八幕

 階段を数段駆けあがり、ステージに立つと、まず目に飛び込んできたのは、後ろ壁に取り押さえるようにして一年男子に掴みかかっている、五十里いかりせんの姿だ。学年色である青のラインが入った体操着に身を包んでいる。

 左手で右腕の自由を奪われ、右手で胸ぐらを掴まれている男子とは、昼間の一年生だった。五十里さんに対して彼はまだ制服姿で、黄色いネクタイが彼女の暴挙によって解けようとしていた。

 ステージの床には紙が何枚も散乱している。どれも台本のページのようで、中にはひどく破れたものやしわくちゃになってしまっているものが紛れている。上手側の隅には誰のかもわからぬスクールバッグが、口を開けて力なく横たわっており、中身が雪崩のようにはみ出てしまっていた。


「五十里! やめて、お願いだから!」


 ステージ上には演劇部員のほとんどが集まっている。内のひとりの女子部員が顔色を悪くしながら、息荒く上下する五十里さんの肩を掴んで力を込めた。

 が、その手は乱暴に跳ね除けられる。


「さわんなっ!」


 怒声は部員全員の顔をさらに曇らせる。

 突っぱねられた女子部員は自分の手を隠すようにしてたじろぎ、睨んでくる五十里さんの険相をただ見つめることしかできなくなった。


「どうせ、あたしのことなんか軽蔑してるんでしょ」


 唾でも吐き捨てるような言葉に、ついに女子部員の表情が崩れた。信じられないものでも見たように瞳を見開き眉を傾け、五十里さんに背を向けると、そのままステージ脇に駆けて行ってしまう。僕らとは真逆の、上手の方。ひとりが女子部員の後を追って出ていくと、場には一瞬の静寂が生まれた。

 しかし不穏な空気に変わりない。各々が緊張したまま事の成り行きをただただ見守っているだけである。

 五十里さんに胸ぐらを掴まれている男子部員すら、その空気に耐え兼ね、衰弱しきっているようだった。後輩だろうと女子の力を振りほどけないほど彼も軟弱ではないだろう。その場でやられるがままになっているのは、きっと抵抗する意欲が欠落しているからなのだ。

 凍り付いたような空気を払ったのは、伊達だて先輩の突発的な声かけだった。


「羨、落ち着いてくれ。彼から手を離すんだ」


 温厚な口調を保ちつつ、言う。

 その声にこちらを振り向いた五十里さんが、嘆きの表情を露わにする。怒りでも悲しみでもない、絶望に満ちた面が部長の顔を捉え続けた。


「伊達……先輩」 


 声が震えている。

 不意に、五十里さんと僕の視線が交わされた。途端、その眉間にしわが寄る。もの悲し気な顔つきは一転、険しい表情へと変化した。


「……なんで、あんたがここにいるのよ」


 背筋が凍るような、鉛のごとし声。

思わず身をすくめると、説明のタイミングを見失う。ぱくぱく口を開閉していると、伊達先輩がフォローに入ってくれる。


「彼は俺が呼んだんだ。羨のクラスメイトだから。ほら、仲いい人の方が、事情とか話しやすいだろう?」


 五十里さんは、部長と僕と目移さんを交互に見つめると、おもむろに下唇を噛む。不満げな面を、隠す気もないらしい。

 もはや彼女には、自分を偽る余裕も無いようだ。伊達先輩の前では良い後輩を演じてきた努力は、今日を最後に水の泡と化す。

 目の前の五十里さんは演劇部の彼女ではなく、正真正銘、我がクラスの五十里羨さんとして我を主張していた。


「伊達先輩は、なにも分かってないんです……」

「え?」

「いっ、つっ」


 部長の返事を無視し、五十里さんが一年部員の髪を左手で握り、引っ張った。小さな悲鳴が彼の口から漏れると、小規模のどよめきが渦を巻く。

 やめろ、だの、落ち着け、だの。演劇部員の説得は、説得にしては、素っ気ない気もした。


「あたし、ずっとこの気持ち引きずって、部活続けてきました」


 乱暴な行動と相反して、口調は奇妙なほど穏やかで、表情は冷血だ。

 手の中の男子部員を眺める瞳は哀しげだったが、決して彼に同情しているわけではない。

 周りと自分。その両方に対して、底知れぬ思いが複雑に絡み、渦を巻いているように見えた。


「何をするにも理由の一番にはこの気持ちが動いて、半場衝動的な部分もありました。もちろん、演劇部自体も好きでしたが、それは一番の理由ではなかったんです」


 一年男子の眼鏡が耳から離れて床に落ちた。小柄な体が五十里さんの力によって軽く浮いたように見えたが、髪の毛を掴まれたことで、たんに顎が上を向いただけである。

 しかし胸ぐらを引っ張られているせいで、彼はずいぶん苦しそうだ。

五十里さんは意にも介さず、独り言のような言葉をぼそぼそと並べ続ける。


「下心、ってやつですよね、これ。部のためじゃなく、個人のためにしてたことですから。本当はダメなことだって分かってたんですけど、自分を制御できませんでした。だから、ずっとずっと、一方的な想いだけで充分だったんですよ。誰にも知られなくていい、あたしだけ想い続けられるなら満足。本音から、そう考えていたんです。――なのに」

「いぃっ、あ、ぁぁ」


 五十里さんが、またさらに力を込めた。髪が真上へ、襟元が中心へ寄って一年男子を苦しめる。

 そして、不意に胸ぐらが解放されたかと思うと、空いた右手を後方へグイと振りかざす。

 手が、拳を握った。


「なのに、こいつが、そんなあたしの気持ちを踏みにじったんだよ!」


 拳は勢いよく振り下ろされるかに思われた。

 誰もが息を飲んだ。中には咄嗟に目を瞑った者もいた。一年男子だって、我が身のダメージに体をすくませた。

 けれども拳は、小さな手に拒まれる。

 僕はその一部始終を見ていたはずなのに、まばたきのほんの一瞬で、彼女はそこに移動していた。


「やめなよ、五十里さん」


 そう淡々と述べて、五十里さんの背後から手首を力強く握っていたのは、目移佳舞かまえであった。


「っ……てめぇ、触ってんじゃねえよ!!」


 目移さんの行動は、五十里さんの逆鱗に触れたらしく、ぶんぶんと腕を振られてしまう。

 しかし噛み付いたスッポンのごときしつこさで、目移さんは彼女の手首を離そうとはしない。肩が脱臼しそうなほど体が揺らされているのに、必死にしがみつこうとしていた。


「くそっ、この、離せ!」

「離さないよ! 離したら、五十里さん、その人殴るでしょ!」

「そうだよ!  殴んだよ! だから邪魔すんじゃねえ!」

「ダメだよ! そんなことしたら、痛いよ!」

「知るか! 痛くて当然だ! そんだけのことしてんだよこいつは! 殴んねえと、あたしの気も収まらねえ!」

「違うよ! そうじゃなくてっ」

「部長、僕らも行ったほうが?」


 さすがに収まりがきかないみたいだ。

 このまま見ているわけにもいかず、五十里さんの許へ駆け寄ろうと、伊達先輩に声をかける。

 が、部長は佇んだまま、押し引きを繰り返す彼女らの姿を唖然と見つめるばかりだった。

 口がパクパクと何事かを呟いている。

 自分を責めているらしい。今はそんなことを気にしている時ではないだろうに。

 もはや使い物にはならない部長を放ったらかし、躊躇いながらも駆け出そうとした。

 そのときだ。


「痛いのは、五十里さんの方なんだよ!」

「は……?」


 感情いっぱいに叫んだ目移さんの言動に、五十里さんの動きがピタ、と止まった。

 大きな隙が生まれたと同時、演劇部員の数名が揉みくちゃになった三人に駆け寄る。


「あ、くそっ、っざけんな、離せ、ああ!」


五十里さんの腕や体を雁字搦めに固定すると、手の内にあった男子部員を引き剥がし、彼女から十分な距離をとらせる。


「なんなんだよお前ら! どいつもこいつも、邪魔ばっかしてんじゃねえよ!」


 目移さんも含めて四名に取り押さえられている五十里さんが、威勢よく暴言を吐きまくる。

 ずいぶん出遅れた僕はステージ脇から様子を観察するだけで、行きかけた気持ちを持て余していた。

 ステージから姿を消した男子部員に次いで、五十里さんも捕獲された宇宙人よろしく下手の奥へと引っ張られていく。

 ぎゃーぎゃー吐かれる文句には誰も反応せず、彼女の滑稽さが無惨にも引き立ってしまっていた。

 その始終を見届ける最中、目線が自然と伊達先輩を捉える。

 彼は顔色の悪いまま、俯いて、まだしばらく独り言ばかりを落としていた。

 事が完全に収まったのは、用事があった為に遅れていた演劇部の顧問が到着してからだった。

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