「Red confectionery. The table of contents of a leaf.」
変化は突然、音も無くやってきた。
その時まで僕とアカリは、名前も決まり、他にやることもないので、お互いどういう人間なのだろうか、ということについて延々話していた。
「やっぱりね、カガミは間違いなく文系の人間だと思うの」
「その心は?」
「全然、爽やかスポーツマンには見えない!」
びしっとアカリが、にやにやしながら僕の顔を指差す。
「そんなに……爽やかじゃないかなあ」
「あれ? 傷つけてしまった?」
と、アカリが全く悪びれた様子もなく、僕の顔を覗きこんでくる。
記憶が無い以上、傷つくも何もないとは思うんだけど、どうにもお腹の辺りがむずむずとする。どうなんだろう。普段の僕はスポーツ万能爽やか好青年だったのだろうか。それとも、その逆で、そういう台詞に敏感なのか。
ふと窓に映る自分の顔を見てみる。
髪は……もうそろそろ切ったほうが良さそうな長さだ。前髪が眉にかかっている。
目は大きくなくもなく小さくもなく……普通だ。
鼻は高くもなく低くもなく……普通だ。
唇も厚くもなく薄くもなく……普通だ。
それらのパーツの配置も……普通だ。
つまるところ、どこにでも居そうな顔だった。
クラスに二、三人は居そうだ。地味だ。
何だか落ち込んできた。
「あの……。そんなに悪い顔じゃないと、思うよ」
そんな僕を見て、おずおずとアカリが声をかけてくる。気を使われるのがなんだか余計に虚しかった。
「僕のことは一先ず置いといて、アカリはどうだろうね」
「私?」と自分の顔を指すアカリ。
そして同じように窓に映る顔を見て一言。
「美人ね」
さらっと、言い切った。
「……。」
「何よ、その何か言いたそうな顔は」
アカリの眉間に皺が寄っている。それは美人というよりも、梟のような顔だった。
確かに、笑った時の顔は可愛い。
でもそれは顔の造りが良いというより、なんて言うんだろう、もぎたての蜜柑の香りのようにふわっと周りの空気を明るく染めてしまうような感じだ。愛嬌があるのだ。
まだまだ幼さの残るその顔は「美人」よりも「可愛い」の方がまだ近い。
なんだか癪だけれど、このまま機嫌を悪くされてもたまらないので、僕は思っていることをそのまま言うことにした。
「美人というよりも、アカリは可愛いって言葉の方が似合うよ」
「なんかそれだと子供っぽくない? どちらかと言うと、こう頼れるお姉さんみたいな感じだと思うんだけど」
「ははは……」
思わず乾いた笑いが出た。
目の前ではアカリが両手の指で目の端を押して釣り目にしようとしていた。
どうやら彼女の中のイメージでは、自分はもうちょっと引き締まった顔のようだった。
さっきからの立ち振舞や、そういう行動自体、子供っぽいということに気づいて居ないんだろうか。
「確かに我ながら、どっかふにゃっとしてる顔ね……。どうせだったらオードリーみたいな顔だったら良かったのに」
今度は両手で顔をこねくり回しながらそんなことを言う。
ああ、でも。
「ちょっとオードリーに似てるかもね。オードリーっていうかアーニャ」
「本当?」
思わず零れた僕の言葉に、ぱあっと笑顔になる。
「うん。雰囲気が似てる」
見た目じゃなくて、雰囲気がね。
「いよっしゃー」
そう言ってグッとアカリはガッツポーズした。
そしてまた窓に自分の顔を写してニヤニヤとしだした。
本当にアカリはころころと表情が変わる。笑ったり悩んだり睨んだり。そしてそれと一緒にパタパタとよく動く。それは演技かかっていたり、子供のように気持ちがそのまま表れていたり。記憶は無くても人柄と言うのは残るのかもしれない。……それとも、記憶が無いから、ここまで素直にさらけ出しているのだろうか。
「どうせだったら、短い髪型だったら良かったのになー。そうしたらもっとヘップバーンみたいじゃない?」
そんな僕の考えはどこ吹く風で、アカリは相変わらず窓に顔を写したまま、両手で髪を持ち上げて必死に顔の角度を変えている。
「……なんて言うか、本当に逞しいね」
「カガミが心配性なだけだわ。そんな事より……あれ?」
不意にアカリの声が強張る。
と、途端に窓にべったりと張り付いて、眉間に皺を寄せて外を睨み始める。髪がふわっと落ちた。
「どうしたの?」
「ねえ……私の目が悪くなったのかしら。そうだと良いんだけど……」
「何を突然……」
「遠くの灯りが見えなくなっちゃった」
「えっ」
思わず窓に飛びつく。
「嘘だろ……」
確かに其処にはどこまでも真っ暗な空間が続いているだけだった。
灯りが見えなくなったことが、僕らに何か悪いことをもたらしたわけじゃない。実際に二人ともぴんぴんとしているし、車内にいきなりトレインジャックが押し寄せてきたわけでもない。
でも、ただ遠くで光っていた灯りが見えなくなった、ただそれだけの事で、僕らはとても不安になった。まだトレインジャックでも来てくれた方が、気が楽になったかもしれない。たどり着くかどうか分からないそんな灯りでも、見えないよりは見えている方が良かったのだ。何も分からない僕らにとっては。
「やっぱり線路は丸くなっていなかったのかもしれない」
アカリはさっきまで騒いでいたのが嘘のように大人しくなっていた。
探偵のように顎に手をあてて僕と自分のちょうど真ん中あたりの空間を睨んでいる。
そんなアカリの姿を横目に見ながら、僕はずっと窓の向こうを見ていた。
そこには相変わらずの真っ暗な空間があるだけだった。
――もしも、この窓の向こうが何もない真っ暗な空間しか無かったら――
ただでさえ良く分からない夜なのだ。そういうことも充分あり得る話だった。
だからあんな小さな灯りでさえ、僕ら以外に誰かが居る、この闇の向こうに何かがある、そう思わせてくれる唯一の導だったのだ。
「ねえ、カガミはどう思う? やっぱり線路の向きが変わっただけだよね?」
ふいにアカリが弱々しく呟いた。
さっきまでの強気の自由気ままな声からは想像もつかないような声だった。
でもそれが良かったのかもしれない。
なんだか、そんな弱気になっているアカリが可笑しくて、僕は冷静さを取り戻すことが出来た。
「そうだね。きっとそうだよ。それかトンネルにでも入っちゃったんじゃないかな?」
自分でも驚くほど、おどけた声が出た。
「……うん。そうよね。そうに違いないわ」
その声を聴いてアカリがにへら、と笑う。無理やり笑ったんだろう、物凄く面白い顔だった。
ふと今言った自分の言葉を反芻する。
――トンネルにでも――
僕は席から飛び起きて窓を全開にすると、身を乗り出した。
「カガミ? 急にどうしたの?」
そんなアカリのまだ心配そうな声にも耳を貸さずにじっと目の前を睨む。
そしておもむろに右手を伸ばした。
「いって!」
すると案の定、何かが当たった。手の甲に赤い線がぴっと走る。
手の甲だけじゃない、指先にも何かが掠める感覚があった。
「カガミ! 落ちる、落ちる! 危ないよ!」
僕のシャツの裾を掴んでアカリが思いっきり引っ張っている。思わずバランスを崩しそうになる。
それでも更に身を乗り出す。
風で髪がバサバサとはためいている。
眼下には線路と、その下に敷かれている砂利と、後は目の前と同じく闇。それらが確認したくなくなるような早さで車両の後ろの方へと消えていった。
「カガミ!」
アカリの声が段々悲鳴じみてくる。
もう少し……もう少し……。
「取れた!」
直後、ついに体勢を崩して僕は車内に転げ落ちた。
正確に言えば、アカリの上に。
何かの漫画ならば、こういう時、間違いなく僕の両手は柔らかい物を鷲掴みにしていたことだろう。
しかし、現実は甘くない。
……いや、そもそも夢かもしれないけれど。
ちょっとだけ今は、夢であってほしい。
「アカリさん……。本当に申し訳ございませんでした」
僕は座席の上に正座して、誠心誠意アカリに頭を下げた。
「私、止めたよね? 何度も、何度も。危ないって、貴方の事を心配して」
その声は鼻声だった。
あの時、自分よりも身体の大きい僕を受け止められなかったアカリはそのまま下敷きになってしまった。当たり所が悪かった。ちょうど僕の背骨が鼻に当たったらしい。直ぐに起き上がって振り返ると、彼女の鼻からは赤い血がつつーっと垂れていた。鼻から上は、恐ろしくて直視出来なかった。
今、彼女はルーズリーフで鼻を抑えていた。
流石にそれを鼻に詰めるのは躊躇われたらしい。
「落ちなかったから良かったものの……。本当に……もう」
じっとアカリの足元を見ながら、お許しの言葉が出るまで待つ。流石にいくらアカリといえど、女の子を傷つけたのだ。胸の奥が、かなりざわついていて落ち着かなかった。
でも、それと同時に少しだけ頭を過るものがあった。
鼻血が出たのだ。そうすると、その怪我の程度を確認した後、人は服にその血が付いていないか確認する。血はなかなか落ちないのだ。当然、アカリの鼻をルーズリーフで抑えた後、僕らも確認した。
僕の服装は白いシャツに黒いスラックス。それに革靴。まるでどこかの夏用の制服のようだった。そしてそのシャツの背中にはべっとりとアカリの赤い血がついてしまった。
一方アカリはと言うと、僕と同じく白いシャツにネクタイ、それに紺の地味なスカート。これまた同じく何処かの夏用の制服のような格好だった。そして胸元には真っ赤な鼻血。
鼻血が付いていることは別段おかしい事ではない。
問題は、その時まで僕が彼女の服装に全く気付かなかったことだ。
余りに現実離れした出来事にそこまで気が回らなかったのかもしれない。でも、何も情報がない状態で、全く知らない他人が居たら、まずその人の身なりくらいは観察するものではないだろうか。
おかしなことに、その時まで僕はアカリの服装に全く目が行っていなかった。いや、目に入っていなかった、気づいていなかったと言っても良い。
それはアカリもそうだったらしい。
僕の背中についた自分の鼻血をルーズリーフで拭きながらぼそっと「カガミってこんな格好だったんだ」と言ったのを聴いてしまった。
アカリの鼻血が一向に止まらなかったので、なんとなくさっきは流してしまったけれど、何だか妙にそのことが残ってしまっていた。
『お互い確認するまで、服の形に気付かなかった』という事が。
「それで、そこまでして一体何をしていたの?」
やっとアカリの声が軟化したので、おずおずと僕は頭をあげた。まだ申し訳ない気持ちは残っているけれど、いい加減足の痺れの方が辛くなってきたので助かった。
「これだよ。これを取ろうとしてたんだ」
そう言って、それまで固く握っていた右手をアカリの前に差し出して、そっと開く。ずっと握っていたのでどこかぎこちない動きだった。
開かれた右手を見て、アカリが目を丸くする。
「葉っぱ……?」
そこには強く握られてくしゃくしゃになった一枚の葉っぱが乗っていた。
「そう。葉っぱだよ。……多分、この汽車は森の中に入ったんだと思う」
そう僕が言うや否や、アカリが開けっ放しの窓から身を乗り出す。
風に煽られて鼻を抑えていたルーズリーフが飛んでいったことも気にも止めず、さっきの僕と同じように右手を突き出す。
それを今度は僕が引っ張り戻す。
「危ないよ。さっき僕も手を切ったんだ」
「でも……本当に? 森の中に?」
「そうだよ。よく目を凝らして見てご覧よ。微妙に木々が見えるんだ」
なんとか座席に収まったアカリは新しいルーズリーフで鼻を抑えながら、窓の向こうを睨んだ。
「……駄目だ。私には分かんないや。でも、なんで? 車内の灯りで少しは見えそうなものだけど」
「分からない。でもこれ何だろ……ガス灯なのかな、それとも電球でも入ってるのかな。そんなに強い光じゃないから、見えなかったのかも」
改めて車内の灯りを見渡す。
黒い金属で凝った細工がしてあるけれど、嵌めてあるガラスは曇っていて中身は見えない。
出所不明の僕の記憶の中の電車では、こんな灯りは使っていない。もっと明るいLEDとかだった気がする。目が慣れていて気付かなかったけど、電車に比べて今僕らが乗っている汽車は大分薄暗い。……これもさっきの服装と似たようなものなんだろうか。それとも、ただの考え過ぎだろうか。
「とにかく……カガミ、手を出して」
「手?」
車内の灯りに気が向いていた僕は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
「そ。手出して。切ったんでしょ?」
「いや、軽く掠っただけだし」
「いいから」
そう言うと強引に僕の右手を掴んで引き寄せた。
アカリの鼻血に紛れて、それとは別の赤い線がスッとまだ乾かずに残っていた。
「どうして在るのがこんな紙束なんだろ。どうせならティッシュとかだったら良かったのに」
そう言って、ルーズリーフで僕の右手の傷をちょんちょんと拭う。若干痛かったけど、我慢した。
「……鼻血は止まったの?」
「止まったみたい……あー、動かないで。少しゴミが入ってる」
アカリが硬い紙の先で傷口を抉る。今度はかなり痛い。
でも、厚意なのだから、ぐっと我慢する。
僕の手を握るアカリの指は白く冷たく、でも何だか小動物のようで、傷口以外の場所がくすぐったかった。
そして、それを見るアカリの表情は真剣だった。その顔が車内のオレンジの灯りにふわりと照らされていて、不覚にも綺麗だと思った。
ただ。
「……アカリ。鼻血止まってないよ」
「え。うわ! ちょっとカガミ! 抑えて!」
言われるがまま暇な左手でルーズリーフを持って、アカリの鼻を抑える。
「よし!」
そう言って、また僕の傷口を抉る。
その間、アカリは僕の右手から目を離さなかった。さっきまであんなに窓の外を気にしていたのに、集中するとそれだけになってしまう質らしかった。
僕の右手をアカリが。アカリの鼻を僕の左手が。
その繋がって一つになった変なシルエットが例のオレンジの灯りに照らされて、二人の間に落ちている。何だか気恥ずかしくなってきた僕は、とりあえず、色んな事を葉っぱと一緒に横に置いて、アカリの気が済むまでじっとその影を眺めていた。
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