二幕
週明けからあっという間に三日が経って、木曜日。ついでに
「おはよー!」
いつもながらに机にて頬杖をついていると、教室後方から甲高いあいさつが響いた。振り返らずともそれが目移さんのものであることは分かりきっている。彼女は来校してからのこの三日間、毎朝そうやって、元気いっぱいの声を上げて入室してきている。クラスメイトが煙たがる顔を浮かべているのは、まるで目移さんには見えていないようだ。
毎朝のあいさつに応える者は、現時点で一人として現れてはいない。それどころか皆が揃って背を向け、彼女を視界の内から外野に流していた。
もちろん僕も、同じようにそっぽを向いている。今日も窓から青空を見上げ、自分の世界を保つ。
「きたきた、カマチョ」
「今日もひとりあいさつ運動してるよ」
「でも誰からも返してもらえない。うわあ、寂しい」
「お前言ってこいよ。友達第一号として」
「ざけんなっ。誰があんな頭おかしいやつとなんか」
云々。
気持ちいいくらいの侮蔑と嘲笑のヒソヒソ話がすぐそばの席で繰り広げられている。聞いていて気持ちが悪くなるけど、これは目移さんも言われて仕方がない。いつの世も異端者は忌み嫌われるものである。
「おはよ!」
自分の席に着席する目移さん。転校日の内に新しい机と椅子が運ばれたのだが、新たな席はどういうわけか僕の真後ろへ設けられることになった。
隣から後ろへ。その移動距離三メートル。むしろ真後ろから常に送られる視線に、どうにも落ち着かなくなっている。
「おーはよ!」
まだ言っている。まったく、誰かいい加減返してやればいいものを。やれやれ、静かに朝寝もできやしない。
それにしても、なんだかやけに声が近いな。
「
「僕かよ!!」
つい振り向いた先には、こちらに身を乗り出すようにして顔を近づけてきていた彼女の嬉しげな笑みがあった。
「あ、やっと返してくれた! やっぱり名前呼ばないとダメなんだねぇ」
えへへ、と笑う目移さん。三日間で名を呼ばれたのは今日が初めてで、僕は妙に落ち着かなくなる。心臓はわずらわしいくらいにバクバクと鳴っている。
怪訝に彼女の顔を見詰めながら、これは失態なのではと不意に思った。突然のことで反応してしまったけれど、応えたのは思う壺かもしれない。
「いろいろ考えてたんだ! どうやったら皆あいさつ返してくれるのかなぁって。名前を呼ぶって手は前から思いついてたんだけど、でもやっぱ、仲良くない人の名前とか呼びにくいじゃん。誰彼構わずあいさつしてればいつか反応してくれるかなーって思ってたけど……ほんと、皆すぐ距離おいちゃうんだからね!」
おいおいマジかこいつ。一回反応しただけでそこまで饒舌に喋るのかよ。口のアクセルどうなってんの。
あたふた。めまいを覚えつつ彼女のペースに呑まれまいと平常心を保つ。ゆっくりと体を元の位置へ戻す。目移さんと早急に距離を置かなければ、面倒なことになりかねないと思った。
「でも名前呼んで正解だった! 平和くん気づいてくれたし! って、あれ? おやおや? どうして平和くんの後頭部しか見えないんだろ」
そりゃお前に背を向けたからだ。
頬杖をついて空を眺め、所定の位置へ。あとは延々無視をしようと心に誓う。
「もしもーし? あれー、さっきは反応してくれたのにな」
ついだ、つい。お前の言動に驚いただけだよ。
「上の名前がまずかったのかなぁ。あ、じゃあ、おーい
そういう問題じゃないだろ。意図的に無視されてるってどうしてわからん。ていうか気安く名前を呼ぶでない。
「ひとっちー? ひとりーん? えー、何ならいいんだろ……あ、そうか!」
センスのないあだ名だな。僕とお前はもうそんな距離にまで近づいてんの? 一方的すぎやしないか?
それよりも口うるさいやつ。何でもかんでも口に出して言うなんて、イタイだろうに。こいつが皆から距離置かれる理由がますます分かってくる。フォローの余地はない。
げ、前方のやつと目が合った。あ、ヒソヒソ話してやがる。くそ、どうせ僕と目移さんの悪口だろ。まったく暇人は皆、口が絶えない奴らばかりだな。
と、不意に肩を叩かれる。目移さんの手であることは間違いなく、もちろん無視を決め込――
「コドクくーん」
「お前何なのさっきから!!」
――めなかった……。
「ああ、振り向いた! 成功!」
きゃっきゃとひとり喜ぶ。喜びやがる。
「成功、じゃない! しつこい! 僕に嫌がらせしたいのか!」
「嫌がらせじゃないよ。コドクくんとお話ししたくて」
「僕はやりたくない!」
「でも、せっかく席近くなったんだし」
「知るか! 隣のやつとでも話してろ」
「隣、誰もいないもん」
見てみると確かにそこに机はなかった。
目移さんの席は窓側後方の空いていたスペースに置かれている。この教室は元から席が縦横きれいに揃っていたもんだから、彼女ひとりが加わった結果、言わば長方形の一か所が突起したような形となってしまっていた。
お隣さんと話せというのは、少々無理がある状況ではある。僕はバツが悪くなって言いよどむが、彼女を避ける姿勢を変える気はない。
「だからって、僕に話しかけてこないでくれ」
「なんで?」
「は? なんで、って」
口ごもる。真顔で改めて訊かれれば、答えに困った。
「コドクくんは私とお話ししたくない?」
「えぇ、いや、まぁ」
「どっちよ」
なぜだか呆れられてしまった。
けれど頷いていいものか悩んでしまう。唐突な質問に、自分の中に罪悪感が生まれる。どうにも感情が定まらなくなった。
「んなこと、自分で考えろよ」
それが精いっぱいの返し言葉だ。僕は彼女を傷つけることをためらった。
すると、おもむろなため息が目移さんの口から落ちた。僕が怪訝に眉をひそめると、彼女は愛しげな眼で見詰めてくる。丸い瞳が少し形を崩している。
「コドクくんは優しい人だね。言いたいことを言わないって、すごいことだと思うよ。相手を傷つけないために我慢するなんて、私には真似できないことだな」
言いたいことを言わない、のか、言いたいことを言えない、のか。ポイズン。
目移さんの言葉に嘘はないように思えた。もちろんそれは重々承知で、彼女に悪気がないことくらい分かりきっている。
けれども、僕の中で黒い塊が一気に膨れ上がってきてしまう。
「うるさい、黙れ」
気づけば冷たい言葉を発していた。そう思ったが、さっきまでさんざん彼女のことを否定していたのだから、今更だと考えて開き直る。
「一生分かんねえだろうな。何でも言えば解決すると思ってる、お前には」
目移さんの表情が固まっていた。瞳に若干の潤みが増したように見えた。
だからって態度は変わらない。僕の中にあるテリトリーに彼女をやすやす受け入れるわけにはいかない。それは、媚びるのと同じことだろうから。
「コドクくん……ごめ」
「それ、やめてくれ」
「え?」
言葉を遮って、注意する。
「その呼び方、やめろ。一番嫌いな呼び方だから」
「あ……」
失言を犯し続けていたことに気付いたからか、目移さんの表情からは笑みが消えうせた。代わりにやってきたのは、罪悪感と悲愴感の塊だ。
ついに彼女は口を閉ざす。唯一のとりえだった楽観的な思考も、今ではマイナスの感情に押しつぶされているようだ。
ごめん。
きっとそう言うために目移さんは口を開きかけた。
ところがそれよりも先にチャイムが鳴った。続けて
席に戻っていくクラスメイトたちが僕らをちらちらと一瞥していく。見せ物じゃない、と舌打ちをするも、文句をいうほどの気力は今の僕にはなかった。
ホームルームが始まった。その間、背中はやけに静かで、まるで後ろには誰もいないようだった。
目移佳舞とは、今後も話すことはないだろう。
窓外を眺め、静かにため息をこぼした。
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