三幕

 体育館の隣に建つ別館では主に卓球やフェンシング、ボクシング部などの練習が行われている。五階建ての各階に専用用具が常に設置され、球技やグラウンド、体育館ほどの広さを必要としない運動部はたいていこの建物に練習場と部室の両方を兼ね備えられている。

 その最上階である五階に、演劇部の部室はあった。運動部が集まる中、この場所を確保した文化部は演劇部くらいのものである。それほどこの高校では、劇部の活躍は期待されている。過去何度かは全国大会への切符を手にしたことがあるのだというから、並大抵の部ではないことは明らかだ。『文化部のインターハイ』。そう称された大会での演劇部の活躍を描いた映画を最近観ていたから、実力の有無は実感できた。他部と比べ、待遇は天と地の差もあるかもしれない。

 エレベーターはないから階段を駆け上がった僕は、『演劇部』との張り紙が張られた鉄扉のガラス窓超しから中を覗く。部室には様々な道具が棚や部屋の隅に寄せられ、まるで物置であるかのようだった。劇で使った道具は大切に保管しているらしい。

 昼休みだというのに部員らは練習の最中のようで、部屋の中央では演者が身振り手振りとアクションをつけながら口を動かし、それを周りの部員が眺め、台本と見比べて何らかの確認を行っているようである。演者の手には台本はない。もはや完璧に暗記されているようだ。

 大会を来月に控えている演劇部は、六月に入ってからほぼ毎日、朝昼夕と練習に没頭している。それは我がクラスの五十里いかりさんも例外ではなく、このところは毎日演劇部に入りびたりだった。

 僕はドアの前で様子をうかがう。勢いで来たはいいものの、このまま入室すれば練習の邪魔になる。一カ月前に何度か出入りはしていたから顔見知りではあるのだが、個人的な用事で中断させるのはやはり忍びなかった。

 と、そのときドアの前で練習を眺めていた部員(体操着の色から一年生だと分かる)がガラスから顔を出す僕に気づいた。最初少しばかり驚いていたようだが、その顔を確認すると何度かこちらを振り向きながら、腰を低くして台本を持ったひとりの背中へ歩み寄った。

 丸眼鏡をかけた利発な顔つきの三年生部員。伊達だて侠気きょうきがこちらを振り向き、やあ、と手を上げた。

 隣の副部長である女子にひと声かけ、彼は何食わぬ顔で部室の鉄扉を開けてくれる。途端に、鍋蓋を取って上がった湯気のように、中の練習声が一気に耳に響いた。思っていたよりも声は張られていたようだ。この部室は防音効果もあるらしい。


「すまん、まったく気が付かなかった。いつからここに?」


 逆に詫びられてリズムが狂う。相変わらず人懐っこい笑みで、気遣いをかけてくれる。


「ついさっき来たばかりなんですけど、あの、ちょっと時間、大丈夫ですか?」


 申し訳なさはあったがここで遠慮はできない。無理にでも付き合ってもらおうと問うたところ、伊達先輩は一度部室内に振り向いて「ちょっと待って」と手のひらを見せて、先ほどの女子部員のところへ向かう。

 あとの指示を伝えているのだろう、たった数秒で済ませると早歩きでまたこちらに戻ってくれた。


「お待たせ。そこの階段で話そうか」


 この上は立ち入り禁止の屋上しかない。通行の妨げにはならない所を伊達先輩は指定し、僕もそれに頷いた。


「部活の話は順調かい?」


 目移さんが部の設立の踏み込んだ、という話は伊達先輩は知っている。校内で遭遇したとき、その話題を切り出したのは僕だった。


「まあ、ぼちぼち……というか、その件で訊きたいことがあって」

「なにか、トラブル?」


 世間話でも、という伊達先輩の会話は偶然にも本題に沿っていた。おかげで、スムーズに要件を切り出すことができた。

 僕の顔色を見て判断したのだろう。伊達先輩は壁に肩を凭せ、腕を組んで表情を引き締める。


「部活、という形ではなく、生徒活動の一環でそういう取り組みをやっていくことになったんですけど」


 完結に、部活設立に関するこれまでの経緯を説明して、本題へ。

 ポスターが剥がされた。そのことを口に出すと、伊達先輩は親身な面持ちで耳を傾けてくれた。


「こんなこと言われたら、傷つくかもしれないんですけど。その犯人、ここにいるかもしれないんです」

「演劇部の誰か、ってことかい」


 腕組したまま、どこか頭を抱えるように目を伏せる。

 僕は一瞬躊躇したが、意を決して思い当たったふたりの名を上げた。


「五十里さんと、前に喧嘩した一年生の男子部員の、どちらかではないかと」

「一年生……あぁ、渕のことか」

「ふち?」

宇八米うやまい渕。その男子生徒の名前さ。眼鏡に角刈りのチビだろ?」


 微妙な暴言を吐きつつ説明されて、頷く。


「証拠は何も無いんですけど、ただの予想、なんですけど」

「そうかー、まあ、きみの考えも分からなくはないなぁ」


 ショックを受けていないわけではないようだが、伊達先輩はどこか楽観的に天井を仰いで見せる。


「前に揉めてるふたりだし、平和ひらわくんたちも関与しちゃったもんな。個人的に恨まれていても、おかしくはない、か」


 ひとりで推測しだす彼の考えは間違ってはいなかった。むしろ芯に触れており、勘のいい人だと実感する。仕草や表情から、僕の発言を否定しているようには見えなかった。

 しかし簡単に納得はできないようで、顎に手を置き、悶々と考えている。部員をそうやすやすと疑う性格ではないからこその部長という立場だ。そういうところでも彼の威厳が見て取れた。僕も鼻から犯人を決めつけることはできなくなる。

 不意に伊達先輩の顔が上がった。眉を傾け、首を傾げた。


「俺が考えても、どうにも拉致があかないな。直接、話してみるかい?」


 親指でさすのは部室の方だ。


「昼練を中断させるわけにはいきませんよ。大会近いですし」

「でもきみもここまで来てるんだ。手ぶらじゃ帰れないだろ」

「そうですけれど」


 何も言い返せなくなる。

 部室まで押しかけてきたやつが相手の気を遣う姿は、考えてみれば矛盾している。だったら最初から、勢いでこんなところまで来るべきではないだろう。

 目移さんの姿に我慢ならずにここまで押しかけたのだ。練習を邪魔してまで話すことなのか。僕がそれを疑っていては、駄目なような気がした。


「待ってて。呼んでくる」


 もはや僕の意思を無視して、伊達先輩は踵を返す。きっと彼にもわだかまりが出来たようだ。腫瘍はその都度摘出するのが彼のやり方なのだろう。いい気持ちでなければ、いい演技もできない、とでも訴えるみたいだ。

 だから僕も、もはや引き留めることはしなかった。むしろ好都合だろう。これで犯人が分かれば、練習を中断したことが無駄にはならないのだから。


――ところが。


「は? 何ふざけたこと言ってんの? あたしらが犯人? 笑わせんなよコドクのくせに」

「うわぁ、疑いかけられるとか、マジないっすわ。俺たちショックっすわ。マジ、ないっすわぁ」


 壁に背をついた僕の目の前で、五十里せんと宇八米渕の両名が険しい表情を浮かび上がらせていた。というか五十里さんは、完璧に怒ってらっしゃった。


「くだらねえし。戻るわ、あたし」


 体操着姿の五十里さんは一方的に話し合いを切断してしまう。あの事件以降、彼女が部内で素の人格を表すことが増えたというのは伊達先輩から聞いていた。とくに、すぐ側にいる宇八米くんの前では大変キレやすくなっているようで、


「なあ、平和先輩。こういうときっすね、例えば今が名探偵から事情聴取をうけているとすれば、逃げるように帰るやつって、一番に疑われるのがセオリーっすよね」


 ボソ、と僕に耳打ちでもするかのように言う宇八米くんの視線は五十里さんに向けられている。

 きっとわざと聞こえるように発言した。ドアノブに手をかけていた彼女はこちらを切り裂かんばかりに睨み返し、足音荒く戻ってくると、後輩の後頭部を無遠慮にペシ、と引っ叩いた。拳でなかったのは、彼女なりのブレーキだろうか。


「って! 頭ぶつんじゃねえ、ブス!」

「お前誰にタメ口きいてんだ、あ?」

「敬語使ってほしかったら、もっと先輩らしい振る舞い見せてみろよ! 伊達部長はもっと寛大だぜ」

「なんでそこで伊達先輩の名前出てくんの? 意味わかんないし、ふざけんなし」

「あ、照れてやんの。うわー、分っかりやすぅ」


 ポカン。

 今度こそ、拳でおでこを殴られる宇八米くん。


「ってめぇ……グーだったろ今」

「パーだし。目悪いの?」

「感触で分かるんだよ、ゴリラブス」

「もう顔殴るわ。我慢なんねぇ」

「はい、そこまで。羨、拳はダメだって言ってるじゃないか?」


 まるで弟と姉、というよりは生意気なガキと女不良の口喧嘩を止めに入る伊達先輩。話し合いの邪魔にならないよう彼は部室にいたのだが、様子をうかがいに来てくれて正解だった。このままでは拉致があかなくなるところだ。僕ではそれは止めきれない。


「だ、伊達先輩っ。だって、こいつが」


 部長の顔を認識した瞬間に口調が変わる。手首を掴まれてしまっていたが、無理に振り払おうとはせず後輩の顔面に指をさして訴えた。

 伊達先輩は指さす方を見向きもせず、五十里さんを睨み付ける。説教垂れる年上のように顔をしかめる。


「だっても何も、手を出した方が負けだ。暴力振るったらどんな理由であれ羨が悪くなってしまうよ。どうしても我慢できないなら、拳じゃなくせめてパーで収めろ」

「最初はパーでやりました! それでも止まらなかったのはこいつですよ」


 どうやら五十里さんの暴力に制限をつけたのは伊達先輩のようである。惚れているが故、彼の言うことには従順なのだ。

 ひとつ叱りつけて、次は宇八米くんに視線をおくる。途端、彼もまた蛇に睨まれたカエルのごとく、ばつの悪そうに肩をすくめた。銀縁眼鏡の奥で、瞳が伏せる。


「渕。今回はお前が悪いんじゃないか?」


 それだけの言葉だが、たった一言に、宇八米くんは完全に意気消沈したようだ。うつむいて唇を尖らせる。


「ちょっと、ふざけただけっすよ」

「それがいけない。怒らすと打たれることくらい、分かっているだろ」


 それは少しばかり五十里さんに失礼なような気もしたが、彼なりにバランスを取って説得していることは見て取れる。打たれる、と言われた直後、伊達先輩の横で五十里さんが顔を伏せた。


「お前ら、平和くんの目的は話し合いだ。疑っているけれど決めつけてはいない。気持ちよくないのは分かるが、態度が一方的過ぎるだろ。冷静になれ。互いに尊重しあって意見交換してみろ」

 

 淡々と述べられる説教は的を射すぎて、もはやふたりに抗議の意は見当たらなかった。流れで僕も委縮してしまう。伊達先輩の、冷静さの中にある重圧に、誰も反論をしようとはしなかった。

 すっかり空気を支配され、五十里さんと宇八米くんは不本意でありながら僕の言葉に耳を傾けてはくれるようになる。

 とりあえずもう一度、目移さんのポスターの件で何か心当たりはないかと再確認したところ、やはりふたりの答えはその口調以外に変わったところはなかった。


「二限目の休み時間まではトイレ以外ずっと教室にいたし。三限目の休み時間だって、次が体育なんだからそんなことしてる暇ないでしょ。昼休みも妃愛ひめの見舞いに保健室行って、そこからすぐ部活に来たんだから」


 妃愛、とは五十里さんの取り巻きであるふたり組の内のひとりのことだ。体育のときに体調不良を訴え、取り巻きのもうひとりに付き添われて授業を早退していた。その見舞いに行ったとすれば、犯行に及ぶ時間は限りなく少ないかもしれない。

 そうでなくとも彼女は部活に忙しい時期だ。たとえ僕らのことが気に入らなくとも、そんなことをやっている暇はないのではないかと、考える。


「俺もっすよ。今日の授業は移動教室が多かったから、全部の掲示板のポスターを剥がす時間なんてあるわけないっすよ。部活だって、こうして来てるんすから」


 宇八米くんの場合、証言を明確にする材料は何もないのだが、忙しいのは五十里さんと変わりない。そう考えると、気に入らないから、という動機は犯行に及ぶにしては薄っぺらいかもしれない。

 証言を納得するしかなかった。そのことをふたりに告げると、最後まで気の済まないような表情で部室へ戻っていく。それだけで済んだのは、側で伊達先輩が見守っていたからだろう。


「力になれなくて、残念だ」

「いえ、疑いが晴れたのもひとつの収穫ですから」


 とは言うが、気持ちが晴れていないことに変わりない。

 だとすれば別に犯人があるわけだが、その人物の検討すらつかない。振り出しに戻ったという点では、収穫にしてみれば結果的にはプラマイゼロだろうか。

 真っ白になった紙にまた書き始めていかなくてはならないという行為は、まるで白線の引かれていないグラウンドでマラソンをするようなものである。スタート地点が無ければ、ゴールすら見えてこない。いったい何から手を付けていいもんか、分からなくなる。


「また力になれることがあったら、遠慮なく相談してくれ」


 そう言い残し、伊達先輩もハラリと手を振って部室へ戻った。練習時間はだいぶ削られたのだ、早々に戻りたい気持ちを考慮し、僕は一礼してその場を後にすることにした。

 別館を出て、屋根に覆われた外廊下の途中で踵を返し、建物を見上げる。

 雨天の下で濡れる別館は、五階の窓だけが明かりを灯し、曇りガラスに部員の人影を映している。

 疑ったことに罪悪感を覚えていないわけではない。勝手な偏見で犯人扱いされたら、なかなか温厚にいられる人はいないだろう。少なくとも自分を疑った人物に対して批判的になるのは、無理もない。

 しかし、煮え切らない想いが胸の内でふつふつと沸き立っていた。

 暴言を吐かれたからではない。そんな個人的な感情、あのふたりにはとっくに沸かない。一線を引いた人種なのだということは、一か月前の事件で十分痛感している。

 胃を揉まれているようなこの悶々とした気持ちの原因は、そんな感情的なことではなくて、きっと、可能性を感じているからだ。

 僕の予想が当たっている。その可能性が、残されている気がしていた。

 ふと、狭い間隔で開けられた窓枠に人影が見えた。僕が視線を流すと、その影は逃げるように窓から離れ、部室の奥へ消えていく。

 目を凝らすが、二度と人影は現れない。

 見られていた。

 誰に。

 頭の中で数人の顔が浮上する。

 我に返って首を振り、教室へ向かって歩く。歩みは無意識に早くなる。

 僕と目移さんは思っている以上に、しつこい敵を作ってしまったのかもしれない。ポスターは、単なる嫌がらせではないように思えた。

 蒸し暑いはずなのに、嫌な予感に苛まれ、しばらく背中が冷たくなった。

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