スクエア、ソリッド、スマイリング

A.D.7876

洋上にて


 ひるが戸を開くと、よるは何かを混ぜていた。

 よるがかき混ぜるバケツの中には白濁した液体が入っていた。ひるが駆け寄って制止する前に、白色の液体はひるにとって見覚えのある立方体へと姿を変えてしまっていた。

「とうふちゃん」

「ん、なんだひる。こいつの名前知ってるのか?」

「……うん」

「そうか。うーんそれにしてもこいつ」

 よるはとうふちゃんを抱きあげた。意味があるのか分からない手足が、立方体の下にぶらんと垂れた。ひるは慌ててよるの腕にすがりついた。

「やめてよ、おねがい、すてないで、ながさないで」

「ん? 何がだ?」

 よるは油性ペンを手に持っていた。

「ちょっと待ってろよ……ほらできた」

 きゅっ、きゅっ、きゅーっと、よるはたったの3秒で立方体の一つの面に笑顔を書き上げた。お世辞にも整っているとは言えない適当なその顔を見て、よるは破顔した。

「なんだお前、顔がない時はちょっと気味悪いやつだと思ってたのに、結構可愛いじゃないか」

 自画自賛。そんな言葉もあったなあと、まだ状況を理解できていない頭でひるが考える。

 一方、よるに褒められたとうふちゃんは突然、細かく振動を始めた。最初はぷるぷると震えるだけだった動きは段々と激しさを増して、やがてびったんびったんと全身を使って暴れ出した。

「うわっ、こら暴れるなって、うわっ、あっ」

「あ」

 よるの腕の中から勢いよく飛び出したとうふちゃんは、そのまま重力に従って落下し、机の角に激突した。柔らかそうなとうふちゃんの頭部はしかしぐしゃぐしゃに潰れることはなく、拳大の大きさでバラバラに砕け散り、ある程度の弾力を保ったまま四方に飛び散った。

「と、とうふちゃんが」

「机の角に頭ぶつけて死んだー!」

 よるは茫然と呟き、ひるは絶叫した。

 とうふちゃんの残骸は床中に広がり、二人はとんでもないことをしてしまったという面持ちで顔を見合わせた。しかしそんな二人の心境とは無関係に、白い塊は音もなくぐにぐにと蠢き始めた。

「うわっ」

「ひえっ」

 二人は咄嗟に身を寄せ合った。

 小さな白の塊たちはゆっくりと変形し、それぞれが元の立方体の形を取っていった。ご丁寧にも小さな立方体の全てにはあの笑顔が描かれていた。やがて二人の周囲に散らばる塊が全て立方体になった頃、ぽんっという音とともに一斉に立方体に胴体が生えてきた。

 そうして、いまだ状況を把握できていない二人を置いて、無数の笑顔のとうふちゃんたちは、各々思い思いに生きることを謳歌し始めた。

 ある個体はのろのろと床付近を低空飛行していたかと思えば、突然派手に転んで顔面を床にすりつけていた。

 ある個体はふわふわ飛びまわった末にお気に入りの場所を見つけたのか、棚の上に陣取ってゆらゆらと揺れていた。それを羨ましがったのかどうかは分からないが、他の個体もその隣に集まりだした。

 ある個体は超高速で部屋中を飛び回り、再び机の角に激突して爆散していた。残った小さな破片たちは当然のように動き出し、いつの間にか元の個体と同じぐらいの大きさまで成長していた。

 机の下に伏せる個体もいれば、机の上から下を覗き込んで自重に耐えきれず落ちてくる個体もいた。落下した個体は下にいた個体とドッキングし、何事もなかったような顔でスライド移動をしていた。

 縦横無尽に動き回る立方体たちに部屋の隅に追いやられた二人は、互いにかばい合うような姿勢で震えていた。

「うわああ増えたよ動いてるよお」

「ははは、なんだこれなんなんだ」

 混乱しながら二人は、一体だったときよりも明らかに体積の増しているとうふちゃんを目で追い続けた。

 不思議なことに、小さなとうふちゃんたちには一体一体に最初から顔が書いてあった。そのどれもが笑顔だったので、よるは依然警戒しながらもぽつりと言った。

「でもこいつら楽しそうだな」

「……うん」

 よるに抱きつきながら、ひるはぼんやりした顔で同意した。

 それから二人が落ち着くのにしばらくかかった。とうふちゃんはいつまで経っても落ち着かないので、とうふちゃんの動きに段々慣れてきた二人の方が先に落ち着いたのであった。

 元気よく飛びまわるとうふちゃんたちを疲れ果てた目で見ながら、若干落ち着いたひるはよるに尋ねた。

「ねえ、よる。どうしてとうふちゃんに顔を書いたの?」

 一体のとうふちゃんが、よるの膝の上に飛び乗ってきた。軽くつついてみると、とうふちゃんはぼよんぼよんと揺れた。

「ほら、いつだったかひるが言ったんじゃあないか。笑顔は人を幸せにするって」

 よるは手の平にとうふちゃんを乗せて差し出した。ひるは両手でとうふちゃんを受け取った。とうふちゃんは、小さくて歪だけど裏のない表情で、にこにこと笑っていた。

「だから笑顔を書いてみた」

 よるは口の端を指で引っ張って、にっと笑った。ひるはよるの笑顔をまじまじと見つめた。

「……そうだったね。そうだった」

「そうだぞー」

「ひひひ、そうだね」

 ひるは小さく笑った。とうふちゃんもにこにこ笑っていた。ひるはとうふちゃんを大切そうに抱きしめた。とうふちゃんは生温かかった。

「ありがとう、よる」

「なんだか分からんがどういたしまして」

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