悲しい君の嘘

沙里奈

第1話 雨の日の鳴き声

 しとしとと雨の降る春の夜。何の前触れもなく糸のように細い一筋の白い光が、神々の住まう天からあやかしの住む森に降りた。辺りを照らしたそれはほんの一瞬で消え、再び闇が森を覆った。

 遠くの丘でそれを見ていたものがいた。それは、白銀の毛皮の若い雄狐であった。

 彼はしばらく光の糸が消えた暗い夜空を見つめていたが、やがてゆっくりと闇から視線を外しきびすを返そうとした。そのとき、突如とつじょとして鋭敏えいびんな狐の耳を小さく悲しげな鳴き声がかすめた。彼は去ろうとしていた足を止めると、今度は空ではなく光の降りたであろう森を見据えた。

 妖したちが動いた時に時折揺れる枝葉の擦れる音。名も知らない死者の魂をすすり笑う不気味な妖の声。

 その中に、かすかかだが明らかに妖のそれとは違った声が聞こえた。

 ーあそこには何があるのだろう。

 興味をそそられた彼はそのしなやかな四肢ししで地を蹴り妖しの森へと駆けていった。

 小さな鳴き声のする方へと耳を頼りに森の中を疾駆しっくした。時折、聞こえてくるのは妖したちが彼を笑う声。木や地面から雨に濡れた森の優しい匂いがした。心地よい匂いを胸に木々の間を駆け抜けた。

 やがて雨の降る音が止んだ。木々のはるか上空では、鈍色にびいろの雲の割れ目からこうこうと輝く白銀しろがねの月が顔を出した。

 月に照らされて葉に乗ったいくつもの小さな雫が木々をきらびやかに飾り立てた。

 声が近づいたとき、森の匂いが変わった。今までの濡れた地面や葉の臭いの中にふわっと甘くて柔らかい匂いが少し香ったのだ。それは、進むにつれだんだん強さを増していった。

 匂いが強まり、声が一段と大きくなったとき、あたりが開けたところに出た。そして、とうとう甘い匂いの元が姿を現した。

 桜だ。とても大きな桜の大樹。天を突かんばかりに大きく広げた枝には、満開の花が咲きほこっていた。

 妖しの森は、大樹を囲むように広がっていた。

 その大樹のこけに覆われた太い根のあたりから鳴き声が聞こえた。

声に引き寄せられるように木の根元を覗くと、小さな狼が悲しげに鳴いていた。まだ生まれて間もない、目が開いていない仔狼。

 ーなぜ仔狼がこんなところにいるのだろう。本来、狼とは群れで動く獣だ。それに狼は神の使いだ。妖が神の森を真似て作ったような森なぞにいるはずがない。神の地で生まれ、神の地を駆け、神の地で死ぬ。そういう獣のはずなのだ。

  だが、この地に狼が降ろされたのは神のおぼしであろう。

 長いこと幼い狼を見ていた彼は、その小さな襟首えりくびをそっと噛むと首を上げた。

 噛むとき、仔狼はいきなりのことに驚いたのか鳴くことを止め、筋肉が緊張した。しかし、直後安心したのか仔狼の体の力が抜けていくのが、彼に伝わってきた。

 彼は仔狼をくわえて木を離れると、妖しのうごめく森へと姿を消した。

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