八幕

 新校舎の一階へ来た。

 その旧校舎を繋ぐ通路の脇に、掲示板は存在する。河辺美々かべみみふみ宇八米うやまいふちを目撃したと言っていた掲示板だ。例によって、目移めうつりさんのポスターは無く、代わりに部活動便りが貼られていた。

 職員室前を含め、ここで四つ目の掲示板を回ったことになる。最後に残すは、駐輪所と近接するゴミ置き場側の掲示板だ。野外に出された掲示板は、そのゴミ置き場のところと、体育館脇のものだけだった。

 時刻はとっくに昼の一時を過ぎている。さっき通り過ぎた教室の壁掛け時計を廊下から覗き見て、それを把握している。昼食を早食いで済ませて、教室を出たのは昼休みが始まって十分が経ったくらいのときだった。おかげで、胃が少しだけ凭れて、大玉の空気が食道から喉にかけて迫り上がってくるような感覚を何度も味わっていた。

 まだ賑わいを見せる売店や食堂を横目に、僕は校内中の掲示板を確認して回った。ポスター剥がしの犯人の手がかりが何か掴めるのでは、と半場自棄になって行動を起こした。

 突発的な思い立ちの原因は目移さんにある。彼女に取られた態度に不満を抱え、幸にもそれが起爆剤となってより犯人探しへの意欲が沸いたのだ。あんな態度を見せられては、僕にだって引けないプライドが沸き立った。このまま何事もなく日々を過ごすなどできるわけがなかった。

 しかし、ここまで掲示板を見て回ったところで手がかりがそう簡単に見つけられるわけもない。突発的な行動なだけに計画性はまるで無く、手がかりと言ってもどういったものが見つけられるのかという見当もついてはいない。まさに勢いだけの行動力で、昼休みの時間をただ削る一方だった。

 徒労に終わるかもしれない。この時間の浪費に価値があるのだろうか。そう、ふと考えるときはあったが、やめる気にはならなかった。ジッとしている方が、今の僕にとっては無価値な時間だった。

 四つ目の掲示板を舐めまわすようにまじまじと眺め、とくに何の手がかりもないことを確信して切り替え良く最後の目的地へ踵を返す。旧校舎へ戻り、外廊下を回って校舎裏手に設けられた駐輪場付近へ向かった。

 五カ所目の掲示板は、『鍵閉め徹底。カラス注意』と黄や赤文字で書かれた看板の立った小屋型のゴミ置き場の向かい側に立てられている。校舎の壁に接するように設置されているため、コンクリートで整えられた校舎外へ出る必要があった。しかしもちろん、外靴なんて持ってきてはいない。

 少し悩んだが掲示板まで数メートルの距離と、コンクリートという足場を考慮して上履きのまま外へ出た。罪悪感がないわけではなかったが校舎内も特別綺麗というわけではない。新校舎と比べて壁のひび割れや床の傷、シミ、陥没などを思えば土汚れが多少つこうが生徒は愚か教師ですら気にはしないだろう。直接泥を足裏につけるわけでもなかったから、自分の行いを正当化するのは造作もないことだった。

 だが、雨ということが極めて懸念される。汚れはしないがこのまま戻れば廊下が濡れるのは想像がつく。帰りは外廊下を用も無く歩こうと決め、駐輪場の脇を通り過ぎた。雨風が吹きさらしの外廊下ならば、濡れることも何ら気にしなくて済んだ。

 雨は小雨というよりも霧のような小粒だった。ミストを近くでかけられているような感じで、実際に傘を手に持っていても差すか差さないか悩むくらいの雨量だ。もちろん今は持っていなかったから、好都合。でも早く戻らなければ、シャツに染み込むと濡れカ所が目立ってしまう。早々に用事を終わらせようと急いで掲示板の前へ歩み寄り、眺める。

 でもやはり、ここも他の掲示板と同じく、別の紙が綺麗に貼りなおされているだけだ。

 その他に目立った所と言えば、屋内の掲示板とは違ってガラスの板で掲示物が守られていることくらいだ。それは体育館側の掲示板にも見られた光景で、雨風からの妨害を防ぐためのものだ。南京錠などで施錠されているわけではないから、誰でも簡単にガラスの開閉をすることはできる。試しに少し開けてみたら、難なく板はスライドした。

 手がかりはなかったが、これでひとつだけ分かったことがある。五カ所すべての掲示板を回ってポスターを剥がしていく行為はできないこともないが、時間はかかるということだ。

 それこそ掲示板は校舎の隅から隅に設けられている。昼休みや放課後、もしくは早朝でもない限り全部を回ることは無理に近い。その上、犯行時は人目を気にしたりポスターを乱暴であるにしろ剥がす行為、屋外ならガラス板を開ける手間がかかる。十分間の休み時間内ではとうていこなせる作業ではないように考えられる。

 しかも犯行に及ばれた時刻は一限目から四限目の間だ。その限られた時間内に、目撃者も出さずに犯行に及んだとするなら、もはや透明人間の仕業としか考えられなかった。

 馬鹿馬鹿しい結論だが、そう思ってしまうほど調べれば調べるだけ分からないことが増え続けていた。

 シャツの肩部がだいぶ濡れてしまっている。前髪が湿って目を覆うほど垂れている。そろそろ屋内に避難しないと制服の乾きも遅くなる。もやっとした気持ちのまま、時間ぎりぎりまでテストの回答欄を見直すように、掲示板を眺めつつ体を元来た場所とは反対の外廊下のほうへ向けた。

 数歩ほど歩いたところで、不意に聞き覚えのある声が耳に入る。砂を踏み鳴らすような声だ。


「あれコドクじゃん。何してんのかな」

「さあ、たそがれてんじゃない?」


 ヒソヒソと話す声を辿って視線を上げれば、外廊下から通じる外階段のひとつ上の踊り場で、天然てんねんさんと浦出うらでさんの両名がこちらを面白がった様子で見下げていた。

 石造りの外階段は雨を吸収して重たい色に変色している。縁の部分は重なる雨の影響で酸化が進んで白い模様が波のようにうねって浮き出ている。湿気で苔が生えている部分もあった。

 まるで廃城の一角から顔を出すようにして、クラスメイト二人がニヤついた表情で僕を見下ろしている。片手にはそれぞれパックのジュースが握られている。この先の食堂に設置された自販機で買ったようだ。雨にさらされながらつい足を止め、僕も彼女らを見上げたまま、しばらく固まった。

 朝も教室で目と目があった。なんだか意識的に見られている気がして落ち着かない。昨日の今日だから、気まずさは拭い切れない。きっと陰では良いネタにされているのだろう、思わずため息が出た。

 視線を正面に戻して、また足を進める。関わらない方が身のためだ。そう、本能が訴えているようだった。

 しかし、声は僕の後を追うようにして頭上から落ちてきた。この雨量じゃ他人の声をかき消してはくれない。


「なんか今日、昼休みちょいちょい見るよねあいつ。学校中歩き回ってるみたい」

「犯人探ししよるんじゃないの。名探偵コドク!」

「なにそれー、くだらな!」

「うちも自分で言って思ったわ」


 きゃっきゃと、よくもまぁここまで楽しそうに人を馬鹿にできるもんだ。

 勉強中にテレビが点いているときの気持ちと似た心情が浮上する。集中したいのに映像と音が邪魔でそっちに耳を傾けてしまい、テレビの中でタレントが放った発言に芸人が鋭いツッコミをかましたときのような目障りな感じ。テレビ用に配置された観客の笑い声が妙に頭に残り、余計に集中力を欠く。いつもなら一緒になって笑える漫才染みたやり取りも、そのときばかりは迷惑な雑音でしかなくなる。

 それと階段上のふたりの会話はよく似ていた。できるもんならリモコンの赤いボタンで存在ごと消してやりたいと思った。そんな道具、二十二世紀から来たネコ型ロボットが持っていたなぁ、と不意に思い出した。


「あいつ、犯人探しとかする性質たちだっけ? なんかそういうのに関心なさそう」

「それは、もう、言ったら野暮なことやん」

「ええ、なになに。教えてよ」

「だって、ほら、あのカマチョの大親友なんよ。てか、もしかするとそれ以上かも」

「きゃー、そういうこと! お熱いですわー」


 聞こえていないつもりなのだろうか。

 ヒソヒソ話にしてはボリュームだだ漏れな声量でありもしない妄想話に盛り上がっている。バカか、と口の中で毒づいて外廊下の屋根の下にもぐる。そこで一度振り向いても、もう彼女らの姿は細い鉄板を並べたような屋根に阻まれて見えはしなかった。下品な笑い声だけが耳に届くだけ。テレビではなくラジオになった。

 ふたりの記憶を消すかのように、ふん、と鼻息をひとつ漏らして別の道から教室へ戻ることにした。



 教室へ戻る途中で挙動のおかしな目移さんの姿をみつけた。

 そこはゴミ置き場からあまり離れていない、外廊下から屋根を伝って校舎内に入ったすぐの廊下の階段だ。中身の入ったパン袋の端を無造作に摘まんでいる。僕の大好きなこしあんパンで、そういえば最近食べていないことを思い出す。目移さんに付き合っている内に自分の習慣を疎かにしてしまっていたことに今さらながら気づく。

 向こうは売店帰りのようだが、その様子はいつもの彼女とまるで違う。この頃は落ち込みっぱなしではあるが、それとはまた違った様子がうかがえた。

 例えば目の焦点がどこにも定まっていないように見えた。伏し目がちな瞳はこの世界とは違う別のところを眺めているみたいだ。心ここにあらず、といった感じで階段に足をかけるもんだから、いつか転ぶんじゃないかと無駄にヒヤヒヤさせられた。

 それは考え事をする人の顔つきのようにも見て取れる。意識は自分の中のみに集中して、周りの雑音や視界を遮断した人だ。でも時折り我に返って辺りを見渡すことがあって、気味悪い。挙動がおかしく見えるのはそういった不意の行動だった。

 何かから逃げているというよりは、何かを隠そうとしているみたいだと思った。手の中におさめた秘密の宝物を誰にも見られないように、守るようにしっかり抱いて歩くような感じ。その隠し物を、持っていてはいけない物だと知りつつも大切にしてしまっているかのような不安げな表情さえ浮かべていた。

 声はかけられなかった。二階へ消えていく姿を少し遠くから眺めることしかできなかった。話しかければ、目移さんの体が砂みたいな粒子になって崩れてしまうのではないか。そんな想像をしてしまうくらい彼女の姿は脆く見えた。

 よっぽどこしあんパンの方が自分の主張を堂々としているみたいで滑稽だった。

 完全に彼女の背が踊り場を抜けて二階へ消えていこうとするとき、ふと頭部を眺めて気づく。髪がしんなりしている。端的に言えば濡れている。びしょびしょではなく、湿っているくらい。でも湿っているくらいにしても、見て分かるほどには濡れていた。

 何をしていたのだろう。奇妙に思ったが、訊く機会はすでに逃していた。


   ***


 前後の席であるにも関わらず、こうも会話が無い一日に違和感を覚えて仕方がなかった。教室では目移さんと同じように中庭を眺めるだけで、それ以上のふたりには発展しない。同じ方向を向いているのだから視線も交わることもなく、いつのまにか放課後になっていた。

 これは目移さんマジックだな、と思う。目移さんが転入してくる前はこういった状況に何も感じはしなかった。なにも前後の席は彼女だけではない。僕の前にも生徒は座っているのに、その名前も顔もはっきりとは覚えていない。一年もクラスメイトをしているのにそんなことがあり得るのか、なんて訊かれるかもしれないが事実あり得てることなのだから仕方がない。僕がそれほど周りの奴に無関心だったってことだ。

 だから独りになっても、コドクと呼ばれても寂しくはなかった。学校は「ついで」の居場所に過ぎなかった。家で言うトイレやお風呂みたいな、べつに行きたいわけではないけど生活上行かなければどうしようもない場所、という感じ。無心で用を済ませて部屋に帰る。学校はその延長線上の場所だった。

 それが、目移さんの登場で一変した。学校は僕の中でもはや「ついで」の領域から外れている。トイレやお風呂よりも大事になっているかもしれない。なぜなら、教室に目移さんがいるからだ。

 彼女は人に気を遣わせる天才だと思う。少なくとも僕には効果的だった。その実、こうして気にかけてしまっている。彼女に振り回された一か月と数週間は、僕の中では確実な『学校での思い出』となってしまっていた。

 これが目移さんマジックだ。彼女がいることによってその魔法にかけられてしまう。いてもたってもいられなくなる気持ち。無意識にある彼女の能力。

 馬鹿馬鹿しい発想だけど、そう思わないとやってられない自分の中のプライドがあった。

 下駄箱を出た目移さんがいつもとは違う方向へ歩いていく姿を見つけた僕は、迷うことなくその後を追った。今日は僕が晩飯を作る日だが、瞬時に優先順位が変わってしまう。心の中で伯母に謝罪を済ませて足早に生徒玄関を後にする。

 向かった先は駐輪場だった。学年別に地下と高台に設けられた二階建ての駐輪場の脇を過ぎて、目移さんが足を止めたのは掲示板の前である。昼休み、僕が最後に訪れた場所だ。

 しかし体の向きが逆になっている。彼女が見ているのは掲示板ではなく、その向かいにあった鳥小屋のようなゴミ置き場だ。可燃物、不燃物、空き缶、ビン、ペットボトルと細かに分けられた仕切りの内、向かって右側寄りに立って中を覗いているみたいだった。そこは可燃物のスペースである。

 ビニール傘では心もとないがそれで顔を隠しつつ、三年生専用の駐輪場の柱に同化するようにして様子を眺める。すると、目移さんはおもむろにゴミ置き場の扉を開けた。施錠されているはずなのに、難なく開く。珠子たまこ先生がゴミ置き場の施錠のことで生徒たちの扱いが乱雑であることを注意していたのを思い出した。注意書きの看板も、それを正すために最近立てられた極めて新しいものだ。

 腰から上を入れるようにして中のゴミを漁る目移さん。帰りゆく、傘をさしたまま自転車にまたがった生徒たちも、彼女の背中を怪訝に見て過ぎ去っている。なんだか見てはいけないものを見ているような気持になりつつ眺めること二分、ようやくゴミ置き場から顔を戻した目移さんの手には、何かが握られていた。

 戸を閉め、何事もなかったかのように後門の方へと去っていく。角を曲がったことを確認して僕はゴミ置き場の、彼女が漁っていた場所を目視する。

 覗けば、彼女が何を漁っていたのかはひと目でわかった。昼休みには気づかなかったところが僕の落ち度だったとも思える。

 奥に、ビニールが無残に破かれた可燃物用のゴミ袋がいくつもあった。人の手によって破かれたのではなく、明らかに何者かによって突っつかれたような跡がある。看板を見れば誰の仕業かは一目瞭然で、そいつは駐輪場脇に植えられた背の高い木に雨宿りがてら今も鎮座している。

 カラスだ。生徒の誰かが戸の開閉を怠り、カラスに侵入されたのだろう。被害にあったゴミ袋の前には今日捨てられた新しい廃棄物の山ができており、散乱するはみ出たゴミたちはほどよく隠されてしまっている。

 ゴミの収集業者が訪れる曜日は平日毎日だが、こういったまとめられていないゴミは学校側の不備だとして持って行かないことは度々ある。昨日の夜もその条件に満たなかったモノたちが、こうして残されてしまったのだろう。掃除はまだ手も付けられていないようだった。

 ふと、あるものが目に留まる。散乱したゴミの中、紙の破片が何枚も落ちている。目を凝らせば、何の紙だかすぐに分かって――


「あいつっ」


 ――思考より早く、目移さんを追いかけて僕は走った。

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