オールドデイズエンゲージ
A.D.6880
洋上にて
彼は釣り竿を跳ね上げた。釣り糸の先には何もついていなかった。彼はもう一度、それを白い海に投げ入れた。
「釣れたか?」
「釣れないねえ」
「そうか」
男は彼の隣に座った。彼は白濁し静止した海を見つめていた。真っ白な水平線に向けられた彼のその目は、男には過日にこの海の向こうに流れていった立方体を見つめているように見えた。
男は何か話を繋げようと、彼に続けて話しかけた。
「そういえばあんたがこの釣り竿で俺を釣り上げたんだったな」
「うん、そうだよ」
それだけ返事をすると彼はしばらく口を閉ざした。気まぐれに釣り竿を上下させながら、それでも視線は水平線に向けていた。そうして白い海と空の境目をじっと見つめていたかと思えば、時折、目を閉じてもう二度と聞こえることのない潮騒に耳を澄ませるかのように少しだけ首を傾けた。
男は今度は黙ってそれを見ていた。
彼は目を開き、ふと振り返った。
「推定ヒューマン、一個お願いがある」
「なんだ?」
「おれとずっと一緒にいてほしい」
男は軽く目を見開いた。彼は続けた。
「もうおれはずっとずっと長い間、釣りを続けてきたんだ。ずっとずっと釣りを続けて、おれのところに来てくれた人間はきみ一人だった」
彼は少しだけ目を伏せた。
「一人でいるのは寂しい。だからおれとずっと一緒にいてほしい」
彼は片手で、男の手をぎゅっと掴んだ。
「ずっとっていうのは永遠のことか」
「うん。ずっとずっと一緒にいてほしい。だめ?」
「うん、無理だな」
男はあっさりとそう答えた。彼は不思議そうに男を見た。
「人間には寿命があるからな」
「寿命」
「そう、寿命だ。人間はいつか絶対に死ぬんだ」
「死ぬ」
たった今思い出したかのように彼は呆然と繰り返した。
「無理なの?」
「無理だな」
「どうしても無理なの?」
「ああ、どうしてもだ」
「そっか」
きっぱりと断られ、彼は再び黙り込んだ。男は居心地悪そうに空に視線を送っていたが、やがて苦し紛れに口を動かし始めた。
「あんたは人間は死んだあとどうなるか知っているか?」
「うーんと、動かなくなって腐る」
「それは体の方だろ。俺が言っているのは心の方だ」
「心?」
「そう、心」
「知らないや。心はどうなるの?」
「人間の心は死んだ後に死霊になるんだ。体をなくして、透明なふわふわしたものになるんだ」
「そうなの?」
「ああ、俺は本気で信じちゃいないがそういう考え方がある」
「信じていないのになるの?」
「なるかもしれないだろう」
男はそれまで言いたいことが見つからないままに言葉を繋いでいたが、そこでようやく何かを思いついたように手を鳴らした。
「そう、だから死ぬと言ってもあんまり悲観的に考えなくてもいいさ。肉体のある人間から肉体のない死霊にジョブチェンジ、みたいな、そんなところだろう」
「じょぶ?」
「いや、死霊じゃあなんだか格が低そうだな。幽霊とか、霊魂とか、ゴーストとか……いまいちかっこいい名前が無いな。とにかく存在のレイヤーが一枚上がるってことだ」
「つまりどういうこと?」
「肉体がなくなるってことはさ行動の自由度が高くなると思うんだよなあ。空を飛んだり、壁をすり抜けたり、そういう常識はずれのことができるようになるんじゃないかと俺は妄想している」
「妄想」
「話は変わるがお前のその釣り竿は世界を飛び越えてものを釣り上げている感じあるよな。見たこともないものが突然現れたり」
「うん」
「幽霊って頑張れば世界だって飛び越えられる気がするんだよなあ。一説によれば人間は死んだ後天国か地獄に行くそうじゃないか。天国も地獄もこの世界にはきっと存在しないのだから、幽霊は世界を飛び越えていることになるはずだ。だからその、なんだ」
そこまで一気に言った後、男は頭をがしがしとかいた。彼はそんな男をまっすぐに見上げていた。
「俺がいなくなったあと、幽霊になった俺がどうにかしてお前の釣り竿に代わりの奴を引っかけてやる。そいつがいなくなったらまた次の奴を引っかけてやる。それでお前はもうずっと寂しくないだろう」
彼は何度かゆっくりとまばたきをして、そうして男が回りくどく言わんとする意味を理解した。彼は顔全体でくしゃっと笑った。
「それは素敵かも。それでおれは寂しくないかもしれないね」
「ああ、寂しくないさ」
嬉しそうに体を揺らす彼を横目に、男はほっと息を吐いた。
「ね、ね、いつ引っかけてくれる? おれ待ってるから」
「さあな、すぐかもしれないし、もしかしたら千年後か、一万年後か」
彼の笑顔がぴたりと固まり、大きな目が探るように男の顔をじっと見た。
「不安か?」
彼は驚いたような表情を作った。
「どうして分かったの?」
「それが人間ってやつだからだ」
不思議そうに見上げる彼の頬を、男は軽くつねってみた。柔らかい彼の肌は思いの外伸びて、男は内心少しだけ驚いた。
「なにー?」
「なんでも」
ぐにぐにと指の腹で柔らかい感触を楽しみながら、男は続けた。
「どれだけかかるかは俺には分からんからな。もし釣り糸を垂らすのに飽きたらちょっとその辺でも観光して待っていてくれ」
「観光って」
「いいじゃないか観光。あんたはしたくないのか?」
「だって世界はもう滅んでしまっているんだよ? 一体どこを見て回ればいいのさ」
「誰が言ったんだ?」
「え?」
「世界が滅んだなんて誰が言ったんだ?」
ええと、と彼は考え込んだ。
「昔この船に乗ってた人間が言っていたんだ。偉い学者の先生が」
世界はもう戦争で滅んでしまって、生き残っているのはもうこの船の上にいる人間だけだって。その人たちももうとっくにみんないなくなってしまったから、きっと世界は滅んでしまったんだと思っていた、と彼は続けた。
「その人が言っていただけなんだな」
「うん。だってそう言っていたならきっとそうなんでしょ?」
「じゃあもしかしたら滅んでいないかもしれないだろう。他に生きている人間がいるかもしれないだろう。人間じゃなくたって何か生きて動いているものがまだいるかもしれないだろう。ああそうだ、あの流れていった立方体を追ってみるのもいいんじゃないか? もしかしたらあの先には人間が住む陸地があるのかもしれない」
男は海の向こうを指さした。
「いいの? そんなことを言ったらおれはもうそんな場所を探してこの船を出て行ってしまうかもしれないよ? そうなったらきみがいくらきみの代わりを引っかけてくれたって意味がなくなってしまうかもしれないんだよ?」
「気が向いたら帰ってくればいいさ」
「帰ってくる?」
「ん。ここに、この船まで帰ってくればいい」
「海はこんなにも広いんだよ。おれはまたこの船を見つけられるかな」
「ああそうだな。じゃあ何か目印がいるな」
男は船の中央にそびえる船橋を見上げた。
「灯りをつけようか」
「灯り?」
「灯台……みたいな何かがいいだろうな。ずっと光ってるやつ。それぐらいなら多分俺にも作れる」
多分、多分な。両手で構造を考えながらぶつぶつと男は呟く。
「そうすればどこに行ったってきっと帰ってこれるだろう。帰ってきたらまた釣りをして待てばいい」
彼は、男の手をもう一度きゅっと握った。
「それでもう寂しくない?」
「ん。寂しくないとも」
「ずっと寂しくないんだね」
「ああ、寂しくないさ」
「そっか、嬉しい、嬉しいなあ」
「よかったな」
男は、ほっとして笑う彼の頭を撫でてみた。彼は小さく、ひひひと笑った。男は彼から推定煙草をふと取り上げ、煙草を吸う真似をした。
「ねえ推定ヒューマン、約束だよ」
「ああ、約束する。だからお前は感謝しろよー。これから先、もしその釣り竿に人間がかかったら俺のおかげなんだからな」
小さな彼を膝に乗せて、恩着せがましく男は言った。
「うん。きっと感謝する。待ってる」
「そうか」
「うん」
彼は釣り竿を跳ね上げた。釣り糸の先には何もついていなかった。彼はもう一度、それを白い海に投げ入れた。
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