偽りの心臓  火星アカデミー事件簿

霜月 幽

第1話

 午後9時過ぎ、誰ももう居るはずのない、訓練区域のロッカー室に、僕はそっと入った。

 別に、足音を忍ばせる必要なんかなかったのだけれど、この後の行動に、ちょっと……かなりやましい思いがあるので、必然的にこうなってしまう。


 ここは火星を回る周回軌道上の、火星ステーションアカデミー。

 4年制全寮制で、本来の宇宙士官養成コースの他に大学部コースも併設されている。軍の士官ばかりではなくて、一般航宙士や技術士など、卒業後の選択はけっこう幅広い。学年変わり時にコース変更は可能だけれど、試験がある。

 僕はここの士官養成コースの一年生で、ケイ・タカハシ、17歳。地球のニホン地区っていう島の出身。今年の春に、憧れの火星ステーションアカデミーに入学して半年経って、重力訓練の厳しさを嫌と言うほど噛み締めているところ。


 訓練生用のロッカー室を足早に通り過ぎて、シャワー室を抜ける。鏡に、黒髪で小柄でほそっこい、ちょっと脅えた眼の僕が映っていた。

 同期生の男子はみんなごつくて、その中で華奢に見えてしまう日本人は、年より幼く見られるんで、僕は自分の顔が嫌いだった。

 その先のもう一つのドアの前へ行くと、手作りの電子キィで開錠して、中に忍び込む。

 ドアから5番目。暗くたって、解ってる。ここにも鍵があるのだけれど、いつも施錠してないのは、とっくに承知。だいたい、普通、その必要なんてないから。

 音を立てないようにロッカーの扉を開いて、中にぶら下がっている制服をそっと取り出した。


 恭しく抱いて、顔を埋める。シン教官の男らしい体臭が、僕を包んだ。まるで、抱いてもらってるみたいに彼の香りに包まれて、一時の至福に恍惚となる。


 うん。悪いことだって解ってる。シン教官は、僕の憧れなんだ。入学式で、ぞろっと前に並んだ教官達の中から彼を見つけた時から、もう、すっかり夢中になってしまった。

 こういうのって、理屈じゃない。いいとか悪いとかって関係ない。好きになっちゃったんだから、しょうがないじゃないか。

 背が高くて、引き締まってて、理知的な厳しい顔もかっこよくて。彼を好きになってるのは、僕ばかりじゃないんだから。女子なんか、最初っから、きゃあきゃあ言って煩いくらいなんだから。男子の中でだって、憧れの教官なんだよ。

 ただ、僕は、ちょっぴり、その、変質的かもしれないけど……。


 彼を充分に堪能した僕はまた、そっと服を戻してロッカーの扉も閉めて、教官用ロッカー室を出た。訓練生用ロッカー室も抜けて、いつものようにD会議室を抜けようと、そっちへ向かう。

 まず使われたことのなさそうなD室は、半分物置状態で、僕等の居住している寮室に行くのに、近道なんだ。

 扉を開けた瞬間、僕はこの近道を選んだことを後悔した。


 会議室の真ん中で、人が倒れていた。ここから見ても、一目で解った。彼は死んでいた。

 だって、額の真ん中に穴が開いていて、血が溢れてて、もうそこら中血だらけで。

 会議室の真ん中に敷かれてあった擦り切れた丸いカーペットが、赤黒く血を吸い込んでいた。

 シモンズ教務主任だった。直接教わったことはなかったけれど、確かに彼だ。

 パニック感に襲われた僕は、よろよろと後退り、アカデミー訓練生だってこともすっかり忘れて、ドアをバタンと閉めてしまった。なかったことにしてしまいたい。

 彼女が来なければ、きっと逃げ出していた。


「どうしたの? ケイ」


 ドアの前で固まっていた僕に、声を掛けたのは、同じ一年生のルーシー・ソネットだった。

 薄茶の巻き毛で、そばかすが鼻の頭に残っている彼女はけっこう気が強く、しかも僕よりがたいがいい。最初っから、僕をまるで弟扱いしてくる。……たいがいの連中がそうだった。


「顔が真っ青じゃない。大丈夫?」


 手に星型のイアリング。ぶらぶら揺れるきれいな飾りで、彼女のお気に入りだ。

 そうか、これ、取りに来たんだ、なんて関係ないことを思った。頭が逃避してる。


「気分が悪いんなら、医局行ったほうがいいわよ」


 と、D会議室の扉に手を掛けた。思わず、その手を止めていた。


「死んでるんだ!」


 彼女の茶色の怪訝な目がさらに、剣呑になった。


「なんですって?」

「その中で、シ、シモンズさんが死んでるんだよ!」

「そんなつまらない冗談、引っ掛からないわよ」


 彼女はてんで本気にしようとしないで、ばっと扉を開けてしまった。


「うわっ!」


 僕は思わず眼をつぶった。


「ケイ。どこに死体があるって言うの?」

「え?」


 中につかつか入って行く彼女の後を追って、眼を丸くした。


「うそっ!」


 会議室には何もなかった。死体も、あれほどの血だまりも。


「ルーシー。ほんとなんだよ! ここに、シモンズさんが死んでたんだ。僕は見たんだよ」


 ルーシーが、胡散臭げに僕を見る。


「額を打ち抜かれて、血を流して。殺人だよ!」

「だって、現に何もないじゃない」


 僕は当惑して、周りを見回した。何もない。いや、待て。何もないけど、無さ過ぎないか?

 そこで、気づいた。


「ルーシー。いつもここにあった汚い丸いカーペット。それがない。シモンズさんは、その上で倒れてた。犯人は、カーペットごと運んだんだ。だから、何にもないんだ」

「あら、そういえばそんなのあったわね。でも、あんまり古いから、誰か処分しちゃっただけじゃない?」


 反対側の扉近くを指差した。


「ここ、引き摺った痕じゃないか?」


 だが、ルーシーはふんっと鼻をならしただけだった。


「そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれないわ。だいたい、こんなところでそんな事件、起きるわけないじゃない」


 そして、くるりと振り向くと、僕を咎めるように見据えた。


「それより、ケイ。こんな時刻に、ここでなにやってたの?」

「え? い、いや、忘れ物を取りにきただけだよ」

「そうなの?」


 疑わしそうに見詰めてきたので、僕は急いでそこを退散した。


***


 重力訓練は嫌いだ。学科のほうは、得意なんだけど。

 今日も、へとへとになってへたり込んでしまった。たった20Gの加速なのに。

 重力加速室から、みんなが元気におしゃべりしながら出て行くのを見ながら、僕は立ち上がることもできずに座り込んでいた。

 気分が悪くて、吐きそうだった。


「大丈夫かい? ゆっくり来いよ」


 同期生達はいつものことなので、声を掛けて出て行く。それになんとか手を振って応えるのが、精一杯。僕はひょっとしたら、宇宙士官の適性ないのかなあ。


「ケイ。大丈夫か? 医局に連れて行ってやろうか?」


 重力訓練の担当教官のヤコビッチ・ドラクロア先生が声を掛けてきた。僕がいつもへたばってるせいか、やたら面倒見たがって来るんで、少々わずらわしい。


「少しこうしていれば、直りますから」

「顔色が悪いぞ。ケイ」


 名前と同様ちょっと濃い目の容貌で、身体も口も眼も大きくて、頭も手足も黒い毛がもじゃもじゃしてて、熊みたいだ。

 それが近寄ってきたんで、僕は慌てて立ち上がった。何とか吐き気をこらえて、大丈夫だと笑って見せる。

 この前、うっかり油断してたら、本当に抱きかかえられて医務室に連れて行かれたんだ。あんな恥ずかしいのは、二度とごめんだ。


「ケイ。無理するな。ケイ」


 人の名前を気軽に連呼しないで欲しい。他の連中には、苗字を呼んでるのに、なんで僕だけ名前呼び捨てなんだ? そりゃ、言い易い名前だってのはわかるけど……。

 何とか廊下まで出たら、向こうからシン教官が歩いてきた。ああ、かっこいいな。僕に気づいて、軽くうなずく。僕は、直立不動の最敬礼。軽く笑われてしまった。

 シン教官は、僕を追って出てきたドラクロア教官と立ち話を始めた。信じがたいけど、この二人、友達なんだそうだ。



 開放された僕は、食堂に行く。ランチの時間なんだけど、重力訓練の後のランチはきつい。ランチの後に訓練があるよりは、ましだろうけど。

 仲間はもうだいたい食べ終わって、コーヒーとか飲みながらおしゃべりしてる。

 僕は遅いランチを簡単にすませようと、半サイズのサンドイッチとコーヒーを選んだ。

 みんなから少し離れた場所に行って、ランチを食べ始めていたら、同期のスコットがコーヒー片手にわざわざやってきた。


「おい、知ってるか? ケイ。人の臓器を機械化して補填するんだってさ」


 それ、食事してる人のところへきて話す話題だと思う?

 だが、スコットはそんな気遣いをまったくする気配がなかった。こいつは、何かで聞きかじった話を、すぐに披露したがる性癖があるんだ。


「心臓だって、可能なんだってさ」

「今まででも、人工心臓とかあったんじゃなかった?」

「あんな半端な奴じゃなくて、完全に心臓機能を再現するらしいぜ。でも、ドクン、ドクンって拍動じゃなくて、シューってヘリウムガス圧縮圧の音がするんだ」

「…………」


 スコット、君、僕に何か恨みでもあるの? サンドイッチ、食べたくなくなってきたんだけど……。

 そこへ、向こうで大声で熱くやりあってた数人が、どかどかやってきた。


「おい、スコット。ケイ。お前等はどっちなんだ? もちろん、連合自治派だよな」


 いきなりケイン・アーカンソーが聞いてくる。三年生の先輩で、いつも取り巻きつれてるちょっと熱くなりやすい男で、僕の苦手なタイプ。


「何の話?」

「ニュース見てないのか? 今度、ルナステーションで、地球政府と火星・宇宙コロニー連合の会談があるだろ。連合の独立自治について決定されるかもしれないんだぞ」

「そうなの?」


 それで最近、なんだか盛り上がってるのか。でも、僕はあんまり政治には興味がないんだ。


「ケネス。ケイは地球出身だぞ。敵側じゃないのか?」

「そうなのか?」


 ケネスが親の仇みたいな目付きで、睨んできた。そういえば、ケネスは火星出身だった。


「僕はどっちでもないよ。関心ないもの」

「いいか、ケイ。地球は、これまで、ずっと、火星や金星の資源を勝手に搾取してきた。やつらには、ちゃんと地球という世界が手元にあるにもかかわらずだ。いつまでも、火星は、地球の所有物で、全ての権利が地球にあると考えている。だが、……」


 ケネスが熱く語り始めた時、幸いに、午後の講義の始まるチャイムが鳴った。


「あ、講義が始まる。悪いね、ケネス。僕、行かなきゃ。じゃあ、またね」


 僕はそそくさと立ち上がると、急いでそこを後にした。

 ちらっと振り返ると、スコットがケネスに捕まっている。助けを求めるようにこっちを見てきたので、食堂の戸口で、「講義、遅れるよ!」と、声をかけてやる。

 スコットが大喜びで走ってきた。アカデミーで、あんまり政治的なプロパガンダやって欲しくないなあ。



 例のルナの会談が迫っているせいか、あっちでもこっちでも、その話でもちきりだった。

 時には、地球派と連合派で、喧嘩沙汰にまで発展することもあった。なんだか、アカデミー内がぎすぎすしてて、すごく嫌な気分だ。


 僕が見てしまったシモンズさんの死体の件は、そのままないことになってしまっていた。

 気になった僕は、ちょっと事務局に、シモンズ教務主任の所在を問い合わせてみたんだ。回答は、今、病院に入院していて、間もなく退院するってことだった。

 僕は、あれは怪我していただけだったんだって、思い込むことにした。


***


 それから、三日後の夜のこと。いつもの儀式を終えて、(あんなことがあったけど、やっぱり僕は続けていた)訓練生のロッカールームから出て来たところを、ルーシー・ソネットに捕まった。

 真っ青な顔で血の気がなく、鼻の頭のそばかすが妙にくっきりと浮き上がってみえた。


「ケイ。一緒に来て!」


 囁いてきた固い声に恐怖が滲んでていて、僕はすごく嫌な予感でぞくぞくした。嫌だって言いたかったのに、ルーシーは、問答無用で僕の腕を掴まえると、あのD会議室に引き摺っていく。

 ルーシーはドアの前で立ち止まると、僕に向かって告げた。


「人が死んでるの」


 ドキン、っと大きな音が鳴った。忘れていたかったのに!

 勇気のあるルーシーは、僕の腕を掴まえたまま、ドアを開けて、中に入った。

 僕は眼をつぶったまま、中に引っ張られて……。


「ないわ!」


 茫然とした声で、眼を開けた。

 ルーシーは、僕の手を離すと、捜すように部屋中を歩き回った。

 でも、その会議室には、ほんとに何にもなかった。とてもきれいだった。この前みたいに。

 埃一つ、ゴミ一つなかった。

 使わない物置部屋同然なのに。

 ついに、ルーシーは僕の前に来ると、両拳を握りこむようにして、訴えてきた。


「嘘じゃないのよ。ほんとに、ここに、いたのよ。死んでたわ。だって、左胸が撃たれてたのよ。血だらけだったわ。心臓直撃よ、生きてるはずないわ!」

「誰だったの?」

「言わなかった? シン教官よ! 私、大好きだったのに!」


 僕は膝が砕けて、よろめいた。そのまま、よく気を失わなかったと思う。


「まさか……。まさか、見間違いじゃない? だって、何もないじゃない」

「でも、私、見たのよ!」


 ルーシーが、声を振り絞って言った。


「あなた、この前、ここでシモンズ主任が死んでるの、見たって言ってたわよね?」

「でも、あれは、僕の早合点だったみたいだ。シモンズさんは、もうじき退院するらしいよ」

「百歩譲って、シン教官もただの怪我かもしれないわ。でも、さっきまで、ここに! ここに! ここに! 倒れていたのに、どうして、今、跡形もないの? 彼が立ち上がって、きれいに掃除したって言うの? それとも、誰かが……?」


 ルーシーが指で、その地点を何度も突き刺すように指し示した。僕も何もないその床を見詰めた。でも、ほんとに、何にもないんだ。とってもきれいに。


「シモンズさんは、明らかに額を銃で撃ちぬかれていた、ように見えた。ルーシーが見たって言うその、その、シン教官も銃で撃たれたみたいだし。犯人がきっと運び去って、きれいにしたんだ。一人の犯行じゃない。組織的なものかもしれない」


 僕はだんだん怖くなってきた。このアカデミーで、なにか恐ろしい事が進行中なのかもしれない。ここで話している僕達も見張られているかもしれない。


「ルーシー。このこと、あまり喋らないほうがいいかもしれない。僕、ちょっと調べてみるよ。シモンズさんの件だって、本人を直接確かめているわけじゃないし」


 そう言って、僕達は別れた。



 次の日、シン教官の航宙航法の講義がある。

 僕はどきどきして教室に行った。ドラクロア教官が来て、シン教官に急用ができたんで交替したと言って、そのまま講義を始めた。

 僕はその時間、何を聴いたかまるで頭に入ってこなかった。


 講義が終わると、ドラクロア教官が呼んでいたような気もしたけれど、無視して事務局へ走った。

 シン教官の急用は何か、今、どこにいるのか問い合わせた。考えてみると、一介の訓練生にそんな個人的な事聞く権利なんかないんだけど、そんな考えなんて全く念頭になかった。

 事務局のお姉さんは、僕のすごく差し迫った様子を勝手に解釈してくれたらしく、すぐに調べてくれた。


「個人的な用事で、ヘラス市(火星)の実家に行ってらっしゃるわよ。レポートなら、帰ってくるまで待ってもらえるんじゃない?」

「あ、……ええ、良かった。わかりました。教官が帰ってこられるまで、待つことにします」


 お姉さんの笑顔にお辞儀をして、やっぱり、ルーシーの見間違えなんじゃないかと思った。思いたかった。



 その翌日、ランチの後で、ルーシーが思いつめた顔で僕を廊下に引っ張って来た。


「シン教官に会えたの?」

「いや、ヘラス市に行ってるんだって」

「つまり、本人には会えなかったってことよね?」


 ルーシーは不吉な眼差しで告げた。


「シモンズさんが退院してきたって話を聞いたわ。私、これから、会いに行ってみるつもり」

「僕はこれから、航宙訓練なんだ。抜けられないよ。終わってから、一緒に行こうよ」

「私一人で大丈夫よ。じゃあ、あとでね」


 彼女は、廊下をつかつかと行ってしまった。


 そして。

 僕達は、次の日、彼女が殺された事を聞いた。


***


 発見されたのは、あのD会議室だった。乱暴されて、首を絞められたって話だった。みんな、強いショックを受けていた。僕はそれ以上に、ショックを受けた。

 彼女はシモンズ主任に会いに行ったはずなんだ。そこで、何があったんだろう? 彼女が殺されるような事があったのだろうか?


 茫然としていた僕は、その日の夜、アカデミーの検察官に呼び出された。きっと、ルーシーのことだろうなと、泣き腫らしてまだ赤い目を擦りながら行った。

 ところが、検察官は思いもかけない容疑をかけてきた。僕がルーシーを殺したと言ってきたのだ。乱暴しようとして、抵抗されたんで殺したのだと。

 僕は仰天したあまり、口もきけないでいた。だって、そもそも僕より体格がいいし、力だってずっとありそうなのに、無理があるって思わないのかな。

 びっくりしている僕に、検察官は優しげな口ぶりで、理解のあるところを見せて言った。


「もちろん、殺そうなんて思っていなかったんだよね? 勢い余って、思わずだったんだろうね。彼女が死んでいたのに気がついた時は、さぞや驚いただろうね」


 僕はようようと、口を開いた。


「僕は、ルーシーを殺してなんかいません」

「しかし、彼女の友達の話では、最近、君とよく会っていたらしいじゃないか? しかも、そのあと決まって、暗い表情になっていたらしい」

「ある相談を受けてたんです」

「彼女の死亡時刻は、昨夜、21時頃だ。君は部屋に居なかったね? どこに居たのかな?」


 僕は言葉に詰まってしまった。昨日から、また、儀式を再開していたんだ。止めていたら、シン教官がほんとに死んでしまったような気がしてきてしまって。


「答えられないのかね?」


 これ、絶対絶命?

 その時、ほんとうに、思いがけない声がした。


「彼は、その時刻、私といたんですよ」


 びっくりして、振り返った。


「シン教官!」


 彼がいつもと変わりなく、軽く微笑を浮かべて僕を見ていた。


「これは、リュオン・シン大尉」

「彼は私の立場を思って、黙っていてくれたのでしょう。私が証人です。彼はその時刻、私の部屋にいました」


 びっくりして固まってしまっている僕の肩を、彼の手が優しく叩いた。


「何をしていたか、までは証言しなくてもいいでしょう? ご想像にお任せしますよ」


 検察官は僕の顔を見て、なぜか納得したような表情を浮かべ、咳払いを一つして言った。


「わかりました。打ち明けていただいてありがとうございます。大尉。もちろん、ここだけの話に留めておきますよ」

「ありがとうございます」


 そして、


「嫌疑が晴れてよかった。さあ、ケイ、失礼しよう」


 と、僕を連れ出してくれた。

 僕は夢のような気持ちで、シン教官の後をついて行った。

 もちろん、そんな事実はないわけだけど、そんな嘘をついて僕を助けてくれたのが嬉しかった。

 助けてくれたのが嬉しかったのか、嘘の内容が嬉しかったのか、ちょっとわからないくらい、僕はぼ~っと舞い上がっていた。


 シン教官が足を止めて此方を振り返った時、僕らはいつの間にか教官用ロッカー室にいた。


「ケイ。君はずっとここに、毎晩来ていたね?」


 知っていたの? 恥ずかしさで顔から火が出るようだった。そんな僕を、優しくシン教官の腕が抱きしめてきた。


「ケイ。嬉しいよ」


 夢みたいだった。シン教官の広い逞しい胸に、僕は顔を埋めた。

 その時。


 僕の耳に、聞こえた。かすかな音だったけど。

 シュー、シュー。と。

 トクン、トクン、という心音の代わりに……。


 僕の全身から、血が音を立てて引いていくような気がした。

 顔を上げて、シン教官の顔を見詰める。表情は微笑んでいるけれど、その眼は笑っていなかった。無機質な、何の表情もない眼だった。


 僕は、全てを理解した。

 彼が嘘を言ってまで、僕を検察官から連れ出してきたのは、僕を助けるためではなかった。

 僕の口から、まだ知られていない二つの殺人が告げられ、調査が開始されるのを防いだのだ。

 次に殺されるのは、僕だ。


 僕はシン教官を突き飛ばすと、そこから逃げ出した。教官が僕の名を呼んで、待てっと叫んだけど、ひたすら走った。D会議室は通りたくない。その先のB会議室の扉を開けて、そこを抜けようとした。


 重い音がして、前方の扉の前に隔壁が下りてきた。後ろを振り返ると、そちらの扉の前も塞がれたことが解った。

 ステーションの各部屋は、万が一のため隔壁で密閉される仕様になっている。ステーションの外は、宇宙なのだから。


 空気が抜かれる音がする。警報装置はどこだっけ? 異常を示す赤ランプが瞬いている。頭が痛くなってきた。息が苦しい。立っていられない。

 ゴーっと耳鳴りがして、意識が遠くなる。

 僕、ここで死ぬんだ。


 誰かが遠くで名前を呼んでいたけれど、何もかも闇の中に消えてしまった。



「ケイ。ケイ」


 名前を呼ばれて目が覚めた。飛び起きようとして、もの凄い頭痛でベッドに倒れた。ベッド? 僕はベッドに寝ている。

 あれ? 死んだんじゃなかった?


「ああ、良かった」


 濃い顔のドラクロア教官が、僕を覗き込んで、ほっとしたように笑った。


「教官……。助けてくれたの?」

「君が検察官に呼ばれたと聞いてね、私も急いで駆けつけたんだよ。そうしたら、シンと一緒に出てきたもので。後を追ってみたんだ」


 それって、ストーカーって言うんじゃない?


「後をつけて良かった。会議室に閉じ込められて、異常警報が鳴り出したから、急いで扉を解除したんだよ」


 ストーカー、ありがとう。


「だが、誰が、君にこんな真似をしたんだ?」


 僕の眼に動揺が浮かんだのを見て、気遣わしげに言葉を重ねてきた。


「まさか、シンか? シンが、君に迫ったのか? まさかな」


 いろいろな事がいきなり一度に蘇って押し寄せてきたもので、僕は涙が溢れてくるのが止められなくなってしまった。

 顔を覆って泣き出してしまう。

 可哀相なルーシー。

 そして、シン教官。僕の大好きなシン。


 なにを思ったのか、いきなり抱き締められて、キスされてた。

 僕はあんまり驚きすぎて、泣くのも忘れて、茫然自失。


「ケイ。ずっと君を見ていたよ。俺の可愛いケイ。シンが何をしたのか知らんが、俺が守ってやるよ」


 教官を力一杯、突き飛ばしたのは言うまでも無い。でも、頭が痛くて、またベッドに沈んでしまった。


「ドラクロア先生。違うんです」



 頭痛薬をもらって、お茶を飲みながら、僕はこれまでの事を全部話した。とにかく、どうやら、味方らしいってことは解ったので。

 シン教官が死んだ事を話すうちに、また、僕は涙がこみ上げてきてしまった。


「すると、あのシンは、別人だというんだね?」

「別人というより、人工的に生かされている状態なんだと思います。心臓は機械です。おそらく、脳のほうも置き換えられているはず。でなければ、彼が、僕にあんな……」


 また、涙が零れてきた僕を、ドラクロア教官が抱きしめてくる。あんまり切なかったんで、つい、許してしまったのがまずかった。

 調子にのって、ますます抱き締めてくる。どこ触ってるんですか! それ、セクハラですよ。ちょっと、止めて! 生徒になにするんですか! 教官!



 ドラクロア教官のほっぺたに、真っ赤な手の痕がついたけれど、僕は無視することにした。


「シモンズ主任とシン教官を、殺してまで機械化することに、どんな意味があるのでしょうか?」


 教官が考えながら、言ってきた。


「実は、ルナステーション会談の前日になるのだがね。フォボスに鉱山の視察がてら、火星行政官のフェイマー氏が訪問することが、内定されている。

 周知の事実だが、フェイマー氏は、この度の連合派の代表であり、発言力も強い。彼がいるからこそ、今回の会談で、連合が地球の支配から独立して自治権を獲得する可能性が高いと期待されているのだ。もちろん、地球側は、彼を眼の敵にしているだろうね。

 で、彼を、フォボスへ迎えに行って、ルナステーションまで、送り届ける任務につくのが、シモンズとシンなのだよ」

「それって……!」


 ドラクロアが頷いた。


「だが、明日、いや、もう今日か。早朝の出発だ。今から検察官に伝えても、間に合わんぞ」

「どうするんです?」


***


 すごく狭苦しいところで、僕は加速圧をじっと堪えていた。加速吸収構造の船体なので、僕でも耐えられないほどには上がらない。

 問題は、同じ狭いところに一緒に潜むことになったドラクロア教官だった。


 僕達はシン達がフェイマー氏を迎えに行く船の中にこっそり忍び込んで、船倉の物置庫に隠れることにした。

 ほかに見つからなさそうな場所って、思いつかなかった。モップやほうきを出して中に入っては見たけれど、やっぱり狭い。

 おまけに、ドラクロア教官は熊みたいに大きいので、余計に圧迫感がある。

 必然的に、まるで抱かれているみたいな形になってしまったことも問題だった。

 ちょっと、どこ触ってるの? そんなところで手を動かしてたら、息が上がっちゃうじゃないか。気配を悟られたら、まずいんだから! ほら! 熊! 当たってるって!


 教官のセクハラを、ひたすら耐えて2時間、さらに加速圧を10分。慣性航行に移ったのがわかった。

 物置の扉をそっと開けて、外に出る。思わず足がよろけたのは、ドラクロア熊のせいだ。


 ここに潜む前に、僕達は大量の爆発物を発見していた。これをどう使うつもりなんだろう?

 まさか、この船ごとフォボスに突っ込む気じゃないだろうね? 事故を装って、証拠隠滅兼ねて、フォボスごとフェイマー氏をやっちゃう気? 過激だなあ。


 僕達の作戦は、とにかく、操縦系統を掌握すること。フォボスに突っ込んでいく前に、奪還しなくちゃならない。

 こっそりとコクピットを目指してたんだけど、ドラクロア熊が途中で姿を消した。いや、「ちょっと」って、手を上げて消えないでくれる? 僕一人でどうしろって言うの?

 コクピットの扉の前でためらっていたら、


「ケイ。遅かったじゃないか」


 なんて、シン教官に声掛けられちゃったじゃないか!

 もう、まるで、バレバレだったわけ。

 そのまま、コクピットの中へ促されて入って行くしかなかった。

 シモンズ主任が操縦席から、こっちを振り返ってきた。

 あ、やっぱり、額に傷が残っている。あれ、銃弾の痕だよなあ。


「ケイ。ヤコブはどこだ? 一緒だったんだろう?」


 まるで感情のない声で、シンが訊いてきた。僕の鼻先に銃をつきつけて。


「知らない。途中でいなくなったんだ」


 嘘じゃない。


「相変わらず、行動の読めない男だな。まあそのうち、ここへくるだろう」

「シン教官。あなたは本当は違うんでしょう? シン教官は、亡くなったんしょう?」


 目の前の男は、やっぱりどうみてもシンその人だ。


「私はシンだよ。ケイ。他の誰であるはずがないじゃないか?」

「僕をどうする気?」

「君は可愛いから、黙っているなら、そのまま見逃そうと思っていたんだけれどね。こうなったら、しょうがないね。私達と行動をともにしてもらうしかない」


 シンの人工頭脳を組んだ人って、そういう趣味持ってたのかな? 機械の頭脳に言われても、あんまり嬉しくないなあ。

 なんて言ってるうちに、いよいよフォボスが近づいてきた。やっぱり、減速する気、ないみたいだ。

 このまま、フェイマー氏が待っているであろうフォボスのポートに激突する気なんだね?

 肉眼で、フォボスの地形が見えてきた。


「目標地点、捕捉」


 シモンズ主任だったものが機械的な声で報告してくる。こっちは、操縦専門用にプログラムされているんだな。


 銃が僕の目の前にあったけど、無視してコンソールの通信機に駆け寄っ……、その前にシンだったものに、がっしり掴まえられてしまった。

 強い力で抱き抑えられる。シンの匂いがする。こういう時じゃなかったら、嬉しかったろうに……。

 じゃない! 僕は逃れようと身を捩ったけれど、その腕の力は強固だった。

 銃で撃っちゃえば簡単だろうに、やっぱり基本、機械は人間に対して暴力できないシステムらしい。

 でも、これ、暴力じゃない? 倫理規定、けっこう許容範囲おおざっぱなんだな。


 メインスクリーンいっぱいに、地表が拡がってくる。ものすごいスピードだ。ポートが小さく見えてきた。

 ドラクロア熊、何やってるの? もう、手遅れになっちゃうよ?


 その時、ものすごい電磁パルスが走った。

 船中を駆け巡ったらしい。

 僕の髪の毛まで、逆立っていた。静電気過重で身体中、びりびり痛い。

 声にならない叫びを上げて床に転げまわりながら、爆弾が爆発するぞと、ぞっとした。


 ドアをぶち破る勢いで熊が走りこんできて、コンソールに駆け寄るのが見えた。操縦席で固まって動かないシモンズさんだったものを、乱暴にどかして席に座ると、無我夢中で操作を始めた。


 起き上がりながらシンを見ると、これも固まってぶっ倒れていた。パルスで、電子回路がみんないかれてしまったんだ。

 シンはこれで、本当の死体になってしまった。


「ケイ! 通信機を直せ!」


 感傷に浸る間もなく、緊迫した声が僕を急かした。

 ドラクロア教官は、すっかりいかれてしまった船の自動操縦システムを手動に切り替え、押し迫ってくる地表を回避しようと必死の操縦を試みていた。


 僕も通信機に走って、パネル盤を開けた。ICデータは全部アウトだ。今からプログラム組み立ててる時間はない。

 音声さえ流せればいい。回路を繋ぎ直して、パネルを閉じる。

 これって、訓練生一年生の仕事じゃないよね?


「フォボス、セクションポートAへ。予定の機体にトラブル発生。全面的故障です。激突回避の努力中ですが、全員直ちに避難してください。激突の恐れがあります。直ちに退避してください!」


 二回繰り返す余裕しかなかった。

 ものすごい勢いで、ポートの灰色の舗装した発着場が迫ってくる。

 僕は覚悟して眼をつぶった。きっと、一瞬だから。痛くない! 痛くないはず!



「ケイ。ケイ」


 頬をピシピシと叩かれて。

 あ、生きてたっと思った。鼻から血が流れてて、一部飲み込んだ血の味に顔をしかめた。

 同時に、誰かに抱かれているのに気づいて、意識が全部戻った。

 わっと飛び起きる。ドラクロア熊がほっとした顔になって、ハンカチをくれた。

 僕はそれで鼻を押さえながら、周りを見回した。


 硬い硬質テクタイトガラスの前面が擦り傷だらけになっていて、ほとんど曇りガラス状態。

 なんだか、周りにいろいろなものが壊れていたり、ひしゃげてたりしているみたいだけど、どうにか何処かに止まっている。ポート上じゃないのは確かだ。

 引力がすごく弱かったのと、大気がなかったのが、幸いしたんだな、きっと。

 思ったほど、長く意識を失っていたわけではなかったらしい。


「爆弾は? 大丈夫だったの?」


 気がかりだったことを聞いた。


「パルスを流す前に、信管を全部外したからね」


 なるほど。それで、姿を消してたのか。


「ケイが、二人の注意を引いていてくれたんで、助かったよ」


 僕は、無理やり意識から忘れようと思っていた事に向かわざるを得なかった。ゆっくりと、振り返る。

 シモンズさんは、操縦席の横に転がったままだった。

 そして、シン教官も……。


 僕はそろりと彼の側に行って跪いた。身体の機能を保っていた全コントロールが壊れてしまったので、すっかり冷たく硬くなっている。


 見開いたままの眼をそっと閉じてやった。

 ぽたぽたと涙が零れる。


 涙が止まらなくなった。


「シンが好きだったのか?」


 ドラクロア熊が優しく聞いた。僕は、うん、うん、と頷いた。

 大好きだった。僕の憧れだったんだ。


 熊の大きな手が、僕の頭をくしゃくしゃと掻き混ぜて、撫でてくれていた。


***


「熱いぞ、火傷するなよ」

 

 ドラクロア教官が熱いココアの入ったカップを、ソファに座っている僕に手渡しながら言った。この熊はちょっと過保護気味なんだ。

 僕はこくんと頷いて、ココアのカップを両手に持って、ゆっくり吹いて飲んだ。

 そのすぐ横に、オンザロックのウイスキーのグラスを手に彼が腰を落ちつける。

 さりげなく片手を僕の背中に回してきたけど、僕は無視することにした。


 ここは、ドラクロア熊の部屋。

 あれから、ちょくちょく寄って、お茶とかお菓子とかご馳走になっている。熊は食べ物で僕を懐柔しようとしているみたいだけど、そう思い通りになんかなってやらない。


 シン教官達二人の殺人事件とフェイマー氏殺害未遂事件で、アカデミーの中はごたごたしていたけれど、僕は関知しなかった。

 連合独立自治が確定しそうな動きもあるらしいけれど、それにも関心がない。


 正直、僕はまだ、いろいろな出来事のショックで立ち直れていなかった。なので、そっとしておいてほしんだ。

 ドラクロア熊の部屋は、そういう意味で、いい逃げ場所になっていた。余計な詮索もないし、暖かくて、落ち着けた。


 熊は、二年生に上がる時に技術部門に移ったらどうだ、と言ってきた。僕もそのほうが向いているような気がしていた。銃を取って最前線でばりばり闘う事ばかりが、士官の仕事じゃあない。

 そう答えたら、熊はすごく嬉しそうな顔になった。見かけによらず、彼は技術士官なんだ。


 言っとくけど、だからといって、許したってわけじゃないからね! 抱きつかないで! それ、セクハラだから!


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偽りの心臓  火星アカデミー事件簿 霜月 幽 @sha-rin

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