きっとみんないいやつなんだ

@natsuki

きっとみんないいやつなんだ

この雑多な表情を見せる街に時々飲み込まれてしまいそうになるのを辛うじてエッジで踏み止まっている。

そんな毎日を過ごしていると、なんでもいい、誰でもいい、何かに縋りたくなって、でも、縋るんなら弱みは見せられないから、どこか全く知らない人がいいと思う。

 でも、私は臆病なうえに勇気も大胆さも持ち合わせてないから、結局元カレなんかにテルしてしまったりするのだ。

 レストランで食事して、お決まりのラブホってコースで元カレはちゃんと義務は果たしたよ寂しい時は呼んでよ付き合ってあげるからさ、言わなくったって分かるよそれくらい。

 私をタクシーに乗せるやいなや、彼何処かにテルしてる。何度も携帯バイブってたもんね、彼女からだったんだ。

 はー、たまんないな、こんな私が嫌で嫌でたまんない。

ラブホで飲んだ缶ビールで酔っ払ってしまったみたい、頭の中がクルクル回ってる。

 「お客さん、吐きそうになったら言ってよ、車ン中で吐かれちゃあ堪らないからね」

 バック・ミラー越しに運転手と視線が絡んだ。

「ははは、なんだか悪酔いしたみたい……グフェ、と、と、止めて!」

胃の中のものが逆流してあのなんともいえない甘酸っぱさがのど元を通り過ぎ咄嗟に右手で押さえたけれど、指先から零れた。

急停止したタクシーのドアが開いた。

 私は路肩にうずくまり、ありったけのものを吐いた。

苦しくて泣きたくもないのに涙が滲んだ。

今までの全人生を全て嘔吐した気分だ。サルトルかってのははは……。存在が耐えられないんだよ、軽すぎてなんて……一応文学部哲学科出身だしなあ、私。

 白いハンカチが眼前に見えた。

「なんだかねえ、同情はしないよ、取りあえずこれで口拭いたほうがいいねえ」

運転手さん、座席拭いてる……悪いことしたなあ、最悪だなあ今日。

「ごめんなさい、座席汚しちゃって、ほんとに……」

「いいよ、気にしなくて。そんなね、そんな日もあるさ」

運転手さん良く見ると若いなあ、すげえイケメンだなあ。

なんてすれた言葉使ってみたりして、似合わないなあ私に。


 降りた拍子に脱げた片方のパンプスをぶら下げ、黙って突っ立ったまま、黙々と座席を拭く運転手の後姿を眺めていた。

真夜中のひんやりとした風が火照った体に気持ち良かった。


 「大丈夫かい?」

「ええ、ほんとごめんなさい……なんか匂うね」

「ははは、気にしなくても……なんかねえ、窓開けっ放しで少し走ろうか」

スルスルと車の窓が開き、生暖かな風が車内を満たす。

私は窓から顔を突き出し、痛いほどの風の流れに顔と両手を晒した。

「なんだか叫びたい気分だなあ、なんだか……」

「叫んだらいいよ、今日あった嫌なことでもなんでもさ」

「やっぱり、止めとく。別に嫌なことがあった分けでもないし、しいて言えば自分自身に愛想つかしてるって感じだし」

「我がままなお嬢さんだなあ、気を付けて窓閉めるから」

 車内に静寂が戻った。小さく聴こえるBGMはガーシュイン「ラプソディ・イン・ブルー」、あんなに猥雑な昼間の光景も静寂の余韻と暗闇の中ではキレイに見える。窓外を流れる景色に暫く見惚れていた。

「昼の光に夜の闇の深さなど分かるものか……」

「何か言ったかい?」

「ううん、ニーチェっていいやつだったんだななんて今思った」

「ニーチェもサルトルもラカンもマルクスもみんないいやつさ」

「へえー、運転手さんって、ひよっとして隠れインテリとか?」

「小説書いてんだよ、ベストセラー作家……運転手は仮の姿さ」

「ウ、ウソでしょ!?」

「もちろんウソ、ホントは30過ぎてるってのに小説家になる夢を捨てきれないでいる半端モノ……」

会話はそこで途切れた。

私のマンションはもう直ぐだ。

「運転手さん、信号左です。三つ目の小さなマンションだから」


 車はマンションの前にゆっくりと止まった。お金を払いもじもじしていた。なんとなく降りられないでいた。

「ごめんなさい、座席汚したり色々迷惑かけて、ほんとはこんなんじゃないのよ私、こんなんじゃないの」

「気にしなくていいからね、我がままなお嬢さん……なんだろねえ、俺妻子持ち、夢は作家になること、それだけは譲れないかな、家族と夢のために深夜勤務のタクシー運転手、生きるってのは必死だよねえ……」

「ありがとう、優しくしてくれて、ほんとに……」


 沈黙の中でウインカーの点滅する音だけが響いた。

自動ドアが開いた。

降りようとした私に運転手さんが声をかけた。

「太宰のね女性徒って小説にね、こんな一節があるんだ……明日もまた、同じ日が来るのだろう。幸福は一生、来ないのだ。それは、わかっている。けれども、きっと来る、あすは来る、と信じて寝るのがいいのでしょう。お休み、お嬢さん。何処かでまたね……」


 走り去るタクシーが見えなくなるまで見詰めていた。

なんだか、不思議に心地良かった

 捨てたもんじゃないよね、この街もね……。

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