第72話 鼓関の戦い(Ⅴ)

 突如、先軍の横腹を突くような形で敵に襲いかかられたことで、一瞬、頭が真っ白になったグナエウスだったが、事態を把握するのに時間を要することはなかった。

 横合いから奇襲をかけた兵はたかが二千か三千なのである。敵は合わせて一万三千程度、対するグナエウス率いる関西兵は三万なのだ。

 強襲で怯んだ兵を立て直し、素早く列伍を整えさえすれば押し勝てる。まだ慌てるような事態ではない。

 敵を追い詰めたことで前軍、本陣、後軍との距離も、兵と兵との間隔も詰まってきていた。完全に囲まれる前に兵を投入すれば敵の思惑はついえる。

 特に横合いから出てきた三千の兵に対しては本陣備ほんじんぞなえの近習までも含めて惜しげもなくつぎ込む。後軍のバルカにも救援の兵を出すように指示をした。

 バルカに手柄を立てさせる機会を与えるのは、左府の機嫌を損ねることにもなりかねないし、そもそも大いにしゃくではあるが、自身の感情や左府の思惑に囚われて兵の進退を決め、戦局を左右するほどの誤った判断をするほどグナエウスは愚かではなかった。

 ここは勝負どころだ。戦力を逐次ちくじ投入する愚を犯さず、出し惜しみなく全戦力で敵を撃退する。

 その命を受けたバアルも総大将の命である、当然了解したと応え、兵を沼の方へ、陣の綻びを補修するように左翼へと向ける。

 しかし一抹の違和感が頭をよぎる。それは武将としての勘、戦場を生き延びるのにもっとも必要な才能と言っていいものだ。

 先ほどの煙が野焼きの火でなく伏兵の合図だとしたら・・・少しおかしくはないだろうか? たしかにあそこなら平原全体を一望の下に見下ろせるだろう。だけれども主戦場から明らかに離れすぎている。それにいきりたち追いすがってきた我らの先陣を崩すのが目的で横から奇襲する程度のために、狼煙のろしを上げる必要がどこにあるというのだ? ひっそりとその場に潜んで横から襲い掛かるだけだ。狼煙を用いる理由がない。むしろ合図を待って空を幾度も見ているうちに気配を現し、伏兵していることに気付かれてしまう可能性があるではないか。

 それは自身の猜疑心が生み出したもの。バアルは深読みのしすぎの取り越し苦労ではないかとも思う。

 だがそう思いなおしてもなお、何故か不安は消えうせなかった。

「よし左翼に歩を向けよ。敵の反撃を受けズルズルと退いている味方を援護するぞ」

 街道の南側、右翼方向はグナエウスが兵を惜しみなく投入したことで持ち直しつつある。街道沿いの戦況はまだ好転しないものの、もしこれで左翼でバルカ隊が救援に成功すれば、両翼から再び挟撃できる形になり、味方の勝利は確実なものになるだろう。

 グナエウスの横を抜け、街道の北側へと兵を進める。

 そこはあちこちに沼や沢があり、足場は極端に悪化した。戦うには利のない場所だ。だからこそグナエウスはバアルに押し付けたのではあるが。

 と、突然後方から退きがねが鳴り、退却を命じる鼓の音が響き渡った。

 その音は戦いの中に耽溺たんできしていた将士の心胆を寒からしめた。

 振り向いて後方を確認すると、手薄になった本陣に敵の騎馬兵が肉薄していたのである。

 彼らは向きを逆さまにし、狼狽も露わに次々と走り出した。

 それは彼らの将軍を救うためだったのだろうか、それとも彼ら自身の命を救うために逃走するためであったのか。ただ言えることは一つ。それは次々と連鎖反応を起こし、崩れ立つように軍は崩壊した。

 もはや彼らは、例えば主将を守ろうというような何かの目的を持って走っているのではなくて、周りに遅れないように走ることが目的となっていた。

 だが何が起きたのかと後方を振り返ることができ、周囲に合わせて逃げ出した者は幸運だった。

 後ろを振り向いても味方の兵の頭で見えぬ者や、敵を眼前に振り向く余裕のない者は逃げるタイミングを完全に逸したのだから。

 だから一旦持ち直したかに見えた先陣の諸候軍こそ悲惨であった。

 逃げようにも街道は兵がいっぱいで敵に追いつかれずに逃げる方法はない。にもかかわらず前方の敵は勢いを取り戻し襲い掛かってくる。さらに一番彼らの心を暗くしたのは、もう味方の救援が望めないことを彼ら自身がわかってしまったことだった。

 そこに更なる悲劇が彼らに、いや彼らだけでなく、関西の軍全体に襲い掛かった。

 西国道を横長に広がった関西勢を側面からアエティウス率いる王師中軍一万が襲い掛かったのである。街道を通る関西勢は南から王師中軍に押し付けられ、足場の悪い沼沢地へと次々と追い出された。

 グナエウスを救うために後方に急ぎ反転したバアルはその時になってやっと敵の思惑を察知した。

 わざと負けたふりをして兵をひきつけ、まず前から、次に後ろから奇襲をし、その対応に浮き足立つ敵の側面を襲い、三方から囲み沼地に追い落とす。

 だから全ての位置の兵から見えるあの南端の山に狼煙を上げねばならなかったのだ。

 しかもこの地形ときたらどうだ。出口の狭隘な囲地いち(出入りの不自由さがあり少数の兵が多数を討てるような地形)であり、しかも沼沢地であるから圮地ひち(作戦行動を取りづらい場所)でもあり、まずは前後から挟み、最後に側面から襲うことにより、我が方は背後に水を抱えた背水の陣となる。戦わんと欲する者は、水にきて客を迎うることなかれ。水際で戦うことは兵家の固く忌むべきところだ。

 もはや兵の多寡や兵の質、そういったものは一切関係がない。古今の将軍誰もが、いや兵法をかじったばかりの若造であっても、この戦場を見れば言うことは一つ、グナエウスは負けると言うだろう。

 しかし手の込んだ策だ。・・・いや違う。手が込み過ぎていると言うべきだ。一つ間違えればそれぞれの兵が遊軍となる可能性が大いにある危険な策だ。逃げる敵兵が囮だとはバアルも一瞬頭をよぎった、おそらくグエネアスもだろう。だがその後、関西の前軍に襲い掛かった三千ほどの兵、これもが囮で、さらには後方から襲い掛かった騎馬兵、それすらも兵を街道上に長く伸ばす為の囮などという、一つ失敗したらそこから全てが崩れ去る作戦を立てるなど、危険が多すぎて兵法を知るものなら立てるはずもない。だからこそバアルもこういった事態にまったく思い当たらなかったのだが。

 だが、ともバアルは反省する。兵書を知りながら、そういった常識に囚われない恐ろしい人物が関東にいるのかもしれない。

 ・・・それは噂に聞く関東の女軍師とやらだろうか・・・


 有斗がアリアボネの助言を得て立てた作戦は、言葉で言うとひどく単純だった。

 前衛となるエテオクロス率いる王師左軍のうち四旅四千が味方から突出した形で敵と戦ったが利なく退却し、中備、後備ともにそれに巻き込まれる形で壊乱する。当然全て演技である。

 この囮部隊は王師左軍を持ってあてる。

 そして逃げながら戦い、戦いながらも逃げ、敵にこちらの意志を悟られぬように主戦場と仮定した鹿沢の地までおびき寄せる。

 鹿沢に入ってもなお東へ東へとおびき寄せ、敵の中備が沼沢地しょうたくちの横に差し掛かったら王師右軍の三千が横手から襲い掛かる。

 当然敵は慌てふためくだろう。敵は味方を救おうとするに違いない。

 敵の斥候は全て追い払い、かまどの数を少なくして兵を少数に見せかけたのだ。きっと敵はこれが関東の全兵力だと思うはずだ。

 だから伏兵の無勢をあなどって後詰の兵を含めて投入し、戦局の挽回を謀るに違いない。

 本陣は手薄になる。そこをダルタロスの騎兵隊で後方から奇襲をかける。敵は主将の危機に慌てて一斉に兵を帰すであろう。

 その結果、西国道沿いに長く伸びきった側面に王師中軍が最後の仕上げとばかりに襲い掛かり、崩れ去る敵を鹿沢平原北部の沼や川に突き落とす。

 全軍が罠にはまったと知った敵は、もはやほうほうの態で鼓関に逃げるしかない。

 鹿沢は兵士たちの溺死体で埋まるだろう。


 有斗は自分が立案したその作戦が上手く行ったことに飛び上がらんばかりに喜んでいた。

 もちろんアエティウスとアリアボネが細部に修正を加えたおかげでもあることはわかっていたし、困難で実りの少ない退却行をエテオクロスが快く退きうけ、奇術のようにそれを実行したことからこそ破綻することなく成功したこともわかっていた。

 でも、これは有斗が初めて自らの意思で進めた戦闘だった。

 誰かにうながされるまま形だけの命令をし、傍観者としてただ結果が出るのを眺めていた今までとは違う。これは正真正銘、有斗の戦いだった。

 もちろん戦いというからには、幾人もの味方の命、そして敵の命が失われ、その何倍もの家族が悲嘆にくれるということは、改めて言うまでもない事実だ。ひとつひとつの命の重みも有斗だってわかっている。

 だけれども有斗は自分を信じてくれたセルノアの為にアメイジアを平和にしなければならないのだ。彼女が有斗にしてくれたことを考えれば、例え自分が王の器ではなく惨めに野垂れ死ぬ結末が待っているのだとしても、少なくとも平和にして見せるため、あがき続けることだけは止めるわけにはいかない。

 そして平和にするということは残念ながら綺麗ごとだけではすまない。無血の平和などありえないのだ。

 であるなら味方の死も敵の死も有斗が受け止めるべきことになる。

 王とは部下がやったことだからと責任を逃れてはいけない立場の人間だと思うのだ。

 ならば、今までアリアボネやアエティウスに背負わせていたそういった諸々もろもろの責任を背負うためにも、有斗が戦略や政治や外交、個々の戦闘にいたるまで知っておき、口を出すときには口を出すべきなのだ。

 嬉しかったのは作戦が上手くいったことばかりではなかった。有斗は自分が王として責任を取ることができるようになったことが何よりも嬉しかった。

 ようやく王として責任を取るということに真正面から向かい合うことができたのだ。


 最初に兵を返す事に成功したのは、敵からもっとも遠く、沼沢地帯だったため、兵をあまり進めることが出来なかったバルカ隊だった。

 その間グナエウスはわずかな本陣旗本で奮戦し、敵の騎馬兵に囲まれながらも持ちこたえていた。

 敵の重囲を蹴散らし、バアルは急ぎ上将軍の身の安全を確保する。

「大丈夫ですか、グナエウス卿!」

「バ・・・バルカ卿か、すまぬ。どうやら敵の罠にはまってしまったようだ」

「そのようですね・・・無念です」

「数ではまだ我が軍が勝っている。卿はこの頽勢たいせいを挽回する方策を思いつかぬか!?」

 グナエウスの言葉にバアルは力なく首を振る。もはや趨勢すうせいは決した、バアルといえどこの状態をひっくり返す策などあろうはずもない。

「今は逃げることが唯一つの方法です。捲土重来けんどちょうらいを図りましょう」

「・・・」

 グナエウスはバアルの言葉に残念そうに唇を噛む。だが反論はしなかった。グナエウスも判っているのだ。もはや味方は必敗の地にいることを。

「幸い後方を襲った敵の騎兵は数が少ない。ひょっとしたらまだ敵の伏兵がいるかもしれませんが、ここで戦うよりは十倍マシです。このままでは全ての兵が沼に沈められてしまいかねない」

 グナエウスにバアルの兵から騎兵を割くと、それと共に一刻も早く逃げるように進めた。

「この者たちは鼓関の守兵、この辺りの地形も存じております。必ずやお役に立つでしょう。ささ、お早く」

 バアルの示した思いがけない好意に、グナエウスは素直に頭を下げた。

「すまぬ。この借りはきっと返す」

 そう言うとグナエウスは馬に鞭を入れ、騎兵隊と共に西国道を西へと走り去る。それに続いて背後を守る形でバルカ隊も後退する。もはや敗走するしかない。幸いにして主将のグナエウスが真っ先に逃げたことで兵士たちもそれを見習うかのように次々と落ち行く。

 だが、とバアルは思う。包囲できないのではなく包囲しないのだ、わざと小さな穴を開けて逃がしている。巧妙に兵を死地に追いやることを避けて、最大効率で敵を倒しているのだ。

 現に先陣を務めていた諸侯の混成軍はこの時点で多大な被害をこうむっていた。

 つくづくやっかいな敵だ。敵はやはり兵法に通じている。

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