六幕

「おいコドク! ふざけてんのかお前! ぁあ!?」


 週初めの月曜日。

 ホームルームが始まる約二十分前に学校への登校を終えた僕の耳に貫かれたのは、教室中に響き渡るほどの五十里いかりせんの怒鳴り声だった。

 五十里さんがイカっている。そんな冗談も言える余裕がないくらい、僕は彼女の般若のような形相に慄いた。


「ど、ど、どう……しました?」


 半場理由は分かり切っている。シラを切ることが今できる最大限のごまかしだったが、効果は皆無。僕の机の脚を蹴った彼女は、充血した目玉をひん剥かんばかりに開いて、座り固まるこちらの顔をひたすらに睨み下げ続けた。肩口まで伸びた艶のあるセミショートの髪は今にも逆立ちそうである。

 両隣には彼女同様に不機嫌面を浮かべる取り巻きが二名。どちらも女子だがスカートは短いわ、ブレザー下のシャツは出してるわ、爪にはマニキュアが塗られているわ、耳にはピアスが飾られているわで校則のコの字も無い容姿をしており、清純さはこれっぽっちも見受けられない。真ん中の五十里さんの方が身なりはきっちりと整えられている具合だった。

 と、そんな観察を行っている余裕はなく、オロオロ。額には脂汗をたっぷりかいて、背中もとっくに、緊張で流れる汗でびっしょりと濡れてしまっていた。


「どうしました? どうしました、っつった? そうね、どうしたもこうしたもありゃしないんだけれど、聞きたいんなら言ってやるわ。お前、誰に許可取って部活除きに来てんだ、くぉら!」


 ひっ、と肩がすくみ上がって唇が震えた。

 五十里さんの物言いはそこらのヤ○キーも顔負けなほど迫力があり、恐喝的だった。

 いやいや、まてまてまて。それよりもどうして僕がこんなに言われにゃいかんのだ。


「ああ、あの、それはその、目移めうつりさんが……」


 そうだ。元はと言えば言い出しっぺは彼女である。僕が五十里さんから怒鳴られる理由はないはずなのだ。これは理不尽な展開だ。僕は冤罪だ。


「チッ、あのカマチョブスかよ……」


 陰ではそう呼ばれているらしい。かまってちゃんの略称でカマチョ。まあ、そこは否定しないにしても、彼女はブスではないように思う。顔はそこそこ可愛い方では……って、どうして僕が目移さんのフォローをしてやる必要がある。

 我に戻って現実を向き合う。さて、この状況、どうするべきか。


「おい、いいかコドク!」


 悶々していたら、また五十里さんの怒号が脳天をついた。

 頷く代わりに唾を飲み込む。


「もう二度と演劇部に近づくな! 部活入りてえなら他当たれ! いいな!」

「あ~、いや、僕は部に入りたいわけじゃ」

「いいな!!」

「っ……はい」


 言い訳無用。こちらの言い分など聞く気は無いようで、一方的な口約束(脅迫)を言い放った五十里さんは足踏み荒く自分の席へと帰られた。

 それと入れ違えるようにして、目移さんが教室のドアを開き登場する。


「おっはよーみんな!」


 一週間たっても変わらない、誰に言っているのか分からないご挨拶。高々と右手を上げ、さっきまでの緊迫した空気など肌にも感じない様子で僕の後ろ席へカバンをおろす。

 教室の対角の隅では、五十里さんらが陽気な彼女を煙たがるように睨んでいる。あまり刺激するような言動はしないでほしいのだけれど。


「おはよー、平和ひらわくん!」


 最後に個人への挨拶を済ませ、目移さんはようやく席に腰かけた。

 ふんふんと鼻歌を吹いている。今日は竜やら冒険やらの某勇者ゲームの有名なBGMだ。有名どころをついてきている。

 そんなことよりも。


「おい目移さん、大変なことに」


 潜めた声を落とすと同時、彼女の机の上に一枚のプリントをみつける。空欄の部分は埋められてはいないものの、それはどこからどう見ても入部希望届だった。


「なんだ、これ」

「さっき職員室に行って、先生から貰ってきたんだよ」


 ニコ、と微笑み言う。


「決まったのか、部活」

「うん! 私、演劇部に入る!」

「……嘘だろ、おい」


 頭を抱えて僕はうな垂れた。

 自分の手で額を覆ったままチラリと正面を見上げれば、余計に目くじらと立てた五十里さんの顔が見える。どうやら目移さんの声が聞こえていたようだ。もう少しで額に角でも生えそうな勢いである。

 目も当てられず、顔を背ける。避けた先には、目移さんの、心躍らせる笑みがあった。


「見学したときから決めてたの! 五十里さんもいるし、ここだったらお友達たくさんできるかも」

「いや、もう少し考えてみないか? まだ四つしか回っていないんだしさ」


 どうにか彼女を止めなければ、と必死になる。

 教室の隅には腕組して様子をうかがってくる五十里さんがいる。まるで僕の行動を監視されているようだが、これで目移さんを止められなければまた責められるのは間違いない。

 そんなとばっちりは御免こうむる。避けられる事態ならば是が非にも避けたい。


「なんなら、また見学に付き合ってやるよ。そんなに慌てて決めなくてもいいだろ」

「ううん、もう決めたから。これ以上回っても蛇足になっちゃうし」

「決めつけるなよ。面白い部活があるかもわからんだろ」

「平和くん、今日はやけに食い下がってくるね。どったの?」


 訝しむ顔に思わず口ごもる。どうしたもこうしたもありゃしないのだ。今こそ、この問いに苛立った五十里さんの気持ちがわかる気がした。


「べつに、どうもしない。ただ、決めるのが早すぎる気がしているだけだ。慎重に選ぶべきだろ」


 五十里さんの事情を目移さんに説明するのは控えた。

 彼女がそんな理由で引き下がるとは思えなかったし、最悪やる気スイッチが入りかねない。目移佳舞かまえという女の子は無理なことを貫こうとする人間なのだ。


「演劇部じゃ不満なの?」

「そういうわけじゃない。とてもいい部だが、でもこういうのは下見が需要だろ」

「えー、いいよ、もう面倒くさいもん」

「お前、身も蓋もないこと言うなよ……」


 呆れて言い返す言葉を見失った。

 正直さもこれでは身に余る。面倒などと口にされて、これ以上彼女を説得する材料があるだろうか。

 少なくとも僕のボキャブラリーには存在していない。

 チラリ、と五十里さんを一瞥する。ギロ、と睨まれた。おっかねぇ。


「まぁ、とにかく落ち着け! な?」


 今にも記入欄に名を書こうとする目移さんの手首を持って制す。


「ちょ、邪魔しないでよ」

「お前のためを思って言ってんだ」

「余計なお世話! このお節介焼き!」

「さんざん見学に付き合わせといてなんだその言いぐさ!」


 グイ、とそのまま彼女の手を真上に上げる。


「平和くん、部活入らないんでしょ! 関係ないじゃん!」


 容姿に似合わず、そこそこの力でグググ、と僕の手ごとプリント上に下げられる。


「関係ないわけない! お前に付き合ったんだから、口出すくらいの権利はある!」


 また、グイ、と持ち上げる。


「どれに入ろうか私の自由! さんざん面倒くさがってた人が、こういうときだけ権力振りかざさないで!」


 またまた、グググ、と下げられる。


「お前のためを思って言ってんだ!」


 グイ。


「私は私のために入部するの!」


 グググ。


「待て!」


 グイ。


「待たない!」


 グググ。


「「あ」」


 ポーン。

 手首から滑った僕の指先が、目移さんのピンクのシャープペンシルを弾いた。

 シャーペンは天井に向かって弧を描き、教室の端へと飛ばされる。

 そして――


 ぴしっ。


 ――五十里さんの額に直撃したのだった。


   ***


「まだ痛む?」

「あぁ。身も心もボロボロだよまったく……」

「災難だったねぇ」

「他人事かい。元はと言えばお前がっ……いや、しばらくこの話はやめとこう」


 こめかみを押さえたまま、口からはジメ、っとした溜め息が漏れ落ちる。

 そのタイミングで、隣の自動販売機から鈍い音が立った。目移さんが紙パックのジュースを購入したらしく、その陽気さに目を細める。

 自分も目の前の自販機に視線を上げ、品定め。すでに硬貨の入った自販機のボタンは赤く光っているが、指はボタンとボタンを上下左右に行き来するばかりだった。

 と、


「えい」


 目移さんに勝手に押され、商品が受け取り口に落ちてくる。

 もはや声を出す元気もなかったため、ひと睨みしてそれを取り出した。


「……おしるこ」

「あ、美味しいよねそれ」

「じゃあ替えろ」


 目移さんの手にはヨーグルト味のジュースが握られている。


「やだ」

「お前なぁ」


 前にもやったような不毛なやり取りは直ぐに終える。今の僕に、彼女と言い合う気力は毛ほども残ってはいなかった。

 今朝、シャープペンシルを額に直撃させられた五十里さんは、予想通り、怒り狂った。取り巻きの女子たちがどうにか止めに入ったが、暴れる勢いのままに投擲された彼女のペンケースが、見事僕の右こめかみを捉えたのだった。

 そして、昼休み。居心地の悪い教室から出るべく、珍しくも弁当持参で売店までやってきた。ここで飲み物を買って、グラウンド脇にあるベンチにでも腰を落ち着けようと考えていたのだが、金魚の糞がいつまでも僕の背を追って離れてはくれない状況にある。

 ごく自然な形でついてくる目移さんの手には、ジュース以外に何も持たれてはいなかった。


「お前、メシは?」

「ん、売店」


 ストローを啜っていた目移さんが口を離して、店先に指さす。生徒の大群に埋め尽くされた入り口には、とうてい彼女が入れそうな隙はない。

 目移さん自身、売店の様子を眺めるだけで一向に動こうとはしなかった。


「買わないのか?」


 怪訝に訊くと、「まだ」と返された。


「人が減ってから買うの。いつもそうしてる」

「この時間だと、まだまだ空きそうにないぞ」

「うん。だからここで待ってるの」


 ここは自販機と売店以外には何もない、渡り廊下を広くしたような校舎の一角だ。生徒たちは売店や自販機に群がり、購入すればすぐに去っていく。

 まるでエサを運ぶアリのように、彼ら彼女らはそうして揃った行動ばかりをとっていた。目移さんひとりが、売店から少し離れた空間に立っている様は、すごく異様で逆に目立っている。


「いつも、なのか?」

「そうだよ。こんな人が多くちゃ、買えるものも買えないし」


 現に人々が目の前で購入していっているのだが、この群れに入りたくない気持ちは察する。まあ、察するだけで、何かをしてやろうとは思わないのだけど。


「俺は行くぞ」

「うん、ばいばい」

「……ついて来ないのか?」


 訊いた途端に公開。どうしてこんなところに気を遣う必要があったか。


「お腹減っちゃうもん。ここで買わないとごはん無しだよ~」

「そりゃそうだ。そんじゃ」


 変に納得させられ、彼女に背を向ける。

 なんだか気苦しい感じではあったが離れられるのなら幸いだ。ひとりゆっくりと昼休みを過ごすのも久しぶりな気がした。たいていいつもは、目移さんが後ろの席でちょっかいをかけてくるのだ。


「おしるこじゃ、飲み物というよりデザートだな」


 文句を垂らし、歩みを進める。

 そのとき、売店から出てきたふたり組の男子生徒を目視して、瞼を上げる。内のひとりは、演劇部の部員だ。見学の際、五十里さんから指導を受けていた新入部員の中に交じっていた顔を、微かにも覚えていた。

 刈り上げた襟足に、銀縁眼鏡と低い身長。その地味さが逆に印象深かったから、記憶にも残っていたのだろう。

 彼は、部内では見せていなかった荒い口調で、友人らしい隣の男子に何事かを愚痴こぼしている。


「そんでよ、副部長がマジでうぜえの! 俺らには基礎練しかやらせねえのに、先輩が使った道具を片付けさせられるんだぜ! しかも掃除もぜんぶ俺たち一年の仕事で、先輩たちはさっさと帰ってんだ。副部長はそれを延々監視すんだよ。あのブス鬼、腹立つわ」


 なんとも気持ちがいいくらいの罵倒ぶりだ。

 怒りの矛先は五十里さんにすべてが向けられているようで、自分の立場やら他人の考えにはこれほどの配慮も感じられない身勝手な文句だった。

 彼らの後ろをついていく形で、耳を立て続ける。別に盗聴じゃない。たまたま、方向が同じだけだ。


「けどよ、あのブス部長の弱み、握ったかもしれねえ」


 フク部長とブス部長をかけたダジャレか、これはいい。五十里さんに溜まっていた鬱憤晴らしがてら、静かに笑ってやる。ざまあみろ、後輩から信頼も何もあったもんじゃない。

 ところが、男子生徒の続けた言葉に、頬のほころびは一気に引きつることになった。


「あいつ、演劇部の部長のこと、きっと好きなんだぜ」


 血の気が引くのが自分でも分かった。

 サァ、っと背が冷たくなる。表情筋が一気に衰えたように力が抜けそうになる。

 思考がぐるぐると回ってたどり着いたのは、その情報源だ。目移さんか、とも思ったがそれはないと確信できた。あの日以降、彼女が演劇部に近づいた形跡は見当たらないし、その実、五十里さんも目移さんのことは何も言ってはいなかった。

 きっと、男子生徒の彼がひとりで勘付いたことなのだ。それほどまでに、五十里さんは部長へ分かりやすい接触をしていたのだろう。

 演劇部の面々が見て見ぬふりを続けていたとも考えられる。それはそれで、まだ温厚な部活動であり続けられる要因とも成りえた。

 だけれど、この状況は芳しくない。新入部員では演劇部の空気を把握できていない。その上、彼には個人的な恨みが見える。もしその怒りが爆発すれば、演劇部は、崩壊する。

 思わず足を止め、一年生の背中を呆然と見つめた。

 校舎内へ姿を消していった彼らの顔が思い出される。

 悪意のない悪戯な笑み。それは後先を考えない奴の、典型的な面のように思えて仕方がなかった。

 僕には、似たような顔を、ずっと昔に見た記憶があった。

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