七幕

 父の姿を最後に見たのは九歳の頃だ。

 今の親戚に引き取られる前は、その父と二人で狭い借家に住んでいた。男手一つで息子を育てるのには想像以上の苦労がいったに違いないが、それを僕自身が理解する前に父は家から出て行ってしまった。

 父は昔っから器用貧乏な性格だった。故に仕事は順調なときもあれば不調なときも少なくはなく、金銭的には余裕のない暮らしが続いていた。

 ところが、父は生活の不安さをちっとも表には出さない性格だった。食卓にはそれなりの数のおかずが並び、勉強道具は定期的に新しいものを揃えてくれ、誕生日やクリスマスにはプレゼントを贈ってもらい、正月のお年玉だって欠かすことはなかった。

 金はなくとも貧乏くさいことを父は嫌っていたようで、どんなに厳しい状況だろうが意にも介さない態度を貫いた。

 努力は報われ、二人暮らしを終えるまで、家が貧乏であるという自覚を僕はこれっぽっちも感じてはいなかった。

 だがそれはただの勘違いだ。

 父は金をつくっていたに過ぎなかった。働いてつくったわけではない。借金という形で様々な機関から金を借り続けていたらしい。

 結果、膨大な額の借金が父の前に叩きつけられ、父は現実から逃げるように忽然と姿をくらましたのだった。


   ***


 放課後になって、目移めうつりさんがまた駄々をこねだした。


「入ろうよー、演劇部! きっと楽しいよ!」

「嫌だ」

「なんで! どうして!」

「なんででも、どうしてでもだ」

「先週は見学ついて来てくれたのに」

「ついてきたから入部しろだ? ふざけんな」


 ああ言えばこう言われ、終わりの見えない文句の押し合いは教室の隅でちまちまと行われている。

 目移さんの机上には入部届が置かれ、しかもそれは二枚に増えていた。一枚は自分の、もう一枚は、僕のだと言う。


「せっかく持ってきたのに~」


 頼んでないものをせっかくなどと言われても、感謝のカの字も出てこない。モチのように頬を膨らまされても困る一方なのでやめていただきたい。

 そもそも僕は最初から部活になど入らないと言っているのに、彼女はまだあきらめていない様子だ。どうにかこうにか一緒に入部しようという魂胆なのだろうが、そう簡単にこの意思は曲がらない。

 昼間の演劇部員の言葉を聞いたらなおさらだ。あんな時限爆弾がいる部に入れば、面倒なことに込まれるのは目に見えている。わざわざ自分から火に入る行為などやってたまるか。

 それに、僕らの入部を五十里いかりさんが許さないだろう。近づくことさえ拒否されている以上、もう演劇部への干渉をやめるべきなのだ。

 ……と、いう説明を遠回しにもしようとしたら、このような状況になっていた。僕の言葉など、彼女にとってはアリの悲鳴にも満たないらしい。

 未だ事実は語れず、目移さんに翻弄されっぱなしだ。

 ついた溜め息は、そんな茶番を終わらせる合図のようなものだ。


「お前、もう演劇部には関わるな」

「いやだ」


 即答ときたもんだ。

 しかも真顔で。腹立つ。


「ちっとは考えれよ……どうしてこんなこと言われているのか、とかさ」

「えー、そんなん、平和ひらわくんが私に振り回されるのが嫌だからでしょ~?」

「自覚あんのかよ。怖いねぇ」

「そりゃもちろん。ぜんぶ分かった上での行動なのだ」


 えっへんと無い胸を張られても自慢にはならん。

 それはそれでたちの悪い性格じゃないか。むしろ、ますますマイナス評価だ。こいつ、もしかして面白がってる?

 

「んなしょうもない理由じゃない」


 いや、半分くらいはそういう理由も含まれるのかもしれないが、今は隅に置いておこう。


「事態はもっと深刻なんだよ。お前が考えている以上に、なっ」

「イタッ、あー、でこぴんやめてよー」


 額を押さえる目移さん。おさげがしょんぼり垂れ下がる。人を振り回している罰だ、と心の中で毒づく。


「そういうわけだから、他の部活、探せよ」

「納得いかないー! 理由を教えてよ、理由を!」


 説明したいがするべきではない。目移さんの負けん気が暴走してもらっては困るのだ。それに、これは簡単な話ではないようにも思う。五十里さんが僕らを演劇部から遠ざけたい理由は、ただの毛嫌いではないような気がしていた。


「教えん。考えるな。フォースを感じるのだ」

「え、なにそれ。意味わかんない」

「とりあえず納得しろ、ってことだよ」

「ぶーぶー」


 唇を尖らせてブーイングをしてくる彼女に無視を決め込んで、荷物を持って席を立つ。

 

 僕を呼び止めようとする声には反応することなく、ツカツカと出口を目指した。先週はドアを出てから腕を掴まれた。彼女に押し負かされて見学に付き合う羽目になってしまったが、今日こそは屈しない。

 このごろは自分の時間さえ無駄に浪費している気がする。今日は早々に帰路につき、いつもの日常に戻りたかった。


「あ、いた!」


 そうしたかった、のに。


「きみ! えっと、ヒラワくん、だったかな。ちょっと来てくれ!」

「え、ちょっ、なんですか急に!」


 先週に引き続き今日も教室を出たところで呼び止められてしまう。

 目移さんのものではない、声帯がよく開いた男子生徒の声に首を傾ければ、そこには演劇部部長、伊達だて先輩が息を荒げて立っていた。

 僕の姿を黙認するや、彼はおもむろに腕を掴んで引っ張り、駆け足になった。丸眼鏡の奥の瞳には動揺が隠せてはおらず、僕の都合など気に掛ける余裕すら欠落しているみたいだった。

 それは先週に見た部長の姿とはえらい違いがあった。温厚知的な人格は、目の前の彼からはこれっぽっちも見つけられない。ぶつぶつとひとりで何かをつぶやいているのも気味が悪く、自分を落ち着けるための試行錯誤なのだろうということはさすがの僕でも理解できた。

 部長は興奮気味に、何かに対して焦っているようだ。

 僕らの後ろを目移さんが追いかけてくる。この状況に少し戸惑っている様子だが、伊達先輩ほどではないように見えた。

 そうして引っ張られるままたどり着いたのは、演劇部が練習に取り組んでいる体育館だ。質問ひとつ投げる暇もなく館内に入り、脇を通って体育館のステージ前に着いた。

 ステージには幕が下ろされ、外からでは中の様子はまったく分からなくしてある。バスケットボール部やバレーボール部の靴擦れや玉の跳ねる音が雑音となっているため、声すら聞こえない状況だった。中で何が行われているのか、ステージの下からでは見当もつかない。

 ステージ下手側へ上がることができる、用具入れへ通じるドア前でようやく足を止めた部長は、息を整えつつくるりと体を回すと、僕に申し訳ない顔を見せた。同時のタイミングで、目移さんが追いつき、隣に立つ。


「はぁ、はぁ、すまない、乱暴に、連れてきてしまって、はぁ」

「い、いえ、それはいいんですけど」


 部長は明らかに、僕より何倍も呼吸が荒く、酸素が足りていないみたいだ。必要以上に息を上げている様子に、困惑してしまう。

 口の代わりに視線を投げたのは、幕で閉じられたステージ上だ。


「こんなんしたら、蒸し暑くなりそうだね」

「おい」


 空気の読めない目移さんの言葉。

 でも、確かにとも思い、強くは返さなかった。決して少なくはない数の部員が全員で練習をするのだ。周りの運動部を見たってそうだが、汗や深い呼吸をすればそのぶん空気も濁る。体育館は窓こそ開いているが、それでも空気の巡回は効率悪く、独特な臭いが立ち込めている。

 幕を下ろす意味はまるで無いように思える。演劇部のみで練習したいのなら、場所を移せばいいだけの話に過ぎない。


「さっきの怒鳴り声ってさ、やっぱ演劇部?」


 バレー部のひとりの声が耳に届いた。気になってそちらを見れば、ボールネットの側で練習の合間に無駄話をする女子部員の姿が映る。


「でしょ。すぐ幕下ろしたし。なんかあったんかね」

「けっこうヤバイ感じだったよね。二年の人が怒ってたように見えたよ」

「普通科の五十里せんでしょ? クラスで猛威ふるってるって有名じゃん」

「えー、そうなん? こわー」

「あ、あたしの番!」


 コート内に入っていく女子らの姿を見届け、静かに部長の方へ視線を戻す。

 バツの悪そうな表情が浮かばれている。僕も同様、表情を沈めた。あまり聞かれてよろしくない内容だったように思うが、今さら遅いだろう。

 すると、部長が深い息を吐く。それでようやく呼吸も整ったようだ。悲愴な面を浮き彫りにしたまま、口は小さく開かれる。


「羨が癇癪をおこした。練習中、一年部員に掴みかかった」


 眉がピク、と動いてしまう。これは動揺の現れだ。


「理由は分からん。訊いても何も答えてくれない。一年の方もふてくされて、頑なに口を開かない。幕を下ろしたのは暴れていたからだが、今はどうにか落ち着けている。が、当のふたりがステージから動こうとはしないし、練習も再開できる状態じゃないから、このままだ。まだ、練習が始まって数分と経たない内におこったことだ」


 早口で、それでいて滑舌よく一気に説明を終えた伊達先輩は、また息を整える。

 間を空け、唱えた声には、この上ない切実さがにじみ出ていた。


「どうしようもなくなった。そのとき思い出したのがきみたちの顔だ。羨の教室は知っていたから、咄嗟に探しに出た。……お願いだ、羨を説得して、事情を聴きだしてくれ。こっちは、一年を説得してみるから。俺にはもう、きみたちしか頼れる人がいないんだ」

「説得……ですか?」

「うわー、事情聴取ってやつ? ドラマでよくあるやつ!」

「お前は黙ってろ! あの、部長、僕らじゃお役には立てないと思います」


 正直に申すと、伊達先輩の瞼が重みを増したかのように下がる。


「それは、どうしてだい?」

「その……言いにくいんですが、僕らと、五十里さん、そんなに」

「っっざけんな!!」


 突如として轟く声。

 バレー部のスパイク音すら跳ね除けん勢いで吐かれた言葉の出先は、幕の向こうだ。五十里さんのもので間違いはなさそうだった。体育館内の空気が静まり、各々の生徒らが一斉にステージを見上げた。

 部長が動いたのは半場咄嗟のことだった。ドアノブに手をかけ、押し戸を開ける。跳び箱やボール籠などの用具倉庫の向こうにステージへの低い階段が見え、暗い室内に明かりを漏らしている。


「どうか、お願いだっ。俺じゃ、彼女を止められないから!」


 答えなど聞く気は無いみたいだ。すぐさま背を向け倉庫内に消えていく部長。

 僕はしばらく立ち呆けていたが、目移さんが淡々とした口調で問いかけてきた。


「助けないの?」


 その言い方はズルいなぁ。

 拒否する選択肢など用意されてはいないようで、僕は歯噛みしながらも部長の後を追って中へ駆けた。


「あ、カツ丼頼んどく?」


 緩い発言が背中にかかる。

 ああ、もう。緊迫感も何もあったもんじゃないよ。

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