Act2

「The last laundry」

 その駅は無人駅のようだった。

 ホームにも、改札にも、その先の待合室にも誰も人の姿は無かった。

 ホームの両端の向こうにはそれぞれ橋と線路が続いていて、この駅のところだけ水面すれすれまで線路が降りてきていた。

 僕はホームに降りると、背中のアカリを背負い直して後ろを振り返った。

 一体どうなっているのか、二、三両先にはちゃんと先頭部分の車両があった。それは博物館にでもありそうなSLで、ちゃんと石炭を積む車両もあった。ただ、その巨大な箱のような二つ目の車両には、ここからだと石炭は入っていないように見えた。

 今立っているホームはそれほど広くない。汽車はそのホームにピッタリと収まっている。アカリが言うには、どれだけ行っても最前の車両にはたどり着けなかったらしいのに。

「……まあ、いいか」

 カムパネルラを名乗る車掌との会話を思い出し、深く考えることはやめた。

 今は、見えているものを信じよう。

「おじゃましまーす……」

 改札を抜ける時に、一応声をかけてみたけれど、案の定返事は無かった。

 駅の造りも、汽車やカムパネルラと同じようにまるで大正とか明治時代が舞台の映画に出てきそうな木造で、どこか洋風な造りだった。吊るされているライトも汽車の中にあるものと似た感じだった。

 そのまま恐る恐る待合室を抜けて、駅の外にでる。

 そこにはちょっとした石畳の広場になっていて、真正面には両側に木の生えているあぜ道が続いていた。ただ、両側から波の音がすぐ近くに聞こえる。どうやら、島のような場所らしい。

 あぜ道と木の間にはこれまた古風な外灯がポツポツと並んでいて、一番初めの外灯の下には『くりーにんぐや このみちのすぐさき はなぢもすぐにおとしますうでまえ』と下手くそな字で書かれていた。

「こいつは都合がいいやー」

 なんてふざけた声を出しながら、そのあぜ道に突入する。

 空には規格外の満月が浮かんでいるとはいえ、夜には違いないのだ。おまけにあぜ道の向こうは右にカーブしていて先が見えない。そして、いくら覚悟を決めたとはいえ、若干の緊張もあった。

 何が待っているか分からない。

 それでもなるべく不安にならないよう心がけた。もうあんな暗闇は嫌だった。

 ……ところが、そんな心配は杞憂に終わった。

 カーブを抜けるとそこには砂浜があった。

 いや、砂浜と言うよりはビーチと言ったほうが正しいかも知れない。

 そう呼びたくなるような、何だかマヌケな小屋が一軒建っていた。

 赤と白のパラソルと、まるで洗剤のCMのようにはためく白いシャツの群れが干されているデッキ……そして何より、赤い屋根に白塗りのペンキの壁……小屋と言うよりビーチハウスと言ったほうが良いかもしれない。水辺の方に向かってデッキが突き出している。

 そしてそのビーチハウスの玄関の上にはさっきの看板と同じような下手くそな字で「くりーにんぐや」と赤いペンキで書かれていた。そこだけ若干、怖い。

あぜ道から砂浜に変わった足元に苦労しながらどうにかその小屋まで辿り着き、恐る恐るそのドアを叩いた。すると。

「はいはーい」

「はーい」

 二人の子供の声が聞こえた。

 思わず身体に力が入る。

 カムパネルラの「映写機になってしまう」と言う言葉を聞いてから、少し予感めいたものがあった。ただ、実際にまたその声を聞くと、あの時を思い出して、どうしても緊張が走る。

 子供の声のうち、一つはあの暗闇の中で聞いた、幼い僕の声だった。

 ゆっくりと、ドアが開かれる。

 室内の明かりを背に出てきた二つの小さな影は……案の定フィルムに写っていた幼い僕らだった。でも、あの草原の中に居た二人とは若干雰囲気が違う。

「おお。おきゃくさまー。いらっしゃいませー」

「ませー」

 女の子の声に続いて男の子が語尾を真似ている。そういう遊びなんだろうか。女の子は白いワンピース、男の子はシャツに短パン、サスペンダーという格好だった。

「えっと、ここはクリーニング屋さんであってる?」

「そりゃあ、もちろん。みたところはなぢですなー?」

「ですなー?」

 横に回りこんで、僕の背中とアカリの胸元の汚れをしげしげと眺めている。

「そうなんだ……ちょっと待って、服を引っ張らないで!」

 問答無用に服を引っ張られるので、アカリを近くの砂の上に下ろす。すると蟻の行列を眺めるように幼い二人がアカリの横にしゃがみ込んだ。

「どうだろう。落ちるかな? 僕らこれしか服を持っていないんだ」

 しばらくしげしげとアカリを眺めていた女の子がすっくと立ち上がって、その小さな胸を張る。

「はなぢだったら、おてのものー。ここのみずは、よごれ、なんでもおとすー」

「おとすー」

 そう言って、水辺の方を指さす。

「そっか。じゃあ、お願いします」

 なんの気なしに笑顔でお願いした。……それが間違いだった。

「まいどー。……ふふふ。それじゃあ、さっそくふくをぬげー!」

「ぬげー!」

 ある意味、あぜ道で感じた不安は当たっていたのかもしれない。

 僕の注文を受けた二人は眼の色を変え、まるで子鬼のように僕のシャツに飛びかかって来た。




 夜の砂浜というものは、良いものだった。

 星は例の巨大な満月しか無かったけれど、その分、全ての星明かりを一手に引き受けたような銀色の光を水面に落としている。それは黒い波に乗って、この砂浜までやって来て、静かに消えていった。ただでさえ不思議な夜に、その波音を聞いている時間は神秘的でもどこかほっとするような、そんな時間だった。

 ただ……。

 大の男が上半身裸で夜の砂浜に体育座り、というこの絵面は如何なものだろうか。


 あの時、子鬼共に僕の服を剥ぎ取られたのは……まあ、百歩譲って良いだろう。問題はその後だった。

 僕の鼻血で汚れたシャツを剥ぎとった子鬼共は当然、次の獲物に狙いを定めた。

 止める間も無く……誓って言うけれど、本当に止める間もなく、アカリのシャツも剥ぎ取られてしまった。

「それじゃあ、さっそく、おしごとだー」

「だー」

 その言葉を残し、獲物をまるで大漁旗のようにはためかせながら二人は小屋の中へ消えていった。後には上半身裸の僕とアカリが残された。

「……。」

 一瞬、このタイミングでアカリが元に戻ったら、という最悪のパターンが脳裏を過る。カムパネルラが言うには、もうそろそろ意識が戻ってもおかしくなかった。

 砂浜の上をゆっくりとアカリに近づき、なるべく首から下を見ないようにして、恐る恐る声をかける。

「……アカリ?」

「……ん」

 僅かに反応があった。でも、まるで寝坊助のような反応だった。まだ、目覚めには少しの猶予が在るらしい。

 その時、僕は選択を迫られた……冗談ではなくて。

 このままアカリと共に砂浜に残るか、それともあの二人に頼んでビーチハウスの中にアカリを寝かせて貰うか……。

 三秒で答えは出た。

 僕は覚悟を決めると、なるべく素早く、かつあまり乱暴にならないようにアカリを背負った。背中にあまり大きくは無いけれど、確かに柔らかな二つのものが当たる。それに続いて、背中全体にさっきの服越しとは確実に違う感触が広がる。……正直、意識しないほうが無理だった。何故か、頬に感じる二の腕や、さらさらと首をくすぐる黒くて長い髪も、さっきまでとは違う感触になっている。暗闇の中とは別の意味で気が狂いそうだった。

 それでもどうにかドアまで辿り着き、あまり身体を動かさないようにノックした。

「ごめん。ちょっと開けてくれないかな……出来れば早急に」

「くりーにんぐは、まーだだよー」

 返ってきたのは男の子の声だけだった。

「そうじゃなくて、アカリを……この子をちょっと中で寝かせといてくれないかな? 出来れば何か上に羽織っておいてくれると嬉しいんだけど」

「おやすいごよー!」

 すると男の子がドアを開き「どうぞー」と中に招き入れてくれた。

 建物の中は思っていたよりも広かった。デッキ側には大きなスライド式のガラスのドアがあり、部屋の中央には木製の大きなテーブルがあった。床はフローリングの上にシンプルな柄の絨毯敷かれている。外の外見とあわせて海辺のペンションのようだった。

 テーブルの脇の絨毯の上になるべくゆっくりとアカリを仰向けに寝かせて、その脇に彼女のルーズリーフとペンを置いた。すると男の子が恐らく自分の物であろう小さなシャツを持ってきてくれた。

「かけるもの、これでいいかー? そとのおおきなのはまだかわいてないー」

「いいよ。ありがとう」

 男の子からその小さなシャツを受け取ると、これまたなるべく見ないようにしてアカリの胸元に被せる。ヘソ辺りが隠れていないけれど……これはしょうがない。

「ぐあい、わるいのかー?」

 男の子がアカリの顔を覗き込みながら尋ねてきた。

「そうだね……。でも、もうそろそろ良くなるよ。心配しないで」

「そうかー。よかったなー」

「うん。良かった。……そう言えば、女の子は?」

 辺りを見渡しても女の子の姿は見えなかった。ドアは僕らが入ってきた物しかないようだから、他に部屋が有るわけでもなさそうだった。

 男の子がアカリの顔をぺちぺちと触りながら、答えた。

「みずのなかー。くりーにんぐ、みずのなかでするー」

「水の中? それってあそこの?」

 思わず、砂浜の先を睨む。波は穏やかとは言え、水面は真っ暗だった。

「大丈夫なの? 溺れたりしない?」

「だいじょぶー。あらいおわったら、すぐにかえってくるー」

「そう……。それなら良いんだけどさ。君はお留守番?」

「そう。いつも、そう。ぼくはおよげないし、なにより……」

 そこで男の子はアカリの顔から手を離し、口ごもった。

「なにより?」

 先を促すと、男の子は立ち上がりデッキのシャツの群れを指さした。

「ねえ、おにいさん。そこのシャツたち、なににみえる?」

「えっと……普通に洗濯が終わって、干されているシャツかな」

「あのこも、そういう。……でもね」

「でも?」

「ぼくには、まるでくびつりにみえる」

 振り返った男の子の顔はとても不安そうだった。

「だから、くりーにんぐ、てつだえないんだ。ひもなんです。しりにしかれています」

「……そっか。似たもの同士だな、僕ら」

「おにいさんも、しかれてる? ひも?」

「しかれてるほうかな」

「そっかー。おたがい、くろうしますなー」

「そうだなー」

 野郎二人で笑い合う。思えば、幼い自分の顔をしているとは言え、この夜で初めてあった同性だった。

 ひとしきり二人で笑った後、男の子が気を効かせてくれた。

「おにいさん。ぼくがみてますから、はまべでまってて。はだかみたからおこられるんでしょ?」

「流石、話が分かるね」

「ぼくも、たまにおこられますから……」

「お互い苦労しますなー」

「そうですなー」

 そこでまた笑い合う。

「ここは、ぼくにまかせて。かわりにあのこがうかんできたら、シャツをはこぶのてつだってあげて。おおきいのひさしぶりだから、たぶん、おもい」

「わかった。任せとけ。代わりにアカリのこと、頼むな」

「おっけー。おとことおとこのやくそく!」

 そう言って小指を出してきた男の子と指切りをした後、僕は砂浜に向かった。



 そして、今に至る。

 男の子にアカリを任せてから、十分程経っただろうか。まだ女の子が戻ってくる気配はない。

 ずっと水面を見張っているのも馬鹿らしくなってきたので、そのままごろんと横になった。視界の左側は大きな月が半分ほど埋めていた。そっちの方角はちょうど汽車で向かっている方角だった。

 波の音を聞きながらなんの気なしにそれを眺めていると、さっきの男の子の台詞が浮かんできた。

 ――ぼくには、まるでくびつりにみえる――

 確かに、夜の闇の中で見ると、そう見えなくもなかった。

 風に吹かれてゆらゆらと揺れるシャツたちは、まるで亡霊にも見えるかもしれない。

 カムパネルラは言っていた。

 見える世界は人それぞれに違う、と。

 きっと女の子にはただのシャツに見えるのだろう。そして男の子にはそれが首吊りに見える。

「……。」

 ズボンのポケットに手を伸ばす。そこには、剥ぎ取られる前に移しておいたフィルムの切れ端があった。

 その切れ端を月の光に照らす。

 相変わらずそこには、草原を走る幼い僕らの姿があった。

 でも、どうしてもそこに写っている二人と、ここのクリーニング屋の二人が同じとは思えなかった。何かが決定的に違う。その何かは全く持って分からないのだけれど。

 僕がそう感じることにも、意味が有るのかもしれない。

 ――捨てるか捨てないか、加工するかそのまま受け入れるか、はたまたすり替えるか――

 また、カムパネルラの声が甦る。

 彼女は、此処は曖昧な場所で映写機にもなってしまう、と言っていた。恐らくこの場所も僕らの思い出せない記憶が――フィルムが映し出している世界なのかもしれない。

 そして厄介なことに、そのフィルムは人それぞれ、だ。

 さっきのシャツ群れのように、一方にはただの洗いざらしのシャツでも、もう一方には首吊りに見える。まったく同じ顔をしているのに、草原を走る二人と、クリーニング屋の二人は別に思える。見ている世界には必ず差異がある。それはそれぞれのそれまでのフィルムにしたがって、まるで暗喩のように世界を造り変える。

 そうなると、この場所が僕らの記憶を映し出している世界だとしても、僕らが経験したことをそのままの状態で追体験は出来ないだろう。事実を元に加工された世界なのだ。

 だから僕は必死に目を凝らして、今観ている世界から真実を探さなければならない。


「……ふう」

 そこまで考えて頭が痛くなってきた。

 まるで何の根拠も無い空想哲学だ。

 それでも、覚悟を決めたからには、目を背けることは出来なかった。

 実際に今、目の前にはそういう世界が広がっているのだ。それを受け入れて、そして旅の終わりに……アカリのあのフィルムを二人で受け取らなければならない。

 どんなにおかしな状況に置かれていようと、そう決めたのだ。

 今は目の前で起きていることが全て、なのだ。

 それを一先ず今は素直に受け止めていくしかない。

 幼い僕らの顔の子供二人、砂浜のクリーニング屋、首吊りに見えるシャツ、水の中にシャツを洗いに行った女の子……。

「……嫌な連想ゲームだな」

 と、その時。

「ここどこー! なんで、はだかぁ!」

 頭の上の方から……正確にはクリーニング屋の中から、なんだかもう懐かしく聞こえてしまう声が響いてきた。


 

 夜の砂浜というものは、辛いものだった。

 波の音や、月の光、そういうものは変わっていない。

 ただ、足から伝わる痛みが加わるだけで、それらが神秘的だとか、そういう感慨は無くなってしまった。

 これもきっと、フィルムだとかレンズだとか、そういう話になるのだろう。痛みが加わって今僕の観ている世界が変わったのだ。

 それで分かった事は一つ。

 夜の砂浜は、正座するのには向いていない。


「あのね、カガミに分かる? 目を覚ましたらいきなり上半身素っ裸で、知らない部屋の中に居た私の気持ちが」

「はい……。それはとても不安だったろうと思います……」

 目の前にはアカリが腰に手を当てて、仁王立ちしていた。

 その前に僕と、何故か男の子まで一緒に並んで正座していた。

 正直、アカリの声が聞こえた時、ちょっとだけ期待していたところもある。

 抱きしめあって感動の再会……までは行かないにしても、もうちょっとこう、しおらしいアカリを観ることが出来るかも、という妄想もあった。

 でも、そんなことは無かった。

 砂浜から起き上がり、振り返った僕に見えたのは。

 泣きながら走ってくるいじらしい女の子ではなく、まるで人さらいのように男の子の手をがっつりと握り、砂浜を闊歩してくる鬼の面のアカリだった。


「それで、ここはどこなの?」

 少し勢いは無くなったとは言え、まだ眉間に皺を寄せているアカリが腕を組んで水面を睨んでいる。因みに、胸には男の子が持ってきてくれた小さなシャツを巻いていて、スカートとあわせて、そういう水着のようだった。

「……くろうしてますなー」

 隣の男の子が僕にだけ聞こえるような小さな声で、憐れんでくれた。同じく小さな声でそうなんだよー、と返した。

 ……さて。

 色々と説明する前に、僕もアカリに確認しておかなければならない。

 痺れた足についた砂を気合で振り払い、僕は立ち上がった。

「アカリ。どこまで覚えてる?」

「その前に、ここはどこかって」

「アカリ」

 自分でも驚くほど硬い声で、アカリの声を遮った。

「ちゃんと説明するから、その前に僕の話を聞いて。どこまで覚えてる?」

 じっとアカリを見据える。

 アカリは目を真ん丸にして、口を鯉のようにパクパクとさせていた。驚いているようだった。

 それから少しだけ不安そうな顔になると、おずおずと口を開いた。

「……カガミが手を怪我した辺り、かな」

「その後は、どう? 覚えてる?」

「ちょっと待って……、汽車の中が真っ暗になったよね? そしてその後は……その後は覚えてない」

「ふむ……」

 大体予想していた通りだった。

 やっぱりアカリも、あの暗闇の中でフィルムを手に入れたのだろう。そして、そこに写っている記憶を受け止められなかった。……受け止められなかった?

「アカリ。汽車に乗る前のこととか、何か思い出してない?」

「……思い出してない、と思う。あ、でも」

「でも?」

「なんだかこの砂浜……見たこと、あるかも」

 そこで何か怖くなったのか、アカリは辺りをきょろきょろと見渡しながら、自分の身体を抱きしめた。

 ……見たことのある砂浜、か。

「ねえ、カガミ。私、気を失ったの? その間に何があったの? ……お願い、もうそろそろ教えて。知らないことが有るのが、すごく怖い」

「……わかった。大丈夫だよ。ちょっと長くなるからこっちに来て座って」

 少しの罪悪感を抱きながら、砂浜をぽんぽんと叩いて、アカリを呼び寄せる。

 すっかりしおらしくなってしまった女の子が僕の横に座った。



 波の音を聞きながら、僕はアカリにここに至るまでの経緯を話した。

 ただ、暗闇から帰ってきた後のアカリの様子と、それと彼女が持っていた真っ黒なフィルムのところはボカして……多少の加工をして、伝えた。まだ伝えないほうが良いと思ったのだ。

「それじゃあ、フィルムを集めて、最後にそのカムパネルラって子に会えば良いのね?」

「とりあえず、そんな感じ」

「かんじー」

 男の子は途中で話に飽きたのか、砂で城を作って遊んでいた。

「なんとなくカガミに似てるなって思ったけど……。つまりは映写機ってことよね」

「多分ね。僕らは幼い頃から知り合いだったのかもしれないね」

「そっか……。ねえ」

 少しだけアカリが悪戯っ子の顔になった。

「それじゃあ、この子は私とカガミのフィルムから生まれたようなものなんでしょ?」

「生まれたっていうか……。まあ、お互いの記憶がごちゃ混ぜになって……そう観えている? なんて言えば良いんだろ」

「ごちゃまぜー。……うおー?」

 不意にアカリが男の子を抱き上げた。

 そしてまるで子犬にでもするみたいに笑顔で頬ずりを始める。

「うおー。なんだー」

「……アカリ?」

「それって何だか……私達の子供みたいね」

 アカリの腕の中で男の子がバタバタと藻掻いている。

「ぼくには、あのこがー!」

 逃さないぞ、とでも言いたげにがっつり男の子を抱きしめて、にやにやとしながら僕を見下ろしていた。

「ほらほら、暴れないの。あなたはお父さん似ね。中身も似て意地悪にならなきゃ良いんだけど」

「……アカリ。寝起きに側に居なかったの、根に持ってる?」

「……。」

 諦めてされるがままになっている男の子をギュッと抱きしめると、アカリはその子の髪の毛に顔を埋めた。

「アカリ、そんなに抱きしめたら……」

 だいじょぶ、と男の子の口が動いた。おまけにウインクまで付いて。苦笑しながら、ありがと、とこちらも口の動きで伝える。

「……別に根になんて持ってないわよ。むしろここまで運んでくれて感謝してる。そんな事くらい分かってる。……分かってるけど、それでも、どうしようもなく、不安だったの。居なくなったんじゃないかって。依存なんてしたくないけど、それでもどうしても、カガミが居ないと不安になったの……」

 ……その気持は痛いほど、よく分かる。

「分かってるよ、八つ当たりだ、これは。……情けない」

 そう言って、また幼い僕の顔をした、男の子を抱きしめた。

「アカリ……ごめ」

「それは、しょーがない!」

 急に男の子の声が響いた。

 男の子はアカリの腕から逃れると、砂浜に器用に着地した。

 あっけに取られている僕らを大きな目を精いっぱい見開いて、見つめる。

「ぼくも、あのこがいないと、さびしくなるもの。ひとりだと、さびしくなるもの。くびつりが、こわいもの。でも、あのこがかえってくると、ぜんぶ、だいじょうぶ。あんしんする。それって、しょーがない。ひもで、しりにしかれている、なさけないぼくですが、それでもあのこのことがすきだもの。いっしょに、いたいもの。だから、しょーがない。……これってぼくは、ろくでなし?」

 たどたどしく、そこまで一気に喋って、男の子は泣き出してしまった。

 ……そっとアカリが近づいて、今度は優しく男の子を抱きしめた。

「んーん。ろくでなし、なんかじゃないよ。きっとあの子も君が居てくれて良かったって思ってるよ」

「……ほんと?」

「本当だって。……私が言うんだから間違いない。ね、カガミ」

「うん。……そうだね」

 アカリの白くて綺麗な手が、優しく男の子の頭を撫でている。

 月明かりに照らされているその影を、僕は顔を赤くしながら眺めていた。




「おそいなー」

「遅いねえ」

「……。」

 三人揃って、砂浜に座っていた。

 すっかり泣き止んだ男の子はアカリの膝の上に乗って、さっきから楽しそうに二人でお喋りをしていた。僕はその隣で一人、体育座りだ。

「カガミー。なんでさっきから黙ってるのー? おかしいねー」

「ねー」

 そしてまた二人できゃっきゃと笑い合う。

 アカリの手にはルーズリーフとペン。男の子と相談しながらそこに何かを書き込んでいるようだった。それが大層面白いらしく、ずっと二人でこそこそ話しながら笑っている。

 別に嫉妬しているわけじゃない。

 ただ、幼い自分の顔をしている男の子がアカリの膝の上に乗っていることが……、物凄くアカリに懐いていることが、非常に恥ずかしかった。

「私の子供の頃かー。どんな顔してるんだろ」

「これが、なかなかの、べっぴんさん」

「ほんとー? やるなあ、お前。うりうり」

「……。」

 波の音がやけに大きく聞こえた。

「……でもね、おねーさん」

「どした?」

「さすがに、ちょっと、かえりがおそいかも……」

 男の子の声が一転して暗くなる。

 それは確かにちょっと気になっていた。アカリが目を覚ましてからでも、大分時間は経っている。

「なあ、普段はどれくらいで女の子は帰ってくるんだ?」

「だいたい、すぐ。ぼくらの、ちいさいふくだけだから……」

 じゃあ、あのデッキに干してあるものは? なんて野暮な詮索はしない。意味があるからそこにあるのだろう。大分この夜に慣れてきたのかもしれない。……ただ、男の子はそのシャツを見て、首吊り、と言っていた。

「……ねえ、カガミ。本当にその子はこの水の中で洗濯してるの? どこか、洗い場があるとかじゃなくて」

 それに答えたのは男の子だった。

「おかじゃ、よごれはかんぺきにおちないから……。だからあのこは、ふくをもったまま、もぐって、あらって、かえってくる。『みろ! うまれかわったように、まっしろだ!』って」

「……。」

 首吊りの件はアカリには言っていない。嫌な予感があったからだ。

「いつもどの辺で洗ってるとか、分からないか?」

「わからない。ふしぎなことに、ぼくはおよげないから」

「……不思議って?」

「ぼくらは、さいしょ、みずのなかからきた。そのときはおよげたんだけど……。いまでは、ぼくは、みずのなかが、こわいのです。『いっしょにいこ』て、いつもさそわれるんだけど……」

 最後まで聞かずに、僕は水辺に向かって走りだしていた。

「カガミ!」

「アカリはそこに居ろ! その子のことを頼む!」

 波打ち際まで来ると、靴を脱ぎ捨てた。真っ黒な水面を見て、一瞬躊躇う。

 ――これからこの汽車は貴方達にとって過去に向かって走って行きます――

「……ええい、くそっ!」

 その言葉を振り払うように、水面に飛び込んだ。


 

 水の中は思っていたよりも暗くはなかった。驚く程透明で、月の明かりがここまで届いている。そしてまるで水の中とは思えないほど、身体が軽かった。

 明るさ以外は、どことなくあの暗闇の中と似ていなくもない。

 波に散らされて何本もの光の線になった月の明かりが、幾つもの銀色の円を作り、気ままに砂の水底を漂っていた。

 無数のその輪の一つに、ちらりと、白くて長いものが映る。

 ――居た。

 そこには、白いシャツを両手に握り、砂の上で体育座りをしている髪の長い女の子が居た。

 必死に手足を動かして、そちらの方まで泳いでいく。それは最早、溺れていると言ったほうが良いかもしれない動きだった。

 ……僕も、あの男の子と同じように泳げないのだろうか?

 そんなことが脳裏によぎる。

 ただそれでもあの子を連れ戻さなければならない。無我夢中で水を掻いた。

 水の抵抗はないはずなのに、それが逆に空回りしているようで、もどかしかった。

 次第に息が苦しくなる。

 その時、女の子が顔をあげた。

 その顔を見て、あまりの驚きに肺の中の空気が押し出される。

 その、僕を見上げた顔は、どう見てもさっき見た幼い女の子ではなかった。

 僕と旅をしている、今のアカリの顔だったのだ。

 身体の大きさも、服装も、さっきまで砂浜で話していた、アカリそのものだった。

 ……そのもの?

 いや、違う。

 何かが決定的に違う。

「……息、出来るよ」

 虚ろな目をしたそのアカリが、口から泡を出しながら呟いた。

 ……意を決して、思いっきり水を吸う。

「っはあ……。本当だ……息が出来る」

「貴方には、水なんて、関係無いもの」

 呼吸をした途端、僕の身体は自然と底の方へと落ちていった。

 そしてそのアカリの隣にゆっくりと降り立つ。

 そんな僕の様子を、そのアカリは、じっと虚ろな目のまま見つめていた。

 大きく深呼吸してから、僕はその虚ろな目に尋ねた。

「……君は、さっきの女の子?」

「そうよ」

「アカリ、なのか?」

「そんな、名前じゃ、ないわね」

「……早く戻ろう。男の子が待ってる」

「だめよ。まだ、汚れ、落ちてないもの」

 確かに両手に握られている僕らのシャツにはまだ薄っすらと赤い染みがそれぞれ付いたままだった。

「もう、そこまで落ちれば充分だよ」

「本当に、良いの? これ、私の鼻血よ? 私の汚れよ? 真っ白に生まれ変わらなくて、良いの?」

「……いいよ。汚れたままで、良い」

「……私は、嫌よ」

 そう呟き、このアカリは膝の間に顔を埋めてしまった。

「……生まれ、変わりたい。子供の頃に。真っ白だった、頃に。どうして、私だけ、汚れちゃったの。どうして、私だけ、大きく、なっちゃうんだろ。こんな私じゃ、あの子はきっと分からない。戻りたい。戻りたい……」

「……。」

 水底を幾つもの銀の輪が気ままに行き来している。

 でも、今はそのどれもが、このアカリを避けているようだった。

 僕らの周りは仄暗い。

 さっきは無我夢中で気付かなかったけれど、水面までは大分距離があるようだった。

 きっと今頃、二人共心配していることだろう。

 また、アカリに……怒られるんだろうか。

「……しょーがない」

「え?」

「だから、しょーがないって、言ったんだ。男の子が」

「……。」

「自分はヒモで尻にひかれていて、情けないけど、それでも一緒に居たいから……好きだから、しょーがないって、言ってたんだよ」

 思わずぶっきらぼうに言ってしまった。

 じっと、虚ろな目に見つめられる。

 今のアカリの顔なのが、辛かった。色々と。

「後は、僕が洗濯するよ」

 そう言って、ひらひらと漂っている二枚のシャツをひったくる。

 すると、見る見るうちに目の前のアカリが、元の小さな女の子に戻っていった。

「君は、あの男の子の所に戻ってあげて」

「くりーにんぐは、もういいの?」

「うん。いいよ。無理言ってごめんね」

 そっとその小さな身体を抱きしめる。

「君は、もうちゃんと真っ白に生まれ変わってる。もう悩まなくて良いよ。……この先は、僕らが選ぶことだから」

「……そっかー」

 えへへ、と幼いアカリが腕の中で笑った。


 


「しゃつ、かわかないねー」

「ねー」

 男の子と女の子がシャツを両手に砂浜を走り回っていた。気ままに楽しそうに舞うその二つの白い影は、お化けにも自由な鳥のようにも見えた。

「……そう言えば、結局フィルムは見つからなかったね」

 一緒にデッキに座っているアカリが、走り回っている二人を眺めながら呟いた。

「……そうだね」

 僕も楽しそうに走りまわる幼い二人から目を離さずに答えた。


 あの後、女の子を抱えて水の中から出てきた僕を見て、怒るでもなく、かといってまさか泣くわけでもなく……アカリはただ一言「おつかれさま」と言って、何とも言えない笑みを浮かべた。

 何かに感づいたのだろうか。

 でも、僕はそれを尋ねることもなく「ありがと」と、返した。


「汽車はいつ出るんだろう」

 アカリが大きく伸びをしながら誰ともなしに呟く。

「もう行っちゃってたりして」

 ごろんとデッキに寝転がって、少しおどけてそう返す。

「……そうしたら、どうしようか。ここで家族四人でクリーニング屋でもする?」

 同じようにおどけてアカリが乗ってくる。

「アカリ、家事とかできるの?」

「どうだろ……。でもそんなのすぐに覚えるわよ。カガミ、好きな食べ物とかある?」

「オムライスかな。ほら、昔一緒にここの店で食べたじゃん。ああいう半熟でふわふわの」

 その言葉は驚くほど自然に、さらりと口から出た。

 しばらく経ってからその事に気づく。

「……あれ?」

「……。」

 何故かはっきりと思い出せる。その一場面だけ、まるでフィルムの切れ端のように。

 幼い僕とアカリが、どこか水辺の小さな洋食屋でオムライスを食べている。その洋食屋は時代遅れの赤と白のペンキで塗られていて、大きなデッキがあって……。

 アカリはその時、白いワンピースで僕はシャツに短パン、サスペンダーで……。

 そして、アカリはケチャップをそのお気に入りだった白いワンピースにこぼして、わんわん泣いて……。

「楽しかったね、あの日。……せっかく頑張ってオシャレしたのに、私、服を汚しちゃってさ。『くりーにんぐやは? くりーにんぐやは、どこ?』なんて変な事を言いながらわんわん泣いた。でもそうしたら、カガミはわざと自分の服もケチャップで汚してさ」

「……。」

 思わず起き上がって、アカリの横顔を見つめた。

 その顔はちょっとだけ寂しそうだった。

「『しょーがない! ぼくらは、こどもだから、よごれるのは、しょーがない!』って、やけに真面目な顔で力説して……私も『そっかあ!』なんて笑って……本当に嬉しかったな、あの時。結局その後、二人で怒られちゃったけどね」

 あはは、とアカリは笑った。

「……アカリ。それ、いつ思い出したの?」

「さっき、あの子とルーズリーフに色々書いて遊んでたでしょ? あの時、ふざけ半分で聞いたの。『どうやって、その女の子をおとしたの?』って。そうしたら、その話を、あの子がしたの。それで……」

「……。」

「すぐに言おうと思ったんだけどね。それどころじゃなく無くなっちゃったでしょ? ……ここはその時の記憶なのかな」

 ……恐らく、そうだろう。でも、その記憶だけじゃない。

 水の底で蹲っていた、あの虚ろな目をしたアカリは、幼いころのアカリではなかった。

「ねえ、アカリ。その事以外は、何かここに関することで思い出せない?」

「どうしたの、カガミ? そんなに怖い顔して」

「いいから! 何か思い出してないか?」

 気づけば、僕はアカリの肩を掴んで迫っていた。怯えたアカリの瞳には恐ろしい形相の自分の顔が写っている。

「……カガミ?」

 僕の名を呼ぶアカリの唇は震えていた。

「……。」

 ゆっくりとアカリの肩から両手を離す。そして大きく深呼吸する。

 ……一体何をやっているんだ。

 自分の不安を確かめるために、アカリの記憶にすがるな。

 覚悟を、決めたのだから。

 両手でばちんと自分の頬を叩く。

 そして、もう一度深呼吸して。

「ごめん! 今のは情けなかった!」

 僕はアカリに頭を下げた。

 砂で汚れた、自分の足先がやけに目についた。

「……。」

 しばらくアカリは黙っていた。

 返事が返ってくるまで、じっと砂浜を見つめる。

 そのうち沸々と、「これはただの自己満足なんじゃないか?」とか色んなネガティブな感情が浮かんでくる。でも、考えすぎかもしれないけれど、記憶が無い以上、考え続けるしか無い。考えて、考えて、情けなくても、自分を探しておかなければならない。旅の終わりにはあの真っ黒なアカリのフィルムが待っているのだ。その時、支える為に、僕はアカリのことだけじゃなく、僕を知っておかなければならない。不安に潰されている時間は無いのだ。

「……しょーがない」

 アカリの声が頭上から落ちてきた。

「僕らは、記憶が無い。だから不安になるのは、しょーがない」

 それはいつかのような、演技かかった言い方だった。

「私も、さっき怒っちゃったし。これで、おあいこね」

 その声に引かれるように顔を上げる。

 アカリは下唇を噛んだ変な笑顔で僕を見ていた。

 何かを我慢しているような顔だった。

「……。」

 やがてアカリが口を開くと、その白くなった唇が笑顔と共に落ちた。

「でもねカガミ……何をそんなに恐れてるの?」

「……今は、言えない」

「……私達、運命共同体よね、今。私はカガミに嘘も隠し事もするつもりはない。それでも、言えない?」

「……言えない」

「どうしても?」

「どうしても」

「……その不安は私に関すること?」

 しまった、と思った。

 一瞬だけ、目を逸らしてしまった。

 ふっと、アカリの表情から力が抜けた。

「……カガミ」

「……はい」

「それはちゃんと時が来たら、教えてくれる?」

「約束する」

「カガミ」

 そっと僕の手にアカリは手を重ねた。

 それは恋人同士がするような甘い重ね方ではなくて、恐る恐るという感じだった。でも、やがてその手は力強く僕の手を握りしめた。

 そして。

「信じてるから」

 真っ直ぐに僕の目を見つめて、アカリは言った。

「うん」

 真っ直ぐにその目を見返して、僕は答えた。


「しゃつ、かわいたー!」

 と、遠くから幼い僕らの声が聞こえた。


 


 駅の方から汽笛が聞こえてきたのは、幼いクリーニング屋が乾かしてくれたシャツに袖を通して居た時だった。

「きてきだー!」

「だー!」

「アカリー! まだ着替え終わらない? 汽車が出発するのかも!」

 クリーニング屋の中で着替えているアカリに声をかける。

「いそいでいるのかー?」

「かー?」

 幼い二人は楽しそうに僕の周りを走っている。

「そうなんだ。汽車が出発するのかも」

「たびだちは、とつぜんにー」

「にー」

 意味が分かっているのかいないのか、顔を突き合わせて笑いあっている。

 少しだけ悩んでから、二人の側にしゃがみ込んで、提案する。

「なあ……。僕らと一緒に行くか?」

 すると、二人共ピタっと止まって、その大きな目で僕を見た。

 先に口を開いたのは、男の子の方だった。

「おぼえておいてくれたら、それでいー」

「……そっか」

 そう言って男の子は屈託なく笑った。

 ところが隣の女の子は何やらモジモジとしていた。

「どうした?」

「……おにーさんにだけ、おしえてあげる」

 女の子が僕の耳に手を当てる。

 ――わたしは、にかいめは、ひとりでここにきたよ――

「……分かった」

「くりーにんぐ、おねがいね」

 女の子はそこまで言うと、何処から一冊の本を取り出して、その小さな手で慎重にページを捲り始めた。

 それは……僕がさっきカムパネルラに手渡した『銀河鉄道の夜』だった。ただ、ぐっしょりと濡れている。

 やがて目的のページを見つけたらしく、そこを開いたまま僕に差し出す。

「これ!」

 そこにはまるで栞のように、フィルムの切れ端が挟まれていた。

 それをゆっくりと指で摘む。

「ぷりしおんかいがんまでしか、いけなかったの。だから、わたしたちはここで、ばいばい」

 にっと女の子が笑った。

 その笑顔を見ながら、僕はその新たなフィルムを洗いざらしのシャツの胸ポケットに滑りこませた。

 と、クリーニング屋のドアが開いて、やっとアカリが出てきた。

「ごめんカガミ、遅れた! ……どうしたの?」

「……後で話すよ。急ごう。さっき汽笛が聞こえたんだ。汽車が出発するのかも」

「本当? ……あのさ、この子達も……」

「おぼえておいてくれたら、それでいー」

 今度答えたのは女の子だった。

 ぶつかりそうな勢いで駆け寄ると、その手を握り、ちょっとだけ寂しそうな顔で、アカリを見上げた。

「……あのこ、だけじゃなくて、あたしのことも、ちゃんとおぼえておいて、くれる?」

「……勿論よ。もっとお話したかったわ。今度逢ったらゆっくりお話しましょうね」

 アカリは女の子をすくい上げると、男の子の時のように髪の毛に顔を埋めるほどぎゅっと女の子を……幼い自分を抱きしめた。その時にはもう、二人は優しい笑顔になっていた。

「くろう、してでも、まもりたい、このえがお」

 いつの間にか隣に来ていた男の子が、ニヤニヤしながら僕の足を小突いた。

「守ってやれよ。……僕も守るからさ」

「それは、おとこと、おとこの、やくそく?」

「そうだよ。約束さ」

「がってんしょうち!」

 そして僕らの方は、ぎゅっと強く、男同士の握手を交わした。互いに色々なものを託して。



 来た時には誰もいなかったホームに、今は二つの小さな影がある。

 その二つの影はいつのまにやら吹き出していた蒸気で今にもかき消されてしまいそうだった。

 それでも僕らは見失わないように、汽車の窓から身を乗り出して、少しだけ出発に怯えながらも、最後の別れを二人と交わしていた。

「元気でね。……あ、そうだ。クリーニング代払ってなかったね」

「しごと、できなかったら、いらん!」

「いらん! ……このこは、しょくにんさん、なのです」

 女の子が小さな胸を張って堂々と答えた。その横で男の子が「すいませんねえ」と言いたげに困ったような笑顔を浮かべていた。

「あ、そうだ。それじゃーこれをあげる。その子と一緒に書いたから、これはクリーニング代じゃないわよ」

 そう言って、アカリが男の子に何枚かのルーズリーフを手渡す。

「後で、一緒に読んでね」

 そして女の子に笑顔でそう伝える。何故か男の子は顔を真っ赤にして俯いてしまった。

「……大体察しはつくけどさ、あんまり僕らをいじめるなよ」

「そんなことないわよ。ねー」

「ねー」

 悪戯っ子のように笑う女子二人を、野郎二人はため息を付きながら眺めた。

「おたがい、くろうしますなー……」

「なー……おっと」

 ガシャン、と汽車が少し前進して止まった。

 ボォーというどこか悲しげな、乾いた汽笛が鳴る。

 そして、その音と共にまたゆっくりと車体が動き出した。今度はもう止まることはなかった。

「お別れね……。必ず、また会いましょう。二人共」

「おー!」

「おー!」

 量の多くなった蒸気の向こうから、二つの元気な声が返ってくる。

 次第に振動も音も一定のスピードに近づいていく。

「元気で! 元気で居ろよ! 二人共!」

「そっちもなー!」

「なー!」

 さっきよりも、更に遠くから。

 でも、間違いなく元気な幼いころの僕らの声が。

 見えなくなっても、確かに今の僕らの耳には聞こえた。


 

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