ラフレシアの匣
酷い腐臭に悩まされていた。
夏休み初日。今年の夏休みは引きこもる事に決めていた。
僕が居とする寮のベランダに干していた洗濯物を取り込もうとすると腐臭がした。
腐臭に顔を歪め、ベランダに立ち尽くす。僕から見て左側の部屋だ。
昨日までにはこんな臭いはしなかったというのに。
気味が悪いの一言に尽きる。
この日は部屋干しにすることに決めた。この酷い臭いが移っては敵わん。
隣の部屋には僕と同学年の男が住んでいて挨拶程度をする仲ではあった。
異国の缶詰でも開けたのだろうか、とか、何か干物でも作り始めたのだろうか、とか。色々と想像してみた。
誰かが死んでいて腐っているのだろうか、とか。
3日目である。
さすがに臭いがキツい。自室にまで腐臭が漂い始めたのだ。
我慢ができなくなった僕は寮母さんの元に向かう事にした。
「あの、」
寮のロビーにある、カウンターに身を乗り出して呼びかけてみる。
「寮母さん、すこし気になることがあって」
問いかけるも、寮母さんの甲高い「ハーイ」という言葉は帰って来ず。
ベルを鳴らしても、さらに声を張り上げても、声は帰って来ることはなかった。
「なにか、買い出しにでも行ってるのか?」
ぼーっと思っている事が口から溢れて、そして、ふと気付いた。
あれ、夏休みで実家に帰省する人も多いにせよ、人が少なくないか?
現在は昼が過ぎた頃である、ロビーの窓から見える澄み渡った青空が上空に広がっている。晴れだ。
でもなんでだ、いつものロビーには人がまばらとは言え何人かは居たはずじゃないか。
違和感はまだ疑惑だった。
寮母さんに会えなかったわけだけれど、部屋の主にとりあえず注意でもしようと一人で左側の部屋の前にやってきた。
ドアからもでも分かる。腐臭が。鼻を突く腐臭が。
僕はこの部屋の扉を叩く。
ドンドン。
ドンドンドン。
ガンガンガン。
返事は無い。
違和感は確信に変わりつつある。
警察を呼ぼうかとも考えたが、まだ確定した訳ではなかったから躊躇して、やめた。
誰もいないのなら、とドアに手をかける。
鍵はかかっていなかった。
扉を開けて玄関へと足を踏み入れる。綺麗好きな人なのだろう、靴は綺麗に並べられていて整った玄関だった、それにインテリアにこだわる人でもあるらしく、アロマポッドが靴箱の上に置かれている。それを確認したところで後ろで扉が閉じる音。
アロマポッドの香りはきっとフローラルで上品な香りを漂わせているのだろう、しかし、部屋の奥から漂う腐臭とネットリと混じり合い酷い臭いだった。
僕はこう思ってしまった、まるでラフレシアだ。
小さい頃、おじいちゃんに連れられて行った覚えのある小さな植物園。そこでは希少な植物を集めた文字通りの名を冠した、希少植物展が開かれていて、ラフレシアが展示されていたのだ。ガラスに遮られていたから実際にその臭いを嗅ぐことなんて出来なかったが、ガラスにぺたりと貼り付けられた説明文には綺麗にルビが振ってあって小さな僕にも読む事ができた。
「ラフレシアは
そう、僕はこの説明文を思い出していた。
僕はハエなんかじゃあ無いが。
僕はこの臭いに酷く嫌悪感を抱きつつも、誘われている。
僕は玄関で靴を脱ぐことなく。
右足。
左足。
進む、進む。
進めと臭いが語る。
足に何かが当たる。
なんだ、と足元を見やると三日月状の小さな何かが落ちている。
手を伸ばし、拾う。
「うわあっ!」
僕は悲鳴をあげ、手に持ったそれを投げ捨てる。人間の爪だった。
リビングへ続く廊下には他にも人間の爪がばら撒かれていて、僕の心を凍らせた。異様だ。
警察を呼ぼう、そう頭に浮かぶ。
なら、状況が上手く説明できるようにもっとよく中を見てみようじゃ無いか、そういう事を僕の心は言う。
従う。好奇心が後押ししてくれた。
さらに歩を進める。行軍。
爪。
爪。
ばら撒かれた爪。
きっとこの部屋の主の爪だけでは無い。もっと沢山の人達の爪だろうこの爪は。
爪。
ドア。
リビングへのドア。
寮の各部屋の間取りはどこも一緒だ。だからこれはリビングへのドア。
手をかける。
ゆっくりと。
ドアを開けた。
紅い。
目の前には紅い光景が広がっていた。血だ。
紅の中にポツンとひとつ匣がある。
これが腐臭の原因か。
驚きを超えて僕は立ち尽くすしかなかった。
「寮母さんだ...」
匣の中には何かがいた。寮母さんだった。寮母さんは匣の蓋から決死の覚悟で這い出そうとしている様に見えた。これは墓から這い出たゾンビだ。
頭蓋には鮮血がぬらりと、てらてらと、締め切られたカーテンから差し込む細い光が輝かせる。
匣からはみ出てぼとりと落ちたのだろう、もう一人。名前なんかは知らないけれど、ロビーでよくソファに座りおしゃべりをする女の子もそこにいて、息絶えている。
まずい。
隣の部屋は殺人鬼の部屋だったのか。早く出なくては、殺される。そう思った。
僕の心もそういう反応をしていて、そそくさと逃げようと廊下に向かおうとするが床に落ちた誰かの臓器が僕の足を滑らせた。
べちゃり。
そんな音とともに僕の体は重力に逆らうこともなく床に叩きつけられた。
ずぶぶ。
腐敗した遺体に顔を突っ込む。
「おええ、あぁ、もう、くそっ」
顔面だけじゃなく床に垂れている鮮血で僕の私服までも紅く染まる。
ふらふらと立ち上がり、ゆっくりと足を動かす。
右足。
左足。
爪。
爪。
吐き気。
爪。
吐き気。
服に付着した血液がぽたり。
玄関。
ドアの前。
震える手でドアに手をかける。死にたくなんかない。
背後に気配。だけれど怖くて振り返れない。
じっとりと視線を感じる。
扉に手は掛かってる。
視線が射抜く。
堪らなくなって、僕は振り返る。
誰も居ない。視線は恐怖が産んだ虚構だったのだ。
と、頭上で「みしり」という音が聞こえた。
上か。
そう思った頃にはもう遅かった。
巨大なトラックに吹き飛ばされたかのような強い衝撃に僕の頭蓋は破壊されて、脳は死を理解する。
最後に見えた景色は巨大な何かがそこにいて僕を匣へ詰めようとしている。そんな景色だ。
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