「Toast of the orange in coal」
汽車が止まった。
森に入ってしばらくは何も変わらずに走っていたのに、気づかない内に速度を落としていたらしく、スッと乗り物が止まる時特有の反動が来るまで僕らはその事に気付かなかった。それは余りにも自然に訪れて、僕たちは驚く暇もなかった。
「カガミ……。止まったよね、この汽車」
アカリの声が暗闇の向こうから聞こえてくる。
車内の灯りが、汽車が止まったと同時に消えてしまったのだ。
「止まったね……。ちょっと待って、目が慣れるまで、動かないで居よう」
そうは言ったものの、本当に真っ暗だった。今日は月が出ているのだろうか。そもそも月という物がここには在るのだろうか。どうして車内の灯りは消えてしまったのだろうか。
そんな様々な不安が一瞬の内に押し寄せてくる。
まださっき迄はどこか脳天気でいられた。
遠くの灯りが見えなくなっても、まだ森という言い訳があったから、ふざける余裕もあった。
光の中に居ること。絶え間なく続く振動。気にも留めていなかったその二つの要素が、堪らなく恋しくなる。
完全な闇と、静寂。
木々が揺れる音も聞こえない。
目の前のアカリの顔も、見えない。
まるで宇宙にでも放り出されたかのようだった。
……手の先に硬い何かが当たる。
それは手に収まる位の長方形で、ああ、そうだ。「銀河鉄道の夜」だった。
冗談じゃない。
「カガミ……」
またアカリの声だけが聞こえてくる。さっきよりも弱々しい声で。
不意に鼻の先に風を感じた。
「アカリ……?」
「ねえ、どこに居る? そっち行っていい?」
それはアカリが僕を探して暗闇で手をバタつかせているからだった。
「待って。危ないから立たないで。手を真っ直ぐ伸ばして」
ここに来てから殆どずっと向かい合って座っていたのだ。
大体の当たりをつけて、アカリの腕が在るだろう場所に手を伸ばす。
でも、何故かその白くて細い腕が見つからない。
「ごめん。やっぱりちょっと動かしてみて」
「うん」
アカリは素直に頷くと、またぱたぱたと闇雲に手を動かした。その風は感じる。感じるのだけど、何故かその手を捉えられない。
もし今、車内の灯りが戻れば、僕らは随分と間抜けな絵面になっているだろう。
お互い座席に座って向かい合ったまま、両手をバタバタと動かしているのだ。
それでも、そんなことすら気にならない程、僕らは闇の中で必死に互いの存在を探していた。
座席の間はそんなに距離はない。立ち上がれば、直ぐにお互い前の座席に身体のどこかしらがぶつかる距離だ。それでも何故か、この闇の中だと遠く感じる。とてつもなく遠く感じる。
頭にさっきの服の件がよぎる。
――お互い確認するまで、服の形に気付かなかった――
今、アカリは本当に其処に居るのか?
見えていないだけで、誰も其処には居ないんじゃないか?
僕は視覚を奪われただけで、あっという間にアカリの存在を疑ってしまった。
すると、さっきまで顔に吹きつけていた風が止んだ。
「アカリ?」
返事は無い。
それどころか、彼女の気配すら感じなくなった。
「アカリ! ふざけてるのか? アカリ!」
自分でも信じられない程、大きな声が出た。
それでも、返事は無い。
「アカリ、動くなよ。今、そっちに行くから!」
居ても立ってもいられなくなって、立ち上がろうと足に力を込めた。
ところが、其処に床は無かった。
床だけじゃない。
気づけば今の今まで座っていた席すらも無かった。
そこは上も下も無い、真っ暗な空間だった。
「アカリ! アカリ、大丈夫か? どこに居る、返事をしろ!」
必死にその空間でアカリを探して手を伸ばす。もうどちらが前か後ろかも分からない。それでも、アカリが居た場所に。居たであろう場所に向かって必死に右手を伸ばし続ける。
「アカリ! アカリ!」
喉が千切れるんじゃないかと思うくらい声を張り上げる。
次第に、口の中に血の味が広がっていった。
ただ、それほど声を出しても、それらは虚しく闇の何処かに吸い込まれていった。
その事で、漠然と自分が途方もなく広い空間に放り出されている事に気づく。
落ちているのか、それとも浮遊しているのかも分からない。
進んでいるのか、後退しているのかも分からない。
次第に時間の感覚も失われていく。
一秒なのか、一分なのか、一時間なのか、その境目が曖昧になる。
次第に声も出なくなり、酸欠になったのか頭に霞がかかったようになる。
それでも、右手だけは前に伸ばし続けていた。
それを降ろしたら、自分も見失ってしまうような気がした。
どれほど、そうしていただろうか。
ぼんやりした頭で、アカリの事を想う。
アカリは言っていた。
――少なくとも、君より先に私はここに居て――
――それが長い時間だったのか、それともほんの数分の出来事だったのかは分からない――
僕がこの汽車に表れるまで、恐らく彼女はずっと一人だった。
その時間がどれほどの長さだったのかは分からない、と言った。
そうなのだ。
アカリはこうも言っていた。
「誰も居ないこの夜に君が来て、そして話して、それで私は私を少しずつ知っているから……だから、鏡。君の瞳に写る僕を見て僕を知るのさ! だからカガミだ!」
記憶の無い僕らはお互いが居ないと、自分すら見失ってしまうのだ。
どんなに下らないやりとりだろうと、その積み重ねで、お互いの存在を確認してきた。
それはひょっとしたら記憶があっても同じなのかもしれない。
「はは……」
暗闇の中、気持ちの悪い笑い声が出た。
「なんだよ。いい名前じゃんか。灯と鏡……」
その掠れた声も、どこか上か下か前か後ろか……いずれにせよゆっくりと落ちていった。
その時だった。
――ずるいよ――
ふいに声が聞こえた。
僕の声でもアカリの声でもない。
それは、伸ばし続けていた右手の先の空間から聞こえた気がした。
「誰か居るのか? アカリか?」
聴いたことのない声なのに、アカリの名前を呼んでしまう。
今の僕には、アカリしか居ないのだ。
「アカリ!」
その唯一の人の名前を呼ぶ。
必死に、その声の方へと、手を伸ばす。
最初は星かと思った。
気がつけば、さっきまで真っ暗だった空間に幾つもの白い光の点が浮かんでいた。
まるで満天の星空の中に居るようだった。
次にそれは雪かと思った。
その光は、ゆらゆらと揺れながら下だと思われる方へ落ちているのだ。
伸ばしている右手にその内の一つが触れる。
思わずそれを握りしめる。
拳の中でもそれは光を失わなかった。
胸の前へと持ってきて、ゆっくりと開く。
「……フィルム?」
手のひらで淡く光るそれは、フィルムの切れ端だった。
ただ、それ自体が発光していて、そこに写っている物は見えなかった。両端に並んでいる穴で辛うじて、それがフィルムだと分かる。
「いたっ」
不意に右手の甲に痛みが走る。
さっき森に手を伸ばした時に出来た傷口が開いたようだった。
傷口から血が滴り落ちる。
すると、その赤い滴が、まるで布に落ちた酸のように暗闇に穴を開けた。
そこからオレンジの光が差し込んできて僕の顔を照らす。
その穴の向こうには、それこそ古いフィルムで撮った映画のような風景が広がっていた。
どこかの夕暮れ時の草原。
二人の子供がその中を駆けて行く。
向かう先には古い遊園地。
先頭を行くのは女の子。
その後を追う、男の子。
次第に二人の距離は離れていく。
男の子が何かに躓いて転ぶ。
それに気づいた女の子が「大丈夫?」と振り返る。
それには答えず、黙って立ち上がる。
そして、今度は女の子に先立って歩き出す。
思わず息を呑んだ。
その振り返った女の子の顔は、大分幼かったけれど、間違いなくアカリだったのだ。
そして、強がりの可愛げのない、男の子の顔は。
「僕だ……」
男の子がまた転ぶ。
今度は直ぐに立ち上がれない。
女の子が駆け寄る。
そして、また尋ねる。
「大丈夫?」
男の子は擦りむいた膝小僧を睨んだまま、呟く。
――ずるいよ――
さっきの声だった。間違いなく。
あれは幼い僕の声だったのだ。
「アカリ! カガミ!」
必死に二人の名前を呼ぶ。
二人の幼い子供はこちらに気づかない。
当然だ。
この名前は、僕らが汽車の中で適当に決めたものなのだから。
……それじゃあ、本当の名前は?
そう思った直後。
暗闇に開いていた穴がじわじわと塞がり始めた。
それはまるで、火のついたフィルムが焦げていくように、周りからゆっくりと暗闇に浸食されているようだった。
「……くっそ。アカリ……!」
閉じていく穴に手を差し入れようとする。どうにか『そちらの世界』へ行こうとする。
でも、それはまるで雲を掴むように、一向に触れることが出来ない。
穴の淵にも手をかけることが出来ない。
その間にも穴はじわじわと狭まる。
そして、もう掌ほどの大きさになった時だった。
幼い僕と目が合った。
蹲っていた彼はすっと立ち上がり、間違いなくこちらを見ていた。
黄金色の草原の中で、幼いアカリの手を握り、残り少なくなったその穴の向こうから、真っ直ぐに僕を見ていた。
その顔は、泣いているようにも、笑っているようにも見えた。
そして、また、こう呟いた。
――ずるいよ――
最後に、その言葉を残して、穴は閉じられた。
また、視界が闇に包まれる。
……いや。
その穴の後に、僅かな光の粒子が残っていた。
オレンジ色の、まるで今まで見ていた夕暮れのような、まるでもぎたての蜜柑のような光の粒が。
その粒子に手を伸ばす。
傷のある右手が何かを掴んだ。
冷たくて小動物のような、その小さな手は……。
「カガミ!」と僕を呼ぶ声がした。
気づけば、暗闇の中でアカリを抱きしめていた。
彼女の両手は僕の後頭部にまわされていて、その指は髪を掻き分けて、皮膚に食い込むほど強く頭を抱すくめていた。どうやら、膝立ちになって、座席に座っている僕に覆いかぶさっているようだった。
僕の両手も同じように華奢なアカリの背中を包むシャツを力強く握り締めていた。
その両手と、彼女の胸に押し当てた耳の向こうから、熱と鼓動を感じる。
それは全く視界の利かない闇の中で、お互いの存在を確かめ合っているようだった。
「カガミ……」
頭の上からアカリの声が零れてくる。
その声を聞いて、やっと僕は戻ってきたのだと確信した。
「アカリ」
確かめるように、彼女の名前を呼ぶ。
血の匂いがした。
それはアカリのシャツに付いた鼻血の匂いだった。そしてその錆びた鉄の匂いの奥に少し甘い匂いが混じっている。それがアカリの匂いだった。
この時やっと、アカリに触れた気がした。熱と、匂いと、そして彼女の声で。
「アカリ」という一人の人が今、此処に居るのだと、確認することが出来た。だからもう見失うこともないと、そう思った。
結局、依るべき記憶の無い僕らにとって、お互いの身体に触れる事が、そんな原始的なことが、相手を見つける一番確かな方法だった。
触れ合っている場所が汗ばんでくる。
それでも、またぎゅっと強く頭を抱きしめられる。それに答えるように、僕も両腕に力をこめた。
かたん、と汽車が動く気配がした。
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