第25話 決闘 その一
その夜。
指定された日時ちょうどに、京四郎は現れた。
月のない闇夜だ。空は雲がかっており、星の光も届かない。
彼方から送られる無数の視線を、京四郎は感じた。見晴らしのいい遠方から、それに上空を浮かぶ監視衛星から、魔王や天使たちがこの戦いを見守っているのだろう。
京四郎は、手に持っていた提灯の明かりを消し、放り投げた。
火を失い、視界が暗闇に覆われる。
気配が近づいてきた。
恐ろしく静かな足音で、彼に向かいゆっくりと。
***
光学迷彩を解き、シエルファはゆっくりと決闘に赴いた。
目指す相手はそこにいた。
その、男と向かい合った時。
『強い……』
即座に、相手の力量が伝わってきた。
指輪で魔力を抑えている今、おそらくはぎりぎりの戦いになるだろう。勝とうが負けようが、自分の死が確定するにしてもだ。
月は新月。時は夜。
しかし赤外線以上の波長を可視する天使の瞳に、相手の姿ははっきりと見えていた。
ジーパンとTシャツに、鎖帷子。腕にはチェイングローブ。防具らしきものはそれだけだ。
身長は百八十八センチ。筋骨隆々としたたくましい姿。短い黒髪。
顔が、いかつい。しかし美男子とは言えるだろう。
中年の男だ。
男は刀を抜き、正眼につけた。
風が吹いている。
ぬかるんだ粘土質の地肌に、背の低い草が生えていた。
『ミストレス・マッセ・シエルファ』
思念を通し、彼女は名乗った。
『榊京四郎』
伝わったのだろう。
口を開かず、京四郎も応える。
『承った』
シエルファが小さく頷く。思わず、笑みがこぼれた。
『何がおかしい?』
『貴様が強いからだ。私が知る人間の中では二番目に強い』
剣士としての最期にふさわしい相手と、そう見取ったからこその笑いだった。
悔いはない。これほどの男に殺されるのなら。
上から命令された茶番にも、喜んで付き合おう。
『強そうな奴を探しては喧嘩を売るのが神埼流のやり口か』
男が言った。なるほど確かにそうかもしれぬ。
くだらぬ因縁をつけてすまないという思いはある。けれど確かに、自分は今のこの状況を楽しんでいる。
『私個人の一存だ。流派は関係ない』
そして出来るなら、全力を出した上で殺されることを願っている。
そうすれば、この男も家族を失わずに済むからだ。
『自分の行動が流派の名を貶めている事がわからんのか?』
痛いところを突かれた。心に突き刺さる。尊敬する師匠の顔が頭をよぎり、誤魔化すために彼女は笑った。
『それが遺言でよいのか?』
心を読まれぬために、笑いながら煽った。
その時、不意に。
男の思考が、頭に浮かべた女の姿がこちらに伝わってきた。
白い。
どこもかしこも白い女だった。唯一、瞳だけが赤い。
髪が白い。肌が白い。素肌に浮かぶ青い静脈が、彼女の白さを際立たせている。少女である。歳は十三、四くらいか。紺色のスクール水着を着ていて、勝気な顔をしていた。
意外な顔だ。
『今、頭に浮かべた娘。恋人か?』
やや不可解な思いと共に、シエルファは尋ねた。
榊京四郎の経歴も、交友関係も、上から資料が渡されており何度も見返して記憶している。アルビノの少女に該当するのはただ一人、現在の魔王ベルゼビュートの身体を乗っ取った勇者シュザンナのみのはずだ。
おかしい。
京四郎の最愛の相手は、シュザンナの上位に二人いると聞いていた。一人は義理の娘のシャルロット、もう一人は義理の娘のクリスティーヌだ。
この時。
シエルファは知らぬ。
彼女に命じられた理不尽な命令の全ては、デスマーチの発動を回避するために京四郎を魔王にするための計画であることを。
もし彼が最も愛する相手がシュザンナ――魔王ベルゼビュートであるのならば。
魔王たる力量を備え、魔王を殺した者が次の魔王になる、その条件を満たさぬ。京四郎の強さはまだ、人間の範疇を越えてはいないからだ。しかしデスマーチが発動すれば魔王は死ぬ。
それは魔王という制度そのものが、崩壊する事を意味していた。
だが真相を知らぬシエルファには、当然ながら戦闘をやめるという選択肢はない。デスマーチの対象が誰であるかなど、彼女にとって些細な問題だからだ。
デスマーチの検証実験のため、京四郎の生命力を測るために戦うよう、彼女は命じられている。その指令を全うするのみである。誰が死のうが関わりがない。
しかし、シエルファは笑った。
ベルゼビュートならばデスマーチの事を知っている。当然、死ぬ覚悟もできているだろう。その点において、普通の人間である京四郎の娘達とは違う。
つまりは無関係な、死の覚悟もない者を巻き込まずに済む。
それが嬉しかった。
『違う』
恋人か、との問いかけに、京四郎は否定する。
確かにそれは事実だろう。勇者シュザンナと彼は、恋人というよりも戦友という方がふさわしい間柄のはずだ。それに今は、住む世界が違っている。
『ふ。なるほど確かに、恋人というには少し若いな。妹か、それとも娘か?』
おかしくなってさらに尋ねると、京四郎は動揺したようだった。
『何にせよ私に勝てねば、その娘らもろとも死ぬことになるがな。そうだ。お前が逃げても死ぬ事に代わりはない』
彼に全力を出させるための煽りだった。
『お前は一生、人間の気持ちを分からんのだろうな』
『天使が人心を知ってどうする?』
かつてアインスに言われた言葉を、シエルファはなぞらえて言った。
男が怒気を発した。
『外道が』
もう少し、話をしていたかったが……。
思念が打ち切られ、京四郎が臨戦態勢に入った。
シエルファもまた、構えをとった。
この時の両者の距離、およそ三十五メートル。
「ふっ!」
シエルファが地を蹴る。全力での動きだ。それは人間に出せる速度ではない。しかし亜音速にすら達してはいなかった。普段とは違う感覚に調子が狂う。
ミストレス・アインスから渡された魔力を十分の一に抑える指輪。それを彼女は、三つつけている。普段の千分の一の魔力しか出せぬ状況は、常時発動する筋力増強の魔法の効果を薄れさせていた。
それでもわずか一歩で、三十メートル以上あった間合いが半分までに狭まっていた。
京四郎は、ほとんど動かぬ。
シエルファは、二刀の小太刀を抜いて連撃の構えをとる。
京四郎の腰が、わずかに落ちた。正眼に構えていた刀を己の側面へつける。
『居合いか』
加速ではなく、腰の回転により瞬発力を発揮する。彼女が間合いに入った瞬間に切り落とすつもりなのだろう。
確かに、射程距離は京四郎の方が勝っている。
だが、タイミングを誤れば即死する賭けだ。
京四郎の迎撃が早すぎれば十分な深さまで刃は届かず、シエルファの傷は浅くなり、容易に反撃できる。逆に遅過ぎれば彼女の小太刀が先に届き、京四郎は致命傷を負う。
めまぐるしく戦況を分析しながら――。
シエルファが、二歩目を踏む。
京四郎の第六感が、次の半歩先のタイミングを読む。
シエルファの身体が、京四郎の刃圏に入った。
その、瞬間だった。
京四郎の飛ばした“気”に、シエルファの身体がすくんだ。
『なぜ……』
自分で自分に驚く。死ぬ覚悟は、とうにできていたはずではないのか。
血が舞った。
土壇場で身体がすくみ、回避を選んだ。その隙に深々と、シエルファの腕に刃が入り、筋肉も骨も通り抜けて見事に切断した。
左腕が、くるくると宙を舞う。
指輪をつけていないほうの腕だ。
力はまだ、おさえつけられている。
『そうか……』
斬られた腕の感覚に、焼け付くような痛みに、彼女は思い出した。
今の生ではない。大天使は数万年程度の寿命しかない。はるか昔の話。前世で、おそらくはディアボロとして彼が暴れた二億年以上も昔の頃に、彼女は殺された。今、目の前にいるこの男に。この男の脳が搭載された、悪魔の兵器に。
それは魂に刻まれた記憶だった。
拭い去れぬ敗北であり、恐怖であった。
そして、師である神埼恵那を見た初めての戦いだった。無数の天使の先頭に立ち、彼女はディアボロの侵攻を食い止めていた。その姿を、ディアボロに食われながら彼女は見ていた。
師の、戦う姿は美しかった。
ぎり……と、シエルファは歯を食いしばる。
走馬灯のようによぎった前世の記憶に浸る時間はない。袈裟懸けに斬りつけた打ち太刀が迫ってきている。
『はっ!』
右腕をしならせ、小太刀で受ける。武器破壊を狙い、わざと刃を立てた。
ギィィン、と、強烈な音がした。普通の人間ならば反動で腕の骨が折れていただろう。
ダイヤモンドの三倍の硬度を持つカーバイン刀が刃こぼれし、舞い散った一部が頬に食い込んだ。
インパクトの勢いに逆らわず、シエルファは後方に宙返りする。斬撃を受け止められ、さらに強烈な力で打ち返された京四郎もまた吹っ飛ばされ、両者の距離が開いた。
「ふぅぅ……」
京四郎が、息を吐く。
シエルファは、青い瞳で男を観察する。
人間が活動するには酸素がいる。ほぼ常時、呼吸をせねばならぬ。それを思い出した。宇宙空間で無呼吸活動できる天使とは違う。
シエルファは身体から力を抜き、ぶらりと腕をおろした。小太刀は握ったままだ。
左腕が、まだ再生していない。傷口はふさがり、血は止まっている。しかし再生は遅々としている。
『時間が要るな』
内心で、シエルファは頷いた。
生命力は魔力に比例する。指輪をつけてその魔力を抑えた今、普段どおりの力も発揮できぬし、再生能力も人間に毛が生えた程度といったところだろう。腕が生え、剣が握れるようになるまであと六分ほどか。
徐々に再生していく左腕に、身体の重心のバランスがおかしくなっている。それに現在の指輪で魔力を封じた状態に慣れるのにも時間がかかる。
『だが、勝てる』
しばらくは防戦に徹しよう。致命傷さえ受けねば傷は再生する。身体の感覚にもやがては慣れてくる。
相手は人間である。首を斬れば死ぬ。腕を斬れば再生できぬ。スタミナにも限界がある。三百時間もぶっ通しで戦い続けられる大天使とは粘り強さが違う。
シエルファの剣から、殺気が消えた。
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