九章

「おい、お前!」 


 教師用に設けられた駐車場スペースで目移めうつりさんの名を呼び、彼女を制止させた。右肩にはバッグ、その先の手には傘、逆の左手は拳を握ったまま、素直に止まる。

 振り返りはしない。小さな背中を僕に向けたまま、パラリと降り続ける雨の風景のひとつに紛れようとしている。でも気配を消しているわけではなく、あくまで自分の存在をそこに置いた状態で、自分に構うすべてのモノを拒絶しようとしているみたい。

 でも彼女は、やはり自らを守ることを知らない。無視ということができず、どうしても誰かの呼び声には最低限、反応してしまう。自分を守ることよりも他人に気を遣うことが、彼女にとっては楽な生き方だからだ。他人を傷つけるより自分が傷ついた方が辛くないからだ。

 今は、その性格を利用させてもらった。大股で二歩分ほど距離をあけ、僕は目移さんの背中を睨む。


「その手に握ってるもん、見せろ」


 右手を指し伸ばして数秒待つ。返事はない。

 ささやかな雨音と、帰宅する生徒の足音と、どこからともなく響く誰かのはしゃぐ大声のみが耳に流れて、やるせなくなる。

 むしむしとした熱気がそこらの空気から伝って額を蒸らす。立ち止まっているだけで梅雨の独特な暑さを体に感じる。伸びた前髪が今では邪魔なものでしかなくなり、差し伸べていた手の甲で乱暴に汗をぬぐった。

 

「いやだ」


 やっと返って来た答えは、求めていないもので、あるていど予想できた言葉だった。


「何かは分かってるんだよ。早く見せろ」

「いや」


 今度の返事は早い。これは予想外。けれど言葉は、まだ予想内だ。


「言うぞ、その中身」

「だめ」

「じゃあ、見せろよ」

「いや」

「そこに止まっとけ」


 足を進める。返答はないが目移さんは動こうとはしない。

 三歩で彼女の背後に迫り、幼げな左手の拳を右手で取った。リレーの、バトンを渡すときのようなぎこちない恰好になる。


「広げてくれ」

「……平和ひらわくん、ひどいよ」


 鼻の詰まったような震えた声。

 握ったスポンジから水が滲み出てくるような頼りない言葉が嫌に耳に残るようだ。


「ひどいもんか、馬鹿野郎」

 

 不意に毒つきたくなったから、そう言ってやる。

 彼女の手首を痛めない程度に左手をこっちに寄せて、自分でも思うほど起用に片手で指を開かせる。小さく細いのに柔らかな手の感触をしっかり感じながら、開花する蕾のように徐々に広がっていく手の中に数枚の紙切れの姿をこの視界にとらえた。

 一枚、隙間からつまんで抜き取る。乱雑に破かれた数センチほどの紙切れは、誰が見たって皺くちゃな紙屑だ。でもそこに書かれている字を眺めれば、少なくとも僕や目移さんには、これがゴミだとはとうてい見えない。


「いつ知ったんだよ、これ」


 自ら見せろと言ったにも関わらず、手の内にあるそれを眺めているとやるせない気持ちが爆発した。見ていることさえ辛く、受け入れるには酷な現実だ。でも頭の中で繋がっていく辻褄がどうしてもこれを現実であると知らしめてくる。目を逸らすことを許してはくれない。

 答えない目移さんの肩を、紙を摘まんだまま掴んで、こちらに引き寄せる。


「なあ、おい……っ」


 無理矢理にも振り向かせた彼女の顔を見て、思わず言葉が詰まる。そういう表情を浮かべていることは大いに予想できたはずなのに、実際に目の前にすると、また、困惑してしまう。僕は、僕が思っているよりも遥かに現実を受け入れることが苦手みたいだ。

 目移さんは、筋肉が衰えたかのように眉を傾け、腫れたみたいに伏し目を浮かべ、硬直したように頬を引き締めて、寒さに耐えられないかのように震えた唇を白い歯で噛んでいた。今にも泣きだしそうな、負の感情の全てがそこに詰まっているような表情で、僕を見上げ、あまつさえ睨んだ。

 何も言わないけれど、言いたいことは痛いほど伝わってくる。肩を跳ねさせるように僕の手を振り払って、目移さんはまた後頭部を見せてしまう。傘で自分の頭を隠して、できるだけ僕から距離を置こうと必死になっているみたいだ。

 雨音に馴染ませるようにして、彼女はか細い声を落とす。


「なんとなくだけど、分かってたの。でもそうであってほしくなかったから、余計なことは何もしなかった。見つけたのも偶然なの。探していたわけじゃなくて、たまたま、ゴミ置き場を覗いたら、見つけちゃった」

「お前、まさか昼休みに」


 思い出す、昼休みのこと。掲示板を回り終えて教室に戻る途中、目移さんの姿をみつけた。挙動がおかしな彼女で、一番に目についたのは濡れた髪だった。

 また辻褄が合わさった。あのときの目移さんは、きっと僕と同じように雨の中外に出て、掲示板の向かいのゴミ置き場でカラスに荒らされたゴミの姿を見つけてしまったのだろう。だから、あんなにも不自然な様子をうかがわせていたのだ。知った事実を受け入れられなくて。それを、誰にも言えなくて。

 馬鹿野郎。次は心の中で毒つく。

 指に摘まんだそれにまた視線を落とし、しばらく、見詰めたまま固まってしまう。

『自由』。そう書いてある、青色に塗られた画用紙の切れ端。字も、色も、記憶に根強く残ったものばかりだ。こんな小さな紙切れでも、一目見ただけで、これが目移さんがつくったポスターだとすぐに分かった。

 さきほどのゴミ置き場で、散乱するゴミ袋の中、雨が入り込んで湿った床に散らばっていた紙屑たち。その中に見えた、青い背景に高々と舞う人の絵と、それには似つかわしくない暴言の殴り書きのような落書き。新聞部の女子と、犯行に及んだ本人から聞いた通りの光景がそこにはあった。

 目移さんは、どのタイミングでその暴言の落書きに気づいたのだろう。ふと考え、きっと昼休みのときだったのだろうと予想する。破かれ捨てられていただけではなかったのだと知ったとき、彼女はどんな気持ちになったのか。想像するだけで、胃酸が食道を這い上がってくるような、胸やけのような症状を覚える。

 失態だ。僕の行動が遅すぎた。彼女よりも先にこれを見つけられれば、まだ他の方法で目移さんに真相を打ち明けられる機会をつくれたはずだ。こんな形ですべてを知らなくて済んだのだ。

 ひとつひとつ真相を知った僕でさえも、この仕打ちに参ってしまっている。一気にすべてを見せつけられた目移さんの心は、深く深く傷ついたに違いない。これならば、犯人探しなどしなければよかった。今は、そういう思いばかりが込み上がる。自分の行動に後悔ばかりを募らせた。

 

「どうするつもりだ?」


 震えそうになる声を必死に抑えて、訊いてみる。

 自分の中ではすでに答えは出ていたが、彼女自身の意思を確かめたかった。

 沈黙がまたしばらく続いて、目移さんは顔を見せないまま、強張らせた頬をぎこちなく動かす。


「どうもしないよ」

「本当にいいのか、それで」

「うん。もういいの」

「そうか……僕は嫌だけどな」


 強い口調で言うと、目移さんが先ほどよりも瞼を上げた瞳をこちらに向ける。まだ萎れた雑草のように弱った表情だったが、少しばかり驚いているようにも見えた。

 丸くなった目は、僕と視線を交わらせた途端、また細く伏せられてしまった。


「きみが嫌って言っても、どうしようもないじゃん」


 傘の陰に顔の半分が隠れる。皮肉事を言っているのは自分で分かっているつもりなのだろう。僕だってそれについて何も感じないわけではない。

 けれど、不思議と怒りは沸いて来ない。参っている彼女の顔を見たからなのか、ポスターの件に怒気を全て吸い取られているからなのかは分からないけれど。

 ふてくされる目移さんの横顔を、逸らさず見詰め続ける。

 

「でも嫌なもんは嫌だ。このまま終わらせるのは不本意だ」

「私の問題だよ。私が良いなら、それで良いじゃない」

「お前ひとりの問題だと思うな!」


 叫んだ後の、不思議な空白。一瞬、全ての音が消える。数秒して、また耳に雨音と生徒の声が蘇る。

 無意識な言動だ。目移さんがさっきよりも驚いた様子でこっちを見上げている。ビニール傘で顔を隠すことさえ忘れているみたいだった。マヌケな面が浮かんでいた。


「お前のそういうところ、僕は嫌いだ。何もかも自分一人で抱え込んで、誰にも相談しないで、自己犠牲で成り立たせようとするお前のその性格が大っ嫌いだ。自分の問題だと? だったらどうして僕を巻き込んだんだよ。部活立ち上げに協力させるだけさせておいて、痛みはぜんぶお前のもんか! なんて都合良い性格してんだよ。だったら最初から僕に協力させるなよ。ぜんぶお前ひとりでやれよ。関わってしまったもんは仕方ねえだろ。もう無関係じゃねえだろ。だったら自分だけの問題で片付けんな。僕の気持ちをないがしろにすんな!」


 一度漏れた空気は、止まることをしらずに、何かに急かされるように早口に漏れる。そうすると空気の抜ける風船のように、僕の心が萎んでいく。

 言えば言うほど空っぽになっていく心。それでも止められない感情の波。駐車場のど真ん中で自分は何を熱くなっているんだろう。冷静な思考がそうつぶやくも、他の感情が上回ってどうでもよくなる。

 目移さんの目の色が変わる。怒気に満ちた目で、僕を見上げ、睨んでくる。


「私が私の意思で行動して何が悪いの! 他人を傷つけないようにすることがそんなにいけない? 協力してくれたことは感謝してるよ、嬉しかったよ、でも、だからこそ、きみを巻き込みたくはないんじゃない! 大事な人だから、どうでも良くない人だから、守ろうとしてるんじゃない!」


 目移さんも僕に感化されて声を上げる。耐えていたものが一気に放出していくみたいに。本来彼女が絶対言わないような本音が、火山のように噴火した。

 相乗効果で、また僕も熱が上がる。売り言葉に買い言葉で、言い返す。気づけば互いに向き合い、面を揃えて眉間にしわを寄せあっていた。


「それは、自分の理想をただ守ってるだけじゃねえか! 自分が守りたいものを守るために、そうしてるだけじゃねえか! 俺にだって守らせろよ、一方的にお前の正義押し付けてんじゃねえよ!」

「押し付けてるのはきみも同じじゃない! 私の気持ちをぜんぶ否定しないで!」

「お前を否定してるのは僕じゃない、お前自身だよ!」


 言葉が止まる。目移さんが電源を切られたかのように口を閉ざす。見上げる瞳には困惑が見て取れる。目玉が右に左に揺れている。

 この隙を逃すまいと、言ってやる。昨日、歩道橋の下で抱いた感情を、そのまま伝えてやろうと、萎んだ心をまた膨らませるように空気をいっぱい吸い込んだ。


「傷ついたことも分かる。やるせない気持ちも分かる。辛いだろうし、憎いだろうし、悲しいだろうし。とにかくいろんな感情渦巻いて、どうしようもなくなってる。その気持ち、すげえ伝わるよ。逃げたきゃ逃げてもいい。挫折は何も悪いことじゃないだろ。逃げ道つくって構わねえよ。でもよ、そうする前に、やれるだけのことはやらなきゃいけないだろう。後悔無く、精いっぱいもがくべきだろ。何よりよ」


 おもむろに目移りさんの頬に手を伸ばし、指で軽くつねった。口許がブサイクに歪む。彼女はされるがまま、すがるように僕を見上げる。


「お前、諦めてないだろ」


 目移さんの瞳の色が、変わった気がする。

 つねられながらも、顎を上げ、さらに深く僕の顔を覗き込む。


「割り切ってる顔じゃねえよ、それは。逆境にもがいてるやつの顔だ。自分の気持ち偽って、身を引こうなんて考え、甘いんだ。他人を傷つけたくないだけでそんなことしてたら、きっとどこかで知らない内に、誰かを傷つけることになる。だから僕は、はいそうですか、って、言ってやらない。お前がそんなことばっか言うんなら、否定し続けてやるからな」


 目移さんの表情が、崩れた。

 重たい枷が外れたように、顔の筋肉が一気に弛緩する。

 つねっていた頬も柔らかくなったかもしれない。

 表情は怒気から無に、無から悲愴に変わっていった。

 でも泣きはしない。目下で膨れた涙袋の出口を思いっきり閉じるように眉間にしわを寄せ、瞼を痙攣させながら感情に負けないように堪えている。泣いて縋る女にはなりたくない。私はいつだって毅然にふるまえる女でいたい。そんな思想を見せつけられているみたいだ。

 目移さんは、しばらく油が注されていなかったからくり人形のように口をアグアグと開閉して、小さな声を懸命に絞り出す。


「もう自分がどうすればいいか、分からないよ……」


 弱気な発言。

 僕は考える前に口を開く。

 返す言葉は最初から決まっているのだ。


「絶対に諦めるな。そんなに辛いままで、相手に良いようにされたままで、すんなり身を引くな。相手が向かってくるなら、こっちはその倍の力で跳ね返してやれ。勝ち負けじゃないなんてクソ喰らえだからな。ここで勝てなきゃ、僕らのような弱者はいつまでたっても立ち上がれないんだぞ」


 そうだ。僕らのような弱者の決定的にダメなところは、そうやって身を引いて陰気になるところなのだ。自分はあいつらと同じ低レベルには立たない。面倒ごとに巻き込まれるくらいなら自分が折れて終わらせる。反発はいけないことだから穏便に済ませる。いつからそうなってしまったのか、弱者の対応は決まってそんなものばかりだ。

 でもそれは悪循環の始まりだ。強者が調子に乗って、さらに弱者を追い込むだけだ。それに対しても弱者が逆らわないなら、強者はさらに牙を剥く。いずれ終わる、なんてのは弱者の願望に過ぎないただの甘事なのだ。ライオンがシカを食うことを止めないのと同じことだ。

 僕自身、それをこの一年間で経験している。コドクと罵られ、周りからは嫌厭される。僕は何もしていないのに、その何もしなかったことに対して嫌悪を募らせてしまう。周りと戯れることを拒否した僕への天罰のように、小さな嫌がらせは絶えることなく続いている。

 何もしなかったから、そういう立場が形成され続けている。

 今までの僕ならば、それでいいと思えたかもしれない。自分のことなのだから、自分でそう決めて、べつに気にはしなかった。

 けれど目移さんを見て、僕と同じような立場の人間を客観的に見て、気づかされたことは大きい。もちろん僕と彼女があまりにも近しい関係になってしまったからなのもあるのだろうけど、それを除いたって、強者に駆られる弱者の、目移さんの姿は痛ましく、惨めで、目に余る姿だった。

 その自己犠牲の考えは、きっと誰も救えないことを、僕は知っていた。


「やり方が分からないよ! 人に反発するってことが、私には分からないの!」


 怒鳴るように、目移さんが首を振る。彼女はうまい具合に揉め事を避けてきた人間だ。反発するということを知らなくて当然だ。

 だったら、と思う。

 だったら、そういうことも、僕に頼って来いと、空気を捕まえようとするような不思議な感情が突如浮上した。


「だから、諦めなければいいんだ。敵が諦めさせることが目的なら、諦めないで、部活でもクラブでも立ち上げてみろ。それが、勝つ、ってことだ。反発することなんだ。だからお前は、いや、僕らは、何としてもこの活動を成功させないといけないんだ」


 目移さんに見せつけるように掲げた、紙の切れ端。

『自由』の文字が、彼女の目前に固定され、そうすると目移さんの視線もその一点に固まる。

 続けなければいけない。諦めてはいけない。努力してきた彼女の一つ目の成果。一回目の活動の形。

 これを否定するのは、きっとこれに関わってきた全ての人を否定することになるだろう。そこには当然、僕も入っているわけで。

 そうしようとしている目移さんを許せない。目移さんにそうさせようとしている連中を許せない。何よりも、この状況を打開できなかったときの自分自身はもっと許せない。

 それから――


「お前はもっと、自分の役目に、プライドを持てよ」


 ――僕のプライドが、許さないのだ。

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プライドくんと、かまってちゃん 一 雅 @itiiti

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