第106話 長征(ⅩⅨ)

 西京の市民たちは自分たちの家のすぐ先で戦闘が行われているにも関わらず、その時までは通常の生活をおくっていた。

 なにせ関東よりも関西のほうが兵の数が多い。それに万が一敗北したとしても、西京にはこの高い城壁がある。それになにより彼らの女王様はサキノーフ様から続く由緒正しき王である。関東の胡散臭い王に負けるなどありえないと思っていた。

 最初は北の城門に接している地区の住人がそれを目撃した。

 懸命に城門を閉めようとする門番たち、明らかに敗走しているとしか思えない、武器も旗もなにもかも投げ捨てて西京内に駆け込む関西兵、そしてその後から血のついた武器を片手に彼らを狩る関東の兵。

 この後はお決まりの略奪と暴力、そして破壊だろう。いや、なによりも考えなければいけないのは、自分たちの命を守ることだ。財産はなくなっても人生をやり直すことができるが、命を失ったらそれで終わりだ。

 兵を見て、誰かが大声で悲鳴を上げると、それを合図にクモの子を散らすように民は四散する。

 やがて西京内に土ぼこりが舞い上がり、喚声が響き渡ると、まだ敵兵の姿を見ぬ民たちもだんだん何が起きたのか薄々感づき始めた。市民たちはとにかく南へ、または東へと逃げ惑った。

 子供や家族だけを連れて逃げようとするものもいれば、大八車に金目のものを慌てて積み込むものもいる。西京中の街路と言う街路は人で埋め尽くされた。

 歴史上初めて、西京内で戦闘が行われることになった。

 心ある者は歴史ある西京が兵火に晒されることを嘆いた。関西は戦国ではなかった。貴重な文化財や文献は多くを失った関東に比べると数限りなくある。それが灰燼かいじんと化すかもしれない。


 王城で、勝利の知らせを祈るような想いで待っていたセルウィリアの元に入った第一報は敗北の知らせだった。セルウィリアは頭の中で大蛇がのた打ち回るような感覚に襲われ、意識を失いそうになった。

 将軍たちも大臣公卿も揃って言ったではないか。関東軍は長旅で疲れはて、慣れぬ敵地に怯えている。しかるに関西軍は疲れておらず、なおかつ侵略者に対する敵意で士気は極めて高い。必ずや勝利すると彼女に言ったのだ。

 追い討ちをかけるように次々と告げられる報告はさらに悲惨だった。

「ペイトン上将軍、討ち死に!」

「パウサニアス将軍とプレイストアナクス将軍は行方不明、リュサンドロス将軍は重傷を負ったとのこと」

「王師は三師とも潰走し敵に追撃を受けている模様、やっとのことで西京に逃げ込んだようです」

 セルウィリアは更に困惑した。将軍がいなければ、王師に命令することも出来ない。いったいどうやってこの苦境を打破できるというのだろう。

「お・・・王師の兵が敗れても、関西にはわたくしに味方する多くの諸侯がおります。その方々はどうなりましたか?」

 そうだ関東の侵略に立ち上がってくれた四万もの諸侯がいるではないか。彼らと共にこの西京を守り抜けば、その先にきっと光明が見えるはず・・・!

 だが彼女に突きつけられたのはまたも辛い現実だった。

「諸侯の兵は四散! 諸侯は戦場を離れて、自領に帰還した模様です」

「そんな・・・! わたくしを見捨ててですか!?」

 王師は敗れ去り、諸侯の軍も帰還した。それは西京にある軍事力のほとんど全てを失うことを意味した。

「敵軍はすでに西京に侵入したとのことです。このままでは王城も攻められることでしょう」

「王女陛下、ご指示を!」

 だがセルウィリアは側近の顔に定まらない視線を送り、おろおろと困惑するだけだった。

 こういった非常時に、セルウィリアのような確固とした主体性を持たない、世間知らずのお姫様はどうしたらよいのかまったく考え付かなかった。しかもこういうときこそ彼女をサポートするべき朝臣も傍にいなかった。

 助けを求めるようにセルウィリアは少しでも彼女の役に立ちそうな人物の名を立て続けに上げて、呼びつけようとする。

「全ての大臣をここへ・・・! それから、う・・・羽林大将軍を直ちに呼びなさい! それと金吾大将軍もです・・・! 早く!」

 彼女は政務どころか王に属する兵の動かし方も知らなかった。彼女が尚書令を通じて命令すれば羽林も金吾もすぐに命令に従ったのではあるが、彼女は生まれてこの方、そんなことはしたことがなかったから、そのことを知識として持っていなかった。

 また、そんなことをしたいと思ったこともなかったから、知ろうとする行為すら思いつきもしなかったのである。だからいつものように大臣や将軍を呼んで、彼らに全てを投げ出して、善処してもらおうとしたのだ。

 先祖代々続いてきたこの関西の王という面白くもない職を、彼女の子孫へと受け継がせることだけを考えて、臣下の顔色を見ながら気楽にやればいい、と彼女はそう父から教わったのだ。

 親から受け継いだこの仕事が、こんな難事に対応しなければいけない、危険な仕事であると知らなかった。それが素直な感想だった。彼女は詐欺にあったような気分だった。

「だめです。すでに王城の中は大混乱しております! どこに誰がおられるのかまったく・・・」

 そんな・・・、とセルウィリアは頭がまた真っ白になった。頼るべき家臣なしには彼女には何も出来ないのだ。

「ど・・・どうすれば・・・いいのかしら」

「・・・」

 だが誰も彼女に具申する人はいない。誰もセルウィリアに助けの手を差し伸べてくれやしなかった。

「敵の手にかかるくらいなら、いっそ・・・」

 そう言うと侍女が金属製の茶差しをそっと王女の前の机に置いた。王女はそれを見てさっと蒼ざめる。

 それが何かを言われなくても瞬間的に理解した。自決用の毒が入っているのだ。

 だが侍従が侍女とセルウィリアの間に割って入り、それを払いのけた。

「馬鹿な! 由緒あるサキノーフ様の血が絶えてしまう! 諦めるのはまだ早い!」

 まったくその通りだった。つまらない王という仕事、つまらない日常。彼女はそれに飽き飽きしていた。

 でもだからと言って、この若さで死ぬなどということは冗談ではない。まだまだ、きっと・・・まだやり残したことが一杯あるはずだ・・・!

「そ、そうね。そうだ・・・! バ、バアルに相談します・・・! バアルならわたくしを助けて・・・!」

 とっさにバアルのことを思い浮かべた。

 そう、バアルなら最後までわたくしに味方してくれるはず・・・今までもそうだったもの。そしてこれからも、ずっと・・・

 だが侍従たちはいつもと違い怖い顔で、その逃げるような考えの王女に現実を突きつける。

「バルカ卿は壷関です! ここにはおりませぬぞ!」

「な、ならばわたくしが壷関に参ります。それなら大丈夫ですよね? ね!?」

 どこまでも責任から逃げているとしか感じられないその言葉に、侍従は唖然とした。

 王女は若いとはいえ一国の王なのである。自身の身のことよりも、もっと先に考えねばならないことがあるだろうに。

 戦争に負けた兵士たちも、戦火に見舞われる民のことも考えず、ただ自分が楽になることだけを考えるその思考についていけないものを感じた。

「すでに王城内に敵兵は満ち満ちておりますぞ。出口はありませぬ。羽林が支えておりますが、それもいつまで持つことやら」

 事態はそこまで切迫しているのか、とセルウィリアは言葉も出ない。そのセルウィリアに代わり、尚侍ないしのかみが助け舟を出す。

「そうだ・・・! 西苑の鏡石の裏の秘密の抜け穴を使えば・・・!」

 それは王と尚侍しか知らぬ秘密の抜け穴。そこまで行けば王城を気付かれずに脱出できるかもしれない。

「あ・・・! そうですね、それがありましたね。す、すぐに向かいましょう!」

 だが西へと足を向ける王女のすそを侍従が慌てて掴み、引き止めた。

「駄目です! 賊は後宮を押さえようと兵を西へと動かしています。いまからではとても西苑に辿り着けないかと!」

 いつもは自分の考えをひたすら褒めて崇めてくれる侍従や侍女たちが、今日ばかりはどこまでも自分の考えを否定するかのように、いや自分を否定するかのように強い口調で反論され続け、セルウィリアはとうとうヒステリーを起こした。

「ならばわたくしはどうすればいいの!? どうすればこの事態に対処すればいいと言うのですか!?」

 怒りのままに口走ったことで王女は返って冷静になった。はたと気付いて口ごもる。

 彼女の周りにいるのはいつもの顔。だけれども彼女の機嫌を取ろうとする、いつもの子犬のように甘える態度が見られないことに気付いた。周囲の者にあったのはすがるような目だった。

 だが・・・この目は・・・彼女を見る彼らの目は温かみがなく、それでいて何かを彼女に求めていた。

 それで気付いた。

 この者たちは彼女に心底忠誠を捧げているからでも、彼女を敬愛して運命を共にしたいからここにいるのではないのだ。ただ生き延びたいから、おそらく一番安全であろう彼女の側から立ち去らないだけなのだ。

 彼女はこの非常事態に目の前の者たちが彼女に割り振ろうとしている役目を理解した。

 もしここで王女を見捨てて降伏しても、命が助かる保障はどこにもなかった。熱狂の中、殺到する敵兵が理性を取り戻すとは思えない。殺戮と略奪に興奮する兵たちは見境がなくなっている。おそらくは無抵抗であっても殺される可能性が高い。

 しかし生き残る確立を高める可能性がひとつある。

 彼女が敵に身を委ねればいい。そうすれば敵の将軍たちは目的を達し、兵たちの行動を止め、秩序を取り戻そうとするに違いない。そうなれば彼らはおそらく助かる。

 だがそうなれば、彼女はどうなる?

 関東の偽王は自身の王権を確固たるものにしたいだろう。

 となれば彼女が、いやサキノーフの血を持つ全てのものが障害となる。待ち構える運命は獄門台の露となることだけだ。

 いや、それですらまだ救いのある未来。宣告を受けてからわずかの間、恐怖に怯えるだけで、一瞬で苦痛は終わるのだから。

 だが関東の王とやらが、そんな慈悲深い君主であるとは限らない。捕らえられ、日のあたらぬ暗い牢の中に放り込まれ、下賎な輩にいたぶられ、弄玩ろうがんされて、わずかな食事で命を繋ぐ。その中でいつしか人々に忘れ去られ、襤褸ぼろになった着物が捨てられるように惨めに死んでいき、野辺に死骸となって投げ捨てられる。

 そんな未来だってありえるのだ。

 いや、そちらの可能性のほうが大きいかもしれない、とセルウィリアは思った。

 なにせ関西に入ってくる関東の王の評判は散々だった。朝廷を支える重臣に敬意を払わず独断専行でことをなすとか、寵姫にかまけて法の矛盾を省みないで反乱が起きたとか、反乱を起こした四人の重臣を全て戦場で葬ったとか、戦では必ず自ら最前線に立たないと気が済まない、血に飢えた狂王であるといったふうにだ。聞こえてくるのはまことにろくでもない噂ばかりだった。

 それらをまとめあげると、降伏した敵国の王を寛恕かんじょ無く遇するなどといったことが考えられる人物像ではなかった。


 嫌・・・! そんな最期だけは絶対に嫌ッ・・・!!


 だが生まれてこのかた、与えられた役割を演じることだけが彼女に課せられたもの。生まれてから今までそれで上手くやってきた。

 政界は伏魔殿。共闘、寝返、同盟、暗殺。ほんのわずかでもバランスが崩れただけで一気に転覆し大惨事になる。

 そうなれば戦火が関西を襲い、罪のない民が塗炭の苦しみに会い、社稷は傾く。

 なにより王であるセルウィリアの命も風前の灯だ。そのことはこの戦国の歴史が何度となく証明済みだった。

 だから場の雰囲気を察知し、多数に迎合し、流されるようにして受け流し、決定的な破局を回避する。それが王の役目だとセルウィリアは割り切っていた。自己だとか正義だとか法だとか理想などは王には必要ない。少なくとも父から受け継いだものはそれでしかなかった。だからそれが彼女の存在意義。

 それを上手くやってきたはず。人々はわたくしをできた女王だと褒め称えるのだから。

 でも、この役割は・・・この役割だけは受け入れられない・・・!

 でも目の前の大勢の者から注がれる視線は、彼女にその役目を受け入れるよう無言の圧力となった。

 ここで彼らの求めを拒否したとしたらどうなるだろう?

 きっと彼らは王女に襲い掛かり縛り上げ、関東に突き出し生き延びようとするだろう。あるいは引き渡すのは王女の遺体ということも考えられる。

 彼女は彼らの求めを受け入れることしか選択肢がないことに気付き、顔を蒼白にした。


 敵は既に王城に侵入しており、いたるところで戦闘が行われていた。

 命令がないながらも羽林と金吾が大勢の犠牲を出しながら奮戦し、門を確保する。なんとか朝殿への侵入は防げた。

 そこで門越しに、降伏の意思のあることを示し、立場のある者との交渉を呼びかけると戦闘は中断された。

 しばらくすると交渉を一任されたという若々しい武人が門の前に現れた。王師中軍の将軍だというから見かけによらずそれなりの大物だ。

 交渉には長い時間がかかると思われたが、意外なことにほとんどの要求が通ることとなった。

 やがて門の隙間から一通の書簡が差し出される。王女の身の安全の保証、降伏した者への助命が書かれていた、そして御名御璽ぎょめいぎょじ、間違いない、投降を許す王の綸旨りんじだった。


 女王は自ら手を前で縛って門を出た。それが降人の作法だった。

 ついで後宮の女官たちが捧げるように宝器を持って後に続いた。それは歴代皇帝を祭るための宝具。先祖の祭祀を放棄するというのは降伏の証。関西王家に歴代の王である先祖を祭る権利がなくなり、かわりに関東の王家が歴代の王を祭ることによって、正しきアメイジアの皇位継承者であることを示すことになる。

 王城の城門の前でその儀式は行われた。西京の民にその姿を見せることで関西が負けたのだと見せ付ける狙いがあった。

 王城の門の外には左右にずらりと兵士たちが幾重にも立ち並び、真正面には不敵な面構えの将軍たちが立ち並んでいた。

 近づきつつ相手をうかがい見る。正面に立っている鎧姿の金髪の青年が王だろうか。

 なるほど武断の王らしく、若々しく美々しいながらも、どこかに厳しさを感じさせる顔立ちだった。だが思ったより残忍な人間には見えない。優しげなのは見かけだけかも知れないが、それでも少しは安心する。なにせ鬼のような外見を持つ悪人を想像していたのだから。

 声をかけようとすると、すっと横に開いて手で、こちらへと奥へいざなう。

 アエティウスが王だとばかり思っていたセルウィリアは面食らった。

 視線を前へ移すと、まず目を惹いたのは、正面やや左にいる、西京内を探したとしてもなかなか見られないほどの美人だ。朱龍の宝玉、崑崙の白百合と巷間に云われる王女が美人と思ったくらいだから相当の美人である。なるほど王の側に仕えるのに相応しい、とセルウィリアは変なところで得心した。

 そこで視線を中央に移すとそこにあった光景に困惑した。慌てて一度目を逸らし、再び中央に目線を戻す。

 そこには先程と変わらぬ光景があった。床几に座ってこちらを向く男がいた。いや、男というよりどちらかと言えば少年だった。

 だが覇者が持っている他者をね付ける厳しさも、王者が持っている他人を平伏ひれふさせる威厳もそこにはなかった。

 とても召喚の儀で呼び出されたとは思えない少年。威厳があるわけでも、知性が感じられるわけでも、見目麗しいわけでもない。外貌がいぼうにまったく秀でたところがない少年。

 いや、人を見かけだけで判断するべきではないことくらいセルウィリアも知っている。でも・・・これは・・・

 動揺を抑えつつセルウィリアは頭を下げた。

「降人セルウィリアが陛下にお目にかかります。どうかこの罪深き身に陛下の御寛恕ごかんじょを賜りたくございます」

 噂には聞いてたけれども本当に美人だな。女性耐性があまりない有斗はそんな美人から声をかけられたことに動揺し顔を赤くした。

「あ、うん。大丈夫。君の身柄は僕が責任持つよ」

 ここは優しく敗者に労わりを与え、陛下の寛大さを関西の民に見せ付けるのです、とアリアボネに何度も念を押されていた。

 こんなに美人なら言われるまでもなく粗略には扱うわけがないじゃないか、と有斗は思った。

 だがそんな有斗の表情に、セルウィリアはますます混乱した。

 セルウィリアに声をかけられた若い貴族は皆赤くなり、そういった表情を浮かべるものだ。そういう光景は見慣れている。だからこそ、その辺に転がっているその有象無象の連中と、この目の前の少年とに違うところがあるのだろうか?

 秀でた物がひとつとして感じられないこの男が召喚の儀で呼ばれた天与の人だというのだろうか?

 そんなセルウィリアの考えを余所に降伏の儀式は着々と進んでいった。

 最後に祭器を渡されると有斗はそれを両手で掲げ天に捧げた。

 唸るような喚声が上がる。関東の将士からは勝利を実感した歓喜の声、関西の民があげたのは国を無くした悲鳴だったろうか、それとも戦争が終わった安堵の声であろうか。


 神暦四百十五年、東西に分かれてより百十余年、ここに関西の王朝は終焉した。


 [第三章 完]


誰もが思いつかない方法で関西を攻め、圧倒的多数の敵兵をアリアボネの計略を持って見事に打ち破り、関西の王女に城下の盟をさせた有斗は、このアメイジアで唯一の王位を持つ者となった。

だがそれを認めようとしない者たちがいる。

様々な者が様々な思惑を胸に集い、終に害意がひとつの形となって有斗の下に忍び寄らんとしていた。


次回 第四章 荒天の章


「必ずこの乱世を終らせる」

有斗は彼女の為に、そう固く心に誓った。

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