記憶
俺は膝から力が抜けて、かくんとくずれ落ちた。意識が少女の瞳に吸い込まれそうになる。
駄目だ。あの瞳に吸い込まれたら駄目だ。そう思うのに目がはなせない。身体の自由がきかない。・・・意識が朦朧としてくる。
彼女の前にひざまずき両手をだらんと下げた状態の自分を遠く感じていた。
恐怖。───今まで怖いものなどないと思っていた。幽霊なんてものはあやかしだと。
それが。戦慄が走る。どうなってしまうのかわからない恐怖。
さっきから頭のどこかで警鐘がなっている。
恐怖を押しのけて何かを突きつけてくる。
何か、大事なことを俺は忘れていないか?
何かとても大事なことを。
朦朧とした意識の中で俺は必死にもがいた。
思い出せ。
突然ピアノの音が鳴りだした。さっきのレクイエムだ。
ふっと少女が俺から視線をはずした。ピアノの方を凝視している。
俺の身体は糸が切れたように崩れ落ちた。重くだるい半身を起こし視線をそちらに向けると、男がピアノを弾いている。
心を締めつけるような鎮魂の曲。
「やめて!」
少女が叫んで頭を抱えてうずくまり悶絶する。
「お兄ちゃん、やめさせてよ!」
その瞬間、頭の中で何かがはじけた。
ピアノの音。
「お兄ちゃん」と叫ぶ声。
おかっぱの少女。
さっきあの男はなんと言っていた?
「君は乙葉ちゃんなんだろう?」
そう言って───乙葉。乙葉!
「お前───乙葉なのか?」
そう、思い出した。
あの夜、やってきた男たちに両親は殺された。俺は乙葉を連れて逃げた。
月明かりもなくいつも遊んでいる森がおばけの森のように思えて、方角もわからず走って逃げた。男たちが追いかけてくる。
転んでもう走れないと言う乙葉を守るために俺は踵を返した。男たちの方へ。声のする方へ。
「乙葉、隠れてろ。後で迎えに来るから。あいつらまいてくるから。ここで待ってろ。いいな、動くなよ」
そう言い残して。
「お兄ちゃん、待って。おいていかないで」
乙葉がそう言って泣く手を振りほどいて。
けれど、男たちには会わなかった。
どこをどう走ったのかわからないまま、俺は家の裏に戻っていた。
煌々とついた家中の明かり。人の気配はない。吸い込まれるように入った家の中で俺が見たのは───思い出したくもない酷い状態の両親の姿。そのあまりの凄絶さに俺は気を失ってしまったんだ。
そして、次に目覚めたときにはすべてを忘れていた。
俺を育ててくれた両親は───ずっと本当の親だと思っていた二人は、あれは叔父夫婦だ。いろんなことが頭のなかをめぐる。
「乙葉。俺は、俺の本当の名前は、乙木だ」
そう告げると、乙葉は驚いて顔をあげた。ピアノの男も手を止めて立ちあがる。
「乙木・・・お兄ちゃん?」
「君が乙木くんだって?」
「そう、思い出したんだ。俺も今まで忘れてた」
俺は乙葉に歩み寄り、今度は俺の方が乙葉の頬を掌で包みこんだ。
「忘れてしまってごめん。お前をおいていったのに。待ってろって言ったのに。迎えに行かなくてごめん」
いつも後ろを追いかけてきていた乙葉。「お兄ちゃんお兄ちゃん」と甘えた声でついてくる姿がよみがえる。
「俺がいってやるからもうこんなことするな」
「乙木お兄ちゃんなの? 本物の、乙木お兄ちゃんなの?」
「俺が悪かったんだ。俺があのときお前の手をはなしたから。一人おいていったから」
「違うの! お兄ちゃんは悪くないの! お兄ちゃんは、あたしを守ろうと思って家の方に戻ってくれたんだよ。あたしが勝手に落っこちちゃっただけなの」
昔のあどけない表情に戻った乙葉は泣きじゃくりながら言う。
「俺を連れていけ。もう一人にしないから」
可愛い乙葉の瞳をのぞきこむ。涙でくちゃくちゃだ。
「駄目! お兄ちゃんは来たら駄目!」
乙葉が俺の身体をはねのける。
「ごめんなさい。お兄ちゃん、もうこんなことしない。しないからお願い。私を探して」
そう言い残して、乙葉は姿を消した。
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