第31話 青野原の戦い(Ⅴ)

 かすかに見える東の稜線がわずかに明るい。まもなく夜明けだ。

 五色岳入り口で左軍の見張りたちはかじかむ手足を擦り合せ、ひたすら暖めていた。

 峡谷は濃い霧がおおい、視界は極端に悪化している。同僚はこれでは見張りなどあってないようなものだ、と愚痴をこぼしていた。

 その時、霧がわずかに色を変えた。

 そして、音。

 かすかな馬のいななき。

 間違いない。敵が動いたのだ。

 回廊を出て、五色岳入り口から続々と部隊が進入してきていた。南海道を北上している。

 急いでこのことを告げなければならない。二人を見張りに残して、隊長は急いで左軍の陣へと向かう。とはいえ濃い霧だ。移動するのにも方角をすぐに見失いがち。陣に戻るのにも一苦労であった。

「なんのようだ」

 こんな時間に起こされて、内府は不機嫌そうにエテオクロスに用件を尋ねる。

「敵が陣を動かしたようです。青野原に入ってきた模様」

「それはなにより」

 それがどうしたと言わんばかりに、あてつけがましく大あくびをする。

「兵を前に動かしますか? 今からならば霧が晴れる前に、敵に妨害されることなく布陣できますが」

 敵はおそらく我等とトライアーナ街道を挟むように布陣することになるだろう。だが左軍が布陣した東の端は主戦場と目されるそこからは少しばかり距離があった。もともとこの布陣は南部諸候軍を青野原に誘い出すためのもの。目的を達した以上は、合戦場に近い場所に部隊を移動させるべきなのである。

 だが内府はそんな考えなどついぞ思いつかないようだった。

「この霧だ。日が昇って晴れるまでは兵を動かすのもままならぬだろう。昨日の戦闘で兵も疲れておる。動かすには及ばぬ」

 それに昨日の今日でまた約定を破るのか、などと左府に嫌味を言われるのも願い下げだった。

 今日は中軍と右軍に頑張ってもらおう、左軍は敵の右翼をひきつけるだけでいい。

 最小限度の働きをすればいいのだ。内府は昨日の出来事ですっかりへそを曲げてしまっていた。

「しかし・・・ここからでは敵に遠すぎませんか?」

 エテオクロスの指摘にも内府はけんもほろろだった。

「敵はおそらく扇の要の位置で布陣するだろうよ。左軍からは遠いというが、右軍や中軍からはもっと遠い。我が軍は昨日の戦闘で犠牲も出ておる。無謀な突出こそ避けるべきことなのだ」

 というと、何か言いたげなエテオクロスが口を挟むのを制するように手を突き出した。

「私は寝るぞ。敵軍が攻めてくるまで起こさぬようにな」

 内府は大あくびをエテオクロスにもう一度あてつけるかのように見せ付け、再び寝所に入っていった。


 軍を動かすことは内府に却下されたが、目前に迫った決戦に向けて何もしないわけにはいかない。エテオクロスは物見の兵を出した。

 物見には至近距離に敵を目にしても平気でいられる神経の太さと、敵の数を正確に把握できる能力が必要とされる。熟練の武人が選ばれるのが常だった。

 物見は街道のそばの草むらに身を埋め、じっと様子をうかがう。

 どうやら大多数の兵が南海道からトライアーナ街道へと入って、北へ北へと向かっているようだった。

 まさか濃霧に紛れて王都に向かうつもりではないか? 物見は一瞬ぎょっとしたが、そんなことをしても待っているのは補給を絶たれての自滅なのだ。ありえない、と思い直した。

 確かに左軍に備えるためらしき兵も残ってはいるが、少し数が少なすぎるように見受けられる。

 物見は首をひねった。

 とはいえまだ濃霧の中だ。正確なことはわからない。今見ている部隊のその後ろに部隊が隠れていないとも限らない。

 とりあえず見たことを報告しよう、それが彼の役目である。物見は来た道を、音もたてずに戻った。


 左軍から、その報告が中軍や右軍にもたらされたのは、午前五時ごろだった。

 ほどなく配置した見張りからも、同様な報告が中軍や右軍にも、もたらされていた。

 敵は南海道を曲がり、トライアーナ街道に入ったとの報告だった。

 とはいえ中軍や右軍の反応も左軍と大差はなかった。

 兵を起こし配置につかせたものの、それ以上のことをすることはなかった。

 この濃霧では移動もままならないし、そもそも敵が青野原に入った段階で、王師の勝利は確定したようなものなのである。

 あえて兵を動かし、濃霧の中を歩かせるなどという必要は、毛ほどもないのだ。

 移動している間に思った以上に接近して、至近距離での白兵戦からいきなり戦闘が始まったら目も当てられない。


 午前六時、日は昇ったものの霧は未だ深い。

 だがまもなく晴れるであろう。それがきっと戦闘開始の合図となるはずだ。

 兵士たちは鎧を露に濡らしながら緊張に打ち震える。

 羽林大将軍ネストールは甲冑を着て、徐々に薄くなっていく霧の向こうをじっと凝視していた。

 と、その時一陣の風が青野原を駆け抜け、霧が流れた。太陽がさっと盆地に差し込み、正面に陣取った南部諸候軍の兵が次々と霧の中からその姿を見せた。

 思ったようにトライアーナ街道に敵は布陣していた。

 もはや一歩でも踏み込めば矢頃というほどの近さだった。霧に隠れたのをいいことに、敵は至近距離に近づいたのだろう。

 だが思ったより兵は少ない。昨日の激戦で兵を損じたか。だとしたら内府も少しは役に立ったということか。これは昼前には決着がつくかもしれぬ。

 霧が徐々に風に吹き飛ばされていくと視界はますます広がった。と、右手に新たな影が霧の中から現れた。

 右へ滑らすように首を動かすと、そこでネストールはありえない事態を見て愕然がくぜんとする。

「そんな馬鹿な!」

 正面に布陣していた兵は二千ほどであった。だがそのさらに右に、いや右軍の無防備な右側面に正対するように兵が配置されていたのだ。

 その数はざっと一万を越えていそうだった。右軍を上回る数だ。

 ネストールたち王師右軍は、すでに戦闘開始前に南部諸候軍に半包囲するように囲まれていたのである。

「馬鹿な! こんな戦の仕方があるものか! 敵将は狂ったとでもいうのか!?」

 敵は二万しかいないのである。その六割以上もの兵力を左翼に向けるなどといった布陣などありえない。

 それでは中軍や右軍に対する兵がほとんどいないようなものになるからだ。

 そんな布陣は聞いたこともない。ありえぬはずだ。


「この戦いの真の敵は時間だ。一刻たりとも無駄にするな」

 アエティウスのその言葉を受けて、有斗が手をあげ合図する。

「全軍突撃!」

 その瞬間、南部諸候軍の陣営から陣鉦が一斉に鳴らされ、弓が唸りを上げ矢を放ち、喊声を上げながら兵士たちが隊列を組んで突撃した。

 一瞬にして右軍は大混乱に陥る。

 包囲にしろ半包囲にしろ、普通は戦いの流れの中でそうなるものである。

 包囲されるにしても、それに備えて陣形を組みなおす時間くらいはある。全ての手続きをへったくれもなくすっ飛ばして、戦闘が始まると同時に、至近距離で半包囲の形で囲まれるなどということはありえないのである。いくら精強を誇る王師といえども、備えのない側面から攻撃を受けてはひとたまりもないのだ。

 ネストールはあまりの出来事に呆然とするだけで、命令を出すゆとりすらなかった。

 矢の雨が振ってきたと思ったら、騎馬隊にあっというまに隊を分断され、いきなり接近戦になったのだ。

 旅長たちも命令をだすどころか、剣を振るって目の前の敵と戦うのが手一杯で、もはや組織的な反撃など望むべくもなかった。

 個々人では奮闘し、南部諸候軍を押し戻す動きも見られたが、全体としてみれば王師右軍の旗色は明らかに悪かった。

 あちこちで分断され、包囲され、右軍はいいように狩り立てられていた。

 エレクトライの部隊が突撃し、遂に右軍を前後に二分することに成功した。

 ここまで右軍の崩壊を防いでいたのは、王師の旅長たちの死に物狂いの働きがあってのことだったが、こうなると、もはや誰であっても支えることは出来ない。

 右軍は将も兵も我先にと壊走を始めた。南海道目指して東北東へと落ち延びてゆく。

 アエティウスは勝利の快楽に酔い、追撃しようとする兵士たちを制止する。

「我々はまだ勝利したわけではない。敵には中軍も左軍も残っている! 敵が我々の意図を悟らぬうちに、中央にて中軍の足を止めている味方の援護に回るぞ! 全軍転進!」

 緒戦の勝利に士気が上がる南部諸候軍はいまだ濃い霧が完全には晴れきらぬ青野原を東進する。


 霧は晴れてきていたが、敵影は左府のいるところからは見えない。

 見張りの報告ではトライアーナ街道にそって、敵は布陣したと言う。左府の陣所からは少し距離があった。

 トライアーナ街道は青野原の右下から左上に抜ける街道である。平野部の中心と言うよりは、右下から左上に行くにしたがって、弧を描きつつ右に、すなわち今王師が布陣している丘陵地帯に近づく形になる。

 中軍でこの距離ならば、左軍と敵との距離はもっと広いだろう。

 と、右側から鼓の音と喊声があがる。

「早くも右軍は交戦を始めたらしい」

 羽林大将軍は実に好戦的だ、と左府は苦笑いをする。

 とはいえ指をくわえて見ているわけにもいかない。

「よし我々も打って出るぞ。ただしまだ霧が濃い。敵は奇策に長けておる小ざかしい連中だ。十分に注意し、慎重に進めよ」

 昨日の左軍の二の舞は御免だ。正面きって戦えば負ける気遣いは無用なのである。

 左府はゆっくりと兵を進めた。


 前進すると、トラアイーナ街道に布陣する敵影が霧の向こうに見える。

 数はそれほどでもないように見えた。三千といったところか。

 だがトライアーナ街道は土を盛って作られた一段小高い地である、街道の向こうに兵を隠しているのかもしれない。それに逆茂木さかもぎ馬防柵ばぼうさくまで設置してある。油断はできない。この短時間によくもそこまでしたものだ。実に用意のいいことである。

 だが馬防柵を地面に突きたて、逆茂木をかくも設置した以上、敵軍の意図は明白だ。ここで敵を迎え撃つ。つまりおびき寄せてから伏兵で奇襲をかけるといった奇策は行わないということだ。

「全軍、陣形を保ったまま突撃せよ」

 左府の命令に精鋭を誇る王師中軍は前進する。


 同じ頃、リュケネの目にも黒い塊となって近づく王師中軍の姿が映っていた。

 王師中軍に対して布陣するのは下軍三旅、わずか三千でしかない。

 だがリュケネは寡兵かへいを嘆かなかった。リュケネの目的は三千の兵で、王師中軍の足を掴んで離さないことなのである。

 三倍の敵を撃破しろと命じられたわけではない。左翼の味方主力が駆けつけてくるまで持ちこたえればいいだけなのである。一刻二刻の間ならばなんとかなるだろう。

 だが、それはこの前代未聞の作戦が成功すればの話であった。もし失敗したら・・・その時は全てを捨てて逃げるしかない。逃げることができたら、の話ではあるが。

 リュケネは矢を放ち、敵の隊形を乱すとさっと馬防柵を開き、傾斜面を下ると長槍を手に一塊ひとかたまりになってぶつかる。

 陣形の乱れた敵はあちこちで綻びを突かれ、たちまちのうちに百メートルも追い立てられた。

 緒戦での勝利は味方に自信を与え、敵に恐怖を植え付ける。

 たまりかねたように中軍からは救援の兵が出される。それを見るやリュケネは思い切りよく兵を退き、柵内に兵を収納し息を整え、また再び近づく敵を待って弓を射ては、突撃するということを繰り返した。

 十五度の突撃で中軍の死傷者は六百人に達した。

 しかし一刻が経つころには疲労が溜まり、もはや積極的な戦術を取る余裕はリュケネたちにはなかった。

 だがリュケネたちの士気はまだまだ旺盛おうせいで、馬防柵を引き抜こうとする兵を串刺し、逆茂木を撤去しようとする兵には槍を叩きつけ、いまだトライアーナ街道よりこちらがわには一兵たりとも入れなかった。その奮戦ぶりは賞賛するに相応しいだろう。

 そしてリュケネたちが待ちがれていたものが、ようやく彼等の前に姿を現した。


 左府のもとにその知らせが届いたのは、リュケネたちがその姿を見るよりもはるかに早い時間だった。

「敵の奇襲により右軍は崩壊、羽林大将軍も行方不明」

 もたらしたのは右翼後方に位置した予備隊に紛れ込んだ右軍の敗兵だった。

 当初、左府はその右軍の兵の言うことがよく理解できなかった。

 何を言っておるのだ・・・? 我々は圧倒的優位の兵力で敵を三方から包囲しているのだ。撃砕されるのは南部諸候軍であって王師ではないはずだ。開戦わずか一刻ほどで一万を数える王師右軍が、寄せ集めの南部諸候軍に撃砕されるなどということがあるものか。

 この男は嘘を言っているに違いない。馬鹿にするにもほどがある。

 呆然ぼうぜんと立ち尽くしている左府に、かたわらの幕僚たちが声をかけ、正気に戻させる。

「閣下、負けたのは右軍だけです。未だ王師二軍は健在。呆然としている場合ではございませんぞ! 急ぎ前線から兵を呼び戻し右翼を固め、敵に備えねばなりません!」


「お、おお・・・そうじゃな・・・そうであった。急いで兵を戻すがいい」

 よろめきながら床几に座ろうとし、あらぬところで尻餅をつく左府を抱えあげると、幕僚たちは次々と指示を始めた。

 引き鉦が鳴り、揚げ貝が戦場に響き渡る。

 当初こそ優勢に戦を進めていた下軍三旅であったが、だが時間と共に数に勝る中軍の優勢は揺ぎ無いものとなりつつあった。下軍の兵の疲労も目に見えて分かるほどである。

 もうすぐ中軍の勝利は間違いない、王師の兵たちは一様にそう感じていた。そんな時に突然鳴った引き上げの合図だ。兵たちは突然、冷や水をかけられたかのように熱狂から覚めた。

 こんな時に退き鉦が鳴るとは尋常なことではない。何が起こったかはわからないが、とにかくとてつもない大事が起こったに違いない。


 慌てて後ろを向けて退く兵たちの目に信じれないものが飛び込む。

 王師中軍の右側面目掛けて、霧の向こうから数え切れないほどの兵が湧き出してきたのである。

 その数は一万五千だったが、霧でその全容は覆われていたため、前線から退いてくる中軍の兵には二万にも三万にも見えた。

 本陣の幕僚たちも無駄に手をこまねいていたわけではない。後方に控えていた手持ちの兵を全部使い、右側面に急遽、槍衾やりぶすまを押し立てた陣を折り敷いた。

 もっともその陣容は薄く列も乱れており、正直、何もしないよりはマシだろう、といった半ばヤケクソ同然のものでしかなかったが。

 両軍がぶつかると、兵力の差が如実に表れる。たちまち中軍の右翼は崩れ去った。戦線はいたるところで切り崩され、回りこまれ、いいように首を献じた。

 そうなると、もうお仕舞いだった。

 王師中軍にはまだ前線から本陣へと戻ろうとする八千もの大兵がいたが、彼等の目に敵に本陣に突入され、馬印が倒された姿が目に入ると、もういけなかった。

 後ろからは、もう一度勢いを取り戻したリュケネ率いる下軍三旅、側面と前からは勢いに乗る南部諸候軍一万五千。本陣は踏みにじられ、明確な命令が来ず、旅長も何をしたら良いのかわからない。

 最精鋭を誇る王師中軍はそこにはもういなかった。そこにいたのは逃げ惑う負け犬の群れ。

 どちらが寄せ集めの軍隊か分からぬほどだった。

「陛下! ロドピア公の兵が左府を討ち取ったのこと。なお敵は組織的な抵抗を諦め、南海道を北へ敗走中!」

 その報告で有斗は大きくうなずく。さすがアリアボネの立てた作戦だ。兵力差があるにかかわらず、ここまで完膚かんぷなきまでに敵を叩きのめすとは思ってもみなかった。想像以上である。

「よし、最後の仕上げだ。残る王師左軍を片付ける。ここまで来たら勝利は間違いない!」

 号令一過、有斗たちは南下し王師左軍を目指す。勝利まであと一息というところである。

「本当に陛下は貫禄がでてきましたね」

 四頭引きの戦車の有斗の隣の席に座るアリアボネがくすくす笑う。

「え、そうかな?」

「はい。まるでもう二十年は王をやっているような」

 アリアボネほどのひとにこう言われて嬉しくないはずがない。

「えへへへ」

 と謙遜けんそんするように笑った有斗だったが、

「陛下、調子に乗ってはダメですよ。まだ戦は終わっていません」

 と、アエネアスに水を差された。


 王師中軍を背負うエテオクロスはいらいらしっぱなしだった。

 霧に隠れてよくわからないが、既に味方は右翼も中央も交戦に入ったのか、干戈かんかが木霊するように響き渡っていた。

 はやく我々も前へ進んで敵と戦うべきだ、となんど進言したか分からない。だが内府は兵に前進を命じたものの、突撃の合図は下さなかった。ゆるりと歩を進め、敵とトライアーナ街道を挟みにらみ合った王師右軍だったが、王師中軍が南部諸候軍に横から襲われる頃には霧もようやく晴れ、戦場全体の姿がおぼろげながらも分かるようになってきていた。

 エテオクロスは当然、戦況を把握しようと馬上から伸び上がるように右手を見た。

 そこにあるのは摩訶不思議な光景であった。

 王師中軍は既に完全に包囲されていた。いかなる理由かは分からないが、無防備な側面を敵に晒していた。

 これはもたない。

 横からだけでなく後にも回り込まれているのは致命的だった。


 だが中軍の向こうには無傷の王師右軍がいたはずなのである。なんらかの手段で右軍が崩壊しなければこのような状態になるはずがない。

 だが戦闘に入ってわずか一刻半だ、王師右軍は一万を数える。こんなに早く負けるはずは無い。まるで敵は戦場から王師右軍を消し去ったかのような動きだ。敵には奇術師でもいるとでもいうのだろうか?

 それに中軍に襲い掛かる南部諸候軍は一万五千を超えているようだった。

 ありえぬ・・・昨日までの報告では合計二万しかいなかったはず・・・!

 中央と右翼に対するように兵を配しているのだ。つまり・・・敵は4万を越える兵を持っていたとでもいうのか・・・?

 まさか・・・・・・!

 正面を見る。そちらも霧はもう晴れあがっていた。

 エテオクロスは愕然がくぜんとした。目の前の正面に正対するのはわずか千から二千の兵でしかなかったのである。

 兵法の常道ではありえぬ布陣だ。少なくとも敵と正面から向き合う陣には、突破され崩壊されぬ程度には兵を配さなければならない。

 まさかと思って今度は中軍の前に布陣する敵軍を見た。そちらも二千、いや多くても三千の兵しかいなかった。

 そうか・・・これはつまり・・・

「斜線陣の変形か! 最左翼に主力を集中させたな!」

 なんという大胆な作戦を立てるのだろう! 敵は神のごとき深知を持つ大賢者か、とびきりの愚か者に違いない。

 エテオクロスはその時になって、やっと敵の意図したことを理解した。

 斜線陣とは敵の弱点となる左側に主戦力を配置し、戦力の弱い右側へ行くに従って突撃を遅らせ、左側から敵陣を崩壊させる戦術である。

 その斜線陣をさらに極端な陣形にしたのだ。霧が戦場全体の景色を隠しているのをいいことに、中央と右翼には少数の兵で陣形を死守させ、敵の目を惹きつけている間に、五割を超える兵力を左翼に集中し、その後、右回りに敵を半包囲しながら殲滅していくという形に持っていくという、聞いたことのない大胆不敵な戦術だった。

 まさか・・・今日、霧が出ることも予測したというのか? ・・・いやそんなことはありえない。

 だとすると魔術のように霧を出現させたということになる。

 だがそうとでも考えなければこの戦術は理解できない。霧の中でこそ相対した敵の実数がわからず、このような事態になったが、もし晴れた中でこんなことを行えば、右軍は敵の接近に合わせて陣を変形させ攻撃を防いでる間に、中軍と左軍がやすやすと敵を葬っていたであろう。包囲殲滅されるのは南部諸侯軍のほうと言うことになる。

 だが実際は霧に隠れて戦場全体が見えない中、中軍が敵中央部と交戦し、右軍が敵左翼とにらみ合ってしまった事で戦いの趨勢すうせいは決したといっていいだろう。

 また王師は左府、内府、羽林大将軍がそれぞれ部隊を指揮するのが裏目に出た。全ての情報を集め、指示するものがおらず、それぞれの軍が目の前の部隊と戦うだけということになってしまった。

 もし全ての情報が集まって、全体を統率する将がいたならば中軍や左軍に正対する敵の数が少ないことに気付き、中軍から右軍へと援軍を回しただろう。

 左軍も敵の影に怯えることなく、南部諸侯軍の右翼を粉砕してしまっただろう。そうすれば敵の意図はくじけたのだ。

 こんな無様に敗北することなど無かったはずだ・・・!

 いまさら言っても始まらないことではあるが。


 はっとエテオクロスは我に帰る。

 呆然ぼうぜんとしている場合ではない。急いで作戦を立て直さなければ。

 幸いなことに、我等はまだ敵と交戦していない。していないが故に取れる手段もまだ数多くある。

これが既に交戦中だったなら、陣を変えるのも移動するのも一苦労ではある、が内府の消極的な指揮がこうなったらかえって、取れる選択肢を多くしてくれたのだから皮肉なものだ。

 本陣に向かうと、やけに騒がしかった。といっても活発な議論が行われているとか、対策を次々に打っているとかいうわけではなく、何をしたらいいのか分からずに、皆、右往左往していた。

「内府様!」

「おお・・・いいところに来てくれた!」

 内府は完全にパニック状態に陥っていた。

「何故か敵は優勢で、中軍に襲い掛かっておるのだ! こ、これはいったい何事ぞ? いったい我等はどうしたらいい!?」

「落ち着いてください。とにかく中軍が完全に崩壊するのは時間の問題です。とはいえ、今すぐに崩壊するわけではないでしょう。我々に取れる道は大きく別けて三つ。一つは全力を持って眼前の敵を破り、南海道を下ってここを離脱する。敵は南部との連絡を絶たれます。また背後の我々が気にかかり楽に王都には進めますまい。二つ目は陣形を右側に向きなおし立ち向かう。敵は我々より数が多いですが、堅く陣を守り、粘り強く戦う。時間をかければ、いったんは戦場を離れた王師の諸師も戻ってくるやもしれません。また敵は連戦で疲弊するはず。いずれ何らかの付け入る隙を見せるかもしれません。そして最後の三つ目はトライアーナ街道を左に曲がり離脱する。そして捲土重来けんどちょうらいを計るのです」

 理路整然とエテオクロスが話すことによって、内府は少し落ち着きを取り戻した。

 そうか、そうだなと言うと少しの間考え込む。

「三つ目はワシの趣味に合わん。かといってこうなった以上、勢いに乗った敵と戦う二つ目を選ぶのも危険が大きい。・・・ここは一つ目の策で行こう」

「わかりました」

 エテオクロスは本陣に集まってきていた旅長たちに的確に指示を出す。

「我等はこれから眼前の敵を攻撃し、粉砕する。その後南海道を通り、青野原から南部へ脱出する。我等は後背を脅かすことによって、敵の王都進出を食い止める。そうすれば王師中軍と右軍に再起する時間を与えることが出来よう。復讐戦はその時までお預けだ。いいか、わかったな」

「はい!」

 先手を取られっぱなしだが、まだ完全に負けたわけではない。

 エテオクロスはこの恐ろしい戦術を考えた、まだ見ぬ敵将に闘志を燃やした。


 中軍は左府を討ち取ったことで、もはや抵抗する気力を失ったようだ。

 逃げれるものは南街道から逃げ、逃げ道がなくなった部隊は、あちこちで白旗を上げ降伏する。

 有斗はそれを受け入れる。下軍ですら受けいれたのだ。首謀者の左府ならともかく、一般兵士や将には有斗も恨みに思うところはない。ここは後々のことを考えると快く降伏を入れたほうが良いだろう、と計算したのだ。

 なにより、降伏を受け入れれば、彼らは心強い味方だ。リュケネがいい見本だと言えよう。

「陛下、左軍が動き出しました。どうやら南街道のほうへ進むようです」

「味方が全滅した、この時になって動き出しただって・・・? 逃げるつもりかな」

「恐らくは南街道を南に逃げることにしたのでしょう。交戦するのならば陣を敷きなおすでしょうし」

「逃げるだけなら、トライアーナ街道を南下するんじゃないかな? 前を防ぐ軍もいないし」

 有斗ならそうする。逃げると決まったなら、余計な戦いで兵力を消耗するのは損に思えるからだ。

「ただ逃げるだけならそうするでしょうね。敵は我々の背後を脅かすつもりです」

「そっか。後ろに敵軍がいると、僕等も不安だね」

「ええ、昨日までの我々よりかは有利な情勢になりましたけど、常に後背を気にしながら進むことになります。鹿沢城からの補給にも難をきたすでしょう。ここで確実に勝利しておきたいところです」

「アエネアス」

 少し前に出て戦場の様子を見ていたアエネアスをアリアボネが呼んだ。

「何?」

「アエティウス殿に使いをお頼みします。騎兵だけで急ぎ敵の足を掴んでちょうだい。足を止めるだけでいいの。止めさえすれば、時機に徒歩の兵も追いつくことでしょう。勝負はそれからです」

「わかった!」

 アエティウスに会える為か、有斗の警護という、安全だが退屈な仕事に飽きていたのか、アエネアスは馬に鞭をいれると機嫌よく駆け出していった。


「くそっ! 敵の守りが想像より堅い!」

 それに中軍の崩壊速度が速すぎるのだ。まもなく左軍は後ろの敵軍に追いつかれてしまうだろう。

 エテオクロスは焦っていた。三度突撃したものの、三度とも手痛いしっぺ返しを喰らい跳ね返された。

 王師下軍は王師の中では最弱であるといわれている。だがこの応戦ぶりはどういうことだ。

 いくらこの戦いで南部側が優勢に運んでいるとはいえ、二千の兵で一万の王師を弾き返したのだ。

 兵士たちは必ず勝つという自信を、指導者への絶対の信頼を持っているに違いない。

 兵に絶対の自信を与えうる者・・・か。


 ふと思う。

 ありえない幸運を拾い勝利を手にし、惨敗の中から立ち上がり復讐を遂げ、苦難の中で理想を指差し世界をその方向に導く者、歴史はときより、そういった神様に祝福されたとしか思えない英雄、偉人を生むことがある。

『数百年に一人の世界史的人物』

 目の前で立て続けに起こる想像を絶する事態にエテオクロスは思った。

 ひょっとしたら俺はそういったとんでもない男を目にしているのかもしれない。あの少年はやはり召喚の儀で呼ばれた本物の王なのかもしれない。


 だが、今は考えるのはそこまでにしなければ。

 今はとにかく一刻も早く眼前の敵を排除して逃げることだ。部下と自分の命がかかっている。


 アエティウスはアエネアスに命令を聞くと、すぐさまダルタロスの騎兵千五百全てを率い、突破に手間取って、南海道に未だ入れない王師左軍の後部に突き刺さった。

 これをあると備えていた王師左軍の殿しんがりは槍を立てて反撃し、騎馬は一瞬力を失ったかに見えたが、再び勢いを取り戻してついに陣を割った。

 ベルビオやアエネアスは遺憾なくその武勇を存分に発揮した。瞬く間に敵兵を切り裂き、そこを突破口にするように敵陣を二つに切り裂いている。

 やがてその前に分厚い兵の壁が現れた。本陣だ。

 馬印が見え、陣幕の向こうに旗が右往左往していた。慌てふためいているのがよくわかる。

 兵たちは石突いしづきを深く地中に突き刺し、槍衾をしたて、敵を食い止めようとする。それを見ると、アエネアスはくるりと馬首を返し側面へと回り込んで本陣に切り込んだ。その後をベルビオはじめ数騎が慌てて続く。

 側面から回りこまれても、前面には続々と突っ込んでくる敵がいる。兵たちは回りこむアエネアスらに対する術を持っていなかった。

 本陣に切り込まれ、内府は脂ぎった顔を汗だらけにしてうろたえた。

 近習の兵が内府の前に立ちはだかり、アエネアスを食い止めようとするが、アエネアスは青龍戟を振るい兵士たちを難なく排除する。

 内府は震える手で刀を抜くと、やたらめったら振り回した。

「く、くるなぁっ!」

 どうやら敵を近づけないようにしたらしい。

 アエネアスは苦々しげにそれを見ると、「見苦しい」と槍の石突で小突く。

「わ・・・わわっ!」

 見苦しく転がる内府に馬を寄せ近づいた。

「恨みはないんだけどね。これが戦なのよ」

 と言うと首を一刀の元に切り落とした。

 首がゴトリと音を立て転がり、内府の首から血が噴出す。

 と同時に、クモの子を散らすようにして本陣近くにいた兵たちも逃げ出した。


 ヒュベルとエテオクロスは決死の突撃を二度三度と敢行して、ついに南街道の向こうに下軍二旅を追い払うことに成功した。これで道は開けた。南へ退くことができる。

 だがその時に内府が死亡したとの知らせが二人に届く。

 大きな溜め息が二人の口かられる。

 内府を守れなかった。総大将を討ち取られてはどんなに活躍しようとも、戦は負けである。

 エテオクロスは残余の兵をまとめると、力なく南街道を南に下る。

 一方、有斗は追撃を主張する諸侯らをなだめ、兵を退いた。

 内府と左府は討ち取り、王師三軍は敗北したのである。羽林大将軍も重症を負って逃げているという話も入ってきていた。

 もはや戦の趨勢すうせいは決まった。これ以上、追撃して敵味方共にさらに死屍ししを増やすのは愚計と言うものだ。

 戦場を横断するように北から南へと移動し戦ったのだ。兵も馬も疲れていた。

 有斗は勝ちどきを上げさせ、勝利を祝う。

 青野原に歓呼の声が上がる。戦は終ったのだ。


「今日はここで野営しよう」

 有斗はくたくたに疲れて、地面に座り込んでいる兵たちを見てそう言った。

 アリアボネはそうですね、と同意を示した後、

「逃げ去った王師たちに降伏を勧めてみては?」と献言した。

「そうだね・・・そうしよう。左府と内府は死んだことだし」

 そう言った有斗にアリアボネは遠慮がちに

「まだ羽林大将軍の安否は不明ですが・・・?」

 と顔色をうかがうように言った。

「どうしたらいいと思う?」

「陛下はどうしたいですか?」

 逆に訊ね返される。

「どうしたいかと聞かれれば答えは一つ。殺したい、だよ」

 そう、セルノアのことを考えると有斗の答えは一つ。ただ一つしかない。

 アリアボネは目を伏せ、口をつぐむ。・・・でもそれは有斗が予想していた態度でもある。

「・・・」

「でも君が薦めるのは違うんだろ?」

「はい」

「わかってる。命までは取らない。さすがに今までのように朝廷で高い位につけるわけにはいかないけど・・・約束する・・・これでいい?」

「陛下の大いなる心遣い。感謝します」

 安堵した表情を浮かべ、アリアボネは手を組んで、大きく有斗に一礼した。


 王師三軍に使いを出す。

「疲れているところを申し訳ないんだけど」

 と有斗は集まってくれたリュケネはじめ下軍の旅長たちに頼み込む。

「彼等を降伏させて欲しいんだ。条件は君たちと同じ。旧悪は一切問わない。僕に忠誠を誓うだけだ」

「命じられればどんなことでもやります。が、武器を扱うことはともかく、口で説得するなど我々はあまり得意ではありませんが、それでもよろしいので?」

 普段やったことのない任務に旅長たちは戸惑いを見せた。

「僕等よりも現実に帰順した者から言葉を聞くほうが、彼らも安心するだろうと思う」

 それに同じ王師だ。少しは交流があるだろう。相手も安心するに違いない。

 有斗のその言葉に納得したのか、将軍たちはその任務を受けてくれた。

 リュケネは南海道を南下し、王師左軍に接触を図った。

「我等下軍が王の追放に一番加担している。にもかかわらず、陛下は大きなお心で我等をお許しくださった。諸卿らが何の処罰も受けないのは明らかであろう。それにもはや左府も内府もいない。諸卿らは誰に忠誠を誓い、王と戦うというのだ? もともと王師は左府のものでも内府のものでもない。王のものなのだ。本分に戻るだけなのです。降伏を受け入れられ槍を収められてはいかがか?」

 リュケネはエテオクロスら王師左軍の将校たちに熱心に説いた。

 エテオクロスはあえて同じ王師の将を使者として送った王の気遣いに感謝した。

 もし南部の諸侯の一人でも使いにやっていたら、勝利者であることをひけらかし、尊大な態度で接するだろう。きっとその言葉に反発を覚え、エテオクロスたちは心情的にたやすく下ることは無かっただろう。

「わかった。卿の言うことだ、間違いはないだろう。それに内府殿が死んだ以上、我々もどうしたら良いのか途方にくれていたところだ」

 エテオクロスはそう言ってニヤリと笑った。

「我等左軍は陛下に忠誠を誓うことにする」

 リュケネは大役を果たしたことに安堵あんどの表情を浮かべた。


 翌々日には右軍、中軍、左軍全ての将兵が有斗に帰順した。

「右軍の兵によると羽林大将軍は深手を負い、逃げている途中で命を落とされたとか」

「・・・そうか」

 これで有斗に対して起きた叛乱の元凶は全て死んだ。

 だけれども有斗には満足感はなかった。

 三人が死んだからと言って、代わりにセルノアが生き返るわけじゃないのだから。

 そこまで思って、有斗は自分が考えていることに嫌悪を覚えた。

 だって・・・?

 セルノアはまだ死んだと決まったわけじゃない。

 確かに・・・まだセルノアの安否は不明だ。

 だけれども王師を破って障害はなくなったのに、ここまで王都に近づいたのに、セルノアは現れない。ということは、つまり・・・

 有斗がセルノアについて考えることは日々悪いほう悪いほうへと想像が流れていった。

 でも、何らかの理由で出て来れないだけなのかもしれない。一縷いちるの希望にすがるように望みを託す。

 きっと・・・まだ生きている。そうさ、王都に行きさえすればきっとまた会える。

 ようやく・・・ようやくだ。ようやく王都に戻れる。

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