「Toy girl craftsman」

「で。フィルムには何が写ってたの?」

 アカリは自分が見つけられなかったのが悔しいのか、ちょっとだけ不機嫌な声だった。

 目の前の座席で腕と足を組んで、さも興味なさそうに窓の外を眺めているけれど、さっきから口の端がぴくぴくと痙攣している。さっきの二人に影響されたのだろうか。物凄くその姿は子供っぽい。

「まだ、見てないよ。急いでたしね」

 思わず溢れそうになる笑みを噛み殺して、僕はシャツのポケットから新しいフィルムの切れ端を取り出した。

 あの駅を出てから汽車は快調に走り続けている。車内の灯りも、何も問題なく煌々と淡いオレンジの光を放っていた。

 汽車はまだ橋の上を走っているようで、窓の外の景色も相変わらずだった。

「アカリ。こっちにおいでよ。一緒に見よう」

「……カガミがこっちに来てよ」

 もう取り繕うことを諦めたのか、それとも素直になってくれたのか、アカリの頬はぷうっと膨らんでいた。やっぱり子供っぽい。

「はいはい」

「はい、は一回」

「はい」

 そんな下らないやりとりを交わしつつ、アカリの隣に「よっこらしょ」と移動する。

 結局、好奇心には勝てなかったのか、腕と足を解いて素直に顔を近づけて来た。

「……いくよ」

「……うん」

 そう言って「せーの」で、フィルムを車内の灯りに照らす。

「……。」

「……。」

 結果だけ言えば、僕には戦慄が走った。

 見た瞬間に体中が硬直して、嫌な汗がダラダラと毛穴という毛穴から吹き出した。そして次の瞬間にはどうして先に一人で確認しておかなかったのか、という後悔でいっぱいになった。

 そのフィルムには、今まさにどこかの浜辺で入水自殺をしようとしているアカリの後ろ姿が映し出されていた。

 小さくて詳しくは見えないけれど、右手には一冊の文庫本……恐らく『銀河鉄道の夜』。そしてもう片方の手には、ルーズリーフの束とペンと思しきものを握りしめている。

 恐らく、さっきまで居た浜辺……幼い頃僕らがあのマヌケな色合いの店でオムライスを食べた、あの浜辺で、そのアカリは既に膝近くまで水に浸かっていた。背中を見ただけで伝わってくる程の絶望と共に。

 そして、その背中には見覚えがあった。

 あの水の中に居た、女の子だ。

 ――生まれ変わりたい――

 あの虚ろな目が、水中に漂う黒くて長い髪が、目の前に甦る。

 そして次第にその幻が小さな女の子に変わる。

 ――わたしは、にかいめは、ひとりでここにきたよ――

 喉が砂漠のように干からびて、ヒューヒューと呼吸をするだけで変な音が鳴る。

 ある程度、予想はしていた。

 さっきの、あのクリーニング屋の浜辺は、恐らく記憶の中の……フィルムの記憶が映しだされた場所だ。そしてフィルムは世界をそのまま映しだすことは、しない。必ず作為が混ざるのだ。更に昔の、幼かった頃の楽しいフィルムで上書きしようとしたのかもしれない。首吊り、水底のアカリ……思い当たる節はあった。あれは隠しきれずに浮かんできてしまったものだったのだ。

「やっぱり……私、もう一度あの砂浜に行ってたのね」

 すぐ近くでアカリの声が聞こえた。

 そのおかげで、少しだけ正気に戻ることが出来た。

 ……駄目だ。落ち着け。男の子と約束したのだ。

 アカリを守るって。

「アカリ……」

 けれども、出てきた声は掠れて弱々しいものだった。

「どうしたの、カガミ? 顔色悪いけど」

「アカリ、このフィルムに写っている場面なんだけど……」

 なんとか唾を飲み込んで、付け焼き刃に喉を潤すと、今度は割りとちゃんとした声を出すことが出来た。

 その自分の声に勇気づけられた。覚悟を決めて、ゆっくりとアカリの顔を覗き見る。

 ところがどうしたことか、アカリはケロッとしている。

 それどころか、どこか楽しそうに笑ってすら居た。

「カガミ、思い出したの? 私は思い出せないんだけど……。でもこのカガミの顔は傑作ね。そんなに私の水着が魅力的だった?」

「……え?」

「いつ行ったんだろうね? この時もまたオムライス食べたのかな?」

「……あのさ、アカリ。ちょっと眼鏡が曇ってて、フィルムがよく見えないんだけど」

「眼鏡なんてしてないじゃない」

「……じゃあ、眼が疲れてるのかピントが合わないんだ。何が写っているの?」

「本当? ……それともそんなに自分の醜態を認めたくないのかしら」

 小悪魔的なニヤニヤ笑いを浮かべて、値踏みするような視線で冷や汗を流している僕の顔を見ている。

「……よろしい。それじゃあ、記憶を、フィルムを直視できないカガミくんに、僕が特別に説明してあげよう」

 また、お得意の演技かかった声音だった。

「いいかい? このフィルムの中で君は、砂浜に水着で颯爽と立っている私の後ろ姿に見とれている。まるで発情した猿のような顔で。因みに視線はお尻の食い込みに釘付けになっている。……尻フェチなの?」

「足フェチだよ!」

 その言葉はするりと口から出た。

 ……別にまたオムライスの時のように記憶が戻ったわけじゃない。なんとなく尻フェチよりは足フェチの方が許されるような気がしただけだ。

「まあ、この美脚なら見惚れてもしょうがないか!」

 座席に座ったまま、アカリはどこか得意気に片足を胸の高さ辺りまで持ち上げた。するするとスカートが際どい所まで落ちてくる。

「……パンツ見えるよ」

「見たい?」

「……別に」

「まあ、見せないけどねー!」

 そう言って猿のようにきゃっきゃと笑う。

 何だか、無実の罪で投獄されている囚人のような気持ちになった。腹が立つ。

 ただ、それによって救われたのも事実だった。

 僕にとってはもう直視もしたくないような絶望に溢れたシーンが、アカリにはまるでラブコメの一コマのように見えている。

 人によって、見る世界は、変わる。

 ……ならば、一体どっちが本当のフィルムなのだろう。

 女の子によれば、二度目、あの浜辺にアカリが訪れた時、僕は一緒に行っていない。それを信じるならば……僕の見ている方が真実なのかもしれない。少なくとも、僕にとっては。

 アカリは一度、心を喰われている。今、カムパネルラが持っているあのフィルムによって。

 今、隣に居るアカリは、それを経験している。

 だから、防衛反応とでも言うのだろうか……、ラブコメチックに改変されて、見えているのかもしれない。

「もうちょっと、太もも細くならないかなあ」

 アカリは真剣な顔で、自分の太ももを両手で揉んでいた。

 それは呆れるくらい平和な光景だった。

 ――でもいつか向き合わなければなりません――

 本当に、そうだろうか?

 人は、絶望してまで、辛い記憶を思い出さなければならないんだろうか?

「……どうしたの、カガミ? そんなに自分のエロ顔がショックだった? 男の子だもん。しょうがないよ、元気だして。やっぱりパンツ見る?」

 ニヤニヤとスカートを摘んで、僕をからかっているアカリ。

 その顔に暗闇から返ってきた時の顔と、水底の虚ろな顔とが、だぶる。

 堪らなく、この阿呆な時間が愛しかった。

 いつまで続くか、分からないけど。

 旅の終わりに、どうなるか分からないけど。

 アカリがあのフィルムを受け止める時、隣で支えられるように。

 ――おとこと、おとこの、やくそく?――

「……そうだな」

 何度目かの、覚悟を決める。自然と笑みがこぼれた。

「う……え? 本当に見るの?」

 気が付くと、目の前では顔を真っ赤にしたアカリが、足を上げたまま、硬直していた。

 スカートがぱさりと、落ちた。




 窓の外の変化に気づいたのは、なんとかアカリの誤解を解いた時だった。……非常に苦労した。

「ねえ、カガミ。これって、街……なのかな?」

 まだどこか声に硬さの残るアカリが、さっきまでの変な空気を誤魔化すように、不自然に元気な声をあげる。

 確かに今、窓の向こうには大小様々な明かりが見えていた。それは、建物の窓から漏れる室内灯に見えなくもない。次々と線になって後ろの方へと流れていく。ただ……。

「でも、街っていうか、建物にしては、何か小さくない?」

「それなのよねえ……」

 その明かり達は遠くの物も、比較的近くの物も、僕らの目線と同じか、それよりも下の方を流れていた。いくら僕らが汽車に乗っているとしても、その高さ以下の建物ばかりというのも、何だかおかしな話だ。

「まだ橋の上を走っているとか?」

「ちょっと、見てみる」

 窓を開けて、下のほうを覗きこんで見る。そこには砂利と、線路が見えた。

「……いや、もう橋は降りたみたいだ」

「月は……まだ出てるわね。建物があるなら、少しは見えてもおかしくないのに」

 窓から身を乗り出したまま、今度は空を見上げる。そこにはさっきまでと変わらずに巨大な月が出ていた。夜空が薄い紺に染まっているのも、同じままだ。

 でも、正面に視線を向ければ、そこは真っ暗なままだった。暗闇の中に例の沢山の光が浮いている。直ぐに流れていく以上、そんなに距離は離れていないはずなのだけれど。

「何だか、最初の灯りみたいだな。ほら、遠くに見えてたやつ」

「カガミが来たら灯った奴ね。そう言えば、あの灯りってまだ見えるのかしら?」

 いい加減手が痺れてきたので、一度席に戻る。それから二人で顔だけ出して、じっと動かない灯りを探した。

 幾つもの流れていく灯りの中に、一つだけ微動だにしない物があった。

「あるね」

「でも、何かさっきよりも近づいてない? あれ」

 確かに微妙に灯りが大きくなっている気がする。

「……少なくとも、あの中じゃないのね」

 少しだけがっかりした声でアカリが呟く。

 なんとなくだけど、僕もアカリもあの最初に見た光の集まりがこの旅の終着地点のような気がしていた。旅はまだ終わらないらしい。

「フィルムを集めて……終着駅まで行って……その後はどうなるのかしらね。私達」

「……。」

 観察に飽きたのか、席に身体を投げ出して、だらしない格好でアカリがため息混じりに呟く。僕はまだ、それに答えることはしなかった。



 結局、それから一時間程経っても何も変化がないまま汽車は走り続けた。一時間というのはあくまで体感時間で、だけれども。

 その間僕たちは特に話すことも無く、だらだらと過ごしていた。いずれ駅に着くことが分かっているからだろうか。どこか安心感があった。人は行き先が決まっている時の方が、怠けてしまうのかもしれない。

 気づけば、アカリは僕の肩に頭を乗せて、遊び疲れた子供のようにすーすーと寝息をたてていた。小さな呼吸がまるで子守唄のように耳元で聞こえる。

 何も無いなら無いで、考える事も沢山あったけれど、何だか二人で微睡んでいる時間に身を任せてしまった。互いに言葉を出さなくても、存在を感じられるその時間がとても心地良かった。

「……はーあ」

 誰も見ていないことだし、我慢もせずに思いっきり大きな欠伸をする。

 目の端から涙が溢れる。アカリの髪に付いてしまったかもしれない。

 かたたん、かたたんという汽車の走る音と、アカリの規則正しい寝息以外に何も聞こえない。

 二人の身体が触れている箇所が熱を持っていて、そこから全体に広がっているような感覚を覚える。

 何だか、満たされていた。

 アカリが記憶に喰われていた時と、あんまり状況は変わらないのに変な話だ。

 記憶なんか放っておいて、ただ二人でいつまでも、このまま汽車に揺られていたいと、ちょっとだけ今は思っていた。

 このまま目を閉じたら本当にそうなるんじゃないか、なんて阿呆な考えが浮かぶ。

 ……ちょっとだけ、試してみようかな。

 ゆっくりと、自分の瞼を下ろしていく。

次第に視界がぼやけて、真っ暗な闇が迫ってくる。

 車内の灯りが、瞼に透けている。でもそれは完全な闇ではなかった。

 ……下ろしている最中は真っ暗に見えたんだけどな。

 視界を遮断すると、より一層、アカリの熱と、呼吸を感じる。

 ずっとそれを感じていたい。

 アカリの存在に集中すればする程、安心感が増していく。満たされていく。

 ……次第に意識が遠のいていく。

「……。」



 ところが、そのまま僕が幸せな眠りに落ちることは出来なかった。

 意識が途切れる直前、ボオ―という大きな汽笛が鳴り響く。

 その音に驚いて思わず飛び起きる。

 心臓がバクバクといっていた。

 雪山で遭難して、眠りに落ちそうになった時のような心境だった。

「危なかった……」

 思わず、そんな言葉が漏れた。

「……たい」

 ふと、隣から怒気を孕んだ声が聴こえる。

 その声を聞いて、思い当たり、別の意味で冷や汗が吹き出る。

「あ……ごめ」

「いーたーいー!」

 頭を抑えたアカリの絶叫と共に、汽車はまるで何事も無かったかのようにゆっくりと駅に停まった。



 その駅に着いて、まず目に付いたのがホームに溢れる沢山の人々だった。

 痛みに悶えて叫んでいたアカリも、窓の外を見て絶句していた。

「……カガミ」

 どこか怯えたような声で、そっと僕の手を握る。

 何時の間にか車両のドアは空いている。でも、僕らは座席から動けずじっと窓の外を見つめていた。

 どうしてだろう、あれ程この夜から抜け出したかったのに、他の人に会いたかったのに。いざ人の群れを見ると、安心感よりも、恐怖を感じた。

 ホームを行き交う人々は大人から子供まで様々な人が居るようだった。ただ、誰もが目深にこれまた様々な帽子を被り、その下にあるはずの目は濃い影に包まれていて確認することは出来なかった。見えるのは鼻から下だけだった。それだけの共通項なのに、全ての人が無個性に、まるで一つの巨大な生き物のように見える。その生き物が、轟々とホームの上を這っている。なんだか、喰われてしまいそうだ。

「……。」

 正直、降りたくなかった。

 アカリと二人、このまま汽車に乗っていたい。

 そっと隣のアカリの顔を覗き込むと、目を見開いて、じっと窓の外を見つめていた。僕と同じようにどこか悩んでいる様子だ。

 また、視線を窓の外に戻す。

 汽車が入ってきたというのに、ホームの人々は気にも留めていないようだった。

 皆、俯きがちにせかせかと行き交っている。自分以外の人々もまるで見えていないようだった。

 ここで待っていれば、この駅をスルーして、次の駅へと迎えるのだろうか。

 ……いや、それじゃ駄目だ。

 ――必ず一度、受け止めなければならない――

 この駅にも、僕らの記憶に関するフィルムが必ずある。目の前の空恐ろしい人々も何かの記憶なのだろう。このままここでぬくぬくと二人で居るだけでは、駄目なのだ。

 大きく深呼吸をして、腹をくくる。

「……アカリ、行こう」

 アカリが「本当に?」とでも言いたげに僕の顔を見上げてくる。今まで散々強気で煩いほど元気だったのに、その顔は今にも泣き出しそうだった。

 思えば、この夜に放り込まれてから、アカリは自分と僕以外の人に会っていなかった。僕の方もカムパネルラと会っているとは言え、いきなりこれ程の他人を目の当たりにすると、足がすくんだ。それは記憶が無いせいなのだろうか。いずれにせよ、随分と閉じた世界の中で僕らは旅をしていたのだ。……此処も、まだ閉じた世界の中なのだろうけれど。

 でも、僕らは行かなきゃならない。

「……大丈夫。僕が居るから」

 せっかくカッコつけたのに、声は震えていた。

 自分自身に気合を入れるためにも、アカリの手をぎゅっと強く握る。

「……わかった」

 アカリがこくりと、頷いた。


 

 人の波に流されないように、お互いの手を強く握り、警戒しながらホームに降り立った。すると、直ぐに僕らが立っている場所だけ空間が空いた。まるでダイバーが近づいた時の小魚の群れのように、僕らを避けて、人々は動いていた。

「……。」

 近くを通りかかったコートを来た男と思われる人の顔を見つめる。これほど近くに来ても、そのハット帽の下の目は暗い影に包まれていて、目は確認できなかった。他の人も試してみたけれど、結果は同じだった。

 ぐるりと辺りを見渡す。

 そこはまるで体育館の中のようだった。天井がとても高くて広い。ガラス張りの半円筒型の天井を何本もの網目のように張り巡らされた黒い鉄骨で支えている。その天井に反響して沢山の足音や衣擦れなど、人が動く時に放つ音の粒が合わさってまるで洪水のように耳に届く。外国の古くて大きな駅に見えなくもない。ガラス越しにあの大きな月も見えた。何時の間にか半月になっている。何故か上弦の月だった。

 今まで一本だけだったはずの線路は、僕らが乗ってきた汽車のもの以外にも何本もあるようで、僕らのホームには『15』と書かれた看板が立っていた。ただ、15番線が一番端にあるようで、目の前にはホームを挟んでレンガ造りの壁と改札と思われる出入口しか無い。振り返ると、汽車の窓越しに幾つものホームが見える。そのどれもが空だった。

「あの! すいません!」

 勇気を出して、行き交う人々に声をかけてみる。

 でも、誰も僕の声に答えてはくれなかった。

「ねえ、どっちに行ったらいいんだろう?」

 多少は慣れたのかアカリも僕と同じように辺りを見回している。

「そうだな……」

 相変わらず僕も必死に辺りを観察していたけれど、何か手がかりになりそうな物は見つからなかった。

 改札を出れば良いのかもしれないけれど、これだけ広い駅なのだ。ここにフィルムが無いとも限らない。

 何だかこうやって行き交う人々の中で、二人で右往左往していると、田舎から都会へ上京してきたばかりの若者のような気持ちになった。

「ねえ、カガミ。あの子……」

 不意にアカリが人混みの向こう側、改札口辺りを指さす。

 そこには、一人だけ帽子を被っていない少女が立っていた。壁に寄りかかって、行き交う人々を睨んでいる。

 歳は僕らよりも少し下くらい、カムパネルラと同じくらいだろうか、中学生程に見える。格好はブレザーの制服、髪型はポニーテール。そして、その顔は……。

「……あの子に話を聞いてみよう」

 その顔は、少しだけ幼いアカリの顔だった。



 いざ僕らがその少女の元へ歩き出すと、人々の群れは、今度は全然避けてくれなかった。まるで川のようだ。

 アカリと離れないように手を繋いで、その川をどうにか渡っていく。

「あの、ちょっと!」

 その間も、その少女に声をかけたけれど、一向に僕らには気づかずに、じっと他の人の群れを睨んでいた。その顔はアカリが怒っている時よりも、ずっと怖い。人を突き放すような冷たい怖さだった。

「あの子も、私なのかしら! あんなに無愛想な顔してるけど!」

 行き交う人々に肩をぶつけながら、アカリが声を張り上げる。ぶつけられた人々は全く意に介していないようだった。

「多分、そうだと思う! かなり目つき悪いね!」

 僕も何度も足を踏まれながら、その声に答える。

「こんなに私は! 愛嬌があるのに!」

「えー? なんだってー!」

「なんでもない! あ」

 レンガ造りの所々煤けている赤い壁の対岸までもう少し、というところで、少女はひょいと壁から背を離し、歩き出してしまった。それはまるで猫のような動きだった。

「ちょっと! ちょっと待って!」

 相変わらず聞こえているのか、いないのか。全く僕らには気に留めずに、すいすいと器用に人の波を泳いでいく。そして、僕らの倍の早さで改札口まで来ると、そのまま外へ出て行ってしまった。

「くっそ……。アカリ、急ごう!」

「分かってるけど……。ああもう! こんなに人なんて居なくて良いのに!」


 

 肩で息をしながら、それでもなんとか二人揃って改札口に着いた頃には、もうそこには少女は居なかった。

 そこはアーチ状のレンガの古いトンネルのような空間で、鉄柵で作られたシンプルな改札でホームと区切られていた。改札の向こうは汽車の中のような古いデザインのガス灯のような物が並んでいて、向こうの出口はここからだと見えなかった。そして、その改札には駅員のような男が一人立っていた。

「……。」

 何も言わずに僕らを見下ろしている。

 格好はどことなくカムパネルラに似ている。ただ、二メートル位はあるんじゃないか、と思うほどの大男で、他の人と同じく、あの学生帽のような駅員さんが被っている帽子の下は濃い影になっていて目は見えなかった。

 流石に無視するわけにもいかず、その改札の前でどうしようかと悩んでいると、おもむろにその大男の白い手袋に包まれた大きな手が差し出された。

「……切符をよこせ、てこと?」

 僕のその言葉に、煩わしそうに上下に手を降る。早くよこせ、ということらしい。

「でも、切符なんて……」

 思わずポケットを探る。当然、もうそこにはフィルム以外何も入っていなかった。

 カムパネルラの時は『銀河鉄道の夜』を代わりに渡した。でも、それすら僕はもう持っていない。

 ……アカリを連れて強行突破出来るだろうか、と考え始めた時、隣からあの演技がかった声がした。

「これで、お願い」

 そう言うとアカリは、やけに堂々と改札の前まで歩き、どこから取り出したのか二枚の紙切れを大男の手に載せた。

 思わず、頭を抱えた。

 ちらりと見えたその二枚の紙切れはルーズリーフの切れ端だったのだ。

 大男はやけにゆっくりとした動作で、何かを確認するように手の上の紙切れとアカリの顔を交互に見ている。その間もアカリは胸を張って堂々と「何か問題でも?」という顔でその動きを見ていた。 

 じっとその二人の様子を隣で見ていると、今度は大男が僕の方を指さした。「こいつも?」と言いたげだ。

「ええ、そうよ。二人分あるでしょ?」

 また臆面もなくアカリが言う。さっきまでのビビっていた彼女はどこに行ったのだろうか。

 大男はじっとそのアカリの顔を眺めた後、一枚だけにパチッと改札鋏で切込みを入れた。そしてアカリの背を押して改札の向こう側へと通す。

「え」

「なんでー!」

 不服そうに鉄柵の向こうで叫んでいるアカリの声は無視して、大男は僕に残りの紙切れを渡した。「不正は駄目だぜ」と言いたげに指を振りながら。

 ……何も書かれていない紙切れを握りながら、鉄柵に目をやる。

 大体、腰くらいの高さで、飛び越える事は簡単そうだった。ただ、その後追ってくるであろうこの大男から逃げ切ることが出来るだろうか。この通路の向こうがどうなっているのかも分からない。行き止まりの可能性だってある。でも、この間にもあの少女は進んでいるだろう。

「……。」

 ひんやりと冷たい鉄柵を握りながら僕が決めかねていると、向こう側から小さな声で「カガミ」と僕を呼ぶ声がした。そして顔を寄せてきたアカリが、大男に見えないようにペンを僕に渡す。

「カガミ、これでその切れ端にもう一度『切符』って書いてみて」

「もう一度?」

 手の中の切れ端には何も書かれていない。

「そう。ちゃんと二枚共書いたんだけど……。私だけ通されたって事は、自分で書かないと駄目なのかもしれない。……なんとなくだけど」

「いや、試してみよう」

「……一人で行くのは、嫌だからね」

「わかってる。……ところでさ、アカリ」

「何?」

「『切符』って、どういう漢字を書くんだっけ?」

「……。」



 呆れ顔のアカリに教えてもらいながら、紙切れに『切符』と書き込む。思っていたよりも下手な字だった。まるで小学生が書いたような字だ。……ちょっとだけ落ちこむ。

「とりあえず、自信満々にね」

 アカリの言葉に背を押され、もう一度改札に、大男の駅員に臨む。手には自家製の切符を握りしめて。

 大男は「また来たのか」とでも言いたげに大きく肩で息を吸うと、さっきと同じように面倒くさそうに大きな手を僕に向かって差し出した。

「これで、お願いします」

 アカリと同じようになるべく堂々とその手に切符を載せる。

 そして、またゆっくりと、僕の顔とその『切符』とを見比べ始めた。

「……。」

 アカリの真似をして、なるべく堂々とした顔でその動作を見守る。

 一回……二回……三回……四回……。

 ちょうど切符と僕の顔を五往復した後、大男は切符に改札鋏で切込を入れた。

「……ありがとう」

 何時の間にか止めていた息と共にその言葉を吐き出すと、切符を受け取り、やっと僕は改札を抜けた。

「よかったー!」

 アカリが直ぐに駆け寄って来る。改札を抜けるだけで、えらい苦労だ。

「……なんだか、本当にお上りさんみたいだな、僕ら」

 その朗らかな顔を見ながら、僕はため息混じりに、呟いた。


 

「でも、なんで駅から出るのに、また切符を渡されたんだろう」

 あの大きなホームに比べればやけに狭く感じるレンガの通路を歩きながら、アカリが顎に手を当てて、探偵のように呟いた。それほど大きな声では無かったけれど、僕らの足音と共にその声は周りに反響して、変なエコーがかかっている。

「実は出口じゃなくて、乗り換え、とか?」

「そうしたらあの子、もうここには居ないかもしれないじゃない」

「それなんだよなあ」

 はあ、と思わずため息が漏れる。

 結局、改札で大分時間を喰ってしまった僕らは、完璧にあの少女を見失っていた。

 恐らく、他の駅に移動する、なんて事はないのだろうけど、目の前の真っ暗な空間を見るとそれも自信が無くなってくる。

 あれから大分歩いたはずなのに、通路の先は相変わらず真っ暗だった。本当にどこに繋がっているのだろうか。

 今はカツーンカツーンと二人の足音だけが響いている。

 ……ああ、そう言えば。

「アカリ、本当にこれに『切符』って書いたの?」

 歩く以外にすることもないので、ポケットからさっきの紙切れを取り出す。

 そこにはやはり、下手くそな僕の字しか書かれていなかった。

「ちゃんと書いたわよ。っていうか、そこに書いてあるじゃない。下手くそな字の下に」

 呆れたようにアカリが答える。

 レンガの壁に並んでいるランプにその紙切れを照らしてみる。ひっくり返す。

「……やっぱり、僕の字しか見えないんだよなあ」

「うそだー」

 そう言いつつも自信が無くなったのか、アカリも自分の紙切れを取り出し、同じようにランプにかざしていた。

 そう言えば、汽車でルーズリーフを覗き見した時も、何も書いてなかった。アカリの書く物は僕には見えないんだろうか。

「やっぱり書いてあるじゃない」

 そう言って手渡されたアカリの紙切れも、僕にはただの白紙にしか見えなかった。

 さっきのフィルムのような物なんだろうか。僕とアカリで見えているものが違う。ただ、今回は、僕が見えているものは、アカリには見えている。

「さっぱり分からん」

 思わずそう口に出た僕を、アカリが不思議そうに見ている。

「本当に私の字が見えないの?」

「うん。全然見えない」

「じゃあ、これも?」

 アカリが一枚のルーズリーフを取り出す。

「……あれ? これは見える」

 そこには僕の目にもびっしりと書き込まれた文字が見えた。

「これは、何?」

「さっきの砂浜で男の子と書いていたやつ。そんなに文量多くなかったから書き写しておいたんだけど……」

 ルーズリーフを受け取って目を通すと、そこにはさらりとした気持ちの良い字で例の僕とアカリのオムライスの思い出の顛末が書かれていた。ただ……。

「なんで、こんなに男の子が女の子にぞっこんなんだよ……」

「あら。私は男の子の話を写しとっただけよ」

 得意気にアカリが笑う。

 目眩がしてきた。

「……覚えてません」

 どうにかそう言ってルーズリーフを突き返す。「へー」とニヤニヤしながらアカリはそれを受け取った。

 ふと、あることを思いつく。

「アカリ、試しにさ。さっきの砂浜の出来事を書いてよ。ちょっとだけでいいから」

「わかった」

 意外と素直にアカリは、その場にしゃがみ込んでルーズリーフにペンを走らせる。

 僕も近くにしゃがみ込んで、そのルーズリーフを覗きこんでみる。まるでインクが切れているように、せかせかと働くペンの動きとは裏腹に、そこには何も書き込まれているようには見えなかった。

「……書いてるよね?」

「書いてるよ!」

 僕の提案の意味を悟ったのか、そこでアカリがペンを投げ出す。

「因みにどんな感じに書いたの?」

「私が目を覚ましてから、カガミと男の子が砂浜に正座してるくらいまで」

「うーむ」

 思わず足を投げ出して、その場に座り込んでしまう。石畳の硬くひんやりとした感触がズボン越しに腰辺りまで冷やしてくる。

 アカリもルーズリーフを挟んで向かい側にペタンと座ってしまった。僕もアカリも少々歩き疲れていた。

 とりあえず、一つだけ分かった。

「恐らく、この夜以前の事を書いた物なら、僕は見ることが出来るのかもしれない」

 言い換えれば、ちゃんと在ったことなら、になるのかな。僕らの記憶が影響しまくってしまう、この夜の出来事は、僕には見えない。

「そう言えばさ、アカリ。僕ってどんな感じに汽車に乗ってきたの?」

 いきなり湧いて出たのだろうか。その可能性も無いとは言い切れない。正直、もうなんでもありの夜だ。

でも、だからこそ真面目に考えることを止めてはならない、と思う。湧いて出たにせよ、何にせよ、こうやって考えることが今の僕の唯一のアイデンティティだった。

「……あのね、カガミ」

 アカリが少しばつの悪そうな顔で、僕の顔を覗き見る。

「正直に言うとね……カガミと会った時のこと、あんまり覚えてないの」

「……やっぱり」

 なんとなく、そんな気はしていた。

 初めて会った時と、今のアカリは大分違う。別人とまでは行かないにしても、纏っている空気が大分変わっていた。あの座席で最初に僕に「おはよう」と言ったアカリは絶対に何かを知っていた。少なくとも、僕が『銀河鉄道の夜』の何ページまで読んだかは、知っていた。

「カガミと名前を付け合った辺りはまだ覚えているんだけど……そこから前は、段々霧が濃くなっていくみたいに、尻すぼみになってる感じ」

 確かに、次第にアカリは明るく、表情が賑やかになっていった。段々子供っぽくなっていったとも、言える。

 この汽車に乗る前の事を忘れて、段々と素のアカリが出てきたのだろうか。それとも、過去に向かうに連れて退行でもしているのだろうか。 

 ふと視線を感じて顔を上げた。

 アカリと目が合う。

「カガミ。また私のこと考えてるでしょ?」

 台詞だけ聞けば、バカップルのそれに聞こえなくもなかった。

「……バレたか」

「まだ、言えない?」

 でも、そんな甘い空気はどこにも無かった。その目はどこか寂しそうだった。胸の奥が切なさでいっぱいになる。

「……うん。まだ」

「無理はしないでね。結構、今の状況も楽しんでるから、私」

「大丈夫、好きでやってるんだ」

「……なんだか、カガミ、短い間にだいぶ大人っぽくなったね」

 そうだろうか。考えてばかりいるから、眉間に皺でも付いてしまったのかもしれない。

「アカリは段々、子供っぽくなってる」

「えー……」

 そう言って、ぷうと頬を膨らませる。やっぱり子供っぽい。でも。

「今の天真爛漫な方が、僕は好きですよ」

「……さいですか」

 照れたのか、そのまま横を向いてしまう。さっきの仕返しは成功したようだ。

 心を記憶に喰われてしまったアカリ。水底の虚ろな目のアカリ。

 そのどちらのアカリよりも今のアカリの方が良い。絶対、良い。



「あ……」

 思わず間抜けな声が出た。

 目の前の床に置かれたルーズリーフが動いたのだ。

カサカサとまるで風に揺られているように、床の上を這いずりまわっている。次の瞬間、自分の頬にもふわりと冷たい風を感じた。

「風?」

 アカリも気づいたのか、立ち上がって、通路の奥を睨む。

 ゴー……という音が遠くから響いてくる。それと共に、少し強い風が通路を通り抜けた。

 この先で、扉か何かが開いたのかもしれない。

「……行こう」

 僕らは緩んでいた気を引き締め直すと、また、ゆっくりと先へ先へと、歩き始めた。




 レンガ造りの通路の終わりは、わりと直ぐに辿り着いた。

 それは真っ黒な木で出来た両開きの扉で、アーチ型の天井に沿って、通路の形に合わせて作られていた。余計な装飾は一切なく、それぞれに真鍮製の輪がノブの代わりに付いていた。扉の向こうからはさっき聞いたゴー……という音が聞こえる。

「……開けるよ」

「うん」

 アカリの返事を待ってから、真鍮の輪に手をかける。扉はゆっくりと外側に開いた。

 まず目についたのは、半分の月だった。さっき駅のホームで見た、上弦の月。そして、その光を追うように視線を下ろすと、そこには辺り一面草原が広がっていた。

「……あれ?」

 なんだか、その風景は見覚えがあった。でも、何かが違う。

 草原はまるでヨーロッパの田舎のように所々丘になっていて、一番近くの丘には小さな小屋が建っていた。そしてその小屋に向かって丘を登る、小さな影は。

「居た! ほら、カガミ! あの子!」

 隣でアカリが叫んでいる。

 風が強くて、大声を出さないと会話も出来ないほどだった。二人で扉にしがみついている。ところがあの少女はスイスイと丘を登っていく。そして小屋にたどり着くと、バタンと扉を閉めてしまった。

 居所は分かった。あの丘までは大した距離ではない。邪魔をするのは風だけだ。

 意を決して、草原に足を踏み出す。

「行こう! アカリ! ……アカリ?」

 ところが、その足は踏み出せずに宙に浮かんだままになってしまった。振り返るとアカリが青ざめた顔で、僕のシャツを必死に掴んで引き止めていた。

「何やってんだよ! アカリ、行かなきゃ……」

「夢かな。夢よね。ねえ、カガミ……あれ……」

 そう言って、震える指でアカリが空を指さす。

 思わず、その先を見る。

 そこには一匹の巨大なドラゴンが居た。

 わっさわっさと懸命にその固そうな羽を動かしている。この強風はそのせいらしい。

 思考が一時停止する。

「……。」

 なるべく静かに扉の内側に入ると、これまたなるべく静かに扉を閉める。

 大きく深呼吸をする。

 落ち着け、落ち着け……と自分に言い聞かせる。

「……カガミ。ドラゴン飼ったことある?」

「無いよ!」

 無理だった。



 頭の整理が終わるまで、またしばらく時間がかかった。

 アカリも僕も、レンガの壁に身を預けて、ぐったりとしている。

「……ドラゴン、だったよね」

 アカリが自分でも認めたくない、とでも言いたげに呟いた。

 でも、確りと僕も見てしまった。まるで映画館のスクリーンから飛び出して来たような巨大な身体と、羽と、牙。

「……ドラゴン、だった」

 それは間違いなくドラゴンだった。

「なんでー!」

 アカリが頭を抱えて叫ぶ。その声はグワングワンと通路に反響して、エコーを残して消えていった。

 一つだけ、思い当たることがあった。

「カムパネルラが言ってた。『物語がフィルムに焼きつく』みたいなことを」

「じゃあ、あの空飛ぶ大トカゲはどっちかが読んだ本か何かってこと?」

「かもしれない」

 それにしたって流石にこの状況は、予想外すぎる。

 駅のホームでアカリと同じ顔の少女を見た時、また砂浜のようにその年代の僕らが出てくるだけかと思っていた。

 ところが、だ。

 ドラゴンってなんだ。

 一体どんな記憶なんだ、これは。

「戻る……わけにはいかないわよね」

 僕らが歩いてきた方を向いて、アカリが呟く。

「多分、戻っても汽車が動かないと思う」

 なんとなく、新しいフィルムを手に入れないと先には進めない気がした。どのみち、手に入れないと最後にアカリが記憶に喰われてしまうかもしれない。

「……行くしか、ないか」

 まだどこか緊張している自分の頬を両手で叩くと、僕は立ち上がって扉に手をかけた。

「アカリ。ちょっと待ってて。様子だけ見てくる」

「カガミ!」

 アカリに止められる前に、少しだけ開いた扉の向こう側に身体を滑り込ませる。確認したいこともあった。

「カガミ! 開けて! カガミ!」

 扉の向こうからアカリの声がする。その声を無視して、扉を開けられないように、体重をかけた。

 そのままの格好で、辺りを見まわす。さっきと何も変わらない風景だった。草原、丘、上弦の月。そして、風。

「……。」

 その風が吹いてくる方を見上げる。

 そこには、相変わらず元気に羽を動かすドラゴンの姿があった。

「……。」

 僕に気づいていないのか、その視線はどこか遠くの方を見ている。

 少しの間なら観察する時間がありそうだった。

 いつでも戻れるように、真鍮の輪に手を掛けたまま、改めて目の前の景色を眺める。

 ……ああ、やっぱりだ。

 そこは、夜とは言えど、僕が一番最初に手に入れたフィルムに写っていた景色に良く似ていた。

 ただ、ここには古い遊園地が無く、フィルムにはあの小屋は無い。当然、ドラゴンも居ない。

 でも、何故か元は同じだ、という強い確信があった。

 僕以外の人が……恐らくアカリが見た、あの世界なのかもしれない。

「……。」

 また、そっとドラゴンを見上げる。

 まだこっちに気づいている節は無い。

「……うっし」

 小さい声で気合を入れなおすと、僕は目一杯身体を伸ばして、そっと草原に片足を置いてみた。

 その瞬間、風が止んだ。

 嫌な予感と共に、直ぐに足を引っ込める。

 ゴオっと強い風が一陣吹いて、目の前を大きな黒い影が物凄い早さで通り抜ける。その衝撃で扉に身体を叩きつけられた。

「いっ……た!」

 なんとか起き上がると、さっき片足を置いて居た場所がピンポイントで抉れていた。まるで内臓のように土や草がそこら中に散らばっている。

 そして、また何事もなかったかのように、風が吹いてきた。

 恐る恐る見上げると、また同じ場所でドラゴンは羽ばたいていた。足と思われる物の爪と大きく裂けた口には土と草が付いている。

 視線はまた、遥か遠くを眺めていた。

「……。」

 そっと、僕は扉の内側へと戻った。


 

 ばちーん、と大きな音が通路の中に響いた。アカリが僕の頬を叩いた音だった。

「……っ!」

 言葉が出てこないらしい。今まで見たこと無いくらいの恐ろしい形相で、目には涙を浮かべていた。

「……ごめん」

 とりあえず、謝っておく。

「どうして……一人で……行った!」

 肩で息をしているアカリが、まるで豪の者のように、片言で尋ねてきた。過呼吸気味なのかもしれない。

「アカリ、落ち着いて。呼吸が」

「うるさい!」

 顔を真っ赤にしたアカリが言葉を遮り、僕の胸をボカボカと両手で殴る。それは頬にもらった一発よりも弱々しかったけれど、当たる度に共鳴して、扉に叩きつけられた箇所が悲鳴をあげた。思わず耐え切れなくなって、ずるずると壁を伝って身体が床にずり落ちる。アカリもそれに続いて、僕の足の間に座り込む形になった。そうなってもまだ胸を叩く手は止まらなかった。殆どもう威力は無かったけれど。

「ごめんなさい」

 もう一度、アカリの旋毛に向かって謝った。正直、これ程怒るとは思わなかった。

 ひっくひっく、としゃっくりが聞こえるアカリの背を撫でる。何だか、暗闇から返ってきた時のようだった。

 罪悪感でいっぱいの胸を抱えながら、僕はアカリが落ち着くまでずっとその背を撫で続けた。




「いい、カガミ。危なくなったらすぐに戻るからね」

 まだ目が赤いままのアカリが上官のように僕に命令を下した。

「いえす、まむ」

 片手に一枚のルーズリーフを持って、僕は敬礼をする。

 その切れ端には僕の下手くそな字で「伝説の剣」と書かれていた。

 アカリの手にも同じように一枚のルーズリーフがあって、そこには「美味そうな生贄の姫」と書かれている。

 改札で『切符』と書かれた紙切れでどうにかなったのだから、これでドラゴンも騙せないか……。それがアカリの作戦だった。不安だらけの作戦である。でも、もうアカリに逆らうことも出来ず、他に良い案も浮かばなかったので物は試しでやってみよう、という事になった。

 正直、成功するとは思えない。

 だから、僕が先行する、という条件だけは無理矢理、アカリに納得してもらった。

 今度は二人で、扉を開ける。

隙間からまた風が入り込んできた。その風に「伝説の剣」が吹き飛ばされないようにしっかりと握りしめる。

 そっと辺りを伺いながら、外に出ると、案の定ドラゴンはまだ健在だった。目の前にはさっき抉られた地面がある。

 ごくり、と二人揃って唾を飲み込んだ。

「いくよ……カガミ」

 アカリはそう言うと、通路の床に転がっていた小石を「美味そうな生贄の姫」で包んだ物を、少し離れた場所に投げた。

「……。」

「……。」

 じっと、待つ。

 ドラゴンはまだ動く気配は無い。

 扉は開けたままで、いつでも中に飛び込めるようにしていた。

「……来ないね」

「……来ないな」

 やっぱり、駄目か。と思いかけたその時。風が止んだ。

 直ぐに、アカリを背中に匿う。

 すると、またあの時のように一陣の風と共にドラゴンが目の前に降りてきた。

「あ……」

「カガミ!」

 アカリが僕の手から「伝説の剣」をひったくる。

「駄目だ! 僕が行く!」

 そのまま駆け出そうとするアカリを引き戻して、なんとか破けないように「伝説の剣」を取り返す。ドラゴンは「美味そうな生贄の姫」で包んだ小石に夢中になって喰いついているようだった。思わずあれが自分だったら、と想像して、ゾッとする。

「……っ!」

 何かカッコ良い掛け声でも上げようと思ったけれど、目の前で轟々と這っているドラゴンの首があまりに生々しく、何も言葉にならなかった。

「くっそ!」

 半ばやけっぱちで手の中で筒状に丸めた「伝説の剣」をその首に突き刺す。

 パッと視界が真っ白になった。



「カガミ!」

 アカリの声で我に返ると、辺り一面真っ白な粉塗れになっていた。

「……アカリ?」

「大丈夫? 痛いところない? ああ、もう! 私が行くつもりだったのに!」

 そこは間違いなくさっきまで居た草原だった。ただ、風は無い。その景色をバックにアカリがおたおたとしている。

 ドラゴンの姿はもうどこにも無かった。

「……あっま!」

 心配するアカリをよそに、思わず口の中の物を吐き出す。案の定、辺りに散らばっている白い粉だった。

「なんだこれ……。砂糖?」

「わかんない。ドラゴンが弾けて、それになっちゃった」

 アカリは安心したのか呆けた顔で、僕と一緒に真っ白な粉の中に座り込んでしまった。思わずその顔に白い粉をかける。

「ぶっ! 何するの!」

 アカリも負けじと僕の顔にかけてくる。それは砂のようにさらさらとしていた。やっぱり砂糖なんだろうか。少なくとも不快感のある肌触りではなかった。更にアカリにかける。

「やーめーろー!」

 気づけば、夜の草原で僕らは子供のようにその白い砂を掛けあっていた。なんだこれ、なんだこれー、と大笑いしながら。


 


 一頻り笑いあった後、僕らは丘を登り始めた。

 二人共、歩く度に白い砂がきらきらと地面に落ちていく。丘の中腹辺りで振り返ると、それはレンガの通路の出口から、道標のようにずっと続いていた。

「ミルキーウェイみたいね」

「なにそれ?」

「天の川」

「……確かに」

 空には相変わらず巨大な半月しか星はない。でも、その光に当てられて光る一筋の線がまるで落ちてきた天の川のようにも見えた。

「『まるで星空が、落ちてきたみたいだ』」

 アカリが得意の演技がかった声で言った。

「それは何の台詞?」

「今、思いついた」

「いいね。気に入った」

「そう? それじゃあ後でルーズリーフに書いてあげる」

「僕には、読めないよ」

「この旅が終わったら、読めるかもしれないでしょ」

「……そうかもね」

「ねえ、この旅が終わったらどうなるんだろうね」

「どうだろう。元の場所に帰れる、とか」

「元の場所って、何処なんだろうね」

「多分……普通に家があって、街があって、学校があって……」

「生活していて?」

「そう。多分、そんな感じ」

「おかしな話だよね。自分に関する記憶がないのに、本当にそれがあったように感じる」

「……アカリ?」

「『僕たちは、本当は何処から来て、何処に行くのだろう。一体、何が本当で、何が夢なのだろう』」

「……それもオリジナル?」

「うん。今、思いついた」

「それも、ルーズリーフに書いておいてよ」

「うん。まかせとけ」

「僕の字は、本当に下手くそだからなあ」

「ね。本当に下手だった」

「……でも、僕も何か書いておこうかな」

「そうね……。だったらこんなのはどうかしら」

「どういうの?」

「『僕たち、一緒に行こうねえ』」

「……。」

「カガミ、この旅が終わってもずっと一緒に行こう。フィルムを全部集めて、記憶を取り戻しても、こんなふざけた夜が、ただの夢に思えても……。それでも『アカリ』と『カガミ』は一緒に行こう」

「……そうだな」

「……そうだよ」

僕は多分、嘘をついた。



 近くで見ると、丘の上の建物は小屋と言うよりも、納屋と言うか、少なくとも人が住む為の造りではなかった。木のツギハギだらけで、まるで秘密基地か、よく言ってもアトリエと言った風情だった。窓からはどこか頼りない淡い光が漏れていて、所々途切れつつも建物を囲っている柵を照らしていた。

 その吹けば飛んでいってしまいそうなボロボロのドアの前に二人で立つ。

「とりあえず、ノックしてみる?」

「そうね。なんかあの私、気難しそうだったし、マナーを守って、ね」

 ということで、一応礼儀をわきまえて、壊さないように慎重にそのドアをノックしてみる。

 一回、二回、三回、とコツコツと叩いて、待つ。

「……。」

「……。」

 返事は無い。

 窓から灯りは漏れているので、恐らく中にあの少女は居るはずなのだけれど。

「もう一度、ノックしてみる」

 一回、二回、三回、四回、とさっきよりも若干強めにドアを叩く。

「……。」

「……。」

 思わず二人で顔を見合わせる。

「……居留守?」

 さてどうしたもんか、と腕を組んだ僕の隣で、アカリが「ふむ。しょーがない」と言ってドアノブに手をかけて、何のためらいもなく回す。

「……アカリさん。マナーは?」

「最低限、礼儀は尽くしたわ。どうせ、私だし」

 しれっと言い切って、ずかずかと中に入っていく。

「……さいですか」

 苦笑いをこぼしながら、その背を追った。



 建物の中は、例えるなら散らかし放題の男の子の部屋、と言った感じだった。大きな本棚が壁の一面を埋めていて、そこには様々な本がぎっしりと詰まっていた。空いたスペースには飛行機や、帆船の模型なんかも飾ってある。そしてそれらの作りかけなのか、壊れた物なのか、色んなパーツと思しき細かい物と、歯車や何か大きな機械の部品と思われる物が床のそこら中に散らばっていた。入ってすぐ正面の壁には、これまた大きな地図で埋められていて、その周りには何かのメモだろうか、手書きの絵や文字が書き込まれた紙切れも貼られていた。その地図と本棚の間には木の箱が置いてあって、中から玩具と思われる銃や剣のような物が無造作に突き出していた。

 そんな、少しわくわくしてしまうような物に溢れた部屋の中、少女は窓の下にある机に向かって熱心に何か作業していた。僕らが入ってきたことにも気づかない程、集中しているようだった。

「ねえ、ちょっといい?」

 アカリがその少し幼い自分の背に声をかける。ただ、これほど近くに来ているのにその声も全く耳に入っていないようだった。

机の上には小さなランプが一つ置かれていて、少女が手を動かす度に、後ろの本棚にその影が大きくなって写っている。

「聞こえてないみたい」

 アカリが振り返って肩をすくめる。

「ねえ、ごめん。作業中に悪いんだけどさ!」

 今度は僕が大きめの声で話しかける。

「……。」

 それも無視される。

「しょーがないわね。しょーがない」

 いい加減痺れを切らしたのか、アカリが足元に散らばっている物をひょいひょいと避けながら少女の後ろまで移動して、その肩を叩いた。

「あの……」

「うわー!」

 途端に、少女の身体がびくんと跳ねて、外にまで聞こえる程の声で、絶叫した。

「ごめんなさい! 驚かすつもりは無かったのだけれど」

「……。」

 振り返った少女は口をあんぐりと開けたまま、アカリの顔を見つめていた。

「ごめんね。そいつ、あんまり礼儀とか知らないんだ」

「……カガミ?」

 場を和ませようと、冗談を言ってみたけれど、アカリに睨まれてしまった。そのやりとりの間も、少女の目はアカリの顔に釘付けのままだった。

 やがて、その小さな口がゆっくりと閉じられる。そして胸に手を当てて、一度深呼吸すると、少女は驚くべきことを口にした。

「びっくりしたー。どうしたのお姉さん。こんな場所に一人で」



 どうやら、少女には僕の姿が見えていないようだった。

 今は散らばっていたものを部屋の隅の方に寄せて、僕とアカリが床に、少女は机の椅子に座っていた。

「ねえ、本当に見えないの? ここに居るのに」

 そう言って、アカリが僕の頬を抓る。まださっきの冗談を根に持っているのだろうか。痛い。

「もう全っ然。お姉さん一人でパントマイムしてるみたい」

 そう言って、少女がケラケラ笑う。どうやら、さっきのホームで見せた表情とは裏腹に随分と明るい性格のようだった。

「どれ、試してみよう」

 そう言うと、少女は椅子から立ち上がり、アカリの手の先へ……僕の方へと近寄ってくる。

「ここに居るんだよね?」

「そうよ。今はアホ面で貴方を見上げてるわ」

「うわー! それは是非見てみたいなあ!」

 目の前にしゃがんだ少女の手が徐々に僕の胸の辺りに迫ってくる。

「変な所触ったら、ごめんね」

 見えていないはずなのに、少女が僕に向かってニヤニヤと笑いかける。その顔はアカリそのものだった。

「えい」

 掛け声と共に勢い良く少女が僕の方へ向かって、その手を突き出す。ところが。

「……なんだ、何もないじゃん」

 思わず目を疑った。少女の手が僕の身体をすり抜けて、背にしている本棚に触れている。

 横で事の成り行きを見守っていたアカリも、目を見開いていた。

「やっぱり、からかってるの?」

 少女は、僕の身体から手を引き抜き、腕を組むと、少し不機嫌な声でアカリに文句を言った。でも、正直それどころじゃない。

「カガミ! カガミ! 大丈夫? 穴、空いてない?」

 恐る恐る自分の胸の辺りに手を当てる。そこには固い自分の胸があるだけだった。シャツの

 向こうから、早くなっている自分の鼓動を感じた。

「……大丈夫。空いてない」

「よかった……」

 アカリもほっと胸を撫で下ろす。

「……その様子じゃ、一応本当にお姉さんには見えてるみたいね」

 泣きそうな顔になっているアカリを見て、渋々と言った様子で少女がため息をつく。そしてどっかとまた椅子に座った。

「信じてくれるの?」

「ええ、信じるわ。見えている物、触れられる物だけが全てじゃないもの。じゃないと、アタシ、何も出来なくなっちゃうし」

「そう言えば、ここで何をしているの?」

 思わず会話に混ざってしまう。当然、その声に対する返事は無かった。

「だから、カガミの声も聞こえないんだってば……」

 アカリに呆れ顔で見られる。正直、ちょっとだけ寂しい。

「なになに? カガミさんはなんて言ってるの?」

 そんなアカリの様子を見て、ニヤニヤとしながら少女が尋ねてきた。この子、本当は見えているんじゃないだろうか。

「一体、ここで何してるの? だって」

「ああ。アタシはここで、そうだなー。なんて言ったら良いのかな……。うん。色々創ってる」

「創ってる?」

「だから、カガミ……何度言ったら分かるの?」

 まるで犬のように叱られて、女子二人の……いや、一人の? 会話から追い出されてしまった。しょうがないので、後ろの本棚を漁ることにした。

「創ってるって、どんなのを?」

「そこに刺さってる『伝説の剣』とか、本棚にある飛行機とか船とか」

「これ、あなたが創ったの? すごい!」

「他にもね……」

 そんな男の子同士のようなガールズトークを聞きながら、本の背表紙を追っていく。なんだかどの本も見覚えのある物だった。そして、その沢山並べられた背表紙の内の一つで目がとまる。

 ――銀河鉄道の夜――

 もう何度も見た、その本に手を伸ばす。

 ところが、僕の指はするりとすり抜けてしまった。

「……。」

 じっと、手の平を見つめる。

 試しに他の本や、模型にも手を伸ばしてみる。結果は同じだった。


「ねえ、カガミ! 見て」

 ふいに後ろから楽しそうなアカリの声が聞こえた。その声で我に返る。

「どうしたの?」

 振り返ると、少女が得意気に胸を張っていた。その手には……ルーズリーフとペン?

「アカリが貸したの? それ」

「違う、違う。ていうか、まだカガミが持っているじゃない。あれはあの子の」

 そう言えば、さっきのドラゴン退治の時に、ペンと何枚かのルーズリーフを借りたままだった。『伝説の剣』と漢字で失敗せずに、一度で書けなかったのだ。

「そうじゃなくって、見てて」

 そのアカリの声を合図に、少女が自分のルーズリーフにペンを走らせる。そして書き終わった一枚を自分の手のひらに乗せると……。

「……すごい。手品?」

 確かに、ただのルーズリーフだったのに、何時の間にか少女の手のひらには小さなブリキのロボットが乗っていた。

「カガミさん。驚いてる?」

 得意気に少女が鼻を鳴らす。

「すっごい、驚いてる」

 それに合わせてアカリも得意気に笑う。

「なんでアカリも得意げ?」

「だって、私も似たようなこと出来たじゃない?」

 そう言えば、直接形にはなっていなかったけれど、アカリも切符やさっきのドラゴン退治の時にルーズリーフを使っていたっけ。

「こうやってね、紙に書いて、この世界に創りだすの。世界をアタシが見ていたいものに、書き換えていくの。素敵でしょ?」

「……そうね」

 少女は、まるで宝物を自慢する男の子のような笑顔でそう言った。でも、その台詞に対するアカリの顔はどこか憂いを含んでいる。

「そう言えば、ここに来る時に見なかった? おっきなドラゴン! あれもアタシが創ったの。……あんな奴らなんて要らないもの」

 最後の方は独り言のように小さな声だった。随分と物騒なことを言っていたけれど、アカリにも聞こえたのだろうか。

 少女は勢い良く立ち上がると、窓を開けた。

「……あれ? 居ない」

「ドラゴン? 見たかったな―。でも、来る途中には居なかったわよ」

 またしれっとアカリが笑顔で答える。神経の太さは健在だった。

「そうなの? おっかしいなあ。何か間違ったかなあ」

 そう言うと少女は、本棚の方へと歩いてきた。一応ぶつからないとは言え、身体をどかす。少女は迷わず一冊の本を取り出すと、パラパラとページを捲り始めた。アカリがその背に声をかける。

「それは、何の本?」

「アタシの好きな、外国のファンタジー。ドラゴン以外にも色んな面白い生き物が出てくるよ」

「そういうのが、好きなの?」

「アタシはね。でも、こっちはそれこそ趣味みたいなもん」

 まあ、いっかー。と少女は本を棚に戻すと、代わりに別の本を取り出した。『銀河鉄道の夜』だった。

「本当は、こっちをやらなきゃいけないんだ。でも、言葉遣いがなんか合わなくてさ、全然進んでないんだけど」

 あはは、と少女は宿題を忘れた時のように頭を掻きながら笑う。ポニーテールがひょこひょこと揺れた。アカリも、その本が何の本か気づいたようだった。僕に顔を寄せてきて、少女には聞こえないように小声で話しかけてくる。

「……あれって、カガミが持ってたやつ?」

「いや、僕はもうあの本を持ってないよ。ほら、カムパネルラに渡したって」

「そう……わかった」

 何かを思いついたのか、すっとアカリが顔を離した。少女に僕の姿も声も届かない以上、ここはアカリに任せるしかない。

「ねえ、どうして苦手な本なのに、それをやらなきゃいけないの?」

 パラパラとページを捲っていた少女はすぐには答えなかった。本を読んでいるわけではなさそうだった。答えを纏めるまでの、時間稼ぎのようだ。

 最後のページまで、捲り終えてしまうと、観念したのか、少女はため息と共にパタンと本を閉じた。

「……まだ、そこにカガミさん居るんだよね?」

「居るわよ。……男の子が居ると話しづらい話?」

「いや……まあいっか。別にアタシには見えないし」

 少女は『銀河鉄道の夜』も棚に戻すと、また自分の机へと戻った。二人でその成り行きをじっと見つめる。がさごそと机の引き出しを漁ると、やがて一枚のルーズリーフを取り出した。

「これ……なんだ」

 そのルーズリーフを見て、僕の中にあった不安が……でもどこかで覚悟していたことが、一気に確信に変わった。

 そこには、下手くそな絵で、一人の男の子と思われる絵が描かれていた。

「この子がね、好きな本だったの。アタシはどっちかというと、こうファンタジーで大冒険、みたいなのが好きなんだけど」

「……その子のことが、好きなのね」

 どこか硬い声音でアカリが尋ねた。その横顔は無表情だった。

「……うん」

 少女が照れたように笑う。

 僕はそのやりとりを、まるで映画でも見ているかのように、遠くの出来事に感じながら見ていた。

「その子は、今どこに居るの?」

「……。」

 少女が言い淀む。アカリは返事を急かすこともなく、じっと少女を見つめていた。

 やがて、ゆっくりとその小さな口が開いた。少しだけ、泣きそうな声だった。

「……居なくなっちゃった。小さい頃に」

 死んだ、とは言わなかった。でも、その様子から察するに……そういうことのようだった。

「あいつがね、居ない世界なんて、なんの意味もないよ。だから、アタシは世界を書き換えるの。自分が望むように、あいつが望んでいたように……。また、子供の頃みたいに、二人で冒険が出来るように。今度は……ドラゴンとかだけじゃくて、あいつの好きだった『銀河鉄道の夜』も混ぜてさ。上書きするの。でも……」

 そこで一度、少女の声が詰まる。目からポロポロと涙が溢れていた。

「どうしてかなあ……。ちゃんとこの本を読めないんだ。汽車が出て、それに乗って旅をするって言うことくらいは、知ってるよ? でも、ちゃんと、読めない。いつも途中で辛くなって止めちゃう。そして自分の世界に逃げちゃう……。そして、その度にね、あいつのことを、どんどん忘れちゃってることに気づく……」

「……うん」

 アカリがその言葉に頷く。優しい、声だった。

「『あいつが居ない世界』が、当たり前な顔をして、ドラゴンみたいにどんどんアタシの記憶を喰っていく。『忘れろ、忘れろ!』って言いながら、みんなでアタシを上書きしていく。……だから、アタシも上書き仕返すの。あいつと読んだ本に出てきたドラゴンは絶対、この世界のどこかに居るし、魔法の国に繋がってる不思議なトンネルも在る。でもね……でもね……」

「……思い出せないのね」

 本当の姉のように、アカリがその言葉を続けた。少女の声はもうしゃっくり混じりで、涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃだった。

「……うん、うん。思い出せない。肝心なあいつのことが、思い出せない。ある時、気づいちゃったの。ドラゴンも伝説の剣も創れるけど、アタシの描いたあいつは、本当のあいつじゃない。どんどん、どんどん、本当に居たあいつに穴が空いていって、そこにアタシが好きな物を詰め込んでるんだって……。アタシ自身が、あいつを上書きしちゃってるの。『あいつが居ない世界』にアタシも汚されていってる。あいつを元にした、自分に都合の良いあいつの代わりを創ろうとしているの……」

 少女が手に持っている、下手くそな『あいつ』が描かれている一枚の紙に、ぽたぽたと涙が落ちて、染みになっていった。

 何故か、自分でも驚く程、冷静だった。

 それどころか、頭の風通しが良くなったみたいに、すっきりとした気分でもあった。

 こんな絶望を抱えたまま、少女はまた、あの砂浜へと向かったのだろう。……汚れを落とすために。

 カムパネルラが持っているあのフィルムには、このことが映されて居たのだろうか。

 そっと、隣のアカリの顔を覗き込む。

 そこには、水底の虚ろな目も、暗闇から返ってきた時のような暗さも、感じられなかった。

 それは、何かを覚悟した、顔だった。

「ねえ、私のシャツ、汚れてるの分かる?」

 アカリが自分の胸の辺りのシャツを摘んで言った。そこにはさっきのクリーニング屋で落としきれなかった鼻血の痕がうっすらと残っていた。

「……うん」

 鼻を啜りながら、少女が答える。

「これね、ケチャップの痕よ。浜辺のレストランで、オムライス食べた時の」

「……!」

 少女の目が目一杯開かれる。

「思い出した? ……負けんじゃないわよ。明日、今日よりも『あいつ』の事を忘れてしまうなら、今、確かに覚えていることを書き残しておきなさい。断片でも良いから、残しておきなさい。それが空想だろうと、なんだろうと、あなたが観た『あいつ』を、この世界に書き残しておきなさいよ」

 そこで、一度、アカリは僕の方を見た。

 笑顔だった。でも、僕にはちょっとだけ、ほんの少しだけ……泣き顔にも見えた。その顔に返した僕の表情も、恐らく似たような物だったと思う。

 アカリが、少女に向き直る。

 一度大きく深呼吸した後、今度は優しい声で、続きを口にした。

「……ここに『あいつ』が居たってね、結局あなたが観た『あいつ』になるんだから……。いつか、本当に全てを忘れてしまって、絶望して、あなたがこの世から居なくなっちゃったとしても、あなたが観た『あいつ』は確かに居たんだって……そうなるように、書き残しておきなさい。ドラゴンだって、本を開けばいつでも会えるんだから……」

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