第18話 我が名はナスターシャ ツンデレの遣い手にして料理人と女中を兼ねる

人に求め、訴えようという熱がなくなりつつある。


いまに始まったことではないが、そもそも他人に興味が持てない。皆さんも本当は誰にも興味はなくて、自分が可愛いだけなのだろう。自明のことだから誰も言わないだけで。


作品を読んでくださいというのもなんか面倒というか。


作家先生様になりたいわけでも、印税で仙人のように暮らしたいわけでもないというか。


願わくば、世界最高の小説を死ぬまでに読みたい。


それがどういった代物か、私も知らないし、既存のものでは勿論ない。


機械が作るかもしれないし、あなたが作る可能性もある。


とはいえ、ネット小説にその萌芽が認められないのは残念だ。いわんや紙の本をや。


私の結論として、ネット小説は小説ではなかった。なるべくしてそうなっているのでこの結論は変わらない気がする。


ネットという場所は自分の望む情報を得ようという欲求が非常に強い。それは誰しも思い至るはずだ。


だから視野狭窄に知らず知らずのうちに陥るリスクに常に晒されている。


それは怖いことなので、あまりネットをやりたくない。ネットで頭がよくなる気がしない。これ以上バカになりたくない。


これも視野狭窄だが、それは置いといて。


ネット小説も同じ論理が働く。読みたいものを読む。その他は知らんぷり。


別にこれは不思議なことでもなく当たり前で、私も好きな音楽、好きな漫画を手に取る。嫌いなものを趣向するのもおかしな話だ。


ここからは私に限った話だが、私は小説を面白いと思うことがほとんど無い。ドストエフスキーの罪と罰を読み返しているが、どこかライトノベル的な部分を嗅ぎ取ってしまう。料理人にして女中のナスターシャがツンデレな幼馴染に見えて仕方ない。スープ作って持ってきてくれるんだぜ。いいだろ。結婚したい。ナスターシャは俺の嫁。


作品全体としては今の自分では把握し切れていないというのが本音だ。わからない部分は恐らく永遠にわからない。キリスト教徒でもないし、ロシア人でもないというのは言い訳として成立するのか微妙な所だ。


細部に目を向ければ、ナスターシャに希望がもてるということか(?)芸術は細部に宿るというのはこういうことなのかもしれない。つまりネット小説には細部を描く抱擁力が存在しないと、私は見る。これはナスターシャを描けばいいという問題でもない。どうでもいいが、ナスターシャは何故女中にして料理人という二つの肩書きがあるのか。よくわからんが、笑い出すと止まらないという妙な癖といい印象に残るキャラである。


小説は面白くないのではなかったか。小説は確かに面白くないし、これからもつまらないと思う。何故つまらないかというと、やはり抱擁力は大きければ大きいほど全容を把握するのが難しくなるからだろう。把握できればあるいは……?


自分の知らない世界があることを知るのも面白い。


やはり小説は面白いということにして出版社さまさまに媚を売るのが上策だろう。


小説自体ではなく、そこから生まれる知見が面白いという方がしっくりくるのだが。君の意見を聞かせてくれ、ナスターシャ。









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