アーリオ・オリオ・ペペロンチーノ

林間カルシウム

アーリオ・オリオ・ペペロンチーノ

 私を構成する要素なんてそんなに多くはない。

 28歳。某文系私立大卒。某弱小文房具メーカー事務職。趣味はカラオケとバラエティ番組を見ること。彼氏は2年くらいいない。

 ほとんどネット廃墟と化しているSNSのアカウントにもそれくらいしか情報を載せていないのに、たまに間違ってログインすると、もう何年も連絡を取っていない高校の時のクラスメートから友達申請が来ていたりしてヒヤッとする。今日も1件、下の名前は完全に忘れていた大学時代の後輩から友達申請が来ていた。彼女が結婚していたら、私はきっと承認ボタンなんか押せなかった。


 過去に切れたはずのつながりを、再度結びなおすのは煩わしいと思うのは、多少なりとも年を取ったせいなのか。10代のころは確かに思っていた時期があったはずなのだ、「ズッ友」と。

 とりあえずアカウントは作るものの、ソーシャルメディアに対してはどうも苦手意識がぬぐえない。私の気づかぬところで、私の恥部がさらされるなんて、恐ろしい。……とはいえ、そんなことは今仲良くしている会社の同期や後輩には言えない。彼らはSNSをしっかり活用し、私と撮ったツーショットには律儀に私のタグを入れる。やめてくれなんて言えない。私がアカウントを持っている以上は。


 お茶を持って入った会議室では、おじ様方が使いこなせもしないスマートフォンを片手にぶつぶつ話し合っている。ホワイトボードの内容から見るに、新作のボールペンの売れ行きが芳しくないらしく、SNSでの広告施策を打とうとしているらしい。

 私が置いたお茶にすぐ手を伸ばす癖に、お礼の一つも言いやしない。社長のコネで転職してきて、いきなり役職付きになった広報部部長の禿散らかした頭を思わずはたきたくなる。

 ここの会社では私のほうが先輩だぞ。少しは敬え。

 心の中で毒づきながらも声にはでない。こんなことすらもSNSで積極的に発信している同期のN美を、実はほんの少しだけ尊敬している。


 30分もしないうちに、会議室からぞろぞろとおじ様方が出てくる。どうやら次回会議に持ち越しになったらしい。会議のための会議、どうもお疲れさま。

 ホワイトボードに残されたままになっている雑な企画案を、ストレス発散もかねて乱暴に消してやった。

 散らかすのは頭皮だけにしとけよ。

 やっぱり心の中だけでそう叫ぶ。

 ホワイトボードをすべてきれいにしたころで、机の上に置かれていた黒のホワイトボードマーカーが目についた。先ほどまでの会議で使われていたであろう、マーカー。蓋を取ってホワイトボードの端でくるくるとペン先を滑らすと、少しかすれた曲線が描かれた。それを見て、生唾を飲み込む。

 ああ、そうだ。SNSにも載せていない、私の要素がもう一つあった。

 会議室の扉は開いており、私が立っているところは総務部の人たちには完全に見える位置だ。ドキドキしながらちらちらと扉の向こうを窺う。音も立てずにマーカーをポケットに滑り込ませ、足早に会議室から出る。一瞬、総務部長が顔を上げ、私のほうを見ていた気がしたが、何も言わずに手元の資料に視線を戻した。

 

 そう、私には盗み癖がある。それも、ぎりぎりまだ価値があるもの、でもそれがなくなっても誰も気づかないような代物を盗む癖。

 始まりは大学2年の時に、友人宅で宅飲みをしていた時だ。その日は同じサークルに所属していたメンバー5人で集まり、鍋をつつきながら各々好き勝手に酒を飲んでいた。全員が酔いつぶれた真夜中、私は一人、目を覚ました。アルコールで刺激された膀胱に限界を感じ、周りの人間を起こさないようにそっとトイレにたつと、ユニットバスの洗面台に女もののカミソリが置いてあるのに気づく。用を済まし、洗面台で手を洗っているときに、そういえば家主がちょっと前に彼女を振ったという話を思い出した。

 何の気なしにカミソリを手に取り、指先に刃先を当てると、ぷくっと血が玉のように浮きあがった。切れ味は全然悪くなっていない。多分、まだおろしたてのカミソリ。

 そのあと、なぜそんなことをしたのかはよく覚えていない。私はカミソリを手に持ったまま部屋に戻り、自分の鞄の中にしまった。

 次の日、全員が起きた後も、だれもカミソリがなくなっていることに気付いていなかった。家主さえも、起き抜け早々に歯を磨きだしたのに、その歯ブラシの横に昨日まで並んでいたカミソリの存在については何も言わなかった。

 自宅に帰り、鞄からカミソリを取り出すと、なぜかよくわからないけど笑みがこぼれてきた。ひとしきり眺めて満足すると、私はそれをそのままゴミ箱に投げ入れた。

 まだぎりぎり価値はあるけど、それがなくなっても誰も気に留めない。完全犯罪を達成した気分だった。誰にもばれない誘拐と、誰にもばれない殺し。断末魔も聞こえない、そんな死に様。

 ゴミ収集車が去っていったあと、私は私が殺したはずのカミソリを、なぜかいとおしく想っていた。


 それからは何度か「殺し」のつもりで「盗み」を働いた。講義室に忘れられたボールペン。電車で置き忘れられていた新聞。友人宅で見かけた、少し塗装の剥げたヘアピン。

 家に持ち帰って使うわけではない。捨てるだけ。捨てた後に残る、ちょっとした喪失感がたまらなかった。私に盗まれず、元の持ち主に最後まで使われてから捨てられていたとしたら、きっと最後の瞬間にこうしていとしさを感じられることもなかったのだと思うと、ある種の救済をしているかのような錯覚すらも覚えた。


 会議室のマーカーも、私にとっての大切なものの一つとなる。次のごみの日は水曜日。それを私は楽しみに待っている。


**


 午前の業務が長引き、お昼休みはちょっと遅めになってしまった。ゆっくり休憩を取りたくなった私は、久しぶりに一人で外食をすることにし、会社近くのイタリアンへ足を運んだ。ここは店員がイケメンぞろいで、女性社員の間ではちょっと有名なお店だ。お昼時はいつも混んでいるが、今日は時間が少し遅くなったおかげですぐに店内に入れた。


 席に通されて、メニューを見つつオープンキッチンのほうに目を向ける。今日はイケメン1号と3号はいるが、2号はお休みらしい。おしゃれイタリアンの店員は名札なんかつけていない。彼らは私たちにとってただのイケメンで、ただの数字だ。

 イケメン1号がオーダーを取りに来る。今日の日替わりメニューは春キャベツとツナのクリームソーススパゲティと、なすとモッツァレラチーズのトマトソースのペンネだ。私はランチメニューを裏返し、グランドメニューのペペロンチーノを注文した。この店ではランチタイムであれば、日替わり以外のお食事メニューを頼んでもドリンク1杯がサービスでつく。食後にホットコーヒーをオーダーすると1号はさわやかな笑顔をこちらに向けてきた。いつもホットコーヒーを頼んでいるのを覚えられてしまっただろうか。


 スマートフォンで適当にニュースサイトを読んでいたら、すぐにペペロンチーノが運ばれてきた。塩と、ニンニクと、唐辛子だけで味付けしたシンプルなパスタ。この店では一番安いパスタだが、きっと原価を考えたら一番コスパが悪い。

 くるくると麺をフォークに絡める。口に運ぶとふわっとニンニクの香りがした。私の周りの女性社員たちはこの店のはす向かいにある中華料理屋に入るのを嫌う。部長があの店でデカ盛りのラーメン餃子セットを食べたときは、嫌がらせのようにハンカチを鼻に充てていた。そんな彼女たちもこのイケメンイタリアンでパスタをおしゃれに食べている。こんなにニンニクを使っているのに。

 フォークで巻ききれなかった麺が唇からこぼれ、思わず音を立ててすすってしまった。これはマナー違反。女子にはきっと嫌がられる。でも一人で食べているのだから気にしない。

 

 パスタを食べ終わってひとごこちついたところで、ふと壁側に飾られている雑貨に目がとまった。イタリアの街並みをイメージしたような小さな置物たち。中心に時計塔があって、その周りに人のようなものがいくつか立っている。そのうちの一つをそっと手に取ってみた。硬い金属製の、五センチくらいの置物。自立するように底だけ作ってある、薄い人型。犬を連れた女の子のようなシルエットをしているそれが、ミニチュアの街並みの中から消えても何の違和感もなかった。だってほかにも人型はいくつかあるし。

 窓から外を眺め、交差点を行きかう人々を見る。あの中で誰かひとり、いなくなっても、この街にとっては何の違和感もないのだ。それが私であったとしても。

 手に持った人型をすっと鞄の中に入れる。この女の子を、私の特別にしなければ。

「コーヒーをお持ちしました」

 急に声を掛けられて、振り返る。イケメン1号がホットコーヒーとミルクポットを持って立っていた。1号は少し戸惑った表情を見せながら、手に持っていたものを私の前に置くと、そのまま立ち去って行った。

 まずい。あの距離は完全にみられていた。早く店から出ないと。

 コーヒーを急いで飲み干すと、伝票を手に持ちレジに急ぐ。ちょうどレジには3号が入っており、この間に会計を済ませてしまいたかった。

 それなのに、3号は私の目の前の客の会計まで終わらせると、1号と入れ替わって厨房に入っていった。何て間の悪い。いや、ひょっとしたら1号が変わるといっていたのか。

 バクバクと心臓の音がうるさい。言われるまま金額をわたし、お釣りを受け取る。何か言われたら、しらばっくれるか。それとも謝って元に戻すか。いづれにしても、会社の人間がよくできるするこの店でことを荒げたら、仕事もやめなければならなくなるじゃないか。

「お客様」

 頭が混乱しているところに、1号から声を掛けられて動揺する。終わった。どうしよう。

「……またお越しくださいませ」

 顔を上げると、1号は少しゆがんだ笑顔を見せていた。何か言葉を飲み込んだのだ。その何かを言わせてはいけない。私は何も言わずに踵を返すと、足早に店から出て行った。


 店から出てすぐのコンビニに駆け込むと、ペットボトルの紅茶を買い、店内にあるイートインスペースに急いだ。そこにおいてあるゴミ箱に、先ほど盗んだ人型を誰にも見られないように注意を払いながら捨てた。

 手から金属の冷たい感触が離れたとき、私はどうしようもなく安堵した。盗んだものを捨ててこんなにほっとしたのは初めてだった。

 イートインスペースの椅子に座り、先ほど買った紅茶を口に含む。目の前の交差点では相変わらず多くの人が行き来している。

 この中から私が消えても、何の違和感もない。でも。

 私が消えたことに気付いた人がいたら。気付いていながら、何事もなかったかのように振る舞い続けていたら。

 SNSでつながった過去と今の友人も、私がアカウントを消したところで気付かないし、何もいわない。それならば。

 スマートフォンで次々とアプリを立ち上げ、アカウントの削除申請を出していく。一つのアカウントが消えるたびに、私は本当に少しだけ、喪失感を味わった。

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