薄汚い犬を載せたトラック

 人通りの少ない大通りを、薄汚い犬が歩く。


 季節は冬。川べりの通りには、寒風が吹きすさび、雪もちらほらと舞い散っていた。

 薄汚い犬は、当然のように人々からは嫌われた。彼を見つけた人間たちの多くは、一目散にその場から逃げ去った。

 逃げ去らない人間の多くは、ぴくりともしない。そんな人間たちの貴重品や衣服は剥ぎ取られている。

 中にはまだ生きている人間もいたが、彼らは犬と同じように薄汚い格好で、寄せ集めた衣類に包まってじっと寒さを耐えていた。


 きっと、彼らも長くはあるまい。


 犬はくしゃみをした。鼻水が止まらない。このところしばらく、同じ症状が続いていた。

 なるほど、こんな状態では忌み嫌われるのも道理だと、犬は考えた。


 ――見苦しいだけならともかく。


 川面から吹きつける風に、犬は再びくしゃみをする。雪の振り方が強くなってきた。こんな状況では、街をいく人間の姿も少ない。


 しかし、皆無ではなかった。



 一人の少女が橋を渡りこちらへ近づいてくる。孤独な犬は牽制のつもりで吠えた。少女が鳴き声に気づいて、立ちどまる。

 薄汚い犬はもう一度吠えた。少女は、再び歩き出す。

 犬は驚いて硬直した。こともあろうに少女は、所々毛並みが禿げ、鼻水を垂れ流している薄汚い犬に真っ直ぐ近づいて来る。

 それどころか、薄汚れた犬を撫でようとさえした。


 犬には、少女の行為はまるで理解できなかった。反射的に飛びあがって、逃げた。


 しばらく川べりを走って立ちどまる。少女が走ってついて来ていた。犬は無駄に走って体力を使うのも馬鹿らしいと考え、もう逃げなかった。

 その代わり吠え、牙を剥き出しにして、目をぎらつかせた。


 冷たい雪が降り積もる。


 少女は何事かを犬に語った。しかし、犬には人間の言葉はよく理解できない。まったく怯むことなく少女は屈み込むと、犬の背中に積もった雪を払い、しっかりと抱きしめた。


 犬にとってそれは、久しぶりに感じる温かさだった。


 少女はブラシを取り出して、犬の毛をすいてノミを丁寧に取ってやった。やはり犬にはわけがわからない。

 頭がおかしいのか、あるいは死にたいのかもしれないと考えた。


 少女はブラッシングを終えると、もう一度犬を抱きしめてから去っていった。雪の中を、何度も振り向きながら。



 次の日も、空腹と寒さに耐えていた薄汚れた犬の前に、少女は姿を現した。犬には、少女が昨日よりもやつれているように見える。今日は、犬も吠えなかった。


 少女は昨日と同じように、犬と同じ目線に屈みこんで、犬の毛にブラシを通し始める。幾分か綺麗になった犬は、忘れていた心地よさに身を浸す。


 そして少女は、犬を抱きしめて去っていった。



 それから何日か、同じことが続いた。

 犬が何処に居ようと少女はやってきたし、丁寧にノミを取ってやるのも変わらない。おかげで、犬は随分快適に過ごせるようになった。空腹と寒さと、くしゃみと鼻水は相変わらずだったが。


 ただ、少女の格好は見る度に汚く、まるで薄汚れた犬のようになっていったし、少女の顔色は日増しに悪くなっていった。


 ある日犬は、少女が他の犬たちにも同じようにしているのを見かけた。最近は以前ほど野良犬を見かけることはなくなっていたが、それでもまだ、この街には薄汚れた犬たちが住んでいる。


 犬にはなんとなく、少女の行いの理由がわかった。



 ある、しんしんと雪が降り積もる早朝。犬が川べりを歩いていると、少女が半ば雪に埋もれるように倒れていたのを見つけた。


 犬は彼女に近づき、頬を舐めた。それから少女の鼻先に、顔を近づける。


 少女はすっかり冷たくなっていた。雪はやみそうになく、少女の身体を埋めていく。犬は少女の冷たい身体に身を寄せた。雪は一層強まり、寒い風が吹く。犬はくしゃみをした。


 今朝の冷え込みは、今年一番かもしれない。



 しばらくすると、寒さに目を覚ましたボロを纏った人間が、雪の中を這い寄ってくる。死人の衣服や遺品を当てにしている連中の一人だろう。

 犬は腹の底から声を絞り出して吠えた。この寒さを耐えきれそうもないその男は、それ以上近寄ってくることは無かった。


 朝の寒さを耐えきると、日が昇りだした。寒さもわずかに緩む。雪もやみそうだ。


 うつらうつらとしながら、犬は考えていた。


 善人が報われるような世界では、善人は善人でなくなってしまう。少なくとも、そうみなされなくなるだろう。

 そしてこの世は、善人でも悪人でもない、普通の者たちが支配しているのだ、と。



 完全に太陽が昇り切っても、犬はまだまどろみの中だった。近くにいた薄汚い身なりの人間たちは、皆ぴくりとも動かなくなっていた。


 果たして何を責めることが出来ようか。


 犬に対しては風邪のような症状をもたらし、人にうつれば途端に命取りとなるこの流行り病だって、そう生まれついたからそう振る舞っているに過ぎないのだ。

 この病が蔓延し始めると、飼い主にはペットを処分することが奨励された。殺すに忍びないと考えた飼い主の多くは、ペットを野に放した。

 結果的にその行為は流行をより加速させた。外で野良犬に接する機会の多い路上生活者たちは、次々と倒れていった。


 日が傾き始めた。雪が再びちらつきだす。


 犬は少女の傍を片時も離れなかった。背中に雪がうっすらと積もり始めたが、それさえ気にすることは無い。空腹と寒さも、忘れてしまったかのようだった。何かを考えることすら億劫に感じる。

 雪が強さを増し、犬はくしゃみをした。そして遠くから放たれた銃弾が、犬の眉間を撃ち抜く。





 人通りの少ない大通りをトラックが行く。

 荷台には、流行り病で死んだ人間たちと、駆除された野良犬たちが載せられていた。


 トラックは川べりの橋のたもと辺りで止まった。中から白い防護服に身を包んだ男が一人、降りてくる。犬に寄り添われて動かなくなった少女を担ぎあげて、荷台に加えた。

 一度はペットを見捨てたものの、後になって街へ探しに出ていく飼い主がたまにいる。

 それは半ば以上自殺行為だったが、そうする人間がいるのは事実だ。


 ――物語があっただろう、防護服に身を包み、息絶えた犬をトラックに放り投げた男は考える。

 この犬にも、何も語らない少女にも、物語があったはずだ。

 しかし、と彼は次の死体を抱きかかえて考える。

 我々はそれを捨象できる。捨象する。物語のない薄っぺらな存在として扱える。扱っている。

 それは紛れもない事実だと、彼は思った。そしてそれは今まさに実行しつつあることであり、どこにでもある事実だった。


 トラックに病死した男を積みこむ。彼の物語はとっくに考慮の外だ。


 なぜだろうか、男は死体の山を見て思考を巡らせる。


 この山々が持つ物語をいちいち受け取っては、身が持たないということはあろう、トラックの運転席に乗り込みながら男は一つの結論を出す。合理的な考えだ。物語を共有できるのは、せいぜい2、3人。多くても両の手のひらを越えはしまい。それ以上の他人の人生など、自らの人生から捨て去る他ないではないか。


 けれども――男は結論にまったくの納得はしない――薄っぺらな存在に対して、我々は実に簡略化した思考で対応する。それでよいのだろうか?


 現に今。街角ですれ違った人間に対して。商店の店員に対して。テレビの向こうの人間に対して。ありとあらゆる人間に対して。

 我々は簡略化した思考を適用する。その人物の背景を捨象して捉える。同じ人間だという認識を捨て去っているとさえ。


 いや。単なる現象として捉えているのだ。

 彼はそう、判断する。


 だから、簡単に憎悪するし、軽蔑する。心の中で毒づく。嫌な奴だ、と思う。馬鹿な奴だ、愚か者だと思いなす。

 そうでなければ、いい人だ、優しい人だ。真面目な、素敵な人だ。背後の物語を無視して、簡単に断定する。まるで単純化された感情を抱く。

 同情するし、共感することもある。それは、何に対してだろう。行為や状態という現象に対して?


 あるいは。


 気にも留めない。彼自身が、そうしているように。

 ゆっくりとアクセルを踏んだ。のろのろとトラックは動き出す。捨象された物語をのせて。

 それとも――と、彼はハンドルを握りながら考える。

 自己との関わりあいの中でしか、他者を捉えられないからか。

 死体を幾多も載せたトラックを運転する自分にとっては、彼ら彼女らとの関係性は、仕事で拾い集め、運搬している対象でしかなく、その他一切の事実は捨象して捉える。

 街角ですれ違う人間。それは自分にとって、街角ですれ違ったという一点を除くその他一切の物語は関係ないのだ。


 いや、真実はそうとは限らない。


 完全な他者だと思っていた単なる通行人の物語が、巡り巡って深く自身の環境に影響してくるのかもしれない。

 けれども、それを認識することは愚かにも人間には不可能だ。本当は全ての人間が自身に関わっているのかもしれないのに、そんな事実は考えない。

 あらゆる人間に対して自分にとって最高度の重要性を持たせることは不可能であるから。

 だから、重要性の薄いと判断できる人間の物語を我々は度外視する。どこかで聞いた誰かの悲劇を、取りあえず忘れることにしている。


 ブレーキを踏んだ。赤色の光が、雪をほのかに染める。


 一人の老婆が目の前を歩む。亀のような歩み。いや、亀は時には存外素早い行動を見せる。だが我々はその事実を認識しない。

 亀の歩みは遅いという、単純化された事実で十分なのだろう。


 青い光が灯った。しかし老婆はまだ道を渡りきらない。


 彼はいらつきを感じている自分に、驚く。老婆が目の前を横切るという単なる現象に対してのいらつき。

 こんな雪の日の夜、人通りも少ない道を独りゆく老婆が背負った物語を認識せずに、いとも簡単に彼女を罵る。

 彼女のこれまでの長い人生の一切はそこに存在していない。至極簡略化された事実だけを根拠に、老婆の存在を軽視し、悪態をつく。

 我々が当たり前に行っている日常の行為。彼はそれに驚いた。

 老婆はたっぷり時間をかけて道を渡り切った。すぐさま、トラックは発進する。


 降り積もる雪をかき分けて、死人を満載してトラックは行く。



 いつもの場所で、トラックを止める。ちょうど、もう一台のトラックの積み荷を処分し終わった所のようだ。彼と同じ、白い特別な服を来た作業員が一人駆け寄ってくる。

 積み荷、という言葉を彼は使った。あえてその言葉を使うことで、事実それは積み荷となる。

 彼もトラックから降りて、作業に加わる。やって来た作業員は、目を閉じてさっと十字を切った。

 二人で、積み荷を降ろす作業に取り掛かる。


 いい奴だな、と彼は思った。他の作業員に比べて、積み荷の扱い方が丁寧だ。


 そして、はっとする。いい人間だ、という言葉にすることでこの作業員の持つ物語を捨象している。

 言葉にすることで、対象の持つ物語に関係なく、対象はその言葉通りの存在として認識されてしまうことに気づいて、はっとする。


 二人は次々と積み荷を降ろす。やがて燃やされて灰になるであろう積み荷を降ろしていく。

 この積み荷にかわいそうだ、という言葉を与えれば、この積み荷はまさにかわいそうな存在と化すだろう。

 この積み荷たちが持ったはずの物語とは、まるで関係がなく。


 他人の物語はもちろん、知り得ない。しかし、確かに存在するはずだ。黙々と作業をこなすこの作業員が、仮に積み荷を乱雑に扱う男だったとしたら。

 冷たい人間だ、そんな言葉を与えるだろう。極論すれば、悪い人間ということだ。

 存在するはずの物語を考慮せず、薄っぺらな現象のみで、そう断じてしまう。


 いや、それどころか――と、彼は手を休めずに考える。


 時には自分自身に対してまで、物語の捨象を行う。自分に対して、価値のない人間だという言葉を与えてしまえば、自身は価値のない人間になってしまう。絶望してしまう。

 それまでの全ての物語をたった一言で上書きしてしまう。言葉には、それだけの力がある。それは裁きだ。


逆に。


 自分は正しい行いをした、という思いなし。

 それは、自らは正しい人間である、よい人間であるという認識を導く。無論、それまでの人生における物語は忘れてしまう。


 自分は正しい、その事実だけが残る。


 その状態で、薄っぺらな現象に――自らが捨象して、薄っぺらにしてしまった現象に出会えば、どうなるだろう。


 彼は積み荷をゴミのように捨てながら、いや事実、いつの間にかそれはゴミだった。

 ゴミを捨てながら、彼は考える。

 薄っぺらな存在を、悪だと思いなしてしまうだろう。実に簡単に。背後の物語なんて気にも留めずに。

 とにかく自分が正しくなければ気が済まない。

 まるでこんな風に。汚いゴミを捨てるように、だった。

 思いなしたことを行わないのは単に、偶然たまたまのことかもしれない。何せ、想像できたのだから。


 ゴミを全部捨てて、彼は再びトラックに乗り込む。ゆっくりと、トラックは進みだした。街から感染源となり得るゴミを消し去るために。


 正義は――彼は常々思っていた――正義は排他的だ。

 正義は悪を否定する。正義であるからには。

 自らに、あるいは自らにではなくとも、正しいという言葉を与えて、その言葉以外を捨象してしまえば、その誰かの行いは正しいものになる。

 その正しい行いと相容れない行いは、悪い行いだ。正義は悪い行いを否定する。もちろん、悪いという言葉を与えた時点で、どんな行いも悪いものになる。


 本当の悪は自らの内にしか、自らの意志としてしか、存在しないというのに、だ。


 道端に、雪に埋もれるように、死体があった。彼は、注意深くトラックを止める。ドアを開け、運転席から降りる。

 彼が担ぎあげたその存在の背後にある物語を、当然彼は知り得ない。

 だからといって、存在しないわけでもない。彼は慎重に、その死体をトラックに積み込んだ。

 言葉を付与しないように、裁きを与えないように、慎重に。


 彼は判断を留保する。何の言葉も与えなければ、物語を切り捨てることにはならないのではないか。


 答えを求めて、彼は留保し続ける。


 真っ白な雪の中を、トラックが静かに走り出した。

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