犬を殺す男
勤め先から帰宅して、テレビを点ける。この時間帯なら、つまらないニュースをやっていることだろう。
儀礼的な夏の暑さを伝えるニュースがあればこそ、合言葉のように「今日も暑いね」を繰り返す、そんな日々の幸せ、あるいは日常の一幕が得られるのだ。
――と、思ったのだが。どうやら猛暑よりもずっと重大な、ということはつまり面白味のある出来事があったらしい。
ありきたりの殺人事件。坊主が殺されたらしい。物騒な世の中になったものだ、まさに末法の世だな。なんていう、これもありきたりな感想で、幸せな日常の一部か。
それを奪われてしまった坊さんには、かける言葉もないけれど。
他人の不幸なんて、そんなものだ。そう言い切ってしまう俺は、どこか精神が麻痺しているのかもしれないが――。人の死を飯の種にしている画面の向こうの彼らだって、俺と大差はあるまい。
翌日。会社から帰宅する途中。ふと異臭を嗅ぎ付けた俺は、ふらふらと公園へと引き寄せられる。
平和な日常に、何かしらの刺激が欲しかったのかもしれない。その鉄さびた臭いにはそれだけの妖しさが含まれていたのだった。
さて、茂みの中にあったのは、犬の死体である。小柄な柴犬だ。
「こりゃひどいな」
思わずそう口に出した。首輪もつけていない。野良犬だろうか。しかしこれは、この傷痕は明らかに。
「殺されてるな」
何か鈍器で頭蓋骨を砕かれたような、そんな傷痕。まさか高所から落ちただけでこんな具合にはなるまい。
「しかし一体、誰がこんなことを?」
近所のガキどもが悪戯でやったのだろうか。昔、飼育小屋のうさぎが無残にも殺されていた、という事件があったような。
だが、それにしてはこの犬の殺されようは、大の大人による渾身の一撃、というように見える。
まあ、考えても詮無きことだ。高校生あたりなら、そこいらの大人と比べても遜色ない腕力の持ち主がいくらでもいるだろう。
あるいは、俺みたいな会社勤めの人間の憂さ晴らしかもな。どうせ、野良犬一匹が殺された事件の犯人なんて捕まることもない。真実は闇の中だろう。
そう思って、俺は帰宅したのだが――。
その日のニュースを騒がしていたのは、先日の坊主殺しの事件に加えて、付近で多発している犬殺しの事件だった。
どうやら俺が見つけたあの犬ころは氷山の一角だったらしい。野良犬も飼い犬も見境なく、鈍器に毒に刃物にと、ありとあらゆる手段で殺されていた。
遊びやストレス解消の延長にしては大規模すぎる。殺された犬は今日だけで二十をくだらないとか。犯人がグループである可能性も高い。
けれど、いったい彼は、あるいは彼らは何が目的なんだろう。人を殺す動機に比べて、犬を殺す動機なんて、そうありはしないと思うのだが。
しかも、無差別にだなんて。一体どれほど犬が嫌いだというのだ。殺された方もたまったものではなかろう。
きっと犬にしてみれば、「そんなくだらない理由で」と思うに違いない。そう、人間はそんなくだらない理由で犬を殺すのだ。無論、犯人の真意なんて知りはしないが――。
一週間が過ぎ、被害者となった犬も三桁を超えた頃。警察も警戒を強めてはいるが、未だ犯人は捕まっていない。
いつものように帰り道を急いでいると、犬の鳴き声が聞こえた気がした。歩調を緩めて耳を澄ますと、やはりそれは聞こえる。
切羽詰まったその声は、まるで断末魔だ。
声の聞こえた方へと歩き出した。特に理由なんてないが、導かれるように。そちらへ行かなければいけないような気がした。ポケットに突っ込んだ右手が、じわりと汗をかく。
男は犬を殺していた。
「……何をしているんだ?」
それは見て分かったのに、俺はそう問いかけざるを得なかった。
袈裟を纏う僧形の男は、片手の金槌を小さなダックスに振り下ろしていたところ。辺りにはもう二、三匹いたらしい犬の死骸が転がっている。
どれもこれも、頭骨が原型を留めなくなるほどに砕かれている。これだけ堂々とやっていて、よくもまあ今まで見つからなかったものだ。
「見ての通り、犬を殺している」
ダックスを殺し終えて、男は悠然と答えた。思いのほか、落ち着いた声。彼は冷静なのだろうか。それとも、感情なんて遠くに置き忘れてしまっているだけだろうか。
「なぜ、犬を?」
俺はつとめてゆっくりとしゃべろうとした。今になって心臓が早鐘を打つ。手汗がひどい。滑らないか心配だ。
男がこちらを見る目は、冷然としていて、さも当たり前の事実を告げているかのようだった。
「犬に娘を噛み殺されたからだ」
「だからといって、こんなことをして何になると……?」
俺の声は上ずっていたかもしれない。それはそうだ。まさかこんなことになるなんて思いもしなかった。最低限の用意はしてあったとはいえ。
「お前には娘はいるのか?」
いない。結婚もしていない。なので、正直に首を横に振る。わざわざ嘘をつく理由はない。
「ならば、お前に私の気持ちはわかるまい」
当然だ。他人の心なんてわかるわけがない。他人の心という奴は、自分が自分である限り絶対に体験できない事柄なのだから。
だけれど、あえて俺は言った。
「いや。よくわかるよ、あんたの気持ちが」
「なんだと?」
男の瞳が、ぎょろりとこちらを向く。途端にさっきまでの怜悧さが失われ、牙をむき出しにしたかのような獰猛さが変わってそこに現れた。
男が右手の金槌を握りなおした。今にも飛びかかってきそうだ。
けれど、その機会は永遠に訪れやしない。
「娘はいなかったが、妹ならいたんでね。…………頭の狂った坊主に殺されちまったが」
右手に握りしめたバタフライナイフは、しっかりと僧侶のはらわたにねじ込まれている。ぐりぐりと、体ごと体重を預けて、さらに押し込んでいく。
なに、二度目だ。犬しか殺したことのないこの男では、決して俺を返り討ちにしたりは出来ないだろう。
男の顔は、驚愕と恐怖の表情に満ちている。何を驚いているんだろうか。自分が犬にやったことを、やられているだけなのに。
「今日も暑いね」と言い合える、そんな幸せを奪われた俺は、あんたの気持ちもよく分かっているつもりだ。
なるほど、今の俺にとっては、袈裟ですら憎らしい。
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