第2話 舞由

 雨が去り、薄暗い雲の覆いが払われた夜空に白く輝く月が地に光を落としている。月の下に広がる集落にはまだところどころ明かりがともり、時折ときおり人の会話や笑い声が聞こえてくる。

 その集落へと流れゆく一筋の川をさかのぼると、集落から遠く離れたところに神々が作り上げた聖なる森と妖したちの作り上げた妖の住まう森、この二つの森が川を挟むようにして存在している。

 神の森の対岸たいがん、妖の森の近くに、一軒いっけんの見るからに古そうな家があった。川の途切とぎれることのない流れがかなでる心地よい音の中に、妖の森の奥から草の踏まれるくぐもった音が重なる。森の奥では白いもやのようなものがらめいている。踏まれる草の音は段々と大きくなり、森の奥からこちらに迫ってくる白いもやのようなものは次第に薄まってある姿をかたどっていく。

 森の外に出たそれは、月の光に照らされその姿をあらわにした。小さな仔狼をくわえた美しい白銀しらがね色の雄狐であった。咥えられている仔狼は揺られているうちに眠ったのだろう、気持ち良さそうに熟睡している。銀の雄狐、彼は森から出るとゆっくりとそのあかりの消えた古い家へと近づいていった。

 彼は家の古びた引き戸の前で立ち止まった。仔狼を柔らかい草の上にそっと下ろしてしなやかな足でび、空中でかろやかに一回転した。着地した足、それは狐のそれではなかった。

 静かに地に降りたのは、先程さきほどの狐のように美しい銀の髪の背の高い青年であった。竹のようにしなやかでありながらも、程良ほどよく筋肉のついた力強い肢体したいぎ澄まされた刀の切先きっさきのように鋭いが、優しい光をはらんでいる切れ長のあおい目に、整った顔。雄狐はとても美しい青年に変化へんげした。

 青年に化けた雄狐、彼は草の上でじっとしている仔狼を優しく抱き上げる。そして左腕で包むように仔狼を抱きかかえると、軽く丸めた手の甲でコンコンと数回引き戸を叩く。息なきものの息遣いきづかいに包まれた草原に乾いた木を打つ音が響いた。

 残響ざんきょうが消えせ草原に再び息なきものの息遣いきづかいが訪れる。吹きゆく風に撫でられる木のささやき、水が川の流れの中を旅する音が辺りの空気をたす。

 数秒後、暗い家の中で何やらドタドタと忙しい音がした。彼が不審ふしんに思い、首をかしげていると引き戸のすぐ向こう側からガチャガチャと不快音が聞こえてくる。鍵を開けるのに苦戦しているのだろうか、先程から戸がせわしなくガタガタと小刻みに揺れている。数分も後、苦戦の末ついにかぎが開いたのだろう。不快音が消えた次の瞬間、スパンと音を立てながら勢い良く引き戸が開いた。

 戸の向こう側で鍵穴と戦っていたのは一人の女性であった。黒い目にうなじった腰まである黒いつややかな髪は真夜中に起こされたせいか乱れている。白い寝巻きに包まれた色素の薄い肌を持つ均整きんせいのとれた肢体が夜目よめく狐の眼にうつった。

 真夜中に起こされて虫の居所が悪いのだろう。どこかでぶつけてきたのであろう赤いひたいさすりながら、口をとがらせて彼を見上げている。

「どうしたんですこんな夜更けに。せっかく気持ちよく寝ていたというのに」

愚痴ぐちっぽく彼女が言った。彼女を見たとたんあきれたように彼の口からはぁ、とため息がでた。眼の色が先程までの明るい碧から深みを増した。

「その前に、いつも言ってるでしょう?戸を開ける前に必ず確認と。俺じゃなかっ

たらどうするんですか。少しは用心してくださいよ。ちょっと、聞いているんですか舞由まゆ!」

彼が優しく舞由を諭す。その顔色は怒っているというよりは、どこか心配しているようだ。

「だって、けい以外誰も来たことないから・・・」

ぶつぶつとだって、だってと言い訳をしている。銀狐の蛍はそんな舞由をしばらく見下ろしていたが、やがて下を向いて深いため息をついた。ふと、仔狼が視界に映り先ほどの大きな声で起きてしまったのでは、と心配する。しかしそんな心配は無用むようだったようだ。小さい寝息をたてながら、ぐっすり眠っている。腕の中でさも気持ち良さそうに寝ている仔狼を見ているうちに、蛍の眼は再びもとの碧に戻った。

ものうごめく森の近くに建っているこの家に、通常は人間は来ないかもしれない。しかし、例外はいつだってあるもの。貴女は命を狙われることだってあるのですし、あの子を危険にさらしたくはないでしょう?もう少し命を大事にしてくださいよ」

 穏やかな眼差まなざしで舞由をさとしていると、舞由はゆっくりと顔を上げ渋々しぶしぶながらも、わかったと首肯しゅこうした。

 舞由の様子をみていた蛍は安心したようすで、よかったと呟いた。

 「ずっと、立っとくわけにもいかないし、中に入ろうか」

笑いながら舞由が提案する。まだ空には月が浮かび、森からはひそひそと話す声がきこえる。

 「そのために来たんですけどね」

顔に微笑を浮かべながら蛍がこたえる。

 「なんだ、そうだったんだ。あ、ってことはここに来たのはその子のことか」

なるほど~と頷きながら家の中に蛍をあげる。蛍は礼儀正しくおじゃまします、と小さな声で頭を下げる。正面ではすでにあがっていた舞由が可笑しそうにくすくすと笑っている。

 「いちいち頭下げなくていいのに。ここは蛍の家でもあるんだから」

と舞由が言った。

 「いえ、そういうわけにもいかないでしょう・・・・」

蛍の表情が陰り、瞳の色も哀を含んだ色に変化する。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

悲しい君の嘘 沙里奈 @sarina

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ