三幕

 僕は昼休みには毎日、教室で弁当を食べる。

 親戚の伯母が作ってくれる弁当は野菜中心のメニューが多く、メインである豚肉でさえもアスパラを抱いている始末だったりする。僕の身体のことを考えてくれているのだろうけれど、高校二年生の若人にしてはちょっぴり物足りない内容だ。

 なので、昼飯あとには月々に貰えるお小遣いを切り崩して、決まって売店にパンを求めて足を運ぶ。昼休みも中盤にさしかかるとずいぶん売店の商品は品薄になるが、僕の好物であるこしあんぱんは決まって棚の隅に鎮座しているので、わざわざ昼休み前半に繰り広げられる争奪戦に乗り込む必要もなかった。

 のだが、今日はその棚にこしあんぱんの姿が見当たらなかったのである。五分ほど棚の周りを眺めてみても、求める好物は一向に出て来やしない。見落としではなく本当になくなっているのだと確信したとき、ふつふつと知らない誰かに怒りがこみ上げた。


「誰だ、ったく」


 独り言は止むことなく、不本意にも隣棚にあったレーズンパンを片手に持って教室へ戻る。

 ドアを開けると、僕の後方席には目移めうつりさんの姿があった。僕が弁当を食べ終えるまでは、昼休み開始後にステテー、とどこかへ姿を消していた彼女である。

 売店へ行っていた間に戻ったのだろうが、その手に握られていた物を見るや、僕は思わず発狂しそうになった。

 早歩きで自分の席へ。椅子に座り、後ろを振り向かないまま、声を落とす。今朝の言い合いのことなど、そのときはすっぽり頭から抜け落ちていた。


「お前それ、どこで買った?」

「へ? 売店だよ?」

「入って右棚の隅にあったやつか?」

「うん。こしあんぱん、私好きなんだー。よく売れ残ってるのを目にするけど、食べない人の気が知れないよ」

「それは僕んだ!!」


 体を回し、同時に叫ぶ。右手にあったレーズンパンが無残にも指の力で押しつぶされる。

 目移さんが目を丸くする。めうつり、ではなく、めまるさんになった。


「え、違うよ。私が買ったんだよ」

「違う! それは僕のパンだ!」

「ええー、何なの急に。きみのは自分で持ってるじゃん、レーズンパン」

「僕はこんなもの食いたくはない! 食べたいのはそれ! お前が持ってる、それ!」

「そんなこと言ったって……美味しいじゃない、レーズンパン。私好きだよ」

「だったら交換しろ」

「やだ」

「なにゆえ!」

「武士みたいな言葉だね……今日はこっちの気分なのー」

「気分とか!」


 パン袋に頬ずりする彼女の机を叩いたのは無意識の行動だ。


「そんな理由でお前は他人を不幸にするのか!」

「大袈裟だなぁ、パンひとつで」

「ひとつもふたつもパンはパンだ! それは僕が毎日楽しみにしているものなんだ! 人の娯楽をお前は奪っているんだぞ!」

「ええー……ちょっと、これって私が悪いの?」

「お前が悪い。十中八九お前が悪い」

「一割は悪くない可能性があるんだね」

「全部お前が悪い!」

「言い直した!?」

「とにかく! それをこっちに渡してもらおうか!」

平和ひらわくんが一気に悪党っぽくなった!?」


 こうなったら自棄である。是が非でもこしあんぱんを渡してもらうまではもはやこっちも引き下がれない。


「な、なんかそう言われると、ますます渡したくなくなった。あんぱんが可愛そう!」

「だったら、このレーズンパンの命はないぞ!」


 鷲掴みにして高々と掲げたレーズンパンを、少しだけ握ってつぶす。長丸形の中央が凹み、原形を崩した。


「やめて! レーズンパンには何の罪も無いのに!」

「そうだ、罪は無いが、運も無かったようだな! この僕に買われたのが運の尽きさ!」


 むにゅにゅ。レーズンが一粒、パンから袋の中にこぼれ落ちる。

 その様子を見上げる目移さんの表情が、悲痛なものへと変わっていく。おぞましいものでも眺めているように顔を引きつらせ、目じりには涙さえ溜まっているようだ。

 

「ひどい! きみには人の心というものが無いの!?」

「そんなもの、鼻から有りはしないさ! さあ、どうする! このままではレーズンパンが、レーズンになってしまうぞ!」


 ふははは、と高笑い。悪党よろしく、ゲスな表情で目移さんを見やれば、おずおずと両手にやさしく握ったこしあんぱんを、今にも僕の目の前に差し出そうとしている。

 もうひと押し。そう確信し、いよいよレーズンパンを両手で掴んで、雑巾絞りのような捩じる姿勢を取った。


「さあ、さあ! どうするかね、こしあん娘っ」


 ぱーん!


「………………え?」


 左頬にじんわり熱が籠る。

 その内側に確かな痛みが沸き上がり、ジン、と皮膚を腫らせる。つねられたような痛みが、延々続いているようだ。

 張り手を喰らわされたのだと認識した直後、目移りさんが右手を振り払った姿勢のまま、声を上げる。


「食べ物を粗末にしたらいけませーん!!」


 お母さんのようなセリフ。

 迫真の演技には拍車がかかって、彼女の中の何かが覚醒したらしい。まさか手を出すとは思ってもいなかったものだから、僕の頭は思考を止め、ただただ彼女を呆然と見つめることしかできなかった。

 で、ふと我に返る。

 売り切れた好物を目の前に暴走してしまい、低下していた判断力が一気によみがえる。周りを見ればこっちを怪訝な面で見てくるクラスメイトの顔、顔、顔。

 今更気づく、自分の醜態。あんぱんひとつで大人げない。いやそれ以上に僕は過ちを犯してしまっていた。目移佳舞かまえと、(傍から見れば)和気あいあいと会話をしてしまったようなのだ。

 実、クラスメイトのひそひそ話が各グループで沸き立ち、蒸気のように教室中を包み込んだ。送られる嫌悪の眼差しに耐えかね、僕はレーズンパンを掲げていた腕を、静かに、速やかにおろして体で隠す。


「……ありゃ? あんぱん、もういいの?」


 叫ぶ為に目をキュッと閉じていた目移さんが、不思議そうに小首をかしげる。その無垢な瞳を一瞥し、何も答えることなくクル、と体を回して彼女に背を向けた。


「うそ、このタイミングで無視モードなの? つまんなーい」


 もはや無視されることには何も思わないらしい。目移さんの駄々っ子を背中に聞きつつ、ワナワナと肩を震わせる。

 やってしまった。

 悔やみきれない思いがこ込み上げ、唇を強く噛む。顔が熱くなって顎を上げられない。視線はジッと自分の机の一点を見詰め、そこから離れることができなくなった。

 やんややんやと背中で声がし続ける。目移さんが何かを言ってきているが、今の僕に彼女を構う余裕はなかった。というよりもこんな状況に陥った元凶とは喋りたくもない。

 今朝方の自分の決心を思い出す。目移さんと絡まないと決めたはずだが、こしあんぱんひとつにムキになったあげくがこれでは世話も無い。

 つくづく自分の芯の弱さを知らしめられたようだった。これではますます、目移さんの思うツボではないか。

 ため息を落とした。同時に、ふと目移さんの言葉が耳に届く。聞き入れないようにしていたのに、その声は嫌でも耳の穴から頭の神経を刺激してきた。


「ねえ、どうしてそんなに辛そうなの?」


 肩がピク、と小さく跳ねたのは振り向きそうになったからだ。それでもどうにか自分の体を制御して、うな垂れたままの姿勢を保つ。

 でも頭の中はぐるぐると渦が巻いた。放っておけない言葉だった。


「そんなに辛いんなら、辛くないようにすればいいのに。平和くん、我慢してるみたいだよ」


 うるさい。

 唇だけがその形に動く。


「私のこと、やっぱり嫌い?」


 うるさい。

 今度は、少しだけ声が漏れる。それでもまだ、蝶の羽音ほど静かな声だ。誰の耳にも届くわけはない。


「嫌いなら、嫌いって言って」

「うるさい」


 首を上げ、低くそう訴えた。

 

「嫌いって言わないなら、ずっと喋り続けるよ」

「だー! なんでだよ!」


 我慢ならずに振り返る。相変わらず手にあんぱんを掴んだまま、目移さんは僕の目をまっすぐ見詰めてきた。


「答えてよ」

「んなことわざわざ言わせんな! 察してくれ!」

「……言えないんだ」

「は?」


 ここにきて、目移さんの視線が下がった。うつむいたせいか、頭の両脇に結ばれたおさげも心なしか下を向く。

 何かに気を落とした様子だが、僕にはそれを知る術がない。彼女の行動や言動がわけ分からず、ただただ事の次第を見送ることしかできない。

 たっぷり五秒。目移さんはうつむいた顔をまた上げ、小さな唇を開く。白肌の頬は、微かにキュッと引き締まっていた。


「平和くん、私にこと、本当は嫌ってないんでしょ?」

「おまえ、何言ってんの」

「だって嫌おうとしているけれど、嫌いになれてないじゃん」

「何なんだよその言いがかり。やめてくれ」

「やめない。平和くん、自分に嘘ついてるよ。無理して他人と距離取ってるよ」

「そんなことない!」


 彼女の言葉をすべて聞き終える前に、そう返していた。とっさに出た言葉は自分でも止まらず、よせばいいものをべらべらと至らない事まで口をついた。


「これが僕の本心だ。むしろその逆で、無理して他人と仲よくなんてしたくないんだよ。へこへこと愛想笑いして、本音を隠して協調性を主張して、自分の時間を割いてまで友達だからという理由で連れまわされて。そうやって群れることに、何の価値があるって言うんだ。それこそ、自分に嘘をつくってことだろう!」

 

 目移さんが訝し気な表情を作って見せる。


「そう考えちゃうのって、きみが周りから嫌われているから?」


 こいつは本当、人の傷に平気で足を踏み入れてきやがる。しかも体中に塩を蓄えてだ。痛いったらありゃしない。

 頷かないでいたら、彼女は無遠慮に先を続ける。


「でも、だったら尚更、私を嫌う理由ないよね。だってつい数日前まで、きみは私を知らなかったんだもの。たったの三日で嫌われるようなことをした覚え、私は無いよ」


 的を射たようなことを言ってきているが、それはけっきょく彼女の主観的な考えに過ぎない。誰だって自分の罪には気づかないものなのだ。彼女が自分自身でそう思っていようが、他人から受けた評価はそれ以上の力でその人の立場を並べ替えてしまう。

 周りが彼女に下した評価は議論の余地もなく決定された。それに対して、僕も反対意見は持ち合わせなかった。


「お前は、自分の立場を分かってない。クラスメイトのお前に対する態度に気づいてない。いいか、悪いがここではっきり言っておく、いや、言ってやる。お前は皆に嫌われてるんだ。最初の自己紹介から今日の今まで、その評価は覆らなかった。それが、お前の立場なんだ。そんなやつとは、普通、一緒にはいられないだろ」


 語尾に近づくにつれて声が小さくなった。喋っている間、やけに肺の空気が早く抜けた。いつものペースで喋れていないから、無意識に必要以上の酸素を使っていた。

 言葉を吐いただけなのに、走った後のように心臓がバクバクと鳴っている。鼓動の速い原因は自分でも分からず、ひたすら戸惑う。緊張しているのはどうしてなのか、明らかに調子が狂った身体は、まるで自分のものではないようだった。

 ただひとつ分かったことは、僕が、最低な言葉を彼女にぶつけたという、事実のみだった。


「ふーん、そっか。やっぱり私、嫌われてるんだね」


 言葉は内容に反して、軽々としたものだ。


「平和くんさ、群れるの嫌いって言ったよね。協調性を強要されるのも、嫌なんだよね」

「おう……そうだ」

「だったら、どうしてきみは今、皆と一緒になって私を嫌ってるの?」


 頭を金槌で撃たれたような感覚がした。鈍痛ではなく、脳神経が一気に反応したような感覚だ。電気が走ったという例えでもいいかもしれない。とにかく彼女の言葉を聞いた瞬間、僕は声を出すことさえできなくなった。

 目移さんの口許に、笑みが戻る。してやったと言いたげな、確信的な笑みだ。


「そこに、きみの意思は存在してる? 皆に嫌われている私を嫌う、ってなんだか滑稽な話だよね。人を嫌う理由にしては薄っぺらいと言うか、そもそも理由として成立していない気がするんだけれど」

「それはっ」


 上げた声は引きつっていた。声が声になっていない。間をおいて、言い直す。


「それは、僕まで同じ人間に見られるからだ。お前のせいで、後ろ指をさされるのはごめんだ」

「元から嫌われている人が、何をいまさら」

「お前っ、もう少し言葉とか選べよ!」

「言い換えても意味は同じじゃない。だったら、きみが周りに流されて私から距離を置くのは正当化するつもり?」

「っ……」


 口を噤むと、目移さんがいよいよニッコリと微笑んだ。

 怒っている様子ではなく、言いたいことを言えた達成感のようなものに浸っているみたいだ。僕からの悪口は、彼女にこれっぽっちもダメージを与えてはいなかった。こんな言い方もおかしいけれど、伊達に他校でのイジメ(目移さん曰く)を経験してはいない。ある意味肝が据わっているのは、彼女の経験からのものだろうか。


「平和くんは、他の人とはぜんぜん違うよ」


 先ほどとはまた違う声色で、彼女が言う。やわらかい笑みがずっと僕を見詰めている。


「言わないでいてくれる気遣いも、言ってくれる優しさも兼ね備えてる。普通だったら、私みたいなこんな人間と面と向かって喋ってはくれないし、一方的に面白がるだけだし、グループ内で陰口叩かれるだけだもん。そういう人たちが悪いわけじゃないけれど、私が変なのが一番悪いんだけど、でもそれでも、平和くんは、他の人とはまったく違うって思うな!」


 呆然と、ただ呆然と彼女の話をこの耳に聞いていた。喜びも悲しみも、嫌悪も憎悪もない表情で、ただただジッと、彼女の幼げな顔を見やる。

 ひとつだけ、気になっていたことがあった。目移さんがどうして必要以上に僕に絡んでくるのか、煙たがりながらも考えていた。

 それはきっと、たまたま彼女の前に僕がいたからだと思っていた。孤立したような席で、唯一話しかけやすい位置にいたのが僕だった。たったそれだけの理由だと、決めつけていた。

 だけれど、なんとなく、そうではないのかもしれないと思う。

 自信も確信もないのだけれど、目の前の表情を見て、そう思わざるをえなかった。

 そして僕がつい彼女と絡んでしまう理由も、こういうことなのだろうかとついでに解釈してしまう。


 今も、その目移佳舞かまえの笑顔は、嘘のない本物の笑顔だったのだ。


 耳の裏がかゆくなった。

 そんなことを言われた記憶は少ないもんだから、どんな反応をしていいのか分からなくなる。首筋をかいてうつむくのが精いっぱいの対応だ。

 突っぱねることしかできなけれど、まあ、これはこれで、悪くはないと思った。


「なにあの二人、デキてんのかな? やばー」


 不意に聞こえてきたひそひそ話に、口許を緩めたまま視線を向けてしまう。

 僕らとは対角線上の入り口付近に机を固めた女子グループが、こちらをいやらしい目で眺め、眉をひそめて笑っていた。その中には、ついこのあいだ僕にボールペンを投げつけてきた女子も混ざっていた。

 その光景を眺め、現実に引き戻される。

 目移佳舞と接点をつくったことにより、この先何が変わっていくのか。このときの僕には、豆粒ほども想像することはできなかった。

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