第88話 長征(Ⅰ)

 関西の北端は荒々とした原野がただ広がっている。

 戦国乱世になる前、かつてはここには水路が引かれ、小さいながらも街がいくつかあったというが、河北が荒廃するのと時を同じくしてこの地も関東関西両政府から見放された。

 北辺は、あっという間に法のくびきから解き放たれ、植民していた者たちは慌てて荷物をまとめて南へと帰っていった。残されたのは元々定住せず牧畜で生計を立てていた部族たちである。いままで彼らを押さえつけていた法がなくなったからには、彼らは何かが必要になると、足りないものを求めて南下し、河北や関西を気が済むまで略奪してまわった。

 河北はあの荒廃だ。自然、関西にその矛先は向く。それが関西の朝廷の長年にわたる頭の痛い問題だった。

 とはいえ彼らには彼らなりの普段の生活がある。極度の旱魃かんばつや人口が増えすぎて養えなくなった場合などの食が極端に不足するときや、部族同士の争いで支配地域を失った場合以外は、基本襲撃するような好戦的な部族は少ない。

 特に朱龍山脈近辺の族は関西の朝廷と交流を持ち、毛皮や良馬と塩や小麦が、一定の決められた交換率で交易されることが許されているために、比較的安全が保たれていた。

 というわけで、北辺には二百から千五百メートルごとに見張り櫓が建てられ、そこには三人から五人の兵士が常駐し監視に当たってはいたが、特に変事が起こるわけでもなく、彼らはその日も賭博に熱中し、見張りなんぞろくに行ってはいなかった。

 彼らが外が騒がしいと気付いたときには既に手遅れだった。眼下は関東の大軍で埋め尽くされていた。

 周囲を完全に敵に囲まれた守備兵は慌てて命乞いをし、降伏した。

 こうしてひとつの櫓は戦わずに降伏し、同時に攻撃を加えられた二つの見張り櫓が陥落した。

 しかし五万もの大軍とはいえ、この長大な防衛線を同時に全て攻略できるわけではない。そもそも全てを攻め落とす必要もない。それに賭博に夢中になって見張りの役割を放棄している者ばかりでは当然ない。

 というわけで見張り櫓が巨大な軍隊にあっという間に踏み潰されるのを目にした隣の櫓の監視兵は慌てて狼煙を上げ、さらに隣の櫓に敵の襲来を伝達し、北辺二十箇所に設置された城砦に、この大事を届けようとした。


「北辺の兵は一万と聞きますが、このように百余りの見張り櫓と二十余りの城砦にそれぞれ分散しております。敵が集結するより前に後方に回り込み、西京との連絡を絶って防衛線を無力化しましょう」

「でも軍を無傷のまま残したら、後方で撹乱かくらんされて、後々やっかいなことになるんじゃないの?」

「当然、補給路と退却路だけは確保するためにも、近くの城砦は落とします。そうすれば敵は各個撃破を恐れて兵を集めるでしょう。それを叩く」

「そう上手く行くかな? 僕だったら各城砦に兵をめたまま動かさない。一城一城つぶせば時間がかかる。そうすれば時間が稼げる。そうすれば援軍だって到着するんじゃないかな。もしそれで僕らがひとつひとつの城砦を潰すことをあきらめて、西京に向けて進軍したら後方でゲリラ活動をすればいいだけだし」

「ゲリ・・・ラ・・・? なんですか、それは?」

 あ・・・そうか、この世界にはそういう概念がないのか・・・そうだよなカタカナということは外来語だもんな。

 昔の日本にその言葉がなかったということは比較的新しい概念なのかもと有斗は思い立った。

 ということは昔の日本に近いここでも、ひょっとしてそういった戦い方は存在しないとか・・・? それほど警戒しなくていいのかも・・・

「え・・・と、僕らの本隊とは直接戦わずに、奇襲をかけたり、輜重しちょうを襲ったりして、後方を撹乱かくらんすることなんだけど、そういう戦い方はここではあまりしないのかな?」

 有斗の説明に合点がいったのかアリアボネは有斗に軽く会釈する。

「ああ、そういうことですか。確かにそういう手段はありますが、それは険しい地形、森や山を通る敵に可能な攻撃方法ですよ。こんなあけっぴろげな場所で奇襲をかけようとしても近づく前に気付かれますし、障害物もないので数の差で直ぐに全滅するだけです。輜重については王師右軍がいますから少数の敵兵なら撃退してくれるでしょう。よって恐れるのは敵が兵を集めた場合のみです。その場合は先ほど申し上げたとおり我々が全力でそれを叩き潰せばよい」

 そういう戦い方は存在するらしい。だけれどもアリアボネらが話す態度を見る限り、ここではそれほど気にすることではないようだ。

 銃器とかがないこの世界では、あんまり効果的じゃないのかと有斗はとりあえず納得した。

「陛下がどうしても気になるというのなら、北辺の防衛線の要にあたるノトス城だけでも潰していきましょうか? 関西の北辺における要。駐留する兵も多い。陥落させれば関西の朝廷に圧力をかけることになります」

 ・・・どうしようかな。この作戦はいかに敵に防備の時間を与えずに西京に迫り、準備の整わない関西の軍を撃破することだもんなぁ・・・悩むところだ。

「アリアボネやアエティウスの意見を聞きたいんだけど」

 有斗に指名されたアエティウスとアリアボネは顔を見合わせると、それぞれ自説を展開させた。

「私は速戦を主張いたします。我らの目指すところは西京の陥落のみ。諸侯の兵も辺境警備の兵も無視して西京を強襲し、成功すれば問題はなく、失敗した場合は西京に兵が集まる前に素早く退却する。その当初の計画を遂行するのが良策かと」

 アエティウスは速戦を主張した。

「北辺に一万の兵を置いたままでは確かに少し不安があります。ここは関西にその将ありと知られたステロベ卿を打ち倒して、武威を示すのもよろしいかと」

 対してアリアボネは有斗に同調する。

 北辺の城は鼓関と違って城壁で囲まれているだけだとか、土塀で囲まれているだけのものが大半だ。まして堀がある城砦さえ珍しい。五万の兵を持ってすればノトス城を落とすのには一週間でもお釣りがくるだろう。

 それに、とアリアボネは思う。ラヴィーニアに言われた言葉が頭の中を渦巻いていた。

『ステロベ卿に、もし陛下がこのアメイジアに必要な王だと認めさせれば・・・、いや思い込ませるだけでもいい、それに成功すれば・・・やつは寝返る。すると関西に一将軍、一軍の裏切りという実質的な損害だけでなく、心理的に大きなを圧力を加えることができるだろうな』

 もしラヴィーニアの言うとおりに、本当にそれが成功する可能性があるというのなら、一見脇道にれる行為であっても、時間を浪費してでも、試みる価値があるのではないだろうか。

 そういえば・・・頼まれた仕事をきっちりとラヴィーニアはやってくれているだろうか、アリアボネはラヴィーニアがいるであろう南の空を見てそう思った。


「中書令からヘシオネ卿の補佐を承りましたラヴィーニアと申します」

 ラヴィーニアの名前は南部の片隅のハルキティアにも聞こえてくるくらいに高名だった。

 若くして科挙に探花として受かり、あっという間に中書侍郎ちゅうしょじろうという朝廷の高官に上り詰めた切れ者。もっとも南部史上最高の天才とうたわれたアリアボネが合格した科挙の、一つ下の席次ということで南部ではことさら知られていた名前であった。

 とはいえ四師の乱の首謀者の一人と目され、王が復位した途端に左遷された。

 周囲の真実を知らぬ者にしてみれば、未だに命があるのが不思議なくらいだった。つまり、有斗が王である限り、もう一生浮かび上がることはないと思われていたのだ。

 その人物が現在、関西との最前線になっている鹿沢城に、それも文官最高位である鹿沢城執事という重職に、突如移動してくることになったのだ。アリアボネの直筆の命令書があるとはいえ、ヘシオネにもにわかには信じられない事態であった。

「昨日まで謀反人だったラヴィーニア卿が今日には鹿沢城執事とは・・・どういうからくりを使ったやら」

 ヘシオネの嫌味にもラヴィーニアは動じる素振りさえ見せなかった。

「執事としての平常の業務のほか、この地にて様々な働きをいたすことをお許しいただきたい」

「私の許可なしでか?」

「これは中書令殿の命です。なんでも陛下の為に極秘で動かねばならぬ人間が必要とか。城守であるヘシオネ卿の周りには人の目が多く、秘密が漏れる危険が高いのです。ご理解いただきたい」

「・・・わかった」

 ラヴィーニアが差し出した手紙にもそういった内容のことがアリアボネの筆跡で書かれてあった以上、ヘシオネには表立って反対する理屈が存在しない。

 とはいえ王から鹿沢城代としての役割を与えられたのは自分だ。その自分の頭越しにアリアボネがラヴィーニアを使って何やら勝手に動かれては気分が悪かった。

 それではヘシオネが関西を押さえるだけの力に不足していると内心では思っているのも同じではないか。

 確かにアリアボネの才知は南部に冠するものではあるし、王の復位に尽力し、王の信任が厚いのも理解はしている。

 だがそれ以上に、ヘシオネは戦国の世でハルキティア家を永らえさせてきた自分の実力を自負していた。

「はン・・・気に入らないね」

 ヘシオネはラヴィーニアの小さな背中を睨みつけ、そう呟いた。


 ヘシオネの悪感情が伝わらないほどラヴィーニアは勘の鈍い女ではない。

「ああいった類の女は嫌いだ。感情を優先して理屈が通らない」

 と、ラヴィーニアはラヴィーニアでヘシオネに逆ベクトルの感情を抱いていた。

 だからといってその悪感情をヘシオネにすぐにぶつけはしなかった。仮にも一応は上司である。双方が相手を嫌いあっては仕事にもならない。

「アリアボネには借りもあるしな。ほどほどにやるか」

 ラヴィーニアが働かなかったから鹿沢城が落ちたなどと後から言われては、己の名が廃るというものである。

 鹿沢城に着任したラヴィーニアがまず兵に命じたことは鹿沢城南面の堀をさらい、その中央に一段深い溝を掘り、石を使って段差を作ったことだ。今が冬であるにも関わらずにだ。

 おかげで寒中で濡れながら作業させられた鹿沢城の守備兵からは、陰険眉毛などと有難くないあだ名をつけられ、さっそく目の敵にされてしまったようだった。

 それに鹿沢城の事務だけではなく、なにやらしきりに命令書を書いては部下を王都に走らせているようだ。

 さらに不可解なことがある、とヘシオネは首をひねる。ラヴィーニアに面会を求める客が立て続けに訪れるのだ。一日に五人を下回ることもない。連日大盛況だ。

 しかもそのどれもが商人なのだ。なかには見るからに怪しげな風体の商人もいる。

 怪しい。実に怪しい。

「少し観察する必要がありそうね」

 ラヴィーニアが王に再び叛旗を翻さないとは誰にも言えないのである。


「では確かにお預かりしました。三万石は確保します」

 商人はそう言うと、ラヴィーニアから受け取った軍票を一枚一枚確認する。

「荷の半分は確実に期日内に河北へと運んでおいて欲しい。河北から先は右軍が輸送を担当する」

「残りの半分は?」

「河東の地にて秘蔵しておいてくれればいい。追って指示を出す」

「・・・しかし本当に大丈夫なんでしょうね?」

「疑い深い奴だな。発行した軍票の割符を見ただろ? 正式な中書の印が押されているんだ。それともなにかい? あたしが偽造してるとでも言うのかい?」

「そんなめっそうもない・・・! でもラヴィーニア様は陛下に嫌われているのでは・・・?」

「嫌われていようが嫌われていなかろうが関係ない。これをあたしに命じたのは中書令なんだ。つまり正式な政府の発行した軍票と言うことになる。もし王が怒りのあまり、あたしを切り刻んだとしても、発行した軍票は買い戻さなければならない。踏み倒しでもしたら政権の信用問題に関わるからね。王がいかに考えようが、支払いを拒否しようが、アリアボネがいるんだ。首根っこにしがみついてでも買い取るようにしてくれるさ」

「はぁ・・・」

 いまいち信用できない話だった。とはいえ、今までラヴィーニアに大層な世話になっている身としては断るわけには行かない。損を被ることを覚悟で引き受けるしかない。

 それに成功したときの利益は莫大だ。こんな美味い儲け話を目の前にして断るほど、彼は奥ゆかしい商人ではなかった。

「じゃあ、頼んだよ」

「承知しました」

 やれやれ、とラヴィーニアは一息つく。これで輜重しちょうの問題は片がついた。

 後は鼓関にめられた二万の軍を畿内に侵攻もさせず、西京へと退却もさせずに、鼓関に釘付けにして死兵とすることである。

 敵はなかなかのやり手と聞く。

 やっかいだな、とラヴィーニアは思う。しかしやりがいのある仕事だとも思う。

 少なくとも軍票発行と兵糧の確保などという数字の問題なぞ彼女にとっては仕事と呼べるほどのものではなかった。

 目的の為に人を騙し、人を欺き、人を陥れ、その結果として多くの悲喜劇が生まれるが、だが結局のところ、最後にはラヴィーニアの想像通りの結末に収まる。その瞬間こそがラヴィーニアは何よりも好きだった。

 多くの思惑が入り乱れる混沌から形作る作業、それが謀略。それこそ仕事といえるものなのだ。

 それにしても・・・と、自分で発行したにも関わらず、軍票の半券の膨大な束を見てラヴィーニアは驚いた。

 発行した軍票の総額を聞いたら、アリアボネは卒倒するだろうな。ふとそう思った。

 この頭の体操にもならぬ退屈な作業も、アリアボネを驚かすためだけにしたと考えれば悪い仕事ではなかったと言えるかもしれないな、などと意地悪く笑みを浮かべた。

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