Intermission1

「カムパネルラ」

「もうすぐ駅ですよ。起きて下さい」

 まどろみの中、声がした。

 それはまるで、幼い少年のような、大人ぶっているけれどもたどたどしい声だった。

「駅……?」

 ゆっくりと目を開ける。どうやらあのまま眠ってしまったようだった。アカリの頭に顔を埋めていたようで、彼女の長い髪が目に入って痛かった。

「駅に停まったら、しばらく汽車は動きません。どうか降りる用意を」

「あ、すみません……」

 そこでようやく頭が冴えてきた。

 ガバっと勢い良く起き上がり、その声の主を探す。

 次第にピントがあってくると、其処にはアカリよりも少し背が低い位の、一人の学生服姿の人物が立っていた。

 最初は少年かと思った。学生服と言っても、やけに古めかしく、しかも男物だったのだ。学ラン、それと帽子に外套まで付いている。まるで大正時代の制服のようだった。おまけに手には白い手袋、肩からは革製の黒い大きなバッグを下げている。そして何よりも目を引いたのは、その黒い帽子の下から覗く恐ろしい程綺麗な白い髪だった。白髪と言うよりも銀髪に近いかもしれない。

 ただ、その肩ほどまでに伸びている銀色の髪に包まれた顔は、どう見ても僕らと同じか、少し下程の年齢の少女の顔だった。

「あ、あの……君は?」

「ぼくですか?」

 大きな目をぱちくりとさせたあと、少女はとぼけた顔で自分の事を指さす。その仕草はどこかアカリに似ていた。

「そうですねえ。車掌みたいなものです。まあ、勝手にやっているんですけどね」

 そして直ぐにへらっとした笑みをこぼす。その表情の変化の早さもどこかアカリに似ている。

「車掌……ですか。えっと、もうすぐ駅に着くって」

「そうです。一時停止です。流石にずっと走り続けるわけにも行きませんので。無理は禁物」

「はあ……。因みになんて言う駅なんですか?」

 駅の名前さえ分かれば、此処がどこか分かるかもしれない。

 余程疲れていたのか、随分とぐっすり眠れたようで、やけに頭がすっきりとしていた。

 寝る前に考えていた阿呆な空想も、それどころかその前の出来事も全て夢に思えた。

 ――やっと、帰れるかもしれない。

 ただ、返ってきた答えは素っ頓狂なものだった。

「駅名ですか……。そうですねえ、しいて言えばクリーニング屋があります」

「……クリーニング屋?」

「なんだったら、貴方が駅に名前をつけても良いですよ」

 また、にへらと少女が笑う。

 ……窓の外に目を向ける。

 案の定、そこには現実ではありえないような巨大な満月が出ていた。そして汽車も相変わらず、橋の上を走っているようだった。

 夢では無かった。

「どうしたんですか? がっかりした顔をして」

「……いや、やっと目が覚めたのかと思って」

「覚めたじゃないですか。随分気持ちよさそうに眠っていましたよ。彼女を抱いたまま」

 そうだ。アカリは。

「……。」

 ……こちらの方も相変わらず眠る前のままだった。

「なあ、車掌さん。その駅の近くに病院はないか? さっきからこの子の様子がおかしいんだ」

「病院ですか。まあ、望めば出てくるかも知れません」

「え?」

「でも、この子は病院よりもサナトリウムの方が良いかもしれませんね……。心が喰われている。厄介なことに、記憶にね」

「記憶に? ……なあ、何でも良いから、助ける方法はないか? 何でもするから」

 気づけば、目から涙が出ていた。

 情けないことは百も承知だった。

 それでも、どうしても僕はアカリに元に戻って欲しかった。自分の為に。

「何でもしなくて良いですよ。なんてたって、ぼくは車掌ですから。具合の悪くなったお客様をお助けするのも仕事の内です」

「それじゃあ」

「ただし」

 少女の顔が帽子の下で険しくなった。

「原因はこの子が持っている記憶です。余りにもショックな記憶を思い出してしまったのでしょう……。だからそれを除けばこの子は恐らく元に戻ります」

「それなら、早くその記憶を」

「でも」

 落ち着け、と言わんばかりに口元に指を当てられる。

「……。」

「……。」

 しばらくそのまま少女は僕の目を見つめていた。

 そして、たっぷりと間をとって、僕が落ち着いた頃を見計らってこう続けた。

「……良いですか? 記憶は一時的に取り除いたとしても、忘れたとしても、必ず自分自身に還って来るのです。確かに今は忘れて居たほうが良いでしょう。でもいつか向き合わなければなりません。……捨てるか捨てないか、加工するかそのまま受け入れるか、はたまたすり替えるか……。何らかの答えを出すにしても、必ず一度、受け止めなければならない。それが誠意ってものです」

「……はあ」

「貴方はそれを受け止めましたか?」

 不意にシャツの胸ポケットを示される。

 不思議に思いつつもそこに指を入れると、何か硬い切れ端に触れた。恐る恐るそれを引き出して見れば。

「フィルムだ……」

 それは、あの暗闇の中で掴んだフィルムの切れ端だった。

 薄明るい車内の灯りに透かして見ると、草原を走る二人の子供のシーンが映されていた。遠くには古い遊園地も見える。あの時の、穴の向こうの光景だった。


 と、少女の手がアカリの胸元に伸びた。

 思わずフィルムも投げ出して、その手をはたき落としてしまった。

「なにしてるんだ!」

「いや……だから助けてあげようかと。……まるで犬みたいですね」

「……ごめんなさい」

 少女が手を抑えながら、恨めしそうに僕を見た。帽子の下の目は半眼になっている。

「駄目ですよ。あんまり他人との記憶に頼りきっちゃ。勿論、人と関わることは必要ですけど、例え同じ経験をしても、フィルムに映る世界はそれぞれ違うんです。他人の中には自分は居ないのです」

「どういうこと?」

「例えるなら、人の身体はカメラのレンズのようなものなんです。そしてそのレンズを通して世界は心に、魂に……フィルムに記憶される。そして今度はそのフィルムに影響されてレンズは形を変えていく……色がついたり、魚眼になったりするかも知れません。その形は魂の数だけあります。そしてまたそれぞれのレンズで世界を観るんです。そしてまたフィルムに記憶されて……それを繰り返していくんです。ぼくが観ている世界と、貴方が観ている世界、そしてその子が観ている世界はそれぞれ違うんです。同じ月を見ても、綺麗だなと思ったり怖いなと思ったり……それは人それぞれでしょう?」

「はあ……」

「要は、ありのままの世界なんて無いんですよ。世界を観る時、必ずそこには自分自身の記憶が影響を与えているんです。それが例えば『ここはあの子と初めてチューした場所だキャー』みたいな可愛かったり美しい記憶なら良いんですけどね、逆に絶望してしまうような……それこそ心を閉ざしてしまうような記憶だとしたら、人はレンズに蓋をしてしまうかもしれない」

「アカリは今、その状態ってこと?」

「……多分」

 何故か悲しそうな顔で少女が俯く。

「多分?」

 しばらく僕とアカリの顔を見比べた後、大きく息をすってから少女は口を開いた。

「多分、貴方に関することで……関する記憶で。それが原因なんじゃないかと思います。因みに貴方はそのフィルムをどこで?」

「どこで、と言われても……。正直よく分からないんだ。車掌なら分かるだろ? さっき汽車が一回止まって、車内の灯が無くなったあの時。あの暗闇の中でもがいていたら何時の間にか握っていた」

「その時、その子は?」

「分からない。……多分、僕と同じように暗闇の中でもがいていたと思う。なんとなくだけど」

「そうですか……。ちょっとそのフィルム、よろしいですか?」

 僕は少女に促されるまま、例の幼い僕らが写っているフィルムを手渡した。

 少女は受け取ると直ぐに僕と同じように、車内の灯にそれをかざした。

「……貴方にはこのフィルムに何が見えました?」

「何って……。幼い僕らが走ってるところ、だけど」

「そうですか……ちょっと失礼。今度は叩かないで下さいよ」

 そう言うと、少女は少し僕に警戒しながら、アカリのシャツの胸ポケットに手を伸ばした。流石に今度は僕も手を出さない。

 しばらくポケットの中をまさぐった後、ゆっくりと引きぬかれた少女の白い手袋の指先には、僕のと同じようなフィルムが入っていた。ただ、ちらりと見えたそのフィルムは真っ暗で何も写っていないように見えた。

「どれ……」

 それでも少女はお構いなしにそれを車内の灯にかざす。横から覗きこんで見ても、やっぱり僕には真っ黒にしか見えない。

「あの、それ見えてるんですか?」

「……貴方には見えないんですね」

 フィルムから目を離さず少女が答える。

「真っ黒にしか」

「……そうですか。しかし、成る程。こういうこともあるんですね……」

 思わずぎょっとした。

 フィルムを覗く少女の目には涙が浮かんでいた。

「あの、そんなに酷い記憶が写っていたんですか?」

「ごめんなさい。全然、酷くなんてないです。でも確かにこれは、これは……今、受け止めるには荷が重すぎますね」

 アカリのフィルムを自分の鞄にしまい、手袋のまま目をごしごしとふいてから、赤い目で少女は僕を見据えた。

 泣いた後のせいか、少し幼く見えるその顔が真っ直ぐに僕を見ていた。

「貴方、男の子でしょう?」

「……はい?」

「男の子かって尋ねてるんです! 日本男児でしょう?」

 ……何故か説教が始まった。

 でも少女の勢いに思わず居住まいを正してしまう。

「多分、そうだと思います……」

「多分じゃなくて!」

「はい!」

「よし!」

 さっきのアカリも怖かったけれども、この少女もかなりの迫力だった。何だか、この汽車に乗り込んでからと言うもの、女の子に圧倒されてばかりな気がする。

「返事をしましたね? ……じゃあ、もっとしっかりして下さい。記憶が無いくらいなんですか。それならそれで、今観ている世界を信じれば良いじゃないですか。その子だけじゃなくて、その子が居る今を観る度量を持って下さい! ……記憶の量なんて大した問題じゃないんですから、その子の記憶にまで、すがらないで下さい。じゃないと、じゃないと、その子が不憫過ぎます……」

 そこまで言って、少女は俯いてしまった。

 一体この少女はフィルムの中に何を観たのだろうか。

 最初は刺のあった声も、最後の方には次第にまた、涙声に変わっていた。

 ただ、その声の一つ一つがゆっくりと自分の中に染みこんでいくのを感じた。

 少女の言葉を借りるなら、耳を通して、彼女の声が僕のフィルムに焼きついたのかもしれない。そして、それは確かに僕のレンズを変えたようだった。

「……わかった。ありがとう」

 ゆっくりと少女が顔を上げる。

 その目はまた更に真っ赤になっていた。髪の色と合わさってまるでウサギに見えた。

「いえ……こちらこそ言い過ぎました。ごめんなさい。でも、いつまでもこのフィルムを預かっているわけにはいきませんから……。だからその時、貴方がその子を支えてあげないと、いけないんです。きっとその子はそれを望んでいます」

「わかった」

 何故かさっきまでずっと付き纏っていた不安は消えていた。記憶が無い分単純なのかもしれない。……いや、目が覚めたのかもしれない。覚悟が、決まったのだ。

「一つ聴きたいんだけどさ……。僕はこの汽車に乗った時、この本を持っていたんだ」

 そう言って、少女に『銀河鉄道の夜』を差し出した。

 そして一つ息をついてから、尋ねた。

「そういうこと?」

「……。」

 少女はじっとその本を見て、何か考えているようだった。

 じっと少女の言葉を待つ。

 やがてゆっくりと少女の小さな口が開いた。

「……それは、今のぼくからは何も言えません」

「……そっか」

「その答えはこの旅の終わりに分かると思います。恐らく、これから停まる駅でまたフィルムを見つけるでしょう。安心して下さい。その数はきっとそんなに多くないです。重要な場面はそう何度もありませんから。……その子も今、記憶が無いんですよね?」

「そうだよ。……そう言えば、どうして僕の記憶が無いことを知っていたの?」

「……貴方達の服が汚れたままだったので、怪しいなとは思っていたんですけど。フィルムを持っていたので、確信しました」

「それはどういうこと? まだこの夜は続くんだろ、知っておきたいんだ。頼む」

「ちょっとだけ、良い顔になりましたね」

 少女が少しだけ嬉しそうに笑った。

「そうですね。あんまり説明なんてしない方が良いんですけど、少しだけ教えてあげます。……ここは、ちょっと曖昧な場所なんです。カメラじゃなくて映写機になっちゃうことがあるんです」

 カメラではなくて、映写機……。そう言われれば、思い当たる節はあった。

 そこで一つ疑問が浮かぶ。

「なあ、それじゃあ、この汽車も、窓の向こうの景色も、僕達の記憶が原因なの?」

「……これからこの汽車は過去に向かって走って行きます。でも、今の貴方達にとって、これからの旅は前進なんです。ごめんなさい、これ以上は此処のことについて、ぼくの口からは言えません。ただ、ちゃんと全てに意味があります。記憶が無いことも、それがフィルムとして目に見える形になっていることも、これから訪れる駅にも、そこで経験することも……。これから観ることは全て、貴方達二人にとって、意味があることなんです」

「……わかった。それだけ分かれば充分だ。色々答えてくれてありがとう」

 話している間、ずっと強張ったままだった少女の顔が少し緩んだ。

「いえ……。ぼくはこの汽車の終着駅で待ってます。そこでその子のフィルムをお返ししましょう。恐らくその子も、もうすぐ目を覚ますと思います」

「約束するよ。アカリを連れて、必ず会いに行く」

「その子、アカリって言うんですね。そう言えば貴方の名前は?」

「カガミ」

「アカリとカガミ……いい名前ですね」

「だろ?」

 少女に向かって、得意気に笑ってみる。

 可笑しそうに少女も笑う。

「そうだ、君の名前は?」

 ちらっと、少女が『銀河鉄道の夜』を盗み見た。

「そうですね……カムパネルラとでも呼んで下さい」

「……本当の名前は?」

「それは、教えられません。この汽車は貴方達の為の汽車ですから」

「そっか。……そう言えば、車掌さんだったよね。切符はどうすれば良いだろう?」

「勝手にやっているんですけどね」

 そう笑いながらカムパネルラは『銀河鉄道の夜』を手にとった。

「これを切符の代わりに頂いて行きます。それとも、まだ読み終わっていませんか?」

「いや、もう読み終わってるよ。そうだな……ちゃんとフィルムに焼きついてる」

 おどけた僕の顔をカムパネルラはじっと見つめた。何度目かの真面目な顔だった。

「そのことを……。物語がフィルムに焼き付いた事を、記憶と同じ場所に、焼き付いている事を、どうか忘れないで下さい」

「……わかった」

 ――そう、答えた時、汽車がゆっくりと止まった。

 窓の向こうには人の居ないホームと、木製の古めかしい駅舎が見えた。

「なあ、カムパネルラ……。カムパネルラ?」

 その駅に視線を奪われている間に、もう車掌は居なくなっていた。

「……また、後で」

 彼女が立っていた後には、僕のフィルムが無造作に置かれていた。そのフィルムを手に取り、またシャツの胸ポケットに、ルーズリーフとペンをズボンのポケットにそれぞれねじ込むと、まだ元に戻らないアカリを背負い、僕は駅のホームに降り立った。

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