ブラックシガーワンダラー
A.D.3244
煙の中にて
「チビ、しっかりと尻尾を隠せよ。お前が怪物だってバレたら他の奴らが冷静じゃあいられなくなるからな」
めくれていたレインコートの裾を直してやりながら、男が言う。男がくわえる黒くて細い煙草を、彼は指さした。
「ヒューマン。おれもそれ欲しい」
「あー駄目駄目。煙草は大人になってからな」
「大人っていつさ」
「さあいつだろうね」
にやりと笑って男は巨大な廃墟に向かって歩き出した。彼は慌ててその後を追いかけた。
廃墟の一階の壁はガラス張りだった。入り口は広く、半分だけ開け放たれている。昔はこの戸は自動で開いたのだと男は彼に教えた。
入り口をくぐると室内だというのに開けた場所に出た。正面から見える場所に多くの店が連なっていたが、そのどこにも人の気配はなかった。
湿度は高く、室内だというのに壁には蔦や苔が這っている。ぱきぱきとガラスを踏みながら、二人は歩みを進めた。
「住んでるやつがいるって聞いたんだけどなあ」
「誰もいないよ、ヒューマン」
「いないなぁ、街ごと一家離散したあとかあ」
「いっかりさん」
「おう新しい単語だ覚えとけ」
彼はメモを取り出すと、たどたどしい字で「いっかりさん」と書いた。
男は倒れた棚によってふさがれたドアに近づき、棚に手をかけた。
「ぐお……重……」
「ねえいっかりさんってどんな意味ー?」
「あとで教えてやるからちょっと待ってろ!」
なんとか半分持ち上げた棚を必死で押さえながら男は叫ぶ。彼は不満そうな顔をして男を見上げた。男はなんとか棚を元の位置に立てて、立て付けの悪いドアを力任せに引っ張って開けた。
「はぁ、開いたぞ」
「はあい」
二人はドアをくぐって先に進む。相変わらず人の気配はなく、彼は長い尾をレインコートの裾から出してゆらゆらと揺らして歩いた。
「この先が市長レベルの居住区のはずなんだが、やっぱり誰もいないな」
「どうして誰もいないの」
「どうしてだろうなあ。一斉に逃げたんだろうなあ」
「何から?」
「きっと恐ろしいものからさ」
二人は階段を上っていく。踊り場の窓は割れており、ぱらぱらと静かな雨音が室内にまで響いていた。吹き込んできた雨水が壁を伝って床に小さな水たまりを作っている。
水たまりにはまるで白いペンキを数滴落としたかのように斑の模様が浮かんでいた。水たまりに近づこうとした彼の首根っこを、男は掴んで止めた。
「触るなよ」
「はあい」
最上階まで上がると、大きな戸と表札があった。表札の名を確認して男は満足そうに頷いた。
「ここだな」
「目的地?」
「そうだ」
玄関に鍵はかかっていなかった。戸を開いてすぐのところに大きな布にくるまれた細長い何かが立てかけてあった。男はそれを彼にを手渡した。
「ん。やる」
「何これ?」
「釣り竿だろ」
「何を釣るの?」
「さあな。だが持っとけよ。こういうダンジョンの奥深くにあるってことはきっと力のあるアーティファクトかなんかだろう。ゲーム脳で考えれば」
「だじょん?」
「いや、こっちの話だ」
男は手をひらひら振って誤魔化した。
「ねえヒューマン。あーてぃふぁくとって何ー?」
「はいはい後でなー」
「えー」
「俺はここで捜し物があるから、お前はそれで遊んで待ってろよ。いいか? 大人しく、待ってるんだぞ」
「はあい」
最初、彼は大人しく釣り竿を眺めていた。
竿は彼の背丈よりも高く、細くて透明な糸はついたままだった。それを指でなぞったり、軽く振り回して壁にぶつけたりしていると、近くの戸の向こう側からぽた、と何かが垂れる音がした。
「水の音だ」
彼は迷わず戸を開けて中を覗き込んだ。すると銀色の管から水がぽた、ぽた、と滴っているのが見えた。
「これ知ってる。蛇口だ」
彼は水に手を伸ばした。蛇口から垂れた一滴の水が彼の右手に落ちた。僅かに白濁したそれが彼の手の平に触れた瞬間、彼の右腕は大きくのたうった。
「わわわわわ」
あっという間に彼の右腕はぶよぶよに肥大して指の一本も動かせないようになり、肌はみるみるうちにどろどろに溶けたようになっていった。倍以上の大きさになってしまった己の腕を見て、彼は男に助けを求めた。
「ヒューマン、ヒューマンー! 腕がー!」
「馬鹿。それには触るなって言っただろう」
呆れた表情で駆け寄ってきた男は大きな三角巾を取り出すと、ぶよぶよに膨らんだ彼の右腕をくるんで首からつり下げた。
「処置はあとでするからな。そのまま地面につかないようぶらさげてろ」
「はあい」
男はしおらしくしている彼を指さして言った。
「もう大人しく待ってろよ。いいな、くれぐれもうろうろちょろちょろ動き回るんじゃないぞ。返事は?」
「はあい」
「よし」
彼が大人しく玄関に座ったのを確認した後、男はまた一室に消えていった。男が入っていったドアが完全に閉まった直後、彼は立ち上がって別室のドアノブに手をかけた。
その部屋は蛇口の部屋よりもずっと広かった。彼は部屋中をぐるぐると歩き回り、部屋の隅に置かれたソファの上の存在に気付いた。
「人間だ」
その人間はまだ子供のようだった。子供はソファの上に倒れて、息をしていた。子供の肌の見えている部分には、白色のあぶくがびっしりへばりついていた。
「おおいこんにちは」
人間は返事をしなかった。その代わりにひゅーひゅーとか細い息を吐きながら、ぼんやりと彼を見つめていた。
子供は一人でそこにいた。彼は子供を見て何かを思った。だけどそれが何なのかはすぐには分からなかったので、また男に助けを求めた。
「ヒューマン! ヒューマンー!」
「今度はなんだ、いい加減にしろ!」
「人間だよー! 人間がいるー!」
「あー? ……あーこりゃあ助からないな」
彼の後ろから男がのぞき込んでそう言った。
「チビ、お前はあっちむいてろ」
「はあい」
男が腰に吊ってあった拳銃を手に持ったのが視界の端で見えた。彼は後ろを向いて、両手で耳をふさいだ。
「恨むなよ」
ダン!
一回だけ叩きつけるような音がして、彼が改めてその子供を見たときには子供は動かなくなっていた。
「終わったぞ。さあ、さっさと今夜の寝床の準備だ。働け働けー」
*
膨れてしまった腕からは白い液体がぽたぽたと垂れていた。腕には包帯が巻かれて、彼は火の近くでそれを乾かしている。このまま乾けば、明日の朝には元通りになっているはずだ。
だけど彼は浮かない顔で、ぼんやりと炎を眺めていた。
「どうしたチビ」
「ちょっと考えてた」
「何をだ?」
彼は少しだけ考えてから、話し始めた。
「さっきの子供、一人だったね」
「そうだな」
「子供って家族と一緒にいるものだと思ってた」
「そういう奴らの方が多いだろうな」
「でも一人だったね。死にそうになっていたのに」
「ああ」
「きっと寂しかっただろうね。きっといっとうに不幸だったのだろうね」
彼は悲しそうに目を伏せた。男はそれを見て、にやにやと笑いながら何度も頷いた。
「うんうん、そうかあ」
「なにさヒューマン」
「いやあお前が他人の気持ちをおもう日が来るとはなあ、あっはっは」
「おかしなこと?」
「いいや、いいことさ。きっと素敵なことだ。これからも存分に共感するといい」
男はにやけた顔を急にすっと引き締め、真面目な顔を作った。
「だけどそう簡単に他人を不幸と決めつけるのはいただけないな」
「どういうこと?」
男は紙の箱をとんとんと叩いて煙草を出し、それをくわえながら言った。
「そう、例えば。今お前はそこで死んだ子供を不幸と言ったな」
「死んだんじゃない、殺したんだよ。きみが」
「傷をえぐるのが上手いなお前は。だがどちらも同じことさ。結果としてはな」
ライターの火を、くわえた煙草に近づける。そのまま息を吸うと、煙草の先端が一度だけ赤く明滅した。
「あの子供は死んでいる。だけどあの子供は幸せだったのかもしれないってことさ」
男はもう一度口元に煙草を持っていき、大きく煙を吐いた。
「もしかしたらどうしてもここを離れたくない理由があって、自分からここに残ったのかもしれないだろう。もしかしたら俺たちには見えていないだけでずっとあの子の大切な友達があの子といっしょにあったのかもしれないだろう」
「でもそんなもの見えなかったよ」
「見えなかったとなかったは全然違うものさ。つまりあの子供にとっては他の人間と一緒に生き残ることよりもあの場所でああして死ぬほうが幸せだったのかもしれないということさ」
「そんなのどうして分かるのさ」
「そうさ。分からない。本人以外にはそれは絶対に分からないものなんだ。本人が言葉にしない限りは、ただの己の想像で妄想だ。だから、表だけを見て他人を指して不幸せだと言うことも幸せだと言うこともあまり軽率にするべきではないのさ。その人のことを本当におもうならな」
「分かったような分からないような」
彼は無事な方の手を顔に当てながら悩み始めた。
「うん、多分分かってない。分かりたいな、分かってないな、どうしよう」
頭を抱えて悩みだした彼を見て、男は苦笑した。
「そう焦って悩むこともないさ。人間同士だってそこが分かってない奴らのほうが多いんだ。自分が価値を感じるものは、他人も価値を感じるものだって信じて疑わない奴らのほうが多いんだ。そうしてそれで傷つけられる人間の存在なんて考えもしないのさ」
男は遠くを見ながらそう言った。
「だから分かりたいと思うだけお前は上等だ。もっと自信を持っていい」
男はぽんぽんと彼の頭を撫でた。彼は不服そうな表情で男を見上げた。
「ま、本当のところが分からないからこそ、きっと不幸だろうと考えて不幸を終わらせてやったりだとか、きっとそれでも幸せだったのだろうって思っているかしたほうが、もしかしたら自分の心にとってはいいことなのかもしれないんだけどな」
彼は男をじっと見た。男の本当に言いたいところを見つけようと、じっくりと男を観察した。
「ヒューマン、言い訳してるみたい」
「ああ、言い訳だからな。決めつけずにはいられない自分への言い訳だ」
「だからあの子を殺したの?」
「そうだ。だからあの子を殺したんだ」
炎にあぶられた小枝が、ぱちぱちと音を立てて崩れた。乾いて元の通りに縮んできた指を、彼はゆっくりと動かした。
「ねえヒューマン。おれ、きみのこと考えなしの馬鹿だとばっかり思っていたんだけど、もしかしてきみってすっごく色々考えて生きてるの?」
「ははは、まあな。これでも帝都の学校をきっちり出てるんだ。超、超、超、超、超賢いし日々色々と世の中のことを考えて憂えて生きているぞ? 俺ほど賢いやつもそうそういないだろうな!」
胸を張った男を見て、彼はちょっと戸惑った後、すぐにひひひと笑い出した。
「ひひ、賢いって思ったのおれの勘違いだったみたい」
「あ?」
「ひひひひひ」
すごむ男を気にせず、彼はひどく楽しそうに笑い続けた。
「ねえ煙草一本頂戴よ」
「馬ー鹿。お前にはまだ早いよ」
男の指に挟まれて、黒い煙草がじりじりとくすぶっていた。
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