靴を買う
朝倉章子
第1話
私が男を買ったのは、生きている確証が欲しかったからだ、と思う。一粒種の娘を産んでから六年。夫が私に触れなくなってからも六年。私は身も心も乾ききっていた。毎朝、夫を会社へ、娘を学校へ送り出してから家事全般をこなし、終われば娘が戻るまで屍のようにテレビを観る。そして一年生の娘の帰宅と共に宿題抗争。夫が帰れば三人で夕食。それから娘を風呂に入れて寝かしつけ、夫と共に会話もないまま就寝。この毎日の繰り返しに、私は焦燥感に駆られていた。このまま女でなくなることが怖かった。人間ですらなくなってしまいそうな日常が辛かった。それは、粗目の紙やすりで心臓を削るかのように痛々しい日々だった。
男が欲しいと、熱烈に思うようになっていた。齢四十を目前に、後もう一度だけでいいから男の人に触れて欲しいと切望するようになっていた。娘を産む前に夫と過ごした熱い夜の数々、私は〝生きている〟実感に満ち溢れていた。もう一度男に抱かれれば、あの時の実感をとりもどせると思った。けれど、家の中の家具以上の興味を私に抱かなくなっている夫からそれを得るのは、不可能だと判っていた。
だから私は仕方なく、男を買うことにした。男娼探しはインターネットで行った。女性用のそういうサービスの店は、探せばいくらでも出てきた。私はその中から個人でやっている店を見つけ、予約フォームをクリックした。
予約当日、私は六年ぶりにお洒落をして待ち合わせの場所に行った。緊張と背徳心に胸が張り裂けそうだった。チェーンのカフェに現れた男娼は水城と名乗った。想像とは違って、サラリーマン風の男だった。私たちは軽くお茶をしながら談笑した。水城の屈託のなさに、段々緊張がほどけていった。そのあとホテルに行き、支払いを済ませた後、行為に及んだ。最後まで残っていた夫への罪悪感も、行為が進むにつれ消えていった。金で男を買っている自分を惨めな女だと思う隙も与えないほど、水城は私に尽くしてくれた。
しかし全てのサービスを受け終え、身支度を整えて部屋を出ようとした時だった。私は部屋の上り口に並べられているものに、心を大きく抉られた。
そして果てしない惨めさと敗北感にも似た羞恥心の中で、私はこう、心に決めた。
靴を、買おう。
靴は生き物だ。上り口の水城の靴を見た時、私はその思いに強烈に刺激された。あの時あそこにあった水城の靴は、成績優秀なサラリーマンを魔術で靴にしたかのような立派な革靴だった。お茶をしているときに聞いた話だと、〝こっち〟の仕事はあくまでも副業で、本業は本当にサラリーマンをやっているらしい。水城の靴は美しかった。単に高級感があるというのではない。長年、大切に手入れをしながら履き慣らす以外の方法では纏えない、命の息吹がそこにはあった。言っていいなら「生きた男の靴」だった。
そんな水城の靴の隣に添えられていたのは、一対のミュールだった。水城に会うためにできる限りのお洒落をしたつもりだった。娘を抱っこしたりおんぶしたりするために六年間封印してきた装飾品を引っ張り出し、下駄箱の奥のほうからは、OL時代に自分へのご褒美に買った愛らしいミュールを探しあてた。私の自慢の逸品だった。ミュールは埃まみれになっていたので、濡れたティッシュで丁寧に何度も拭いた。それなのに、彼の隣にあった私のミュールは、死んで干からびた小鳥のように惨めったらしかった。ティッシュでは取り切れなかった埃がそう見せているのか、本当に息絶えてしまったのか、ともかく私の靴は「死んで」いた。
一刻の猶予もないと思った。靴は履いている人間を映し出す鏡だ。私は水城に見合う人間になりたかった。金を払ったとはいえ、これほどまでに人間としてのレベルが違う男に自分の全てをさらけ出してしまったなんて、考えるだけでぞっとした。今からでも遅くない。水城と同じところに自分を引き上げなければ、私は本当に、ただ惨めなだけの女になってしまう。
靴を買うには、金が必要だ。
私はまずネットで、水城が履いていたような靴がいくらぐらいするものなのか調べてみた。顎が外れそうなほど驚いた。彼の靴は、安く見積もっても五、六万するような代物だった。こんなもの、私の小遣いだけで買えるわけがない。かと言って、旦那にせがんで買ってもらう筋のものでも決してない。
私は仕方なく、働くことにした。
しかしそうは言っても、小学一年生の子供を抱えた私に出来る仕事なんて限られている。時間的にうってつけだったのはチラシの配布員だ。これなら自分の都合のいい時間だけ働けばいいので、子供の世話をしながらやることができる。たまたま手にしたフリーペーパーに募集が載っていたので、私は速攻で飛びついた。
チラシ配布という仕事の現実に打ちのめされたのは、始めたその日の事だった。まず配布しろと命令されたチラシは四部。これを九百軒分、配りやすいように全部セットしなくてはならない。そしてそれを自転車に積んで地図片手に町内を回るわけだが、ポストは、必ずしもチラシや手紙を投函しやすい場所についているとは限らない。私は一軒一軒配るごとにギィ、ガタン、ジャン、とスタンドを上げ下げする音を鳴り響かせた。私が唯一持っていた安物のスニーカーはあっという間に消耗し、最初の給料を貰う頃には靴底がベロを剥いていた。私はこの仕事を続けるために、苦渋の決断をした。一か月間町内をうろつきまわって稼いだ給料を全てはたいて、丈夫なスニーカーを買った。五万円の靴を買う為に始めた初バイトでの初買い物が一万円のスニーカーだなんて、これ以上の皮肉はないと思った。
このままではスニーカーを消耗するだけで、いつまでたっても目標の靴にはたどり着かない。焦った私はチラシ配布に加え、内職の仕事も始めることにした。配布よりも圧倒的に稼ぎは悪かったが、少なくても大切なスニーカーを消耗することはない。だがこれも初めてすぐに洗礼を受けることになった。
まずは一回ずつの品物の量。毎回毎回、段ボール箱が山のように届き、やれ箱の組み立てやらシール張りやらの小さな部品がぎゅうぎゅうに詰められている。それらを作業のために広げると、それだけで一部屋占領されてしまう。そして納期の厳しさ。夕方持って来られて「明後日の午前まで」と言われることなどしょっちゅう。しかもそれがチラシ配布の期日と重なったりしたら、これほどの悲劇はない。単価の安さも敵だった。一日中部屋に閉じこもって正気と狂気の間を行き来してやっと指定数量を終えても、単価が0.二円なんてしょっぱい額では報われない。
「ウキィィィィっ!」
内職部屋で、私はある日とうとう発狂した。慌てて駆け付けた旦那と娘は、折り終えた箱の中で、溺れる様に手をあげてもがいている私を見ただろう。
「もういやっ! もういやっ! もういやっ! 私、苦行僧じゃないっ! こんなアホみたいな単価の仕事、ボランティアと一緒じゃないっ!」
普段は物静かな私の変貌に、夫はあっけにとられ、娘は震えていた。
「そんなに嫌ならさ、辞めればいいだろ? 何をそんなムキになって、内職やらチラシ配布やらやってるんだ?」
夫が宥める様に言ってきた。私は少し心が痛んだ。まさか水城に見合う靴を手に入れるためだなんて、口が裂けても言えない。
「だって、つまらないんだもの、毎日が」
私は色々なものを要約してその言葉を選んだ。間違ったことは言っていない。そもそも私が水城を買ったのは、同じことを繰り返す毎日への焦燥感からのことなのだから。
夫は難しそうな顔で頭をぼりぼり掻いた。私は益々気が咎めた。子供を産んでからこっち、彼は私に台所の食器棚以上の興味なんて示してくれなかった。自分が仕事で家を空けている間に妻が何をしているかなんて、気にも留める風でもなかった。
私は戸惑った。夫が、ほぼ六年ぶりに私に興味を示してくれている。また私自身、自分の現状について弱音を吐いたのはこれが初めてだった。このアリジゴクのような仕事は、私たち夫婦に再びそれぞれに興味を持つよう仕向けてくれた。
それも元をただせば、私が男娼を買ったことが切っ掛けなのだ。
「俺、お前が今の生活に不満ないと思ってたから何も言わなかったんだけどさ、そんなに毎日つまらないんなら、きちんとした仕事、始めてもいいんだぜ。土日休みなら、家の事きちんとやれとか、俺言ったりしないし」
「でもこの子の事は? まだ三時には学校から帰ってきちゃうんだよ。就業二時までで土日も休みなんて都合のいい仕事、あるわけないじゃない」
私が言い返すと、夫は再び頭を掻いた。
「うーん、まあとにかくフリーペーパーとかで探してみろよ。俺もあちこちの求人欄とか見てみるからさ」
彼はそう言うと、娘を連れて内職部屋から出て行った。その時「やっぱ土日は家族でいたいしなぁ。でも、あんな怖いママ、見たくないよなぁ」なんてブツブツ言う声が、閉まりゆくドアの向こうから聞こえてきた。
内職を辞めたのは、その翌週の事だった。夫がいまだに自分の事を気にかけてくれている。それを知ってしまった今、箱折りやシール貼りをするのは、忘れかけていた罪悪感を掘り起こすのと同じことだったからだ。微々たる収入がなくなった後、私は前にも増して精力的にチラシ配布をするようになった。一万円もするスニーカーは流石に頑丈だったが、スタンドの上げ下げであっという間に傷だらけになった。内職を辞めて以来、夫は再び私に無関心になった、と思っていた。ところが夫は、今度はチラシ配布のほうに興味を示すようになった。玄関前の、セットの済んだ大量のチラシを見て「すげえ量だなぁ」と言っては、配布に何時間かかるのか、これ全部配っていくらになるんだとか、色々なことを聞いてきた。それに一つ一つ答えてやると、「やっぱ割に会わねえなぁ」と首を傾げたりした。
そんなある日の事だった。夫は帰宅するや、尻尾を振った子犬のように興奮して、私に一枚の紙切れを見せつけた。
「これ、市の広報誌から切り取ってきた! こんないい条件の仕事、めったにないぞ!」
それは、市の臨時職員の募集欄だった。内容は、市内の小中学校の事務補助員。十時から十三時までの勤務で月十日。勿論土日祝日は完全に休みで夏休みや冬休み期間も稼働はなし。まるで小さな子供を持つお母さんたちの為にあえて作られたような仕事だ。
「これ、応募してみろよ。これなら学校終わる前に家に帰って来られるだろ。それにもう配布やセッティングで苦しむこともなくなるし。しかも今より絶対に稼ぎはよくなる!」
私は、頭の中が真っ白になっていた。自分の与り知らないところで、話が段々大きくなっているような気がした。私は働きたいと思ったことがなかった。少なくても、娘が小学校を卒業するまでは家にいて、帰りを待ってあげることが母親の務めだと思っていた。だがその使命感は私の心に虚空を作り、男を買うだなんて大胆な行動に走らせた。そしてあのホテルの上り口で靴を買おうと決心した時から、全てが変わっていった。虚ろな日々は苦行に変わり、そのことで再び夫は私に目を向けるようになった。そして今彼は、私に断る逃げ道すらないような職を見つけだし、この仕事をしろと迫っている。
靴が買いたかっただけなのに。私は広報誌の切り抜きを、脳みそが沸騰しそうな思いで見下ろしていた。あまりの条件の良さに、付け入る隙がまるでなかった。もちろん食指が動かないわけではない。けれども、娘が小学校を出るまではと決心していた私にとって、あまりにも唐突すぎる話だった。
いっそ夫に靴の事を話そうか。そんなことが頭をよぎった。水城の事だけを上手く隠して、靴が欲しいだけで働いているからとか言って、どうにか切り抜けられないだろうか。だが、そう言ってしまったら「じゃあ何で『つまらないから』なんて言ったんだ?」と切り返されるだろう。それに靴の用途を聞かれたら、それこそ何と答えればいいのかわからない。
私は切り抜きを片手に硬直するしかなかった。夫はそれを、面接への緊張が早くも来たものだと勘違いしたようだった。彼はハハと笑うと、こう言った。
「何を今から緊張してるんだよ。こんないい条件の仕事、どうせ簡単に受かりっこないんだからさ、安心して受けて、安心して玉砕されて来いよ」
そして彼は、私の肩をドンと叩いた。
それは彼が私に向けた三年ぶりの笑顔で、六年ぶりのスキンシップだった。
夫の言うことは正しいと、私は自分に言い聞かせた。こんないい条件の仕事、きっと倍率も高いだろう。簡単に受かりはしないだろう。ましてや私は夫に隠れて男を買うようなふしだらな背徳女。神様はきっと、ご覧になっているはずだ。私のような罰当たりな女が、こんないい仕事に就けるはずはない。行こう、面接に。そして自分が犯した愚かな行為の代償を、身をもって思い知って来よう。さあ神よ、私を裁くがいい。夫には言えぬ秘密を持った哀れな女に、罰を与えるがいい。
私はそう思いながら、面接に臨んだ。
思ってた通り、私には罰が与えられた。
倍率八倍の難関を突破し、私は事務補助員に採用されたのだ。
事務補助員の仕事を始めて、私は今まで、どれだけ怠惰な生活をしてきたのかを、まず思い知らされた。家にいる時は、夫と娘さえ送り出してしまえば、家事は自分のペースですることができた。それも終わればトドのように横になって、テレビも観たい放題だった。チラシ配布で苦しむこともあったが、それもせいぜい週に一、二回のことだった。ところが、補助員を始めてからこっちは、時間に追われるばかりの日々になった。毎日家族を送り出した後は、自分の出勤ギリギリまで家事をこなし、時間になれば弾丸のように勤務先の学校へ。そうして慣れない仕事に涙目になりながら三時間過ごしたら、競うように家へ戻って家事の続き。娘の帰宅後は、へとへとになった身体を引きずって娘と宿題抗争。そして夕食作り。新しい職場での愚痴を夫に聞かせながらの食事。私は、目の前の事にいっぱいいっぱいで、焦燥感を感じる暇すらなくなっていた。私の日常は、日一日と充実していった。
そうして初めての宮仕えを一か月間終え、初給料を手に入れた。私はあっけにとられた。それまでちまちまチラシ配布や内職で稼いだ小遣いを足すと、たった一回の給料で目標金額の五万円にあっさりと達していた。靴を買う金が溜まったら、仕事を辞めよう。そう思っていたのに、おいそれと辞める事が出来ない仕事に就いた途端、アホのようにあっさりと金が溜まってしまった。
ある平日の非出勤日、私はその金を握り締め銀座まで赴いた。不本意ながら仕事を始めることにはなったが、靴を買いたいという情熱まで忘れたわけではなかった。私が靴を買うのに銀座を選んだのは、水城が〝表の仕事〟用の靴は銀座でしか買わないと言っていたからだ。銀座についた私は、何の迷いもなく老舗のワシントン靴店に足を運ばせていた。
五万円もする靴を買うのは初めてだった。水城の靴は、上質だったが派手ではなかった。私もそんな靴が欲しいと思った。水城の靴の隣に並べても、見劣りのしない靴。そしてどうせなら、この先学校へ出勤するのに支障のないような靴。折角五万も出すのだから、今度こそ下駄箱の奥になんかしまい込むものか。
そんなこんなを思いながらレディースコーナーをうろうろしていると、女性店員が「お探し物ですか?」と言い寄ってきた。私は彼女に予算を告げて、これこれこんな靴が欲しいんだと伝えた。
「このような雰囲気のものでよろしいでしょうか?」「ヒールはもっと高いほうがよろしいでしょうか?」「お色はいかがいたしましょう?」「それではサイズ違いをお持ちいたします」
女店員はニコニコしながら、次々と靴の箱を開け、その度に屈みこんで私に靴を履かせてくれた。ここまで他人に傅かれて靴を買うのは、今までにない経験だった。心のどこかでくすぐったさを感じてはいたが、それでも五万も払うのだからと、私は気の済むまで店員に我儘を言った。店員は最後の最後まで、笑顔を崩さなかった。
そうして何度も試し履きをさせてもらってようやく決めたのは、黒いハイヒールだった。と言っても、ただのハイヒールではない。色は、純度の高いチョコレートのように濃厚な、ブラウンのかかったダーク。その色合いが靴そのものに重厚さを与えているのに、ヒールの僅かな曲線が、女性らしいしなやかさを演出してくれている。
靴を履いた自分を姿見に移しながら、私は蒸したてのジャガイモのように顔をホクホクさせていた。ああ、私が求めていたのはまさにこれだ。優秀なOLを妖術でハイヒールに変身させたような、こんな靴が欲しかった。上り口にあった水城の靴と同じように、これもまた「生きた女の靴」だと思った。これなら、あの水城の靴にも決して見劣りはしない。これさえ履いていれば、私は水城と同じレベルに自分を引き上げられる。男を金で買ったことも、男娼に自分をさらけ出したことも、全てが惨めなものでなくなる!
帰りの電車の中で、私は靴の入った紙袋をずっと抱きしめていた。そして家に戻ると、それを一旦クローゼットに放り込み、パソコンのスイッチを入れた。
プラウザを立ち上げて検索したのは、水城の店のサイトだった。何の迷いもなかった。私は臨時公務員という立場も忘れ、再び予約フォームをクリックした。
誰にも信じてもらえないかも知れないけれど、その時、私の中に肉欲の類のものは一切なかった。水城に会いたいと熱烈に思っていたが、前のように彼に触れて欲しいなんて、これっぽちも考えていなかった。初めて彼を予約した時に抱いていた痛々しい焦燥感もなければ、生き甲斐を取り戻したいとか、そんな感傷すらなかった。もっと言えば、水城に会いたいとも思っていなかった。会いたいのは彼の靴だけだった。今、クローゼットにしまい込んだ靴を履いて、水城の隣を歩きたかった。そして彼のあの〝生きた男の靴〟の隣に自分の靴を並べて置きたかった。彼とホテルの上り口に靴を並べる事さえ出来れば、その後のサービスなんて受けられなくてもいいとすら思った。その為だけに、私は彼に金を払えると断言出来た。
翌日、私は早速新しい靴を履いて出勤することにした。水城に会う前に、少しでもこのハイヒールを履き慣らしておきたかった。靴は履かれて初めて靴になる。水城の靴を思い出す度に、私はそんなことを考えていた。手入れが行き届いているということはつまり、普段から履き込んでいるということだ。そしてその〝手入れの痕跡〟こそ、靴が〝生きている証〟だと、私は感じていた。独身の頃から高いヒールの靴は極力避けてきたので、履き心地は正直よくはなかった。しかしそれでも私は頑張って水城に会う日を目指して靴を育て続けた。
そうして、予約の日がやってきた。
朝、いつものように夫と娘を家から送り出して一人になると、私はいそいそとクローゼットから一番のお気に入りのワンピースを取り出した。着替えた後、私はいつもより念入りに化粧をし、玄関に向かった。
そこには、昨夜、初めて手にした靴磨きセットで念入りに磨きこんだハイヒールが待っていた。
立派になったなぁ。私は、美しいダークを眺めながら、胸をときめかせていた。我が子の成長を見守るような気分だった。今日、これからこれを履いて水城に会うんだ。水城の靴の隣に、これを並べられるんだ。これで、今までの惨めな自分とはおさらばだ。明日からは、堂々と「生きた靴を履いた女」として生きていけるんだ。私はうっとりとした溜息をつくと、ハイヒールに足を突っ込んで、勇んで玄関の戸を開けて外に出た。
その時、私は右足に違和感を覚えた。そしてその正体が何なのか判らないまま、右半身を打ち付けてその場に倒れた。私は無様にドアに挟まれたまま、自分の足に何が起きたのかを知ろうと、痛む身体を絡まったマリオネットのようにねじって足元を見た。
頭から、血の気がざっと引いた。
私の可愛いハイヒールが、心を込めて育てた靴の右側のかかとが、玄関の桟に引っ掛かって根元からぽっきりと折れていた。
考えてみると、私は右重心の人間だった。今までの生涯、どんな靴を履いていても先にすり減るのは必ず右足のほうだった。このハイヒールを履いている時も、信号待ち等では気が付くと右かかとに重心をかけていた。元々ハイヒールを履きなれていなかったのも、こうなった要因のひとつかもしれない。しかし、そんなことを冷静に分析できるようになったのは、もっと後での事だ。今の私は、玄関の前で転んだ姿のまま、折れてしまったかかとを茫然と眺めることしか出来なかった。戦友を失った気分だった。胸のあたりにぽっかりと空洞ができて、あとちょっとでも気を抜いたら、そこから怒涛のように涙があふれ出そうだった。ただ、水城の為にしたメイクを涙で台無しにできないという思いだけが、瞳から滴るものを食い止めていた。
水城のことに思い至った私は、よいこらせっと声を出して、どうにか立ち上がった。戦友を失った今、彼に会いたいという気持ちもほとんど失せていた。だが、流石にドタキャンなんて無礼な真似、こちらが客とはいえする事は出来ない。私は痛む右足を引きずりながら中に戻ると、下駄箱を開けた。
そこから取り出したのは、チラシ配布の為に買ったあのスニーカーだった。今持っている靴で埃のついていないものは、これしかなかった。
待ち合わせのカフェでは、既に水城が私を待っていた。
「どうしたの? 顔色悪いですよ?」
惨めったらしく泣き出しそうな顔をしていたのだろう。水城は、私を見るなり心配そうに言ってきた。私はそんな彼の心遣いを無視して、会うなり彼をカフェから引きずり出した。私はやけくそになっていた。どの道もうキャンセルはできない。それなら早いこと行為を済ませて、ここから去ってしまいたい。
ホテルでは私が先に部屋に入った。場違いなスニーカーを水城に見られて、薄ら笑われるのが怖かった。
そして行為では、私のやけくそが爆発した。初めて水城を買った時より、私は大胆に、我儘に、彼に要求した。靴を並べるという目的を失った今、支払い分の〝元〟を取らなければという浅ましい思いしか、私にはなかった。その時、私は初めて悲しくなった。愛娘とばかりに可愛がっていた靴を失ったこと。男娼を買わなければ満たされない自分の人生。夫を、子供を裏切っているという事実。それらが全て、悲しくて悲しくてたまらなかった。悲しみは、浅ましさの中から泉のように湧いてきて、涙となって流れ落ちた。
「何か、嫌なことでもあったの?」
全てを終えて帰り支度をしている時、水城が声をかけてきた。不安げな声だった。それもそうだろう。何しろ私は彼の奉仕活動中、ずっと泣いてばかりいたのだから。副業とはいえ彼はプロだ。客に満足してもらえたかどうか心配になるのは当然だ。気の毒とも思ったが、私は彼の不安に応える気にもなれなかった。そして身支度をしっかり整え、ベッドから立ち上がろうとした時だった。
「今日はお洒落してきてくれてありがとう」
言いながら、水城は私を後ろから抱きしめてきた。初めて言われるリップサービスだ。私は鼻で笑いたくなった。
「どこでも売ってる安物のワンピースです」
「でもすっごく似合ってる。それに」
水城は顎をしゃくった。その先には上り口があった。
「あのスニーカー、カッコいいよ。あれ、パトリックの新作でしょ? あんないいものをあそこまで履き慣らしちゃう女の人って、僕、素敵だと思うなぁ」
私は振り返って、その日初めて水城の顔をまともに見た。靴を褒めるなんてそれこそ彼のやけくそなんだろうと思った。けれども彼は、そんなこと微塵も感じさせない、いい笑顔をしていた。
「靴の事、詳しいんですか?」
「〝本業〟だからね、多少は。パトリックはスニーカーの名ブランドだよ」
「あのスニーカー、元々は仕事用に買ったんです。丈夫そうだと思って。だから、そんなブランド名も知りませんでした」
「仕事のパートナーかぁ。じゃあきっと、あのパトリックも喜んでるだろうね」
私は改めて上り口に目をやった。水城の手入れの行き届いた革靴と、私の傷だらけのスニーカーが並べて置かれていた。その瞬間、べったりと塗られた泥の壁が、乾いてホロッと剥がれ落ちるように心が軽くなった。
私の靴は、水城の靴の隣で、確実に「生きて」いた。
その次の非出勤日、私はパトリックを履いて銀座のワシントンにいた。私はそこで、この前担当してくれた店員に、踵の折れてしまったハイヒールを見せた。
「勿論、修理はお承りいたします。ただ」
無償というわけには、と言いかけたのだろう。私は彼女を制し、「いくらかかっても構いませんので」と言った。店員は救われたような顔をして「承知致しました」と答えた。
私はワシントンを出ると、パトリックを履いたまま銀座の街を歩き回った。足取りは軽かった。事務補助員の初給料で買ったあのハイヒールが愛娘なら、チラシ配布の初報酬で手に入れたこのスニーカーは愛息子だ。娘ばかりではなく、たまには息子とデートするのも悪くはない。
その日の晩御飯は、三越の地下で買った惣菜が、ずらっとテーブル一面に並んだ。普段見ることもない珍しい料理の数々に、娘は大はしゃぎした。
「今日、何かあったのか?」
先に娘と夕食を始めていると夫が帰ってきた。彼は、出来合いパックだらけの食卓を見て、仰天した。
「別に何もないわ。銀座まで、靴の修理を頼みに行っただけ。で、そのついでにお夕食も買ってきたの」
「修理に出したぁ?」
夫は声を裏返して驚いた。そしてやれやれと重い溜息をつくと、カバンの中をごそごそと漁った。中から出てきたのは、包装すら開かれていない瞬間接着剤だ。
「あれ、お前気に入ってたみたいだからさぁ、修理してやるつもりだったんだよなぁ」
私は夫の顔を見上げた。頭をぼりぼり掻いていた。ばつが悪くなった時の彼の癖だ。私は、水城とのことを夫に話して心から詫びたいという衝動にかられた。勿論、そんな事は出来はしないが。私はその代わりに、こう言った。
「ありがとう」、と。
その晩、私が風呂から上がると、夫はいつも通り先にベッドに入ってガーガーいびきをかいていた。四肢をフラメンコの振り付けのように放り出している。その寝姿には、娘が生まれる前に共に熱い夜を過ごした男の面影はどこにもない。
「生きている」確証が欲しい。水城を買う以前、私はこの姿を見ながらそんなことばかりを考えていた。けれど、私は間違っていた。私の生きてる証は、夫の中にあるわけではない。勿論水城の中にも。それらは今、私の愛娘と愛息子の中に宿り、それぞれのあるべき場所で静かに眠っている。
私は、寝室の隅にある自分の机に腰を下ろし、パソコンを立ち上げた。メールボックスを開くと、水城から「先日はご利用ありがとうございました」という件名でメールが来ていた。そこには、次回からはリピーター割引が適応されるので是非またご利用を、といった内容の文面が書かれていた。
私はそのメールを選択すると、『削除』をクリックした。
靴を買う 朝倉章子 @aneakko
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