒りを押し殺し、天下国家のためにとラヴィを生かす道を選択してくださった」

 王は誰にも命じられることがない。王が望めばいかなる命をも下すことができる。だから本来ならば反乱を起こし、想い人を殺す原因となったラヴィーニアなど、誰がなんと言おうと感情のまま処刑してしまうのが筋なのだ。

 だが有斗はアリアボネの言葉を聞き入れ、それをしなかった。それだけでも千人に一人、いや万人に一人の人物といっていい。

「私なんかとは人間が違います・・・召喚の儀が選んだまさに天与の人です」

 だから、とアリアボネは目を閉じ有斗の胸に再び顔を埋めた。

「だからしばらくこうさせてください・・・私なんか陛下がお相手なさることはないと承知していますけど・・・」

「そんなことないよ。アリアボネは美人で性格が良くって、僕が知ってる女性の中でも一、二を争う女性だよ・・・アリアボネを拒否するような男がいたら、僕がぶんなぐってやる」

 その言葉に、アリアボネは目を大きく見開いて有斗を見、頬を赤く染めた。

「・・・本気にしてしまいそうになります」

 しかしアリアボネはそう言うと、抱きしめていた両手を離した。

「でも違う・・・陛下の心にはまだセルノアさんがいるのでしょう・・・?」

 そして悲しそうに笑い、目線を逸らす。

「私が入り込む隙間はない」

「それは・・・」

 違うとは言えなかった。言えばアリアボネは喜んでくれるかもしれない。でもそれはセルノアを有斗の心の中から追い出してしまうことと同義だった。そんなことはできない。できるはずもない。今でも有斗はセルノアにすまないという思いで一杯なのだ。

「悔しい・・・! そしてうらやましい・・・! どうして私がこうなってしまう前に、陛下はおいでくださらなかったのか! どうして私はセルノアさんより前に出会えなかったのだろう! そうすれば・・・きっと!」

「・・・・・・」

 有斗はアリアボネにかけるべき言葉が見当たらなかった。

「言ってもせん無きことでしたね」

 ひざの上に置かれた有斗の手に、重なるようにアリアボネの細く柔らかな手がそっと触れた。

「私は近く死ぬでしょう・・・でも最後の血の一滴、魂が砕かれる最後の一瞬まで私は陛下の御為に働きます」

 アリアボネはそっと顔を上げ、有斗の目をのぞき込んだ。

「ですから・・・いつか陛下が乱世を終らせ、アメイジアに平和を取り戻したその日に思い出してください、私という女がいたことを」

 そして緩やかに笑みを作る。

「それこそが私が望む褒美すべてです」

 アリアボネのその笑みはまるで聖女のような輝きを得て輝くよう。

 それは全てを諦めた者だけが持つ澄みきった笑みだった。

「なんでそんなこと言うんだよ」

 有斗はうつむいた。

「そんな悲しいこと言うなよ」

 頬に熱いものが流れ落ちる。いつのまにか有斗は泣いていたのだ。

「君は助かる・・・きっと助けてみせる・・・!」


「陛下・・・泣いておられるので?」

 彼女の指がそっと有斗の頬を流れ落ちる涙滴を拭った。

「泣かないでください。私のために」

 泣くなと言うそのアリアボネの声も涙で曇っていた。

「・・・私のためだけに陛下のようなお方が涙を流してくださる・・・このアリアボネ、それだけで満たされます。生きてきてよかった、生まれてきてよかった・・・そう思えます」

「アリアボネ・・・」

「約束いたします。アリアボネは決して死にませぬ・・・肉体は野辺に朽ち果て土灰どかいとなろうとも、魂をこの世に留めて、きっと」

 そう言ってアリアボネは瞳の端に涙を輝かせながらも、何故か幸せに満ち足りた笑みを浮かべた。

「陛下の天下一統に最後までお供いたします」

 ・・・たぶん、この時の笑顔以上のものを、僕は死ぬまで二度と再び見ることはできないだろう・・・有斗はその笑顔を見て深くそう感じた。

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