六幕

 僕が九つ頃の冬にいなくなった父は、八方美人であると同時、よく人の顔色を窺って生きていた。

 例えばそれは、上司の愚痴を聞かされるがために付き合わされる呑みの席。家族との約束があっても会社での立場を心配して、優先するのはいつだって上司の都合だった。母との離婚も、思えばそれも原因のひとつだったのだろうと考えられた。

 例えばそれは、僕が小学校のクラスメイトと喧嘩をしたとき。事を穏やかに済ませるために、父は僕から理由も聞かずにわざわざそのクラスメイトの自宅へ訪ね、自分共々僕に頭を下げさせた。原因は相手にあったのに、僕はそれを言い出せずに不本意な思いを引きずった。

 例えばそれは、正当ではない借金を抱え、取り立てられたとき。虚言を並べてそな場を凌いでも、金が増えるわけでもないから利子の募った借金が生まれていくばかりだった。『今』を守り続けることに精いっぱいに成りすぎて、『未来』を見る力を、父は失くしてしまっていた。

 どんな時だって引き下がるのは常に父の方だった。自分が身を引いてことを穏やかに収めることが父なりの生き方だったが、そうすると決まって損をするのはこっちのほうだった。悪いときには給金を下げられたこともあったし、謂れのない文句を言われ、そのストレスで余計に博打や酒に浸ったこともあった。正しいことをせず、その場の空気に惑わされたあげくがそんな末路では、父の人格に信頼など覚えるはずもない。

 だから、僕はすぐに身を引こうとする目移めうつり佳舞かまえの性格が嫌いである。人格が理解できないのである。

 それは自分の理想をただ守っているだけで、状況から逃げているだけだ。理想なんてただの個人的見解だ。そこに絶対の正義も正しさもないのだ。あるのは、自分の意思だけだ。

 諦めるのなら、それでいいだろう。割り切れるのなら、自分の意思を守ってさっさと諦めてしまえばいい。逃げることは決して悪いことではないだろうから。逃げ道がなければ、誰も先に進みたいとは思わないだろうから。


 けれども。


 お前は、お前のその顔には、後悔ばかりが浮かんでいるじゃないか。

 割り切っても、諦めてもいないじゃないか。

 自分の気持ち偽って身を引こうなんて甘い考え、僕は絶対に認めたりはしない。

 勝手に僕を巻き込んでおいて、勝手に辞めるなんて。そんな気持ちで、はいそうですかって、言ってやるもんか。

 きついだろう、辛いだろう。自分の目標が知らない何者かに妨げられる気持ちってのは、きっと苦しいとか悲しいとか、そんな言葉で言い表せられるもんじゃない。もっともっと重くて、複雑で、どうしようもないもんなんだ。

 でも、それでも、僕は目移さんの言葉を、最後まで否定した。


   ***


 歩道橋の下でそんな気持ちが渦巻いたからか分からないが、翌日の朝、ベッドの上で目を覚ますと胃の上辺りが疼くような感覚を覚えた。それは顔を洗っても朝食を食べても消えることはなく、本日も雨模様の下、登校中の道端で、目移さんの件を無意識に気にかけてしまっているのだと気づいた。

 そう自覚した途端、疼きは一層に増してとりとめのない感情が浮上した。早足に学校にたどり着いた僕が教室にも行かず一目散に向かった場所は、職員室側にある掲示板だった。

 昨日の今日で、掲示板はまた綺麗に整頓されている。目移さんのポスターが張られていた形跡は無くなり、その記憶さえも無かったことにされたかのように、新しく部活等に関する便りが貼りかえられていた。

 他の場所の掲示板も見て回ってみようかとも考えたが、きっとどこも同じようになっているに違いない。足がその場から動くことはなかった。

 朝一の職員室にはすでにほとんどの教師の姿があった。入り口の小窓から中を覗けば、各々ホームルームや授業の準備や、何らかの小テストの採点を行っている。それぞれがいつも通りの仕事をこなし、その中にはもちろん、珠子たまこ先生の姿もあった。今日は白シャツにネイビー色の薄手のジャケットを羽織っていて、デスクの上でプリントを整理していた。

 その様子に僕は不愉快さを覚えた。私らが何とかする、とポスターの件を請け負ったはずなのに、犯人を捜すどころが、その件に関して無関心のようにも見えたからだ。

 彼女からすれば、犯人なんてどうでもいいのだろう。ポスターが剥がされたことに不快感を覚えたのは同じだとしても、そこから先の感情はまるで僕とは違っているようだ。

 残念だが、分からないから仕方がない。生徒を疑ってまで調べたくない。珠子先生からは、そんな思いが伝わって、不快になる。

 やっぱり、自分らで犯人を見つけるしかないみたいだ。

 今朝、下校途中で自覚した静かな熱意が、また蘇る。

 他人の手で開ける道など何一つない。何かしらの本で読んだことがある一文を思い出して、ひとり頷き意思を固めた。


「おや、おやおやおや? きみは、平和ひらわ人理ひとりくんじゃないですかな?」 


 突然背中にかかった声に驚き、咄嗟に振り向く。

 見ず知らずの生徒がひとり立って、物珍し気にこちらを眺めてきていた。きわめて近くにいるにも関わらず、その女子生徒は遠くを眺めるように額に指をそろえた手のひらを当て、まじまじと瞳を見開く。

 

「あ、やっぱりそうでした! その素朴な後ろ姿ですぐ分かりましたよー」


 線にした目を八の字に垂れさせ口許を緩めた彼女は、そのまま溶けた飴細工のように表情を柔らげる。特定の人物を当てたことをひとり満足げに喜んでいる様だ。

 顎まで包み込むほどの内巻きのボブヘアーは顔の輪郭に沿いすぎて丸くなり、どこか昭和っぽい雰囲気を漂わせる。目にかかった太い赤縁眼鏡がその髪型と異様にマッチして、容姿は一周してどこかハイカラっぽい。薄い顔つきだからか、眼鏡の主張がやたらと強く感じる。

 白シャツに垂れたネクタイの色は青色で、それで同学年だということは一目で分かる。すでに衣替えで着用義務がなくなったブレザーは校則通りの着こなしではなく、なぜだか両袖を肩にかけ、胸のあたりで玉結びをしていた。テレビ界のイメージとしてあるような、ディレクター結びのような着方だ。左方にはストラップがかかり、その先に使い古されたデジタルカメラが吊るされている。

 ひと目見ただけでも印象に残る個性的な格好をしたその同級生だが、やはり僕はこの人との面識はない。にもかかわらず親し気に話してくるものだから、すっかり混乱してしまった。

 どこか目移さんを連想させるテンションのように思ったが、それとはまた一味違うあざとさが彼女にはあった。


「あ、はいはいはい、その顔分かりますよ! どうしてオレのこと知ってるの? って顔! はい、よくぞ訊いてくれました! 答えてあげるが世の情けですよ!」


 訊いてもいないし僕の一人称は『僕』だし最後なんてどこか聞き覚えのあるセリフだし。

 いったいどこから突っ込むべきか。悩むうちに彼女の話は先に進む。止めることなんて、できっこない。


「あたい、情報科二年の河辺美々かべみみふみ。五月で晴れて十七歳! 新聞部取材班のピッチピチな女子高生!」


 眼鏡を押し上げ、尻をクイ、と上げて見せられる。地味な顔の割にはやることは大胆だが、その内容はやはりどこか古臭い。四五十の熟年層がやるようなポージングで、ケツを見せつけるようにフリフリと振っている。

 目が点になるってこういうことなんだなぁ。例えようのない虚しさに苛まれ、言葉を失って立ち呆けた。


「……脱ぐ?」

「けっこう」


 手を見せて紳士的に断る。

 残念、となぜだか不本意気に態勢を戻した河辺美々さんとやらは、乱れた髪を両手で梳いて仕切り直す。意外にもその髪型にこだわりがあるようだ。


「まあ、冗談はこれくらいにしておきます」


 置いといて、というようなジェスチャーを加える。いちいち芸が細かい。


「えーっと、どうしてあたいがこんなに可愛いかってお話しでしたっけ?」

「一ミクロンも触れてねえ」

「うそうそ。まあ、そんなことより」


 置いといて。


「あたいみたいなぼっきゅっぼんになる方法はですね!」

「殴るぞ貧乳」


 静かに、置いといて。


「冗談が通じない人ですねー。ま、分かってますけどね!」


 腕組みして偉そうに、どこか勝ち誇ったように言う河辺美々さん。

 話も進まないことにいら立ちを顔に出すと、彼女は何事もなかったかのように素早く本題を切り出した。危機感知能力は衰えていないようである。


「あなた昨日、ここにポスター貼った人ですよね? 自由って大きく書かれた、新生クラブの!」


 ここ、と指さすのはすぐ側の掲示板だ。首だけそっちを振り向いて、曖昧な返事を返す。


「貼った人、というか、僕はただ協力しただけ。クラブかはまだ微妙な活動だけど、その言い出しっぺは他にいるよ」

目移めうつり佳舞かまえさんですね?」

「知ってんの?」

「調べました」 

「調べた、って……どうやって」

「新聞部には裏のルートがあるんですよ。平和人理さんも一緒に調べさせていただきました!」


 得意げにウインクする河辺美々さんだったが、気味が悪く感じてしまう。

 思い返せば、僕らがポスターを貼り出したときもいち早くその記事を学校新聞のひと枠に載せてくれたのは紛れもない新聞部だった。彼女がそれに関与していないわけはなく、情報をキャッチするために『裏ルート』とやらを駆使して僕らを調べ上げたのだろう。だから僕の名前も当然のように知っている。

 情報に特化しているイメージはないわけではなかったが、ここまでの収集能力があるとは思ってもいなかった。それほどのパイプが存在しているということだ。これはただ感心できる話ではない。

 彼女が僕らのことをどれだけ知っているのか、その一方的で未知な立場に恐怖を覚えずにはいられない。

 あまり深入りしない方がよさそうだ。

 

「僕になんか用?」

 

 手早く用件を片付けて、早々に突き放そうと試みる。

 訊くと、彼女はキョトンとした表情をつくった。テンションの波が一気に引いたみたいに。


「あのー、新聞部が訪ねて来たら、そりゃ目的はひとつじゃないですか、普通」


 新聞部というフレーズで、なんとなく要件を察する。

 

「もしかして、取材?」

「そうそれ! イッツビンゴー!」


 波が上がる。ハイテンションで両手の親指と人差し指を突き立て、こっちに向ける。

 うん、もうちょっと静かにしてもらいたい。


「僕に訊くことなんてある?」

「ありますよー! あ、さっそく本題入っちゃいます? もう、若い子はなんでもせっかちさんなんだから! 分かってますけどね!」


 いちいち癇に障るやつだな。

 ひとりで会話ができそうなテンションは僕にはだいぶ肩が凝る。

 目移さんで慣れたと思っていたが、上には上がいるというのは嘘ではないみたいだ。この河辺美々文なる女子は、掴みどころがまるでない生徒である。ある意味、五十里さんとは相性悪そうだなぁ、となんとなしに考えた。


「ではでは、えー、まずですけれども」


 取材モードに切り替えたらしい。

 どこから取り出したのか、年季の入ったメモ帳と多色ボールペンを両手にスタンバイして顔を引き締めた。空いた指で赤縁の眼鏡を一度押し上げる。


「ずばり、ポスター剥がしの犯人、誰だと思いますか!」

「は、え? いや、それは」


 単刀直入すぎて顎を引いてしまう。

 ペンをマイクのように見立ててこちらに向けられたもんだから、その先と彼女の意欲にまみれた瞳を交互に見て、困惑した。

 なんとか落ち着き、それでも質問への回答は、思いつくはずもない。


「何も、分からない状態なんだ。手がかりも何もないから、誰とか、そういうところまではまだ辿り着けてない」

「ははあん。迷宮入りってやつですねぇ。心当たりもないんですか?」


 彼女は楽しむようにメモを残す。正直温度差を感じはしたが、ほとんど彼女の勢いに乗せられるまま口を動かした。


「最初はあった。けど、すぐに振り出しに戻されたよ」

「そのふたりって、誰のことなんでしょう?」

「さすがにそれは、言えないって」


 特定の名を出すことはさすがに拒まれる。庇う必要のないふたりだろうが、それで後々面倒ごとになるのは目に見えている。この新聞部がヘタなことを書けば、首が締まるのは僕の方なのだ。


「気になりますねぇ。どうしても言えません?」

「むりむり。諦めてくれ」


 食い下がるのは取材担当者の真骨頂だ。どんな情報も拾わなければ面白いネタはつかめない。それがどれだけ踏み入った内容だろうと、遠慮していてはマンネリした新聞しか作れない。取材への情熱が人並みにとどまっていないことが、河辺美々さんからはムンムンと伝わってくる。

 だからと言って僕も素直に答える気は無い。都合はお互い様なのだ。そう簡単に口を割っては、単なる餌になるだけだ。


「だったら、交換条件でいきましょう!」

「交換条件?」


 突然の提案に、耳を傾ける。


「はい。心当たりの詳細を教えてくれたら、こちらもそれなりの情報をご提供いたしますよ! 物々交換ですよ! お互い損得はフィフティーフィフティーです!」

「なるほど、ね」


 少しだけ悩んだ。

 向こうがどれほどの情報を持っているかは分からないからだ。

 こちらが欲している情報がなければこの条件は成立しないが、内容を知るにはこちらが詳細を話す必要がある。一見公平な取引に見えるが、向こうの素性を知らない分、先に言うこちらが不利になるのは考えれば分かることだった。

 しかし、もし僕の知りたい情報を握っていたとするなら、差し出す情報はこちらが安くなる場合だってある。あのふたりの名を出すこと自体、僕には痛くも痒くもないのだから。

 ひとつ、カマをかけてみるとしよう。

 

「分かった。だったら、そっちが先に情報を提供してくれよ。僕が知りたいのは、ポスターを剥がした犯人の手がかりだ。僕のこと調べたんなら、あるていど周りの人間関係も知っているんだろ。なんとなくでも構わないけど、昨日の一限目が終わってから昼休みにかけて、掲示板辺りで見かけた僕の知り合いはいなかったか?」

「そうきましたか。そうですねー……うん、いいでしょう。ひとつ、心当たりはあるんです、あたいも」


 思うよりすんなりと条件を呑んでくれた河辺美々さんは、取引が成立したことに面食らっていた僕の耳元に口を近づけ、そっと息を吹きかけるように、言葉を落とした。

 思ってもみなかった収穫に、まだ心の準備もできておらず、緊張する。

 けれど、その名を聞いたとたん、まるで胃液がフツフツと煮えたぎるような怒りがこみ上げてきた。

 とっさに職員室のドア窓から見える壁掛け時計に目をやると、ホームルームまで少し時間がある。今なら、まだやっているだろうか。

 焦る鼓動を押し殺すも、つま先は自然と廊下の先に向きつつあった。

 河辺美々さんに情報提供をする時間が、ひどく惜しいと感じていた。

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