第60話 誰がための表現
歌手の鬼束ちひろが、デビューして20周年だという。中学の頃によく聴いていたが、最近はご無沙汰だった。
直近の歌声は初期の頃に比べて力強くなり、同じ歌でもこうまで違うのかと感慨深くなった。
大人になってからわかったことがある。彼女の歌は自己肯定のためにあって、他人のためのものではないという気がする。
女の子の応援ソングを作りたいと言った椎名林檎とは対照的である。椎名林檎の場合、どこかビジネス的というか冷めた視点を感じる時がある。
鬼束ちひろの曲は、月光にしろ流星群にしろ、自分の苦境について歌ったものが多い。わけわからんしんどいそれでも絶対倒れない。意外と後ろ向きな事は歌わない。共感を求めるというより、歌で自分を癒しているように見える。
関連して、カートヴォネガットという作家を思い出す。ヴォネガットの作品を少し読めばわかるが、戦争の体験が色濃く残っている。創作を通じて人生に折り合いをつけているのだと思うと、素直に楽しめない時期もあった。
タイタンの妖女という作品では、物事の意味についてはほとんど語られない。偶然に見える全ては必然なのだというメッセージは推し量れるが、それ意外はひたすら破茶滅茶な展開が続く。
その破茶滅茶に、つい意味を求めてしまうのだが、そもそも人生に意味などないのだと言われている気がして、これもある意味人生賛歌だよなと納得してしまう。
基本、人間は自分のことに手一杯で、他人に手は回らない。何かのついでに救われると思っていた方が楽かもしれない。
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